第32話 二日目

二日目の朝、霧は重い足取りで集合場所に向かっていた。学校行事だからといって、なぜ山に登らなければならないのか。そんな疑問が頭をぐるぐる回りながら、彼はため息をついた。


体力測定じゃないんだからさ、こんなことやって何が得られるんだよ。俺の人生に山登りのスキルが必要になる場面なんて絶対ないだろ。


それでも、学校行事でサボるほど霧は大胆ではない。成績を気にする以上、参加しないという選択肢は初めからなかった。だから彼は、黙々と登山靴を履き、黙々とリュックを背負った。


朝の澄んだ空気の中、一行はバスに乗り込み、今日の目的地である山へと向かう。バスの中は朝特有のざわめきと眠気が入り混じった雰囲気だ。窓の外には田畑や民家が次々と流れていき、徐々に山の輪郭が近づいてくる。

やがてバスが山の麓に到着し、一行は降車する。

バスのドアが開いた瞬間、湿った空気と土の匂いが一気に押し寄せてきた。周囲には大きな案内板が立っており、「登山口」と書かれている。木々に囲まれた静かな空間に、クラスのざわつきが広がる。


「さあ、みんな準備はいいか?」

先生の声が響く中、生徒たちはそれぞれ登山靴の紐を締め直し、リュックを肩に掛けた。霧も一応それに倣うが、心の中では早くも帰りのバスを待ち望んでいる。

本当にこれから登るのか……いや、マジで? 彼は心の中で念押しするが、もちろん登らないという選択肢がないことも分かっている。

こうして、霧にとって気が進まない一日が始まったのだった。


最初はまだみんな元気だった。緩やかな坂道で「空気が美味しいね!」とか「自然っていいよね!」などと元気な声を上げていた。霧も「そうだな」と適当に相槌を打ちながらついていくが、心の中はすでに疲労が忍び寄っている。

「おい、桐崎、ちょっとは楽しそうにしろよ!」

「うるせえよ、俺は心の中でめっちゃ楽しんでるんだって」

軽口を叩きながらも、霧の足は意外と軽快だった。周りの女子が息を切らし始める中、霧はマイペースに歩き続ける。

沙羅は少し後方を歩いていた。後ろをちらりと見ると、汗を拭きながら一生懸命に登っているのが分かる。何とかペースを崩さないように頑張っている姿が微笑ましい。

その健気さに、ほんのわずかだが、自分ももう少し頑張ろうという気持ちが湧いてくる。


一方で、その横を悠々と歩く瑠璃の姿に、霧は別の意味で感心していた。いや、感心というより若干引いていた。彼女はというと、すたすたと軽快に歩を進めており、汗ひとつかいていない様子だ。後ろの女子が「瑠璃ちゃん、疲れないの?」と聞くと、瑠璃は軽く首を傾けて「特に」と答えるだけ。まるで登山という行為そのものが、彼女にはまったく負担にならないと言わんばかりの態度だった。

霧はその様子を横目で見ながら、心の中で思わず呟く。もっと……いや、せめてちょっとくらい疲れてくれよ。こっちはそれなりにキツいんだからさ。


しかし、瑠璃が疲れる気配は一向になかった。霧は諦めたように前を向き直し、ペースを崩さないよう歩を進める。

そんなときだった。肩にぽつ、と何か冷たいものが落ちてきた。霧は足を止め、顔を上げる。空を覆う雲がどんよりと灰色に変わっているのに気づき、すぐにまた、ぽつ、ぽつと雨粒が顔に当たる。

「……雨か?」

霧が呟いたのとほぼ同時に、雨の勢いは急に増し始めた。ぽつぽつだった雨は、あっという間に本格的な大雨に変わり、生徒たちは慌ててレインコートやタオルを取り出す。雷鳴が遠くで轟き、雨はますます強まっていく。止む気配は一向にない。


「全員、一旦止まれ!」

引率の教師の声が雨音をかき消すように響いた。先生は笛を吹き、生徒たちをまとめながら険しい顔で言う。

「これ以上進むのは危険だ。一旦バスまで戻るぞ!全員、列を乱れないようについてこい!」

引率の教師が力強い声を上げると、生徒たちは荷物をまとめ、濡れたリュックを背負って山道を引き返し始めた。


霧がレインコートのフードを深く被り直しながら歩いていると、雨足がさらに強くなり、背中に冷たい雨粒が容赦なく当たるのを感じた。

雨はさらに勢いを増し、雷鳴が空を裂くように轟く。引率の教師が先頭で笛を吹きながら、「気をつけて歩け!あと少しでバスだぞ!」と声を張り上げている。霧は濡れた地面を慎重に歩き続けた。

雨は相変わらず容赦なく降り続けていた。濡れたレインコートが肌に張り付き、不快感は増すばかりだったが、霧の視界にようやく駐車場が見えた瞬間安堵する。

「あと少し!気を抜かずに!」

引率の教師が振り返りながら声を張り上げる。雨に濡れたバスがぽつんと停まっているのが見えると、全員の足取りが少しだけ速くなった。

霧は後ろを振り返り、沙羅と瑠璃の姿を確認する。沙羅は小さく息を切らしながらも、必死に歩き続けている。その隣で、瑠璃がさりげなく彼女のリュックを支えるように歩いているのが見えた。霧はその様子を目にして少しだけ安心しつつ、再び前を向いた。


ようやくバスにたどり着くと、生徒たちは次々にバスの中へ駆け込んでいった。濡れた靴がバスのステップを滑りそうになり、乗り込むたびに「気をつけろ!」という先生の声が響く。霧も靴底の泥を軽く払いながら、雨だれを振り払ってバスの中へ入った。

車内は湿った空気と、濡れた衣服の匂いが充満していた。窓の外では、雨が激しくバスのガラスを叩き続けている。エンジンがかかり、車体が少し揺れると、生徒たちは一斉に安堵のため息を漏らした。霧も背もたれに体を預けながら、ぼんやりと外の雨景色を見つめる。雷雨の中の登山が思わぬ形で終わりを迎え、バスはゆっくりと進み始めた。

「なあ、二日目って、もうこれで終わりだよな?」

隣の男子が疲れた声でぼそっと言うと、霧は軽く笑いながら答えた。

「終わりじゃなかったら暴動起きるだろ」

「だよな……。これでまだなんかやれって言われたら、俺マジで帰るわ」

「いや、それは俺も」

二人は顔を見合わせて苦笑し、バスの揺れに身を任せながら黙り込んだ。

……まあ、全員無事で良かったか。これも人生経験ってやつなのかもな。

そんなことを考えつつ、霧は重たいまぶたを閉じ、ひとまずこの疲れを忘れることにしたのだった。



霧は深い眠りの中にいた。バスの揺れがまるで子守唄のように心地よく、先ほどまでの登山の疲れが嘘のように体から抜けていく気がしていた。これで宿泊所に着いたら風呂と飯だ……最高の休日だな。あ、学校行事か。まあ、どうでもいいか。 そんなことを夢の中でぼんやり考えていたその時、バスが突然ガクンと揺れ、停車する感覚で目を覚ました。


「……何だ?」

霧は目をこすりながら周囲を見回した。車内はざわざわしていて、何やら運転席の方で先生と運転手が真剣に話し込んでいるのが見える。隣の男子が半分笑いながら言った。

「おい、どうやらバスが故障したらしいぞ。すげーな、このタイミングで」

「マジかよ」

霧は首を傾げながら欠伸をし、まあ、代わりのバスが来るだろ。雨の中放り出されるなんてことはないだろうしな。と楽観していた。車内のざわめきも、そんな期待を抱いているような軽い空気だった。


だが、その空気は数分後、教師が前に立ち、声を張り上げた瞬間に打ち砕かれる。

「みんな、落ち着いて聞いてくれ!悪い知らせだ……この天候のせいで、代わりのバスがここまで来られないそうだ!」

一瞬の静寂。そして、その後に続く大爆発のような不満の嵐。

「はぁ!?どうすんの、それ!」

「ここに泊まれって言うのかよ!?」

「いや、マジで最悪なんだけど!」

霧も一瞬呆然としたが、すぐにため息をつき、何とか平静を装った。いやいや、ここで寝て待つって選択肢もあるだろ。わざわざ降りる必要なんか…… と思っていると、教師はさらに衝撃的な発表を続けた。

「徒歩で宿泊所に戻る!全員、荷物を持って準備しろ!」

「歩くのかよ!?」

生徒たちの悲鳴じみた声が車内を飛び交う。霧はバッグを取り、渋々レインコートを着直す。車内の湿った空気と不満の声が混ざり合い、やる気の欠片も湧いてこない。


バスを降りると、雨は容赦なく降り続けていた。霧は濡れた靴が滑らないよう足元に気をつけながら歩き出したが、心の中ではこれってもうサバイバルだろ……とひたすらぼやいていた。


雨はますます激しさを増し、霧の視界は水のカーテンでほとんど塞がれていた。湿ったレインコートが肌に張り付き、不快感がどんどん募る。周囲を見回すが、みんなの姿はどこかぼんやりとしていて見えにくい。これ、本当に大丈夫なのか? 心の中でぼやきつつも、足元の泥に注意しながら歩き続けた。


ふいに引率の教師が立ち止まり、笛を強く吹き鳴らして生徒たちを呼び集める。その声は雨音に負けないほど力強かった。

「みんな、よく聞け!この雨で視界が悪くなってる!グループを作って、必ずお互いを確認しながら進むんだ!絶対にはぐれるなよ!」

生徒たちはざわめきながら、教師に言われるまま雨の中で近くの人とグループを作り始める。

霧は何となく周りを見渡し、近くに沙羅と瑠璃がいるのを確認した。沙羅はリュックを肩にかけ直しながら必死に雨をしのいでおり、瑠璃は濡れた髪を手で払いつつ冷静に状況を見ている。


教師がグループを確認しながら叫ぶ。「そこの三人は同じグループだ!互いにしっかり声を掛け合って進めよ!」

霧は間髪入れずに「はい」と返事をした。沙羅が「よろしくね」と柔らかく笑うのを見て、霧は内心でほっとする。まあ、白鷺と一緒なら悪くない。

「はあ……行くしかないのか」

霧がぼそっと呟くと、沙羅が小さく笑って「私たちなら大丈夫だよ」と返した。その声にほんの少し力をもらいながら、霧は前方を見据えて歩き始めるのだった。


霧たちは打ちつける雨に背を押されるようにして、黙々と歩き続けていた。山道のぬかるみに靴が沈み込み、そのたびに泥が跳ねて衣服を汚す。雨は絶え間なく降り注ぎ、耳に届くのは、雷鳴の低い唸り声と、雨滴が地面を叩く音だけ。

そのとき――突如として轟いた大地の唸り声とともに、山の斜面が崩れ落ち、目の前の道を土砂が飲み込んでいく。濁流のように流れ込む土砂と岩が、雨で湿った音を立てながら視界を覆い尽くした。

「うわっ、何だ!?」

前を歩いていた生徒たちの悲鳴が遠くから聞こえてくる。霧は咄嗟に沙羅と瑠璃の方を振り返ると、二人も動揺した様子で立ち止まっていた。

雨と土埃が混じった空気の中、視界が少しずつ晴れていくと、道を覆うように積み上がった土砂と岩の山で道が完全に塞がれているのが見えた。霧は喉の奥で言葉を詰まらせた。


「……これ、完全に通れなくなってるじゃん」

周囲を見回すが、最後尾を歩いていた自分たちの位置からでは、前のグループがどうなっているのかは確認できない。生徒たちの声は遠く、雨音にかき消されているようだった。

「マジかよ……はぐれたのか」

霧が低く呟くと、沙羅が怯えたような声で言った。

「どうしよう……。これ、どうしたらいいの?」

彼女の不安げな顔に、霧は少しだけ笑みを作って答えた。

「まあ、焦るなって。道が塞がれたんなら、別の道から行けばいい。とりあえず落ち着こう」

霧が無理にでも明るい口調を作る中、瑠璃は一歩前に出て、冷静に周囲を見渡していた。そして、雨に濡れた髪を払いながら静かに言った。

「慌てても仕方ないわ。脇道があるはずだから、そっちから行きましょう」

霧は瑠璃の言葉に小さく頷き、沙羅に目をやった。

「白鷺、大丈夫だろ?ついてこられるか?」

「うん……なんとか」

沙羅のか細い声を聞き、霧は前方を睨みつけるように見つめた。ぬかるんだ道が続く先に何があるかは分からないが、とにかく進むしかない。

「よし、じゃあ行くぞ」

霧が短く声をかけ、三人は雨音の中に足を踏み出した。


三人は脇道を進みながら、降り続ける雨の中、泥だらけの道をひたすら歩いていた。道らしい道が消えかける中、霧が先頭を行き、沙羅と瑠璃がその後に続く。全身をレインコートで覆っていても服はすでにびしょ濡れで、その重さが疲労感をさらに増幅させていた。

「早く着いてくれよ……」

霧が誰に言うともなくぼやいていると、目の前に突然、道を遮るように川が現れた。雨で水位が上がったその川は、茶色い水が勢いよく流れており、見るからに渡るには厳しそうだった。


霧は立ち止まり、川を睨みつける。水面には大きな石がいくつか頭を出しており、それを飛び石のように渡れば向こう岸に行けそうに見えたが、濁流が石をなめるように流れているのが不安を煽った。

沙羅はその隣で、小さく声を絞り出した。

「これじゃ、先に進めないよ……」

霧は腕を組んで少し考えた後、不敵な笑みを浮かべて言った。

「いや、渡れる」

その言葉に沙羅が驚いた顔をする横で、瑠璃は冷たい目で霧を睨みつけた。

「何を言っているの!ここは危険すぎるわ!」

瑠璃の声は雨音に負けないほど大きく響いた。濁流が轟々と流れる中、その冷静な指摘に沙羅も頷くが、霧は一歩も引かなかった。

「いやいや、見てみろよ。あの石、ちゃんと踏めばいけるだろ?遠回りするより、ここを抜ける方が早いって」

瑠璃は深く息をつき、霧を真っ直ぐに見据えた。

「水位がこれ以上上がったらどうするの?石の上で足を滑らせたら?あなた、川がどれだけ危険か分かっていないのね」

それでも霧は諦める気配を見せず、石を指差して言った。

「だから、俺が先に行って渡れるか確かめるんだよ」

「確かめる……?」

瑠璃は眉をひそめ、さらに険しい表情を浮かべる。

「もし流されたら、どうするつもりなの?冗談で済む話じゃない」

「流されないように慎重に行くさ。俺、こう見えて意外とバランス感覚いいんだぜ」

霧は軽口を叩きながら川に一歩近づいた。沙羅は明らかに不安そうな顔を浮かべ、瑠璃は呆れたように再びため息をついた。

「……勝手にしなさい。でも、少しでも無理だと思ったら、すぐ戻ってきて」

瑠璃のその言葉には半ば諦めと、それでも微かに滲む心配が混じっていた。

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