第31話 一日目
教室に担任のやや抑揚に欠けた説明が響き渡る。内容は六月に一年生を対象に行われる、恒例行事のスケジュールについてだった。
黒板にはそっけなくスケジュールが書き連ねられている。
「一日目はフィールドワークだ。山と川で自然科学の学習をやるぞ。『野鳥コース』『生物コース』『植物コース』の三つから、自分の興味のあるテーマを選んで、それぞれ活動してもらう」
霧は机に肘をつき、話を聞いているような聞いていないような態度を取っていた。山や川、自然科学の学習。そんなものに胸を高鳴らせるほど純粋ではない。フィールドワークで野鳥と生物のどちらを選ぶかクラスメイトが悩んでいる声をぼんやりと聞きながら、「適当に済ませたいな」と思っている自分がいた。
ふと目を前方に向けると、前列に座る白鷺沙羅の姿が目に留まった。彼女は担任の言葉を真剣な表情で聞いている。その集中した横顔に、霧は知らず知らず視線を留めてしまう。白鷺がどのコースを選ぶのか、少しだけ気になったのだ。
視線を斜め前方に移すと、今度は鳳条瑠璃の冷静な横顔が視界に映った。ノートにペンを走らせる動作はロボットのように規則正しく、彼女独特の隙のない空気をまとっている。
「二日目は登山。体力が必要なので、事前に準備を怠らないように。3日目は一日目のフィールドワークの成果のまとめをプレゼンしてもらう」
担任が相変わらず平坦な声で話続ける。
この行事は鳳条のようなきちんとした人間のためにあるような気がする。プレゼンなんて聞いただけで憂鬱になる自分とは正反対の彼女。鳳条がどんな発表をするのか――そんな想像が、わずかに霧の興味を引いた。
「……お前はどれ選ぶんだ?」
前の席の男子が霧に声をかけた。
「どれでもいいよ。楽そうなのがいい」
窓の外で風に揺れる木々を眺めながら、彼はこの行事をいかに無難にこなし、成績に響かないように終わらせるか、それだけをぼんやりと考えていた。
一日目、霧は迷わず「植物コース」を選んだ。その選択理由は至って単純だ。野鳥を追いかけるのは疲れそうだし、水生生物を採取するために川に入るなんて、足が濡れて不快になるに決まっている。
その点、植物はいい。動かない。逃げない。つまり、観察において「努力」という概念をほとんど必要としない対象だ。合理的で、効率的で、そしてなにより、楽だ。
だが、霧が植物コースを選んだ理由はもうひとつあった。白鷺沙羅――彼の心の中で特別な席を占める彼女が、このコースを選ぶ確率が最も高いと踏んだからだ。彼女は普段から花を愛でているので、こっちのコースを選ぶはずだ。下心と呼ばれるものが、彼の判断を微妙に左右したのは否定できない。
予想通り白鷺も植物コースを選んでいた。しかし、いざ班分けが発表されると、彼女は霧とは違う班に割り振られていた。それを知った瞬間、霧の心の中では小さなため息が生まれたが、周囲にそれを悟られないよう、表情は無関心を装った。
一方で、鳳条が野鳥を選んだと聞いたときは正直なところ意外だった。鳳条は当然沙羅と同じ植物を選ぶものだと思い込んでいたのだ。
鳳条なら「沙羅を守らないといけない」とか言い出しそうだったのに、まさか鳥を追いかける方を選ぶとは。
鳥が好きだったのか? そう考えてみたものの、双眼鏡を片手に「きゃっ、あれはアカゲラかしら!」と声を上げる三条の姿はどうしても想像できない。むしろ、木陰で腕を組みながら「この鳥、うるさいわね」と呟いている方がよっぽど現実味がある。
三条が野鳥コースを選んだ理由なんて、考えても仕方がない。正直、どうでもいい話だ。霧はそんな無駄な思考に頭を振り、あえて自分に言い聞かせる。
班のリーダー格の男子が「おーい、桐崎、早く行くぞ!」と手招きする。霧はしぶしぶそちらに向かいながら、瑠璃のことをすっぱりと頭から追い出した。今は目の前にいる班員たちと「いかにも観察してます」感を出しつつ、プレゼンに使えそうなネタをどう掴まえるかが問題だった。
「桐崎、見て!この木、幹が変な形してる」
班の女子が興奮気味に声を上げる。霧は一応そちらに目を向け、幹がうねるように曲がった木を確認した。
「へえ、確かに面白いな。でも、変な形してるだけじゃプレゼン向きじゃない。『この木がどうしてこうなったか』って話をつけられないと」
「え、どうしてこうなったの?」
「……多分、強風とか……いや、動物が爪で引っ掻いたとか?」
適当な仮説を口にしつつ、霧はメモを取り真面目にやっている風を装った。
観察を続けつつ、時折ちらりと別の方向へ霧は視線を向けていた。その先には沙羅の班の姿があった。彼女が楽しそうに花の写真を撮っている様子を見て、霧は無意識に微笑みそうになるのを押さえる。
彼女の笑顔をプレゼン資料に添付できれば、それだけで満点だろうとつまらない冗談が頭をよぎった。
そんな中、霧の目に一本の巨大な木が映った。幹には苔がびっしり生え、根元からはつる草が絡みついている。見た目は地味だが、何か歴史を感じさせる雰囲気を持っている木だ。
「これだな……」
霧は静かに呟いた。プレゼン映えを考えるなら、ただ派手なだけの花よりも、この木を主役にして「共生」「自然の循環」みたいなテーマをでっち上げた方が説得力がある。班のメンバーを集め、木を指差して宣言する。
「この木を班のメインテーマにしよう。ほら、苔とかつる草が共生してる感じだし、『自然の共存』とかそういう方向で話を膨らませられるだろ?」
「なるほどー」
他のメンバーは感心したように頷く中、リーダー格の男子が話を切り出した。
「具体的にどうまとめるんだ?適当に自然の共生とか言っても、聞いてる方は『それで?』ってなるだろ」
全員の視線が霧に向く。霧は一瞬だけ面倒そうに目を伏せたが、すぐに肩をすくめて言った。
「まあ、そりゃそうだな。じゃあ、こういう方向でまとめるのはどうだ?」
霧は近くの枝を拾い、地面に簡単な図を描き始める。
「まず、この木の幹に苔が生えてるだろ? これは湿度が高い環境を維持できてる証拠だ。で、その湿度が根元のつる草の成長を助けてる。つまり、この木を中心にした小さな生態系が成立してるって話に持っていく」
「でも、それだけじゃ他の班と差がつかないんじゃない?」
女子が口を挟む。霧は頷きながらさらに枝で線を加える。
「だから、もう一歩踏み込むんだ。この苔が湿気を保つことで、土壌の水分量も変わってるはずだ。これが周りの植物の成長に影響してるって説明すれば、少しは話が広がる。たとえば、この木の周囲にしか生えてない植物があれば、それもデータとして使える」
「周囲の植物の分布か……それは確かに面白いね!」
女子が目を輝かせると、リーダー格の男子も「なるほどな」と呟き、頭を掻きながら言った。
「そういう話なら、聞いてる方も納得するだろうな。けど、具体的なデータとか数字がいるんじゃないか?」
霧は少しだけ目を細めて笑った。
「そういうのは、数字がなくても写真を並べて変化を見せるだけでも効果がある。大事なのは、話をそれらしく作ることだ」
その言葉に班のメンバー全員が感心したように頷く中、女子が質問を続ける。
「じゃあ、発表の流れはどうする?ただ話すだけじゃなくて、順番とか工夫が必要だよね?」
「もちろん。それも考えてある」
霧は枝を置き、手を広げながら説明を始める。
「まず最初に、この木の写真を見せて、『一見普通の木に見えるけど、この木には驚くべき特徴がある』って引きつける。それから、苔とつる草の共生の話をして、最後に周囲の植物との関係を示す。流れをシンプルにして、先生たちが『なるほど』って思えるようにするんだ」
霧の提案に「じゃあそれでいっか」という空気が流れ、班のメンバーたちは早くも観察ノートを閉じる。霧の予想通り、彼らもまた、フィールドワークに対するやる気はさほどなかったようだ。
「それっぽい写真を撮って、適当にパワポでまとめれば十分だよな」
リーダー格の男子がそう言いながら木の写真を撮り始める。霧は内心で頷く。そうだ、その調子だ。何事も効率が一番大事だからな。もちろん、自分が一番効率的にサボっているという事実は棚に上げて。
しかし、霧の目は写真を撮る男子ではなく、ついつい遠くにいる沙羅の姿を追っていた。彼女の班はまだ何かを熱心に観察しているらしい。その表情は真剣そのものだった。
真剣に何かに取り組む沙羅の姿は、普段彼女が見せる柔らかい雰囲気とはまた違う魅力があった。ふと、彼女が何を観察しているのかちらりと覗いてみたい衝動に駆られるが、もちろんそんなことはできない。
やがて観察の時間が終わり、集合時間が近づいてきた。霧の班も一通りの作業を終え、ノートやカメラを片付け始める。帰り道で班の女子が「桐崎君って、意外とちゃんとやるんだね」と笑った。
「ちゃんとやるっていうか、プレゼンで恥かかないくらいにはしとかないとな」
こうして、一日目は無難に終わりを迎えた。
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