第33話 助けるって決めたから

霧は川辺に突き出た最初の石に飛び乗った。雨で滑りやすくなった石の表面に足を置きながら、バランスを取るのに集中する。

濁流がすぐ下で轟々と音を立てて流れているのが見えるとさすがに背筋が少し寒くなったが、霧はなんとか冷静さを装った。


「ほら、見ろ。いけるだろ?」

余裕の笑みを浮かべて声をかける霧に、沙羅は不安そうに眉をひそめた。

「本当に大丈夫なの……?危ないよ」

一方で瑠璃は腕を組み、冷たい目で霧を見つめている。

「そうね、いけるわね。あなたが最後まで落ちなければ」

その皮肉を受け流すように、霧は笑みを浮かべたまま次の石を見据えた。だが、その瞬間だった。小さな悲鳴が雨音の中にかき消されるように響いた。


「きゃっ!」

霧が振り返ると、沙羅が川辺のぬかるんだ地面で足を滑らせ、バランスを崩していた。その瞬間、彼女の体は雨に濡れた土の上を滑り、無情にも濁流の中へ吸い込まれていく。

「白鷺!」

霧は瞬時に石の上から身を乗り出し、濁流に飲まれそうな沙羅の手を必死に掴む。彼の動きはまさに反射的で、考える間もなく体が勝手に動いていた。

「しっかり掴まれ!離すなよ!」

霧の声は雨と川の轟音の中で掻き消されそうだったが、沙羅の手には霧の冷たい手の感触がしっかりと伝わってきた。恐怖に震える沙羅の表情が目の前にあり、彼は力を込めてその腕を引き上げようとする。

「くそ……!」

霧は何とか踏みとどまろうとしたが、滑りやすくなっていた足元では耐えきれなかった。次の瞬間、彼自身も水の中へと引き込まれる。


濁流の冷たさが全身を襲い、荒々しい流れが容赦なく二人を押し流していく。霧は必死に沙羅を抱きかかえるようにしながら、流れに逆らおうとするが、濁流はそんな努力を嘲笑うかのように激しく襲いかかった。


「ーーー!!!」

岸辺で立ち尽くしていた瑠璃が、声にならない叫び声を上げた。その視線は濁流の中、必死に水に抗おうともがく二人の姿を追い続けている。雷鳴が遠くで轟く中、その光景はまるで悪夢のようだった。しかし、彼女の内なる動揺は一瞬で霧散した。胸に湧き上がる何かを押し殺し、彼女の目は鋭く周囲を見渡した。


目に飛び込んできたのは、岸辺に横たわる一本の長く丈夫そうな枝。それを拾い上げると、彼女の頭はすぐに次の動きを計算していた。

リュックのウエストベルトを慌てて外し、自分の上着を脱いで袖を結んでロープをもう一段階伸ばした。リュックのストラップを素早く外し、枝の先端に結びつける。即席のロープを作った彼女は、その端を近くの岩にしっかりと結びつけた。


「これを掴んで!」

彼女の声は雷鳴と雨音を割って響いた。濁流の中で必死に耐える霧は、その声に顔を上げると、手を伸ばして瑠璃の差し出すロープを掴んだ。

霧はもう片方の手で沙羅を支え、沙羅は恐怖で震えながらもロープへと手を伸ばした。何とかその端を掴んだ彼女を見て、瑠璃は岸に膝をつき、全身の力でロープを引き寄せる。


しかし、濁流の力は尋常ではない。二人分の重みがかかるロープは、彼女の全力でも容易には引き寄せられなかった。

瑠璃の手はロープにしがみつくように力を込めていた。雨は視界を遮り、川の濁流はまるで生き物のように二人を引き裂こうと力を加えている。彼女は歯を食いしばり、全身を支点にしてロープを引いたが、その瞬間、鋭い音が空気を裂いた。


プツン――!


次の瞬間、ロープが弾け飛んだ。瑠璃の体がバランスを崩し、泥に膝を突く。その目の前で、霧と沙羅が再び流れに飲まれる。



彼女の胸の奥から湧き上がるもの、それは焦燥と恐怖が絡み合った感情だった。指先が震え、雨で濡れた髪が頬に張り付くのも気にせず、彼女は二人の姿を必死に追った。濁流は無情にも二人を押し流し、その影は次第に小さくなりつつあるように見えた。


彼女はバクバクと動悸が収まらない胸を押さえながら、立ち上がった。恐怖で足がすくみそうになるのを意志で押し戻し、再び周囲を見渡す。使えるものを探し、どんな手段でも再びロープを作らねばならないという思いが彼女を支配していた。

瑠璃は岩に巻き付けていたストラップを急いで外すと、滑る足元に気をつけながら濁流の近くに走った。二人が流される先には、もう一つの岩が川岸に突き出している。その岩に近付くと、彼女は再びストラップを巻き付け固定し、傍にあった長い枝をストラップに結びつけた。

「お願い…届いて…」

瑠璃は雨で濡れた枝を慎重に握りしめ、川に向かって差し出した。濁流の激しい音が耳を突き刺す中、彼女の目は二人を必死に追いかける。水面にわずかに見える霧の姿、その隣で力なく流される沙羅――どちらも明らかに限界が近い。


濁流に飲み込まれた霧と沙羅は、必死に耐えながらも川の流れに翻弄されていた。

冷たい水が容赦なく全身を叩きつけ、息をするのもままならない。霧は必死に沙羅の体を腕で抱え込みながら、何とか水面に顔を出そうともがいていた。


霧は咄嗟に、川の中に立ち尽くす倒木のようなものに気づいた。流れの中で、体勢を崩しながらも、その木に向かって必死に手を伸ばす。そして、その一瞬の行動が功を奏し、二人は木に体を押し付ける形で流れを止めることができた。

しかし、濁流は依然として二人を押し流そうと力を加えてくる。

「二人ともこれを掴んで!」

視線を向けると、瑠璃が作った即席のロープが濁流の中に再び差し出されていた。木に必死でしがみつきながら、霧は手を伸ばし、そのロープを掴むことに成功する。

「白鷺、しっかり掴め!これで戻れる!」

霧は沙羅の手をロープに巻きつけるように支えながら、再び声を張り上げた。瑠璃はロープが木の根元にしっかり固定されているのを確認し、全身の力を込めて引っ張り始める。

「離れないで……必ず引き上げる……!」

瑠璃は歯を食いしばりながら、膝をつき、泥まみれになりながらも全身の力を込めた。霧は沙羅をロープにしっかりしがみつかせ、自らも必死でロープに掴まっていた。少しずつ、二人の体が岸に近づいていく。

やがて、浅瀬に達した霧が自ら立ち上がり、沙羅を抱えるようにして岸まで運んだ。二人が泥まみれの姿で岸に辿り着いた瞬間、瑠璃はロープを放して座り込んだ。


川岸に這い上がった沙羅は、その場にへたり込むように座り込み、息を切らしながら震える声で言った。

「瑠璃ちゃん……本当に、ありがとう……」

霧も泥まみれの顔を上げ、瑠璃に小さく笑みを向けた。

「鳳条のおかげで助かったよ。本当にすげえよ」

瑠璃は乱れた髪を手で払いながら、二人をじっと見下ろした。その目は冷静さを取り戻していたが、その奥にかすかな怒りの火が宿っている。彼女はゆっくりと息を整え、静かに言葉を紡いだ。

「……桐崎君は本当にどうしようもないわね」

その一言に、霧は一瞬固まった。そして次の瞬間、いつもの調子で肩をすくめながら笑った。

「いやいや、俺も頑張っただろ?なんだかんだで無事だったし――」

「無事だからいい、なんて話じゃないの」

瑠璃の鋭い声が霧の言葉を断ち切った。

「あなたは、もう少し自分が何をしているのか考えるべきよ。無茶をすれば、こうなるって分かるでしょう」

すると、今度は沙羅が慌てたように口を挟んだ。

「違うよ瑠璃ちゃん!桐原君のせいじゃない!全部、私が足を滑らせたせいだよ……本当にごめんね」

沙羅は雨で濡れた顔を俯かせ、肩を震わせながら謝る。瑠璃は彼女に目を向けると、少しだけ表情を和らげた。

「沙羅……そんなに気にしないで。あなたが無事ならそれでいいの」

「でも、瑠璃ちゃん……」


沙羅がさらに何か言おうとすると、霧が泥だらけの顔を上げ、わざと軽い調子で笑った。

「まあまあ、こうやって三人とも生きてるんだから、それでいいだろ。結果オーライってことで!」

「全く……本当に呑気なんだから。」

彼女は呆れたように目を細めながらも、最後に静かに呟いた。

「でも……まあ、無事で良かったわ」

その言葉は雨の中に静かに溶け、三人の間にわずかな安堵の空気が漂った。霧はふと空を見上げ、降り続ける雨に顔をしかめながら笑った。

「なあ、これで俺、ちょっとは頼りになる男に見えただろ?」

「いいえ」

瑠璃が即答した瞬間、沙羅が少し慌ててたように口を挟んだ。

「そ、そんなことないよ!私のことを助けようとしてくれたし……本当にありがとう!」

沙羅の真っ直ぐな感謝の言葉に、霧は気恥ずかしさを誤魔化すように軽く頭を掻きながら言葉を継いだ。

「とにかく、早く宿泊所に戻ろう。正直、もう限界だし……風呂にでも入って一息つきたい」

雨はまだ降り続けていたが、三人はゆっくりと歩き始めた。その背中には、どこかほっとした空気が漂っていた。

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