第7話:影との対話
翌朝、窓の外には白銀の世界が広がっていた。
昨夜の嵐はすでに収まり、雪はしんしんと静かに降り積もっている。
——それなのに、敬介の心の中には嵐が吹き荒れていた。
(俺は……死んでいる?)
鏡の中の影が囁いた言葉が、耳の奥にこびりついて離れない。
「おまえは、亡霊なのだ。」
敬介は震える手で荷物をまとめた。
この旅館から出なければならない——いや、出られるのかどうかも分からない。
何も考えたくなかった。
ただ、この場所から消えたい。
だが、その想いとは裏腹に、彼の心の奥底では囁く声がある。
(逃げるのか? 俺は、また……?)
敬介は、女将の前に立った。
彼女の顔には、穏やかな微笑みが浮かんでいる。
「ご滞在はいかがでしたか?」
その問いかけに、敬介は答えられなかった。
何かを言おうと口を開くが、声が出ない。
代わりに、女将の方が先に言葉を紡いだ。
「……思い出してくださり、ありがとうございます。」
——その瞬間、全身が凍りついた。
敬介は女将を見つめた。
彼女の言葉は、まるで最初から彼が"思い出すこと"が決まっていたかのような響きだった。
敬介はかすれた声で尋ねる。
「……あなたは、誰なんです?」
女将の微笑みが、ほんの一瞬だけ寂しげに揺らいだ。
「私は、ただの案内人です。」
「……何の案内人?」
「"戻るべき場所へ導く者"……といえば、分かりやすいでしょうか。」
敬介は唇を噛み締めた。
彼女の言葉の意味が、痛いほど理解できた。
——この旅館は、"現世"に存在するものではない。
ここは、"魂の迷い込む場所"。
そして、敬介は——ここへ戻ってきた。
雪が静かに降り積もる。
敬介は震える手で玄関の扉に手をかけた。
(……ここを出れば、現実に戻れるのか?)
だが、外に出た瞬間、彼は違和感に気付いた。
降り積もった雪の上に、自分の足跡が残っていない。
「……まさか。」
背筋が凍る。
恐る恐る、後ろを振り向く。
そこには——
旅館は、もう存在していなかった。
目の前に広がるのは、ただの雪原。
——すべてが消えている。
敬介の胸に、理解したくない真実が突き刺さる。
(俺は……)
(……最初から、ここに"いなかった"のか?)
——その時だった。
背後に、気配がした。
静かな足音。
白銀の世界に溶け込むようにして、"あの少女"が現れた。
おかっぱ頭の、白い着物を着た少女。
彼女は、不気味なほど穏やかに微笑んでいた。
「……やっと、思い出してくれたんだね。」
敬介は息を呑む。
少女は、ゆっくりと手を差し出した。
「——さあ、一緒に行こう?」
敬介は足をすくませながら、彼女の瞳を見つめた。
——あの夜、燃え盛る炎の中で、彼女が見せた"あの視線"。
助けを求めていた。
だが、敬介は振り切って逃げた。
少女の瞳には、悲しみと、ほんの少しの怒りが混ざっていた。
「……俺は……」
呟く敬介の手が、小さく震える。
ここで、また逃げるのか?
もし逃げたら、彼はまた記憶を失い、彷徨い続けるのかもしれない。
次に"目覚めた"時、彼はまたこの旅館へ戻り、また全てを思い出すまで、何度も何度も繰り返すのかもしれない。
彼女が手を差し伸べる。
選択の時だった。
——今度こそ、向き合うべきなのか?
敬介は、ゆっくりと息を吐く。
そして——
少女の手を取った。
その瞬間、足元からふわりと雪が舞い上がる。
体が軽くなり、魂がどこかへ導かれていくような感覚。
少女が微笑んだ。
「これで……よかったんだね。」
雪は降り続き、二人の姿をやがて雪の中へと溶かしていった。
——こうして、"魂"は、ついに本来の場所へ帰ることになった。
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