第6話:罪の記憶
鏡の中の影が、ついに姿を現した。
それは——敬介自身だった。
だが、鏡の中の「敬介」は、確かに自分とは違う何かだった。
黒く淀んだ瞳。肌は煤け、ところどころ焦げた痕がある。
敬介は言葉を失い、鏡の中の"影"を見つめた。
影が、ゆっくりと口を開く。
「忘れてはいけない。」
敬介の鼓動が高鳴る。
「……何を、だ?」
影の表情が歪む。
「お前は、知っている。だが、それを見ないふりをしてきた。」
鏡の表面に、薄く煙が立ち込める。
視界が歪み、意識が引き込まれるように眩暈がした。
そして——
敬介は"過去"の光景を見た。
燃え盛る炎が、旅館の廊下を包んでいた。
「誰か!助けてくれ!!」
誰かの絶叫が響く。
煙が視界を覆い、熱気が肌を刺す。
——敬介は、逃げていた。
廊下を駆け抜け、炎の合間を縫って出口へと向かう。
焦げた柱が崩れ落ち、あちこちから悲鳴が上がる。
敬介は後ろを振り返らなかった。
いや——振り返れなかった。
(俺は、ただ……助かりたかった……。)
しかし——
玄関の手前、煙の向こうで"あの少女"と目が合った。
白い着物を着た、おかっぱ頭の女の子。
彼女は、母親に抱きしめられながら、怯えた目で敬介を見つめていた。
「……お兄ちゃん、助けて……」
か細い声。
小さな手が、敬介へと伸ばされる。
——その時、敬介の脳裏には、一つの選択が浮かんでいた。
手を取るか、それとも、このまま逃げるか——
そして、敬介は。
少女の視線を振り切り、そのまま玄関の扉を開け、外へと駆け出した。
——すべてを、見捨てて。
直後、轟音とともに旅館が崩れ落ちた。
黒煙が天を裂くように立ち昇り、絶望的な悲鳴が夜空に響いた。
そして——
敬介はただ一人、雪の上に倒れ込んだ。
生き延びたのは、自分だけだった。
「……違う……そんなはずはない……!!」
敬介は鏡を睨みながら、必死に首を振る。
「俺は……逃げたんじゃない……!!」
鏡の中の影が、嘲笑うように言った。
「そうだ、逃げたのではない。"見捨てた"のだ。」
「違う!!!」
敬介は叫び、鏡を叩きつける。
だが、鏡はびくともしない。
影は冷たい目で彼を見下ろし、再び囁いた。
「おまえは、すべてを忘れた。」
敬介の膝が震える。
「忘れた、だと……?」
「そう。おまえは罪から逃げ、記憶すら閉ざした。」
影が手を伸ばす。
その手は、まるで鏡の向こうから現実へと這い出ようとしているかのようだった。
「だから、戻ってきたんだ。」
「戻ってきた……?」
影は淡々と続ける。
「これは、"償い"の旅だ。」
「おまえは死んだ。燃えている旅館の看板が落ちてきてその下敷きになった。」
「だが、魂だけは逃げた。」
敬介は息を飲む。
「……俺は、生きてる。」
「違う。おまえの肉体は、すでにこの世にない。」
影が微かに微笑む。
「"おまえの体は、玄関の外にあった。" だが、"おまえの影は、この旅館に残っていた。"」
「……そんなはずはない……」
「おまえは、死ぬ間際まで"逃げようとした"。」
「そして、影と魂は引き裂かれた。」
「おまえの魂は外へ逃げ、影だけが、この旅館に残った。」
「つまり——」
「おまえ自身が"亡霊"なのだ。」
敬介の視界が揺れる。
血の気が引き、頭が真っ白になる。
影は静かに続ける。
「……思い出したか?」
敬介は、鏡の前で膝をついた。
(俺は……死んでいた……?)
言葉にならない。
何もかもが、崩れ落ちていく。
そして——
鏡の中の影が、手を差し伸べた。
「さあ、選べ。」
「このまま"記憶を消し"、また逃げ続けるのか。」
「それとも、自分を受け入れ、ここに残るのか。」
敬介の喉が渇き、呼吸が浅くなる。
選択の時が、再び訪れていた。
10年前のあの夜と同じように——
今度こそ、逃げずに向き合えるのか。
——それとも。
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