第9話

「マイス卿、いや、準騎士マイス」

 騎士団長が立ちふさがる。

「もし、このまま帰るのなら、貴殿には騎士の称号を預けるに値しないと判断される」

「構いません。このような決闘は騎士の一騎打ちに非ず。事実上集団でひとりの騎士を襲うなど、夜盗の群れと相違ない。騎士の一騎打ちは騎士同士が最低条件の筈」

「………そう考えるか。ならば、彼らは騎士ではないと」

「どれだけ騎士を雄弁に語ろうと、それに値しなければ、それには類されない—————騎士団長、貴殿は彼らが騎士を名乗るに相応しいとお考えか」

「耳の痛い事だ………」

 浅黒い肌を持つ歴戦の猛者も、渋い顔で道を預け渡してくれた。もはや問答のしようがないと諦めて、最後の意思の確認をしてくれた。来る者にはそれ相応の試練を、けれど去る背中は追わず。騎士の名を返上し、国外へと向かう者もいると聞き及んでいた。騎士団長の眼前を通り過ぎ、砦の小門に手を携えた時だった。

「マイス、マイス卿、どうかご理解下さい」

「ルゼリア卿。先程、申し上げた通りだ。割に合わない」

「けれど、彼らも」

「彼らに『星の雫』、屋敷、貴殿の身柄を明け渡すに相応しい代価が払えると思っているのか。到底あるとは思えない。勝利した時、得られるものはなんだ。騎士の誇りか?それは、騎士としての家も自身も未来をも掛けるに相応しい程のものか」

「………だけど」

「理解されよ。貴殿は、もはやひとりではない。婚約者も使用人もいる屋敷の主だ。家の旗を掲げた、帰る屋敷を持つ責任者だ。一時の感情で振り回されるのは、既に捨て去るべきだ。貴殿は——————真に騎士になるのではないのか」

 俯くルゼリアを言い負かし、ようやく門へと向き直す。けれど、ルゼリアはなおも抵抗する。中庭の中央へ戻ろうと、最後の抵抗を続ける。

「わかっています。負けた時と勝利した時のつり合いが取れない事を」

「ならば、」

「けれど、私は騎士を志した準騎士。そして、数日と経たずに騎士の位が叙される。その直前で決闘を断るなど、今後逃げた騎士と後ろ指差されてしまいます————その時、私には騎士を夢見る資格すら失わてしまう」

「夢の続きがある」

「だけど、私はまだこの夢が見たいのです」

「その時、得られるものはなんだ。もはや夢の続きすら見れなくなる」

「ならば、騎士を返上しましょう」

 言ってしまったと思った。

「………理解しているのか。その時、あの屋敷どころか『星の雫』も、そして聖印の騎士の席も」

「わかっています。けれども、決闘で敗北した後の恭順の誓いは、騎士にしか通用しない。いち市民に、王国すら離れたのなら、もはや私には従う義務もない。既に領地もないのです。失う物もありません。あなたが居てくれるのなら、夢の続きを見れます」

 握っていない手を握りしめ、自分を納得させる。ルゼリアの言う通り、どれもこれもまだ持っていないか、貸し与えられているに過ぎない品々だ。最初から無いのだから痛む心もないだろう。だけど、それは未来を閉ざすに同意義だった。

 二度と、あの灰色の旗を掲げられないかもしれない。それどころか屋根がある生活すらも—————。

「私にとって騎士とは人生そのもの。夢そのものなのです。願わくば、お願いします。私に、妻である私に夢を見させて下さい。同じ夢を見て欲しいのです」

「—————ルゼリア。それでも、一時でも妻が他の者の手に渡るなど見たくない。同じ夢を見たいのなら、同じ悪夢も理解してくれ。君を誰にも渡したくない」

「ふふ、嬉しいです」

 なおもルゼリアは頑なだった。これはダメだ、認められない—————妻のわがままを、婚約者であり、恋人の意思を認められないのは騎士である以前に、夫として認めらえなかった。手を引く力を落し、改めてルゼリアへと向き直る。

「何か手はあるのか。三回連続どころか、三人同時に襲い掛かる気配すらある」

「では、あなたの手も貸して下さい。私達は一心同体なのです。三体一よりも、三体二の方が安心できるでしょう———————もう夜です。私達は竜を倒したのですよ」

 この状況だというのに、ルゼリアは微笑みを浮かべた。琥珀色の瞳を薄く閉じ、輝かせる事で自分を屈服させる。卑怯だった。あまりにも卑劣過ぎる。どちらが先に惚れたなど、もはやどうでもいい。この微笑みこそが、自分の急所であり弱点だった。

「—————さぁ、戻りましょう」

 今度はルゼリアに手を引かれ、中庭の中央へと向かう。三人の準騎士達は、勝利したと凱旋を行っている最中、白の髪を揺らしながらルゼリアは舞い戻る。既に太陽はなく月と星振る夜空の下、身に着ける白銀の鎧と青のコートに相応しい清廉なる立ち姿で声を上げる。

「待たれよ!!まだ、勝負は決していない!!」

 その声に、笑みを浮かべて同じ準騎士を煽っていた三人、そして去ろうとしていた騎士団所属の人間達が視線を戻す。

「何を今更。準騎士ルゼリアの婚約者は、勝負の場からお前を連れ去って逃げた。ならば、お前も敗北者。同罪だ。決着はついている。お前は、怖気づき逃げたのだ」

「いいえ、逃げていません。掛けて貰う財貨について話し合いをして来ました—————そして、私ひとりではなく、マイス卿も参戦すると決めました」

 何を言っていると、見下ろして来る。そうだ、もう夜なのだ。惑星魔術を扱える時間であり、あの白銀の竜の心臓すら破壊した我らの真なる時間でもある。

 ——————たかが準騎士風情に負ける筈がない——————

「財貨だと?」

「『星の雫』、騎士団より受け賜わった屋敷、そして恭順の誓い。先の二つは認めましょう。けれど、三つ目は認めらません。我が身は既にこのマイス卿のもの。もし、強制するのなら——————彼に勝利して、彼よりも強いと証明して下さい」

 勝利の熱気が別の方向へと燃え上がる。ついに、内々の話が騎士団全体へと伝わってしまった。そして、どうあっても負けられない一戦であり、ルゼリアの婚約者として、己を誇れる状況に成ったのだと理解した。ルゼリアの隣に相応しいと証明できる。

「それは俺達の女になると言いたいのか?」

「下劣な言葉遣いですね。騎士にあるまじきです。彼が怖いですか?」

 彼らの内のひとりが手に持っていた盃を叩きつけ、再度剣を引き抜いた。

 同時にルゼリアが引いている手を自身の剣へと触れさせる。

「いいのか」

「ええ、構いません。あのような物言い、騎士として許せません—————血のひとつでも流させましょう」

 応じるようにルゼリアの剣の鞘に収まっている刀身へ月の光を溢す。

「先ほどの続きです。あなた方が敗北した時の代償について」

「は!!なんでもやるよ!!」

「では、あなた方の家に入り、目に付いたものを」

 なんの話だ、と思いルゼリアの横顔を見つめる。だけど、当の本人は至って昂然としたままだった。そのまま手を離され、ルゼリア自身も剣の柄に手を乗せる。

「準騎士ルゼリア—————これより決闘を開始します」

 歓声が上がり、多くの盃を掲げられる。また老齢の騎士と先ほどの女騎士も舞い戻り、騎士団長も椅子へと腰掛ける。そして、引き抜かれる刀身に言葉を失う。

「—————なんだ、それは」

 夜空に輝く月と同じ色。月色の剣を振り上げ、その光を見せつける。あれこそ惑星魔術の中でももっとも最初に作り上げられた最古の模倣魔術ひとつ。星という命の循環を証明、模倣して転写された光。所詮、机上の空論だが、その刀身を星々にまで伸ばせば惑星の両断まで叶う。星の終わりをも内包する終末の月光だった。

「は、ハッタリだ」

「では、仕掛けますね」

 中庭の中央。本来ならば木人形が林立している土の地面を踏み付け、ルゼリアが容赦なく斬りかかる。どれだけ鍛えて上げていようがルゼリアはまだ十代の女性。年上であり同様に鍛えて上げて来た男性の構える剣には通じない。軽々と受け止められる筈だった。だが、光の剣は粘土でも斬るように、相手方の刀身を切り落とし、肩から胸、腿にまで切っ先を落す。鎧もコートもあっけなく断ち切られてしまった。

 上がる叫び声には痛みと狂気が入り混じっていた。死の恐怖、今まで感じた事のない激痛。あの光はただ切れ味を上げているのではない。光を貫通させて肉を切り裂き、更に刀身自体の刃を重量、速度を以って一瞬で振り落とされ、循環した光の熱で傷を焼き焦がす。けれど、血が吹き上がらない程にまで純度は高めていない。

 焼けた傷跡から血が湧き出て、その時に生まれた血の道から更に血が噴き出る。

「内臓、骨までは達していません。すぐに学院の医者を呼びなさい」

 その身の血を焼き焦がし、蒸発させた刀身を次のひとりへと向ける。

「そ、そんなものは反則だ!!騎士の技じゃない!!」

「けれど、あなたの鎧は学院の技術より生まれた糸と鉄で織られたもの。魔に連なる力の技術を纏っておいて、何が反則でしょうか。それに、騎士を目指すのならいずれは学院の結晶剣を与えれます。私が先にそれを使っても、問題ないのでは?」

 怯える準騎士が騎士団長へ顔を向けるも、騎士団長は注がれた盃を掲げるのみ。

 ——————まぁ、頑張れ—————と言って見えた。

「さぁ、剣を抜いて下さい。あなた方から挑んだのです、本望でしょう」

 月光の剣を向けるルゼリアが一歩ずつと歩み寄る。そして、慌てて準騎士の男性が剣を引き抜くが、その時には既に刀身は溶けるように砕けていた。また、真一文字に腹に傷を残して。先ほどの男性よりも悲痛な声を上げて、倒れ伏し、腹を抑えてしまった。高鳴っていた声援も歓声も、その悲鳴に成りを潜めていく。こんなものは決闘ではない——————ただの殺戮だ。月光を人に向けるなど、あり得ない光景だ。

「私はここまでです。次はあなたが」

 そう言って、剣を納めると自身の婚約者に歩み寄って腕を引いてくる。愛らしくも美しい顔を向けられ、自分も自然と微笑んでしまう。夜の淫靡なルゼリアも愛おしいが、騎士の姿に身を包んだ女騎士である彼女は、ひと際美しく犯し難い姿をしている——————そんな彼女が自分を頼って、信じてくれている。ならば、応えよう。

「俺はお前の言う通り、所詮は学者だ。剣なんてろくに習っていない」

 言いながら腰に佩いた剣、ではなく短剣を引き抜く。先ほどまで腰を抜かして、自身の盃の酒を被っていた、屋敷へと侵入しようとした男性が、安心したように笑みを浮かべる。到底、騎士の浮かべる顔ではない。まさしく夜盗の顔だ。弱い獲物が来たと、安堵する顔だった。当然と言った感じに長剣を引き抜き、迫り訪れる。

「学者風情の騎士もどきが。お前がこの砦内を歩き回る事すら許し難かったんだ。女の為に戦うか?剣なんて使った試しもないんだろう?」

「淑女の為に戦うのが騎士ではないのか。それが妻であるのなら尚更だ————どうだろうか王国の騎士達よ!!俺はこれより、我が妻、ルゼリア卿の為に刃を交える!!これは、騎士の名誉、栄光に他ならないだろう!!」

 心からの感情を高らかに宣言する、黙っていた真に騎士の位を叙された騎士達が、

「「「然り!!然り!!」」」

 と盃を掲げて返してくれる。自分は騎士の誓いを口にした。敗北など認められない—————知らなかった。名誉の為に、栄光の為に、妻の為に戦うとは、こうまで高揚する事なのか。誇らしい事なのか。背後のルゼリアに目を向ければ、あの眼差しを向けてくれる。騎士であり妻として、この背中を見守ってくれている。

「俺には騎士の位など過ぎたものだ、だが、我が妻はそれを望んでいる—————騎士が嘆くべきは敗北だけではない。愛する者の心を計れなかった己が不甲斐なさだ。それを、ここで返上する——————決闘だ。準騎士マイス、お前に勝負を申し込む!!」

 掲げる短剣に同じ月の光が輝く。けれど、その光がどこまでも伸びて、準騎士の長剣すらも越える大剣の刀身を作り出す。青白く妖しく輝く刀身を持つ光の大剣の切っ先を向け、歩み出す。重さなど有る筈もない、光に過ぎないからだ。けれど、燐光を放出する、その力は鋼の大剣にも匹敵、同じ結果以上の効果をまざまざと見せつける事だろう。

「恐れずして挑まれよ。俺は、学者風情の騎士もどきなのだろう」

 相手方の切っ先が円を作るように震えている。両手で握りしめ、腰が引けていく。そして後ろを見て、逃げ道を探るが、あの長身の騎士が現れて腕を組む。

 壁と成った騎士が準騎士を睨みつけ、逃げればわかっているな?と語外で示す。

「ま、待ってくれ………」

「どうされた、貴殿の騎士の誉れを見せつけてくれ」

「おれ、おれは、まだ………」

 もう決壊寸前だった。剣を落さないのは、筋肉が麻痺して手が離れないのだろう。

「では、こちらから仕掛けるぞ—————」

 殺す事はしなかった。決闘ではあるが、殺生が目的ではないからだ。軽く剣を叩き斬り、額を掠っただけで失神してしまった。流石に純正の惑星魔術を使うつもりは無かったが、折角の初めての騎士の決闘なのだ。多くを見せてもと思ったが、

「素敵でした。あなたこそ私の騎士です—————マイス」

 先ほどの笑みなど比較できない。美しく、愛らしく、そして輝く笑顔で抱きしめてくれたルゼリアと共に、手渡された盃を握りながら、青ざめている準騎士に分け入り、真なる騎士達と騎士団長の下へと参上した。与えられた黄金の蜂蜜酒を飲み干し、勝利の凱旋をする———————一刻もない時間ではあったが、未だかつてない感情を覚えた。





 ルゼリアと寝室を共にするのも慣れてきた。人の血の恐れはまだ抜けていなくとも、それを耐え抜いた後の、騎士ではない少女の彼女は弱々しくも麗しかった。

 傍らで腕を取って眠るルゼリアの頬を撫で上げ、朝日を浴びせる。

 昨夜の彼女はとても献身的だった。きっと自分の為に考えてくれたであろう手管を存分に使い、この婚約者を喜ばせてくれた。師のように多くを経験していなく、自分しか知らないのに、慣れない口や胸なども扱い、ようやく自身の身体の肉感的さを理解したようだった。唾液塗れの手を使うなど、どう思い付いたのか。思わずされるがままになる程。

 あれだけ湿っていた局部は既に乾き切り、ルゼリアも全て飲み干したようだった。

「ルゼリア、朝だ」

「………朝ですか。いえ、まだ早いです」

「そうも言えないだろう。馬の件は、早く終えないと」

「ブリギットが起こしに来るまで待ちましょう—————さぁ、口づけを」

 仕方ない。甘いと思いながらも梃子でも動かないルゼリアの、額に口づけをしてベットから起き上がる。割と不満だったらしく、またもや恨めしそうに睨んでルゼリアもいそいそと上半身を立たせる。脱ぎ散らかしたコートとシャツを手に取り、身支度を整えていると扉を叩かれる。

「奥様、旦那様、朝でございます」

「ああ、ご苦労。手紙の類は?」

「先日の銀行家からの返事が。そして、送っていた牧場からも一通」

「食堂に置いておいてくれ。食べながら読ませて貰う」

「かしこまりました。お湯の準備も終えております」

 しばらく入浴などしていなかった所為だ。入れ、とのお達しらしい。恐ろしかな、この屋敷には石造りの浴室があり、近くには水源があり水風呂であればいつでも入れた。騎士として禁欲は必須ではあるかもしれないが、流石に毎晩の情事で体液塗れでは衛生的ではない。せっかくの浴室なのだ、遠慮なく使わせて貰おう。

「ルゼリア、ブリギットが湯を沸かせてくれたらしい。先に入ってくれ」

「一緒に入りましょう………」

「我慢できなくなる。ブリギットに頼って、身体を洗い流してくれ」

 うつらうつらでシャツにのみ袖を通したルゼリアを立たせ、最低限の身支度をさせて、扉の外にいるブリギットに任せる。支えられたルゼリアは連れ去られるままに廊下を渡っていく。自分も、軽装ではあるが最低限の装備を整えて、食堂へと向かう。

 一階のそこの広いダイニングテーブルには二通の手紙が既に用意されていた。

「相変わらず、なんでも出来る人だ」

 冷たい封筒のひとつ、銀行家からの手紙を開くと、今日の朝に向かうと記されていた。色々と投資だなんだと言われるだろうが、あれほどの財貨を目の前にすれば、悪いようにはしないだろ。

 ついで、更にブリギット経由、商会から牧場を持つ領主への手紙を開く。

 若い雄、牝馬についてだった。去年生まれた仔馬たちが順調に育っており、そろそろ出荷や貸し出しの計画を立てようとしていたとの事。王都へ向けて既に出発しており、2日程で到着するとの事だった。やはり使用人の世界は広い。誰よりも早く毛並みが良く、力強い馬を入手出来るかもしれない。だが、正直馬の良し悪しには詳しくなかった。

「………これはルゼリアに任せるか」

 彼女も昔は領主の娘だったと聞いた。ならば、牧場との繋がりから馬の知識もあるだろう。知らない自分が口出し出来る筈もない。彼女になら安心して任せられる。

 何かないかと調理室を探り、閉じられた窯を開けると、焼いたパンの幾つかが準備してあった。それを食していると、食堂の扉が開かれる。湯気を放つルゼリアと共に、エプロンを取り外し、主の世話をし終えたらしいブリギットが入室して来た。

 朝一の寝ぼけまなこの中、更に湯で洗われた所為で、二度寝の寸前に見えた。ブリギットから婚約者を受け取り、隣へと座らせる。

「申し訳ございません。マイス様、お食事の準備もせずに」

「ルゼリアの世話をしてくれたんだ。問題ないよ」

「それでも内勤で仕えている方に自力で食事を探させるなど、使用人としてあるまじき行為です。お食事を終えましたら、湯浴びをして下さい。手伝わせて頂きます」

「気持ちだけで十分。それより、ルゼリアの世話を頼む。自分の事より、妻の方が大切だ」

「承知いたしました。すぐに」

 その足で調理室へと入り、準備していたらしいスープとパンなどなどを持ち運んでくれる。思えば、ここは学院でない。それぞれの学閥が造り出した設備など、この屋敷に有る筈もなかった。ならば、ルゼリアとブリギットにばかり頼る訳にもいかない。

「ブリギット。冷たい箱は欲しくないか?」

「はぁ、冷たい箱?」

「それがあれば卵でも牛乳でも野菜でも肉でも長期に保存が出来る」

「なんの話でしょうか?」

「俺から学院に連絡しておくから品々が運ばれたら、銀行家からの小切手を使って支払っておいてくれ。きっと役に立つものばかりだから」

「わ、わかりました」

 屋敷維持の技術を備えているブリギットであろうと、学院の先端技術には疎かったらしい。わからないと、眉をひそめるブリギットからスープを受け取ったルゼリアがようやく自律的に動き始める。二枚の手紙を読み込み、小さく頷く。

「馬は任せて下さい。銀行家は今日来るのですね」

「その予定だ。だから、一緒に対応してくれ。彼らはよく口が回るから」

「眠らないように気を付けなければ。昨日言われましたね。叙任式は三日後と」

 もう我々はただの学者でも準騎士ではない。研究や報告書に頭を悩ませる必要も、日々の鍛錬に木剣を振り上げて、木人形を叩く必要もない。指名や命令がなければ、好きな時に学院や砦を使用でき、形式上は自由に時間を使える立場となる。

 だからと言って、常に寝室で子を為さない情事に耽続ける訳にもいかないのだが。

「—————もし、銀行家との話し合いが終わった時、何もなければ」

「夜まで待ってくれ」

「違います。王都を回らないかと言いたかったのです。流石に求めすぎです」

 朝の口づけのせがみを忘れたのか、不機嫌そうに口にした。

「ああ、問題ないけど、王都なんてもう」

「あなたとは昼をゆっくりと過ごした事がなかったので。婚前を過ごしませんか?」

「婚前———————勿論。一緒に散策しよう」

「はい、恋人の時間を過ごしましょう」

 パンを千切りながら微笑んでくれたルゼリアを見つめ合う。しばし、朝の夫婦の時間を楽しみ、用意されていた食事を平らげ、お茶を楽しみ、終える。そろそろと言った感じに立ち上がって、手を振る。同様に手を振り返してくれるルゼリアと別れる。

「湯浴び、風呂か………」

 学院でも何度も使った。師とも何度も入ったが、師と入ると心休まれるどころか体力を使い切ってしまうので、入るには覚悟が必要だった。師が不在時、隠れるようにも使ったが、やはり心休まる筈もなかった。数日の論文との格闘のおり、眠ってしまう事もしばしばあり、その時はいつの間にか師が膝上に収まっている事もあったか。

「………完全なひとりって、思えば初めてか」

 一階の奥。床板を踏みしめながら入ると、そこにはルゼリアの衣服の一部と、ブリギットのエプロンがたたまれ、籠に置かれていた。脱衣所で自分も衣服を脱ぎ去り、浴室に入ると、まだ湯を内包する白い浴槽は湯気を放っている。思いっ切り浸かりたい気もするが、大人しく桶から汲んで身体を洗い流し続ける。その後、浴槽に入る。

「………温かい」

 ここまでの量。この王都という自然の恵みの上に作り上げた、人工的な都市計画の最先端でなければなかなか叶わない水量である筈だ。昔の生家でも浴槽はあったが、全身まで浸かれる程の湯はそうそうなかった。せいぜいがサウナが限度であった。

 しばらく浸かっていると、扉が叩かれる。

「マイス様、起きておられますか」

「………ああ」

「開けても?」

「いいぞ」

 黒い使用人服を着たブリギットが入室してくる。こちらの様子を確認した後、頷いて近づいて来る。

「お身体はご自分で?」

「俺は、騎士であり学者ではあるが、貴族の類ではない。身体ぐらい自分で洗える」

「心配のし過ぎでしたか。ルゼリア様もあなた様も、かなりの世間知らずでしたので」

「言ってくれる。俺達は必要があれば野宿もして来たんだ、世間知らずだけど生活力はあるんだ。それで、急にどうした?」

「——————あなた様は何も求めないのですね」

 これほどの美人な使用人、誰が身の回りの世話だけで放置出来るだろうか。想像は付いていた、彼女は昼の使用人としての技術以外にも、習得しているものがある。

「俺は、世間知らずなんだ。恋人以外と楽しむ方法を知らない」

「ならば、ルゼリア様がおられない夜、今も」

「悪いが、昨日から疲れてる。その気にはなれない、夜になればルゼリアと重なられる。ブリギット、俺達は今を楽しんでいる。屋敷の仕事を任せられる時間、俺達は常に一緒にいられる。屋敷の使用人であるのなら、屋敷の仕事にのみ集中して欲しい」

「………出過ぎた真似を」

「いいんだ。悪い、不安にさせて。ひとつ、頼みがある」

「なんなりと」

「これから銀行家が訪れる。傍らで相談相手に成って欲しい。俺達は世間知らずなんだ。どう丸め込まれるかわかったものじゃない。適宜、あちら側の狙いを知らせてくれ」

「お任せ下さい」

 そう言って、浴室から出て行った。ルゼリアの前ではわからないが、彼女は自分の前では素に近いものを見せてくれた。若干、侮られている気もしないではないが。

「………祭り上げられるより、ずっとマシか」

 立ち上がった後、浴室から出るとタオルや新しいシャツが用意されており、感謝しながら袖を通す。純白が輝くシャツは肌触りも良く、ボタンも頑丈に縫い戻されている。彼女の家事技術には目を見張るばかりだ。その上、あれほどの、目が覚めるような鋭い美貌。妻がいようが、別目的で雇う者達もいただろう。

「使用人の世界は広い、か………」

 食堂には既にルゼリアはおらず、ならばと思って執務室へと入ると既に騎士然とした彼女が着席していた。真夜中の蕩けるような目元はなく、彼女も冴え渡る鋭い顔付きをしていた。執務机へと歩み寄ると、何故だろうか睨まられる。

「どうした?」

「………ブリギットを浴室に招きましたね。私を誰にも奪わせたくないと言ったのに」

「ま、招いた訳じゃ………」

「けれど、裸身を見せたのでしょう。使用人であろうと彼女は若く美しい女性。そして、あなたは婚約をしていようと未婚です。私は知っています、女性に肌を見せる事で性的快感を得る男性がいると——————背の高い、年上がいいのですか」

 不機嫌だ、と顔を背けてしまうルゼリアに話し掛けるも、なかなか許して貰えず、困り果てていると、件のブリギットが銀行家が来たと入室して告げて来る。

「奥様」

 と、ルゼリアがはっとした顔をする。

「今後の旦那様との未来を決める重要な時間です」

「そ、そうだ。俺達の婚約にも、今後にも関わる重要な時間だ。一緒に対応しよう」

「そうですね………はい、夫との重要な時間です!」

 手慣れたものだった。一瞬でルゼリアの機嫌が上を向き、ほっと胸を撫でおろした。そして、願い通りにブリギットは銀行家の余計な契約書を全て取り除き、ひとつひとつの文言の意味、今後の利子に関わるものを全て説明してくれた。

 あちら側は最初はいい金づるとしか見ていなかったかもしれないが、彼女の論調にただ頷くだけの機械となり、こちら側にとって文句のない貯金や投資のみを勧められた。

 

 

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惑星魔術 一沢 @katei1217

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