第5話

「先ほどの手配書の男性。確かにここに出入りしています」

 差し出されたグラス前の席に座り、注がれる酒の色を見つめる。

「あなた方の言う通り、私は雇われてマスターをしているに過ぎない。だが、ここは確かに私の店だ。そこだけは間違えないように————どうぞ」

 片手で預けられた酒。淡い赤の酒が注がれたグラスを掴み取り、一気に飲み干す。

「………良いでしょう。その気概に免じて、私も誤魔化すのをやめましょう」

「再度聞きます。手配書の男、彼はここに通い詰めている」

「通ってはいますが、しばらく姿を見せていません。彼の外での行いは耳に届いていますが、この店ではグラスのひとつも取らない。だから、通しています」

「————分かります。とても良い味です」

 同じのを、と告げてグラスを戻すと、再び注ぎ込み戻してくれる。

「俺達は手配書の男を捕まえるべく、ここまで来た—————客がひとり消えても構わないだろうか」

「不思議な縁があるのです。ひとり減ってはひとり増え、ふたり減ってはふたり増える。この街から出たのなら、他の区画からこの街に来る。人が生きられる席には、きっと上限がある。けれど、この街には上限も下限もない。誰であれ受け入れて見捨てる—————しかし、この店は別です。客であるのなら、誰であれ受け入れ続ける」

 全ては言わないが、手配書の痩身の男性の行方を知らせてくれた。もはや、手配書の男はこの街にはいない。別の区画に移り住み、変わりの別の区画から誰かがここに来たと暗示している。マスターも、詳しくは聞かない事が察しられた。

「酒の味がわかるのなら、あなたも客に成り得る。けれど、あなたはまだこの街の住人ではない。別の区画に席がある人間だ。どれだけの目的があれ、この店の客を怯えさせる事は認められない——————最後にひとつだけご質問にお答えしましょう」

 視線を後ろのルゼリアに向ける。頷いた彼女が一歩踏み出し、口を開く。

「手配書の男は顔を自在に変えられると聞きました、それは本当ですか」

「愛らしい声です。久しく聞いていない声————けれど、覇気もあります。お答えしましょう—————彼は、過去に大家で雇われていた。そこで特別な職に就いていた—————私のような無学には知り得ませんが、そこで何かを得たものでもあったのでしょう」

 グラスを全て飲み切り、少ない紙幣を渡すと無言で返される。

「私にとっても、この店を荒らされるのは看過出来ぬこと。もはや、あの男性は、この街の住人ではない、ならば店の客でもない。自ら戻る事は出来ぬこの街において、去るのなら足跡も残さなぬ事が常識です。彼にはそれが出来なかったからあなた方が訪れた。この店の客を怯えさせた報いです—————手続きに従い、彼に報いを」

「—————必ず」

 返答をした後、返された紙幣を戻しカウンター席から立ち上がる。そしてルゼリアと共にバーの扉へと振り返らずに進み、無言で退店する。そこからは、まるで別世界だった。この街の存在意義を理解したから。この街の住人は、いつかこの街から出るべく足掻いている。そして、この目は物色する目ではない、恐れ怯えている目なのだ。

「この街にはいないのならどこへ」

「………わからない。だけど、特別な技能を持っている以上、相応の立場として迎え入れられている筈だ。技術者、鍛冶師、革職人—————色々あるが、一度大家に雇われていたと言っていたか」

「………まさか使用人」

「あり得る話だろう。技術を売って、どこかに召し抱えられている可能性がある」

 王都の影の街を踏みしめ、夜の闇に埋もれる。汚れた土と湿ったヘドロを避けながら、夜の王都へと戻る。まさか、ここで朝の会話に戻るとは思わなかった。痩身の窃盗犯は、大家に雇われており何かを果たした結果、裏街に訪れてしまった。

 まるで、ほとぼりが冷めるまで隠れていろと命じられたように—————。

「明日向かう先が決まった。使用人の商会——————使用人を探す客として向かおう」

 そして裏街から抜け出した我々は、自らの席がある騎士の居住区画にある屋敷へと戻る。どちらかが言うまでもなく屋敷の主の寝室へと入り、今夜の慰めを始めた。




 商会にもそれぞれ種類がある。食品、鉄加工品、革製品、高価から低価格な衣服全般からコーヒー豆まで多種多様な世界がある。それは人々が財貨を払うから作り出された商人の世界。限られた消費者の財貨を奪い合い、日夜事実上の殺し合いをしている。一日という限られた時間の中、誰よりも安く高品質な品を探し出し仕入れ、より多くの王国民の目に触れさせるべく店先の奪い合いをしている。

 騎士と同じく苛烈に、しかして騎士よりも笑みを浮かべて、昨日の敵は今日の友、そして明日には仇になる別の商人と共に、王都へ品を供給し続けている。

「ここが商会………」

 密かに拳を作るルゼリアと共に、通された豪奢なソファーに後を残していた。

 使用人の世界だって千差万別だ。家事全般から調理の専門、掃除のみから執務の手伝いどころか代筆まで、ありとあらゆる技術に精通した人間を扱う一大商会。

 赤い布張りのソファーは柔らかく、けれど腰を沈ませ過ぎない頑丈な布が底を覆っている。きっと家具の商会へと発注した特注品であろう。軽く撫でるだけでそのきめ細やかさ、輝く糸の一本一本に心を奪われる。そして、商会の顔役が現れる。

「我らが商会へと足をお運び頂き、誠に感謝しております」

 あのマスターとは違う。だが、客への心遣いにはいささかの狂いもない対応に自分も目を閉じて応える。真向かいの一人掛けのチェアに座り、傍らからひとつの本を手渡される。勧められるままに開くと、技能の羅列が記されている。

「ご希望の技能者、屋敷の使用人としての一通りの技術を持っている者達ならば、我らが商会には多く所属しております。けれど、それだけではないという事をご理解頂きたい。どうかご確認されたし。屋敷の維持技術は決して珍しくないという事を」

 技能の欄をルゼリア共に確認する。屋敷の維持技術とは家事全般と共に客への対応や執務の補助も出来る事を意味する。この思考に応えるように、銀行家の元で数字のやり取りの経験をしていた者、自分でも知っている商家で客への対応を主に行っていた者、それどころか病院で看護や治療の手伝いをしていた者すらいる。

「驚かれましたか。しかし、商会で使用人を探すとは、相応の技術を持っている者————あなた方がいずれ求める技能を持つ者を見つけ出すに等しいのです。使用人いかによって行える執務や世界があるのです。ご理解下さい、使用人は使用だけにあらず。使用人はあなたをひとつもふたつも違う世界へとお連れできるのです」

 まるで崇拝にも近い言葉だったが、きっとその言葉に嘘偽りはない。自分ひとりでは行えない仕事も、その道の先駆者の元で働いていた者を雇う事で、成功どころか効率が何重にもなるのだろう。使用人はその主をいくつにも成長させられる。

「—————少し、質問をしても」

「ええ、いくらでも。ご納得して頂けるまで、こころゆくまで」

「特別な技能—————最近、特別な技能を持つ使用人の所属はありましたか」

「ほほう。お目が高い。まさか既に出回っているとは思いませんでした。けれど、彼は既に別の家への派遣が決まっております。大変気に入られたようで、そのまま直接的な雇用まで考えていると。私共も彼のような美術品への理解者はそうはいないと考えておりました。目利きに交渉、保管に修理修繕。一度美術品の大家に雇われていた実績があると申しておりましたので、それならといくつかの質問、テストをして紛れもない実力者だと判断、満を持して使用人としての所属を受け入れたのです」

 相当な稼ぎ頭になると踏んで、その男を使用人商会への所属を許可したようだ。危うかったかもしれない。もし、既に直接的な雇用、引き抜きをされたしまった場合、このような紹介すらされなかっただろう。けれど、まだ間に合うという意味だ。

「今、その男性が雇われている大家は」

「それはお教え出来かねます。彼と我が商会、そして家との適正な手続きに則った契約に従い、派遣をさせて頂いております。むこう10年の契約を済ませ、既に更新すら視野に入れられているご様子。契約期間中の別の家への契約外の業務は、固く断るようにと申し付けております。一歩遅かったですな、けれど、彼以外にも美術品、並びに屋敷業務の経験者は所属しておりますゆえ」

 と、立ち上がった顔役は我々の手元の本へ指を届かせ、手慣れた手付きでひとつのページを開く。そこには経験に美術品鑑定、屋敷維持技術、交渉などなどの実績を持った女性の名が載っていた。だが、不思議な事に雇用契約金がそこまで高額ではない。

「額に侮っておられますな。彼女は確かに他の者に比べれば、手ごろな価格帯かもしれません。実を申しますと、彼女はこれまでの経歴に傷があるのです」

「傷?」

 ルゼリアが呟く。

「ええ、傷です。それも決して無視できない、大きな傷を—————彼女は使用人と領主との間に生まれた、隠さねばならない血なのです」

「それは、傷とは言えないのでは………」

「いえ、傷です。確かに我らが商会の使用人には元貴族や家の派閥争い、後継者争いの敗北者も所属しております。けれど、それでも皆は往々にして多くの礼儀作法や嗜みを仕込まれた、高貴なる血筋の持ち主達。その気になれば、その血を辿って前々に縁を繋いだ者達との優先的な取引も出来る、種を蒔いていた者達です。けれど、彼女にはそれがない。礼儀作法も嗜みに与えれていますが、種を蒔く事をしなかった—————時間を無駄にし、血筋にも使用人という立場でありながら子を孕み、出産する罪を犯した女の血が流れています。これは決して無視できない大きな傷なのです」

 知らなかった。貴族など没落してしまえば、どこか遠くに消えるかそのまま息絶える、或いは借金をし続け、娘などを売り払うしか出来ないと想像していたのに。彼らはむしろしたたかで、自分の血筋を利用するという、言ってしまえば姑息な手段に出る事も辞さなかったとは。生き残る為、家の復興の為に利用できるものは何でも利用するという―――――夢の続きを求めて足掻く者達もいるとは思わなかった。

「そして、その羅列の通り、彼女は美術品鑑定という技能を持ち合わせていますが、確かな実績がある訳でもありません。いくつかのテストをして、根拠や証明の説明は出来ませぬが、結果的に合格した知見の持つ主。けれど、見識を持つ者。いかがでしょうか?」

 いつの間にか、その男性からこの女性へと興味が移ってしまった。侮っていた訳ではないが、こちらの思惑など幾らでも塗りつぶせる程の弁舌と物語の構築。使用人を雇うという事は、人の一生の時間を買い取る事でもある。それまでの経歴や実績を含めて、更に経験を積めさせる事も意味する。こちらが財貨を支払うのなら、あちらは時間を売る。真っ当な労働契約だった。そして————哀れみという感情も使う。

「—————彼女は今どこに」

「お連れしましょう」

 そう言って顔役は去って、もと来た扉へと入って行った。

「確かに—————哀れではありますが、雇う事は————」

「ルゼリアが朝に言った通りだ。使用人の世界は広い。しかも、同じ美術品の知識を持っているのなら、同じ商会に所属して、真っ先に大家に雇われる程の実力者を知らない筈がない。彼女を頼ろう、もうそれしかない」

「………賛成です。私も同意します」

 待つ事数分。そして、顔役とひとりの女性が現れる。

 鋭い目つき、深い黒目、長い黒髪、黒を基調としている家政婦服に白のエプロンを身に着けた使用人としての正装。若い、けれど、少なくとも自分達よりもいくつか上の女性。きっと20丁度ぐらいの年齢である事が察しさせられる。

 正直、驚いた。いち使用人と名乗るには、あまりの美貌を誇る女性だった。

「さぁ、ご挨拶を」

「初めまして。美術品の知識、屋敷維持の技術を持ち合わせております————ブリギットと申します。どうぞ、お見知りおきを」

 片方の足を下げながら、頭を落す作法をし、最上級の敬意を払われる。その動作ひとつで見惚れてしまった。揺れる黒髪が光に照らされて、艶やかに輝く。けれど、決して笑顔を見せない事に違和感を覚えた。まるで顔の筋肉を無くしているように。

「ご質問を。私は席を外させて頂きますゆえ」

 と、三度顔役は去っていく。ここからは個人的な契約の確認の時間。人には知られたくない家の内情や、それに対する使用人への理解を求める面接に近いのだろう。

「お座りになって下さい」

「いえ、このままで。この席を使用人が使う事は許されません」

 ルゼリアの許可を躱し、凛とした佇まいのままで再度頭を前に落す。開かれた黒い目は黒曜石の鏡のようで、こちらを見据え、全ての所作や思惑を見透かしているようだった。

「ここでは長いのですか?」

「昨年、所属させて頂きました。数度、家々に派遣され、屋敷維持の技術を得て来ました。家事全般、お客様への対応。奥方、ご息女への補助。宴の補佐なども経験しております。けれど、全てに応える事は私ひとりでの時間では限界があります」

 なぜだろうか、まるで雇われるのを嫌がるようにも見えた。

「確か、美術品の知識を持っているとか」

「知識と言うには、あまりに拙いものです。美術品の売買補佐を求めておられるのなら、他の使用人をお選び下さい。もし、万が一の事があっても私では責任の取りようがありません。保険の知識を持っている者もありますゆえ、そちらも視野に」

「—————言ってしまおう。君を雇う選択は持ち合わせていない」

「では、どうしてここに」

「最近、この商会に男性が所属した筈だ。それも、君と同じく美術品の知識を持っている男性が。その男性を俺達は追っている。だが、既に大家に派遣され居所を探すのは難しい。何か知らないだろうか——————男が、どこの家へと送られたか」

 整えられた黒の前髪を一切揺らす事なく、しかして数度のまばたきの後だった。

「お答えしかねます」

 と、頭を下げられる。

「私に許された業務は、前述の通り。屋敷維持と拙い美術品の知識。それ以外の知識を扱うには、私では荷が重く、確証を得る事も出来ません。お客様にこのような曖昧として知識を送り、混乱させては使用人として許されざるのです。どうか、ご理解を」

 妥当な返答だった。もし、間違って別の家へと押し掛ければ、それこそ彼女では責任の取りようがない。しかも、あくまでも彼女はまだ我らが屋敷の使用人ではない。金も払われてもいない相手な上に、不確かな知識など与えられる筈もない。

「失礼いたします」

 鋭く回った彼女、ブリギットと名乗った女性は足早に去ろうとする。けれど。

「待って下さい」

 と、ルゼリアが背中に声を掛ける。

「お申し付けでしょうか」

「あなたから見て、私達は仕えるに値するでしょうか」

「値?」

 振り返り、その美貌を再度向けられる。

「私ども使用人は、常に旦那様方の意思に、」

「いえ、そうではありません。使用人であるのなら高貴な血筋や大家、広大な土地を持つ領主に雇われ、仕える事に誇りを見出す者も多いでしょう。あなたから見て、私達に仕える意味はあるでしょうか。私達は、あなたを雇う事に大きな意味を持ちます」

 急な話に面食らっていると、ルゼリアは手を握ってくる。

「もし、あなたからもたらされた情報によって利益を得れれば、あなたに一部を還元する事も出来ます。あなたを雇い、常に屋敷に常駐させる事も出来ます。それは、あなたの経験と時間を買う事になる。あなたは、それが許せますか?」

「正しく使用人の知識をお持ちで。とても嬉しく思います——————」

 両手を前に置き、三度頭を下げた。

「お答えするとしたら、私には誇れる程の経歴はありません。仰る通り、大きな屋敷や高貴なる血筋に雇われる事を誇りにも思います。けれど、私をお選びになる方は、どれほどもおりません。使用人は選べる立場でなく、選ばれるまで待つ立場なのです——————けれど、もし選べるのなら私に問い掛けるという恵を与えて下さったあなた方に仕える事をいとう筈もありません。私に出来る事なら時間が許す限り、補助させて頂きます。迷いを抱く事もありません。お時間です、失礼いたします」

 そして、彼女は去って行った。また交代するように顔役がソファーに舞い戻る。

「いかがでしょうか。不躾な物言いはされなかったでしょうか」

 つまりは、不躾な物言いをする、という意味だった。だが、あの思考はむしろ。

「—————彼女は、今どこかの家には」

「黒髪に目のない方々は多くおります。お客様対応に特化した雇い方をご検討の方々は少なくありません。そして、彼女もその雇われ方に頷いております—————次に訪れる時には、彼女もおらず別の家で働いている結果となるでしょう」

 ここも新人歓迎に近いものがあるようだ。いつまでも煮え切らない態度を取っていると、誰かに早々に奪われてしまうと言っている。ああ、まさか金もないのに。

「奥方様、でよろしいでしょうか」

「はい、妻です。けれど、私が屋敷の主人です」

「失礼をしました。では、主様。どうご判断されますか?」







「失礼致します」

 まさか、今日一日で決めてしまうとは思わなかった。黒髪の使用人であるブリギットは、屋敷の玄関である大広間に足を踏み入れた。長い黒髪を結び整え、その黒曜石にも見える目で、屋敷の旗を深く見続けた。そして、ルゼリアを見つめ返す。

「ルゼリア様、私をお雇い頂き、誠に感謝しております」

「はい、私もあなたと出会えて、とても感謝しています」

「勿体なきお言葉——————」

 商会から同じ使用人服を身に着けているブリギットが、深く頭を下げる。

「まずはあなたの部屋へ案内します」

 と、ルゼリアはひとりでブリギットを連れて二階の使用人室へと向かう。女主人が板について来た。そして約束通りに屋敷においても騎士である事を心掛けている。婦女子へは礼節を持って接する。騎士の誓いに従い、女性の使用人に丁寧に説明している事だろう。

「——————まだ昼か」

 夜までは時間がある。ブリギットの様子では、すぐには話してくれないだろうが、それでも手早く済ませなければならない。ひとまずの金はどうにか支払えたが、商会を経由してブリギットを雇ったのだ。不履行の理由が、金の捻出が出来ないのだと知られれば、ルゼリアの名に傷が付く。最低額の賞金首ではあるが、それでも贅沢をしなければ、数か月分の生活費にはなる。それでも、一時の支えでしかないが。

「賞金稼ぎ以外にも、何か考えなければ」

 ひとまずは、と考えて執務室へと向かう。ルゼリアの椅子ではあるが、自分と彼女は一心同体である。自分が代わりに座っても、彼女は気にも留めないだろう。

「屋敷の維持費、生活費、ブリギットの紹介費、馬の購入代金——————」

 諸々込めると、溜息が出る額だった。学院で師の研究室でただ性を貪り、師の薬と食事に頼り切っていた自分が悩ましかった。本当に最後の手段として、師に泣き付けば何かしらの施しはされるだろうが、結果的にだがルゼリアを妻と明言したのだ。

 世間一般で言う所の過去に仕えていた女主人——————弟子であり情婦であり恋仲である自分が、今更師に金の工面を求めるなど、到底許されないだろう。

「そういえば師はどうだろうか」

 忙しくなる、と言って別れたきりだが、あれから既に3日経っている。そろそろ師の寝室に向かわなければ、あの人が誰かを迎え入れてしまうかもしれない。精通すらよく知らぬ幼い弟子に、自分好みの夜伽の技術を教え込む程の人物だ。

 ただ目に付いたから、と言って年若い美男子を引きずり込むだろう。

「——————少し、話を聞かなければ」

 執務室から出ると、そこにはブリギットに屋敷の案内をしているルゼリアと鉢合わせる。目が合った瞬間、ほのかに妖艶な目をするが、すぐに騎士としての毅然とした目に成ってしまう。それでいい、今の顔は屋敷内どころか寝室でしか許されない。

「まだ屋敷にはいるが、夜は出て来る」

「遅くなるのですね」

「確実に翌朝になる。それまで耐えきれるか」

「私は騎士です。自分の屋敷は自分で守れます」

 腰の剣を揺らし、静かに頷く。ならばとブリギットに視線を向ける。

「聞いた通り、ルゼリア卿こそがこの屋敷の主だ。騎士の家に仕える意味を理解して欲しい。商人の客人対応とは訳が違う。使用人の所作ひとつで騎士の名に傷が付く」

「——————胸に刻ませて頂きます」

 軽く忠告をし、ルゼリアと視線を交わしてから自分の部屋へと向かう。部屋と言いつつ、昨夜や一昨日の夜すらルゼリアと情事を交わしていたのだ、私物など鎧とコート程度。それでもなお最大限の準備を整えて、夜を待つ。そして、日が焼けていく。

「そろそろ—————」

 屋敷の階段を下り、ふたり共いない玄関から外に出る。刺すような冷たい空気を破りながら足を動かし続け、学院へと続く大橋と門の前へと躍り出る。門番こそいるが、この顔は何度も見かけているので、軽く視線を向けられただけで通らせてくれる。

 翠の結晶が多く点在する街中を進み、ようやく学院の前まで到着する。正直、億劫だ。馬があればもっと早く着くが、ないものねだりをしても仕方がない。

「星の学閥に所属しているマイス、師への面会に来た」

 義務ではないが、学院の事実上の窓口に軽く説明をして、師の居所を聞く。

「ヒアン様ですね———————研究室から外に出ている様子はありません」

「ひとりですか」

「本日、講義の日程はありません」

 ならば急がなければと挨拶もそこそこに星の学閥の区画へと足を運ぶ。学内にも翠の結晶がそこここに生えており、それを元に彫刻なども飾ってある。星の学閥は星に生命が宿る時の発端、流れては星の終焉時に発する膨大な爆発力を利用、観測する事を求める学閥である。一大学閥のひとつと数えられてはいるが、星の研究というただそこにあるだけで理由など無いに等しい命の循環を視覚化、固定化などという世迷言を真剣に研究する狂人の集まりでもある。学生も学者も、あまり多くはいなかった。

 足繁く通うどころか、数か月も籠る生活をしてきた師の研究室の前まで到着し、数度のノックで返事を待つ。そして「ああ、お前か」と言う声と同時に扉が開かれる。

「ああ、良い頃合いだ。そろそろひとりで慰めるのにも飽きて来た頃だ」

 引きずり込まれるように研究室兼自室へと入ると、そこはまだ一段と酷い作用を呈していた。結晶まみれの床に、中央デスクには書類の山がいくつも。辛うじて師の執務机には空間があるが、それは書類と書物、結晶類の山がいつ倒れてもおかしくない机という大陸のごく一部だった。まぁ、いつも通りかと二人掛けのソファーに座ると、師が両足に腰掛ける。ぞくりとする柔らかく熟成した臀部に、おもわず師の足に手を乗せてしまう。手触りのいいローブ越しに、師の腿を撫でまわし続ける。

「私相手ではすぐに手を出してしまう。あの騎士を妻として迎え入れたのだろう。少しは節度を持つ事だ。まぁ、古くからお前は私の愛なのだ、古巣でしか出来ない事もあるだろう。それで、どうして今日はここに?まさか、師を抱きにという理由では」

「そのまさかです。師を抱きに来ました」

「ははは!!大いに結構。私も、なかなかお前が来ないから別の男でも女でも手懐けようかと算段していた所だ。だが、その必要はなさそうだ。近々、屋敷の女主人へと挨拶に向かわせて貰おう。その時を覚悟したまえ、彼は私と古くからの恋仲だと告げ口してしまうから」

 なかなかに悪寒のする言葉を使われ、少しだけ気おくれもするが、ひとまずは師の腿で心の安定を計る。そして。しばし無言で、時折師の唇をついばんでいると。

「金かな?」

「わかりますか?」

「私も、お前ぐらいの時分には、金の捻出に頭を悩ませていた。学院からの予算の少なさに途方に暮れていたさ。思えば暗い時代だ、私ほどの才女でも金はなかなか巡って来なかったのだから。いっその事、愛人達に貢がせてやろうかと考えたが、やめておいた。彼らの生命線こそ私は毎晩握っていられたが、金という私の生命線を握られるのは、私のプライドが許さなかった。それに、弟子を迎え入れた時、金のひとつも自力で稼げない師など見捨てられてしまう。お前を迎え入れて、他の愛人共を捨てて良かったよ——————我が愛、お前は私に何を求める?」

 

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