第四章 - 記憶の守人
司書室の窓から見える図書館は、まるで小さな宇宙のようだった。
山口は本を抱えたまま、その景色を見つめている。夏の終わりの光が、図書館の空気をゆっくりと群青色に染めていく。その中で、様々な物語が織りなされていた。
窓際で『海と存在について』を読む優子。机で静かに眠る河野。落書きを写し取る美咲。本棚の間で涙を拭うみどり。それぞれが、この瞬間を生きている。その存在が、確かにここにあって、でも確実に溶けていこうとしている。
山口は、一冊の古い写真集を胸に抱く。その中には、十年前の図書館が写っている。同じ窓、同じ机、同じ本棚。ただ、そこにいる人が違うだけ。
「山口君、この本を戻しておいてくれる?」
司書の木村先生が、一冊の本を差し出す。それは『海と存在について』の新しい副本だった。
「佐藤さんが寄贈してくれた本、随分と読まれているからね」
山口は黙って頷く。昨年の卒業前、佐藤先輩はこの本を図書館に贈った。それ以来、この本は様々な人の手に渡っていった。優子もその一人。今この瞬間も、彼女は窓辺でその本を読んでいる。
本棚に本を戻しながら、山口は考える。本とは不思議なものだ。それは確かな重さを持っているのに、その中身は限りなく儚い。まるで、この図書館にいる人たちのように。
夕暮れが深まり、影が伸びていく。
山口は静かに図書館を巡回する。その足音が、誰かの物語に紛れ込んでいく。河野の寝息、美咲のペンを走らせる音、みどりの小さな嗚咽、優子がページをめくる音。
ふと、本棚の影に目が留まる。そこには去年の夏、佐藤先輩が残した言葉が、まだ空気に溶け込んでいるような気がした。「この図書館には、私たちの物語が染み込んでいく」
その言葉の意味を、山口は今もよく分かっていない。でも、確かに何かが染み込んでいくような気配は感じる。それは悲しみなのか、喜びなのか、それとも─
最後の巡回を終えようとしたとき、山口は立ち止まった。
窓際では優子が本を閉じ、河野が目覚め、美咲がノートを片付け、みどりが本棚の間から姿を現す。それぞれの存在が、夕暮れの群青色に溶けていく。
山口は古い写真集を開く。十年前の図書館。そこにも、きっと同じような風景があった。本を読む人、眠る人、何かを書く人、泣く人。そして、それを見守る人。
時代は変わっても、この場所で紡がれる物語は、どこか繋がっている。
山口は司書室の鍵を手に取る。明日から夏休み。でも、この図書館は変わらずにここにある。様々な物語を受け止めながら、新しい記憶を待ちながら。
最後の夕陽が図書館を照らす。空気は深い群青色に染まり、すべての存在が、永遠の一瞬となる。山口は静かに鍵を回す。
明日もまた、誰かの物語が始まる。
この図書館という小さな宇宙の中で。
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