第三章 - 本棚の迷路
世界文学の棚と詩集の棚の間には、いつも静かな空気が漂っている。
みどりはその空気の中に、そっと身を潜ませた。背表紙の並ぶ壁に囲まれて、彼女は静かに涙を流す。ここなら誰にも見つからない。いつもそう。ここなら誰にも見つからない隠れた空間。
そう思っていた矢先、背後から物音がした。振り向かなくても分かる。去年の夏もこの場所で泣いていた、佐藤先輩の足音。今は卒業して、もうここにはいない。でも彼女の存在は、まだこの本棚の間に残っている。みどりにはそう感じられる。先輩のほのかな香りを、私はぼんやりと受け取ることができる。
窓からの光が本の背表紙を照らし、細い光の帯が床に落ちる。その光の中で、みどりの涙が小さな影を作った。
本棚の隙間から、図書館の断片が見える。
窓際で本を読む優子先輩。机で眠る河野先輩。何かを書き続ける美咲先輩。本を整理する山口先輩。それぞれが自分だけの物語を生きている。でも不思議なことに、その物語は少しずつ溶け合って、この図書館という場所の記憶になっていく。
みどりは『海と存在について』が置かれた棚に目を向けた。その本は去年、佐藤先輩が寄贈していったもの。今は優子先輩の手の中で、新しい物語を紡いでいる。本もまた、確かな存在なのだと、みどりは思う。
涙は頬を伝い、制服の襟元に染みていく。この場所には、そんな涙の染みもきっと残っているのだろう。
「佐藤先輩」
みどりは小さく呟いた。
「私、先輩に言えなかったことがあります」
本棚の間に言葉が響く。それは誰にも届かない告白。でも、この図書館という場所には、確かに残っていく。残響とも違う確かな足跡。
「先輩が卒業する前の日、この場所で。先輩が私に言ってくれた言葉」
光が揺れる。本の影が動く。風が木漏れ日を揺らす。
「『この場所には、私たちの物語が染み込んでいくの』」
その言葉を思い出すたび、みどりは不思議な気持ちになる。悲しいような、でも温かいような。まるで誰かの手のぬくもりのような感覚。涙が頬を伝う。でもその意味を先輩が変えてくれた。意味を変えれば世界は少しだけ暖かくなる気がした。
夕暮れが深まり、本棚の影も濃くなっていく。
みどりは最後の涙を拭った。もう泣かなくていい。この涙は、きっとこの場所が覚えていてくれる。
彼女は『海と存在について』の背表紙に、そっと触れた。本の間から、一枚の栞が覗いている。「ここで、また会えますように」という文字。それは佐藤先輩の筆跡ではなかったけれど、でも確かに、同じ想いが込められているように感じられた。
群青色の空気が、図書館全体を包み込んでいく。みどりは本棚の間から一歩を踏み出す。
この一歩も、きっと誰かの物語の始まり。窓際では優子先輩が本を閉じ、河野先輩が目覚め、美咲先輩がノートを片付けている。それぞれの存在が、夕暮れの中で輪郭を失っていく。でもそれは消えてなくなることではない。この図書館という海の中で、私たちはみんな、永遠に泳ぎ続けているのかもしれない。
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