17 彼の事情
ジンは踵を返して馬車の荷台に戻った。
落ち着け、と必死に自分に言い聞かせる。予想外の事態に脳が混乱していたが、できるだけ冷静に鞄を開けて150万ツェルク分の硬貨をオリーヴィアから受け取っていた革袋に詰めた。
シュテフィに相談もなしに支払いを決めるのは気が引けたが、緊急時には致し方ない。ジンの取り分を渡す分には問題ないだろう。報酬を失うのは正直痛いが、オリーヴィアの身柄には代えられない。
「下手な真似はするなよ、魔女」
馬車を降りるとドミニクの話し声が聞こえた。
「魔法を使えるのはお前の方だと聞いている」
「へぇ。そこまで知っているんだね。私は何もするつもりはないよ。契約はすでに果たしているし、その子にそこまで思い入れもない」
すれ違う直前、ジンとシュテフィは視線を交わした。
ジンにしか分からない程度にシュテフィは微かに首を横に振った。やはり魔法は使えないらしい。
「それじゃ駄目だ。全部寄越せ」
革袋を差し出すと、ドミニクは露骨に眉を寄せた。鞄を持ってこいというように馬車の方に顎をしゃくる。
ジンは気持ちを静めるように深呼吸を一つした。
交渉を有利に進めたかったら相手に弱みを見せるな。はったりでも自分を強く見せろ。
「なあ、ドミニク。違うぜ? 俺は下手に出てるんじゃない、情けをかけてるんだ。オリーヴィアを交換条件に出すなんて随分と脆弱な盾だよな。俺たちにもう彼女を守る義理はない。たとえ魔法が使えなくても、いざとなれば三対一じゃ分が悪いってお前にも分かるよな」
ドミニクは無言だったが、表情に微かに焦燥が滲んでいた。肯定とジンは受け取った。
革袋を投げ渡す。反射的に受け取ったドミニクは数秒それを見つめ、こちらに歩いてくるとジンの腕にオリーヴィアを託した。
そのままくるりと踵を返し、自分の鞄を拾い上げる。無言で町の方へと歩いていく。
「なんで……」
その言葉は計算から出たものではなかった。
「なあ。なんでだよ? ドミニク……だってお前、オリーヴィアのことを愛してるだろ?」
「お前に何が分かる!」
突如、ドミニクが激高した。逆光の中、こちらを振り向いた金色の瞳が燃えていた。
「運が良くて恵まれたお前に! 恵まれなかった俺の、一体何が分かる?」
はっ、とドミニクは自嘲的な笑いを漏らした。
「なあ、なんでだ? 知ってるなら教えてくれ。なんで俺だけ仕事を選べない? なんで俺だけ雑用ばかりさせられる? なんで俺だけ殴られるんだ? なんで俺だけ犬と一緒に床で飯を食わせられるんだ? なんで俺だけ馬小屋に住まわせられるんだ? なんで俺だけ町で知らない奴に指を差されるんだ? なんで俺だけ親に捨てられるんだ? なんで俺だけこんな肌の色なんだ? そんな目に遭っても仕方ないような悪事を、何か俺が働いたのか?」
一つ一つの言葉がドミニクの悲痛な叫びだった。
ジンは黙ってそれらを突き刺さるままに受け止めた。長い間、膿み爛れた傷口が腫れて熱をもっているような痛みを感じる。
「納得できる答えがあるなら教えてくれよ。ないなら、俺が恵まれた人間を利用して少しばかり自由を手に入れたからって、一体何が悪いんだ?」
ジンは慎重に言葉を選ぶように口を開いた。
「お前が、残酷な境遇に置かれていたことは分かったよ。きっと俺には想像もつかないほど、理不尽で辛い目に遭ってきたんだろうな。でも、それはオリーヴィアとは関係ないだろ?」
「ああ、ないさ。でもオリーヴィア様を見ていると、
ドミニクは地面に向かって吐き捨てた。
「本当に……ムカつく女だ。死んだ馬の代わりに物みたいに俺を貰い受けて、金の力で傍に置いて。恵まれているくせにわがままで、当然のように恩恵を享受しているくせに自分は不幸だと思い込んで、その環境を抜け出したいと願ってる。自分が恵まれていることに気づいていない、愚かで、俺の一番嫌いな人種だ」
「でも、お前はオリーヴィアのことを大切に思ってるだろ」
「別に。利用しただけだ」
「それは違うね」
ずっと黙っていたシュテフィがふいに口を挟んだ。ドミニクとジンの視線がそちらを向く。
「彼女に思いがないのなら、なぜ今日まで一人で逃げなかったんだい? こんな大それた計画に便乗してリスクのある裏切り行為をするより、ベッドの下に隠してある鞄を持って一人で逃げる方がずっと簡単なはずだよ」
それはもっともだとジンは思った。
何よりオリーヴィアと関わるとき、強張ったドミニクの空気が和らぐ。それを見れば彼がオリーヴィアを憎んでいるとは到底思えない。
「思うに、君はオリーヴィアのことも救いたかったんだろうね。口でいくら彼女を蔑んでも、君の行動の一つ一つを見ればオリーヴィアを大切に思っていることは
「女のくせに賢しらで傲慢だな」
じろりとドミニクがシュテフィを睨めつける。
「お前みたいに魔法の才に恵まれた奴に俺の気持ちが分かってたまるか」
「ああ、そうだ。実はそのことでずっと気になっていたんだが。君は子供の頃に誰か――魔法使い、あるいは魔女から、魔力を秘めていると言われたことはないか?」
ジンは驚いてシュテフィを見つめた。
ドミニクが魔力を? しかし次の瞬間、彼が声に出して笑ったのでさらに驚いた。
「たしかに昔、そういう奴がいたな。そいつの言葉を真に受けて血の滲むような思いをして魔法の勉強をしたこともあったさ。結果、このザマだ。俺に魔法の才能はなかった。おおかた孤児をからかっていたんだろうな。期待だけさせられて、天から地に落とされたような気分だったよ」
「なるほどね。では、傲慢ついでに一つ教えてあげよう。その人は嘘をついていなかった。君の魔法は今、確かに発動している」
ジンだけでなくドミニクも信じられないといった顔でシュテフィを見た。
「おそらく君の魔法は“魔法を無効化する魔法”に限定されている。推測するに、君の感情が高ぶった時に無意識に発動している。魔力というのは完全に先天性の能力だが、魔法を扱うには相応の訓練がいる。通常、訓練を積んだ魔法使いや魔女は互いの魔力を感じとることができるんだ。君は自分の魔力にも、魔法を使えるのが私の方だということにも気づいていなかった。だが、この話を聞いた今となってはどうかな?」
ドミニクが胸に手を当てて困惑したような表情を浮かべていた。まるで今初めて、体内に流れる血液の存在に気づいたかのように。
「……これが……」
「今後は少しずつ制御できるようになるはずだ。今まで君の魔力は君の感情に触発され、暴発という形で周囲で発せられる魔法に反応して打ち消していた。だから私が新たに使う魔法には反応できても、出会ったときから恒常的に使っている魔法には反応できなかったんだ」
「翻訳の魔法が途切れなかったのはそのためか」
「ああ。ドミニク、君の望む形とは違うかもしれないが……私の知る限りこんな魔法を見るのは初めてだ。熟練すれば間違いなく唯一無二の強力な能力だ」
シュテフィは一度言葉を切り、ドミニクが沈黙しているのを見ると再度口を開いた。
「また君の肌の色のことだが……魔力を有するものは生まれつき一般とは違う身体的特徴を一つ以上持って生まれてくる。君の場合、おそらくそれが肌の色として表れたのだと思う。……君にとっては気の毒なことだが」
「まったくだ。それに魔法を打ち消す魔法なんて、生産的な使い道があるとは思えない。どのみち運に見放されていることに変わりはない」
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