18 彼女の決意
再びドミニクは背を向けて歩いていく。その背中にジンは声を投げた。
「本当にオリーヴィアと一緒に生きる道はないのか?」
今度は彼は振り返らなかった。ただ立ち止まり、これまでより穏やかな口調で言った。
「ジン。お前の言う通りだよ。俺の人生で、唯一偏見なく優しくしてくれた人間がオリーヴィア様だった。……憎めるものか」
「だったら……!」
「でも、どうしても許せないんだ。許したら……あの頃の俺に悪い」
ジンの脳裏にあのイメージがよぎる。
孤独の小さな狼。大人になった今でも彼の心の一番奥に住んでいる。
「それにオリーヴィア様にはこんな思いを抱えた偽りの人間と共に生きていってほしくない。幸せになってほしいんだ」
「だったらお前がしてやれ! オリーヴィアの幸せはお前と一緒にいることだよ!」
「きっとお前には分からないよ」
最後にドミニクが小声で何か言ったが、聞き取れなかった。
「お前の気持ちは分かったけど……なあドミニク、それって寂しいよ」
彼の影が道の彼方に見えなくなった頃、ぽつりとジンはつぶやいた。
オリーヴィアが目を覚ましたのは、すでにとっぷりと日が暮れた後だった。
シュテフィが診察したところ、オリーヴィアの体に特に外傷らしいものは見当たらなかった。
ドミニクは一切傷をつけずに的確に気絶させたらしい。ステージ上でジンが殴られたときといい、バルヒェット家の護衛隊には特殊な戦闘技術が備わっているのだろうか。
「そうでしたか」
目覚めて一部始終を聞いたオリーヴィアは取り乱すこともなく静かに言った。
ジンたちと同じく荷台で休んでいたイーヴォが痺れを切らしたように口を開く。
「だーもう仕方ねぇな! オレ、女の子がしょんぼりしてんの見るの苦手なんだよ。バルヒェット邸までは無理だが、アバクスの入り口までなら今から送り届けてやる。失恋割で特別に無償でいい」
「いいえ。わたくし、屋敷には戻りませんわ」
「そうと決まったらさっさと――って、はぁ?」
オリーヴィアはすっくと立ち上がると自分の鞄を手にして、さっさと荷台から降りた。慌ててジンたちも後を追う。
馬車の前方に立ち、彼女はジンたちに向き直ると深々と頭を下げた。
「報酬のことといい、最後までご迷惑をおかけしてしまって申し訳ありませんでしたわ」
「いや、それは俺が勝手にしたことだからいい。でも、屋敷に帰らずにこれからどうするんだ?」
「ドミニクを追ってエッケまで行きますわ」
さも当然というかのようにオリーヴィアは答えた。ジンの後ろでイーヴォがあちゃーとつぶやく。
ジンは戸惑いを隠せなかった。
追いかけたいというオリーヴィアの気持ちは分かるし、彼女に追われればドミニクは心変わりするのではないかという思いもある。
だが、もし出会えなかったり上手くいかなかったとしたら、実家を頼れない十五歳の箱入り娘一人でやっていけるのだろうか。彼女にその覚悟はあるのだろうか。
「勘違いしないでくださいませ、皆様。わたくし、ドミニクを振り向かせに行くんじゃありませんのよ。彼に言いたいことを言いに行くんですわ」
ジンははっとした。オリーヴィアの表情には一抹の不安の色もなかった。
「人づてとはいえ、彼の本音を聞いたのは初めてでしたわ。いつも、言葉の裏に何か隠されているような気がしていたの。それを知れたのは嬉しいことですけれど……でも、どうしてわたくしに直接言ってくださらないの? 彼が大変な生い立ちだったのは理解しますわ。でも資産家の娘である私にしか分からない苦労だっていっっっっっっっっぱいありますわ! それを聞かずにわがままだの、愚かだの一体何⁉ 自分だけ言いたい放題好き勝手言って消えるなんて絶対に許せない! 直接言ってやらなきゃ気が済まないわ!」
「オリーヴィア……? ち、ちょっとだいぶキャラ変わってないか?」
「だって、こんなに自由なの、生まれて初めてなんだもの!」
月明かりの下でオリーヴィアは声を上げて笑った。ほんの数十分前に恋人に置いていかれたとは思えない、一切の曇りのない無邪気な笑顔だった。
「行くなら、私のブーツを履いていくといい」
「シュテフィ」
「その踵の高い靴では長時間は歩けないし目立ちすぎる。服も……と言いたいところだが、サイズが合わないだろうか」
イーヴォが観念したようにため息をついた。
「あーもう分かったよ。嬢ちゃん、積み荷の中から適当に見繕って着ていけ。庶民の服だから町に溶け込めるはずだ。そのドレスと靴と交換してやる」
「いいのですか? イーヴォ様」
「では、私からは餞別に150万ツェルク出そう」
「ありがとうございます! シュテフィ様」
「ちょちょちょ、ちょっっっと待て。シュテフィ? それ払ったら俺たちの取り分ゼロになるんだが……」
「おや、最初に独断で150万ツェルク支払ったのは誰だったかな」
「すみません、ありがとうございます! ジン様」
「お前もあっさり受け取りすぎだろ! ちょっとは遠慮しろよ!」
「だっはっは! さすがはバルヒェット氏の娘だな。そうこなくっちゃ。諦めろ、ジン。一度出した金を引っ込める男はダサいぜ」
実はわたくしたち、まだ一度も喧嘩したことがありませんのよ。楽しみですわ。
ドレスを庶民の服に着替えたオリーヴィアは最後にそう言うと、馬車に大きく手を振り夜道を歩いて行った。
地平線の彼方で藍色の夜空とエッケの街明かりが溶け合っている。
心に浮かんだ心配事をジンはかき消した。
今、彼女は自分の意志で新しい世界に歩み出したのだ。
当初の予定通り家まではイーヴォに送ってもらう手筈になっていた。
道中四時間ほどの道のりを休み休み走るとして、日付が変わる頃には帰り着けるだろうか。
いろいろと無理をしてもらったイーヴォには今夜は家に泊まってもらうつもりだった。明日の朝、朝食を振舞おうとジンは考えた。三日ぶりの我が家だ。
「報酬がなくなってしまってすまなかったね」
帰り道、揺れる馬車の荷台でふいにシュテフィが言った。
「ああ、もういいよ。いや、よくはないけどな。元はといえば俺がドミニクに渡したのが先だし。でもお前がそんなことを言い出すなんて、正直意外だった」
「はは。私も我ながらそう思うよ。なぜだろうね。なんでもいいから無性に彼女を応援したくなったんだ」
シュテフィは伏し目がちに答えた。
ジンはふとバルヒェット邸の中庭での会話を思い出した。
オリーヴィアのことをシュテフィは恋に盲目な少女と形容していた。自分にもそんな頃があったとも言っていた。
シュテフィが恋をしていたのはどんな相手だったのだろう。
視界の中心で、無意識に見つめていたらしいシュテフィが顔を上げた。
「ジン。どうかしたかい?」
「あ、いや、中庭で話したことを思い出してた。ほら、もし自分の意思に関わらずどちらか一方を選ばなければならないとき、選んだ道でよかったと自分に言い聞かせれば楽になれるって言ってただろ」
「うん」
「俺ならどうするだろうって、ずっと考えてた」
ジンは考えを整理するように話した。
「多分、選択した後も俺はずっと考え続けると思う。こっちの道で本当に正しかったのかって。もっと良い方法があったんじゃないかって。たとえ答えが出ないとしても、ぐるぐるぐるぐる、ずっと」
「それは……苦しいね」
「ああ、苦しい。でも、多分考えずにはいられないと思う。こっちで良かったんだって自分に言い聞かせてしまうことは、問題から逃げるみたいで嫌なんだ」
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