10 谷底

「ちょっと待て! おかしいだろ」

「おい君、暴れるな、危ないだろう。心配するな、以前にも負傷した男をこの形で運んだことがある」

「それとは状況が違うだろ! 俺は──疲れてはいるが──健康な男なんだよ」

「実際、姫抱っこかおんぶしか選択肢はないのだから諦めたまえ」

「姫抱っこ言うな」

「それに君、先程男女は関係ないと言っていなかったか?」

「反論しづらい正論はやめろ……」


 想像しうる限りで最悪の運び方だ。まだ足首を掴んで吊り下げられた方がマシだ。

 しかし今さらどうにもならない。仁は、考えることを、止めた。


 シュテフィが慎重だったというのもあるが、実際に降り始めてからもなかなか底に着かなかった。

 地熱の影響があるのか亀裂の中は外よりも暖かい。地上ほどの光量はないが、淡い光が柱のように底まで伸びている。


 沈黙の蔦イーフォイデアシュテレが仁の想像通りの植物ならば、ここに自生している確率は高い。それに、この場所は簡単に採集に来ることができないだろうと思われた。

 それこそ魔女でもなければ。業者の縄張りでない確率も高い。

 しかし、もし外していたら?


 仁は下唇を噛んだ。

 こうしている間にも氷鳥アイスフォーゲルの旅立ちは刻一刻と近づいている。それまでに発育促進剤を作り、雛を成長させなければならない。沈黙の蔦が手に入らなければ、この計画は失敗に終わる。


 たかが野生の小鳥一羽といえばそれまでだ。

 しかし我が子や兄妹を置いて旅立たねばならない家族の気持ち、一羽だけ置いていかれる雛の絶望はできることならば味わわせたくなかった。

 人間も動植物も関係ない。目の前に救える命があり、自分にできることがあるのならばしたかった。


 どのくらい降下したただろうか。

 気がつくと微かに水の流れる音が聞こえていた。底が近いらしい。

 唯一の頼りである微かな光の中、必死に眼下に目を凝らす。

 シュテフィがふっと息を吐いた。


「良い仕事だ、墨谷仁」


 薄明りの谷底を一面の沈黙の蔦が覆っていた。


 枯れていない沈黙の蔦は深い緑色で五芒星型の葉に白い斑模様が入っている。

 仁の世界の植物でいえば見た目はつる性植物のアイビーに似ている。ただその特性は別の植物によく似ていた。


「うちのベランダで、ジュエルオーキッドという植物を育てている。多くの植物と違って、水はけがよく乾いた場所を好まない。直射日光が苦手で暖かくじめじめした湿気の多い場所が好きなんだ」

「その植物と沈黙の蔦が似ていると? あの枯れた状態からよく気がついたね」

「鉢に敷き詰められていたのが土ではなく水苔だったのがヒントだった。水苔は保水性が良いからな。極めつけは以前の管理状態で、ガラスケースに入れられていたと言っただろ? 湿度を維持するためだ。それらの特徴はジュエルオーキッドの栽培方法と完全に一致する」

「つまり、やはり私が枯らしてしまったのだな。悪いことをした」


 シュテフィは少し肩を落として言った。


 底に着くと、さらにいろいろなことが分かった。


 まず驚くことに谷底の底面は全て水苔で覆われていた。亀裂の奥から湧き出た水が崖に向かって細い川になっている。湿った水苔は沈黙の蔦の完璧な土壌になっている。


 仁が驚いたのは、この環境がシュテフィの家の鉢の特徴と合致することだった。

 植物の栽培は基本的に自生する環境を再現することが理想とされる。あの鉢は一般に明かされていない沈黙の蔦の生態を完壁に再現していた。何者か分からないが、前任者は余程有能だったということだ。

 そして仁が個人的に注目していた特徴的な葉脈。これも限りなくジュエルオーキッドに似ていた。


 仁は少し離れた場所に立っている彼女に声をかけた。


「シュテフィ、灯りを灯せるか?」

「ああ。リヒト


 シュテフィが宙に掲げた右手のひらにぽっとランタンのような明かりが灯った。


「その灯りを葉にかざして見てくれ」

「これは……」


 ベルベットのような質感の葉に網目状に張り巡らされた金色の葉脈。灯りに照らされるとそれらがきらきらと輝き始めた。まるで宝石の欠片が散りばめられているかのようだ。


「魔法反応……ではないな、魔力を感じない」

「この植物の特性だろう。ジュエルオーキッドにも同じ特徴があって観賞用として人気が高いんだ。名前の由来にもなっている」

「なるほど。では、こういうのはどうかな」


 シュテフィは光る右手を頭上に掲げると、一度握ってからぱっと開いた。


 彼女の手から無数の光が分散して放たれる。光は暗闇に蛍のような軌跡を描きながら飛び、それぞれの葉の裏に寄り添った。

 薄暗がりの中で谷底全体がぼうっと光っていた。控えめな光は揺れ、その度に葉脈のきらめきが星のように瞬く。


 美しい、と心の底から仁は思った。風景を見てそんな風に感じたのは何年ぶりだろう。

 ふとシュテフィの方を見ると、彼女も仁を見た。


「綺麗だね」


 ふっとシュテフィが微笑み、仁は一瞬どきりとした。同時に、気落ちしていた彼女が笑ってくれたことにほっとした。


 採取はいたって簡単だった。何しろ辺り一面足の踏み場がないほどに沈黙の蔦が生い茂っているのだ。

 シュテフィと二人がかりで、十分もすればストック分まで含めて十分な量の根を確保できた。


「しかし、あの家からそう遠くない場所にこんな穴場があったとはな」


 根っこから引き抜いた蔦をシュテフィが持ってきた麻袋のようなものに入れながら仁は呟いた。


「まず単純に場所が見つかりにくいのだろうね。この辺りはだだっ広い草原という以外に目立った特徴もないし、地底火山があることなど知らない者も多い。亀裂も偶発的なものだからたまたま見つけない限り知りようがない。仮に目をつけたとしても谷底まで降りる術を持ち合わせていない、の三拍子だ。これほど生い茂っているのなら、大量に採取して直接根を市場に卸すこともできるかもしれないな」


 シュテフィの言葉に仁はしばし手を止めた。


「……いや、当面の薬作りに必要な分を採るのはいいと思うが、根を売り捌くのは止めておかないか?」

「なぜだ? どうせすぐ増えるんだぞ」

「大量に採取することは生態系を壊すことに繋がる。それに市場に流すことでもし業者が勘づいたら、この場所が変わってしまう気がしてな……そうだ、代わりにいくつか株を貰っていこう。そうしたらあとは俺が増やすよ」


 言いながら、我ながら都合のいい言い草だと仁は内心で感じていた。


 シュテフィに仁の言うことを聞き入れる義務はない。仁はこの世界の人間ではない。無関係な世界のことなのになぜこんなに真剣になっているのだろう。


 株を増やすというのも考えてみれば無責任な発言だ。自分はこの世界に骨を埋める決心をしたわけではない。それとも、したのだろうか。自分の気持ちが自分でも分からなかった。


 しかしシュテフィは遠くを見つめるような眼差しで言った。


「そうだね。こんなに美しい場所は守らなければ」


 この日はこれで落着したかに思えたが、家へ帰る際にもう一揉めした。


 シュテフィが料金の問題で帰りはタクシーを呼べないと言い放ったのだ。

 仁としてもあんなに立派な竜を呼びつけるタクシーが安くないであろうことは肌間隔で分かる。かといって今度は家までの道中をお姫様抱っこで帰るなど絶対にごめんだ。

 一人で歩いて帰ると言ってはみたものの、さすがに地理的に厳しい。日が落ち始めると魔物が出ると脅し(ほんとか?)お姫様抱っこかおんぶか選べと言うシュテフィに、最終的に仁は根負けした。

 おんぶにしてもらった。本気で二度とごめんだ。


 仁が元の世界に戻る頃には、早くも日が傾きかけていた。


 こんなに長時間、異世界に滞在したのは初めてだった。あちらの世界の一晩をこちらで過ごしたことになる。向こうではそろそろ始発が動き出す頃だろう。


 帰る直前、シュテフィが興味深いことを言った。

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