9 竜
「ど……ドラ、ゴン……!?」
仁の目の前に俄には信じ難い光景が広がっていた。
見上げるような巨体はシュテフィの家よりはるかに大きい。木々の合間にどっしりとその身を伏せている。逞しい体躯、鋭い爪のついた四肢、巨大な翼、太い尾。一枚が仁の顔ほどもある、光沢のある黄色い鱗が全身をびっしりと覆っている。頭頂部には二本の角があり、その下の金色の瞳がじっと仁を見つめていた。
知っている生物で無理やり例えるならトリケラトプスとイグアナを足して二で割り、巨大な蝙蝠の羽をプラスしたといったところか。
ゲームやアニメに登場するドラゴンにも似ているが決定的な違いがある。その生物が足踏みをすれば地が揺れ、近づけば肉食獣特有の体臭が鼻を突いた。
これはフィクションの映像ではない。目の前の生き物には体温があり、臭いがあり、息づかいがある。
「
「へえ」
シュテフィの説明に仁は生返事を返した。
実際、ほとんど聞こえていなかった。
それどころではない。
なんだこの生物は。
格好良すぎるだろ。
背後でシュテフィの笑う声がする。
「どうやら気に入ったようだね。目的地まではこの子に連れて行ってもらう」
「まさか、今から背に乗せて空を飛んでもらえるのか?」
こらえきれないというようにシュテフィが噴き出した。
「やれやれ、ニプリンは死ぬまでニプリンだと言うが世界に関係なく男児は竜が好きなのだね。しかしその反応を見るに、君の世界に竜はいないのでは?」
「男児って言うな。たしかに空想動物の扱いだがこれは理屈じゃないだろ……こんなにデカくてゴツくて好きにならないやつがいるか? あ、あと好きになるのに性別や年齢は関係ない。それにしても本当に実在したんだな…………ニプリンって?」
「さあ、さっさと出発しよう。竜が地面に着地した瞬間から料金に換算されるんだ」
シュテフィは竜の左前脚の側に立った。四肢のうちそれにだけ足首に金属の輪がはめられている。所属と個体識別番号のようなものが彫ってある。レース鳩のようなものだろうか。
シュテフィが近づくと竜は地面に腹ばいになった。それだけで地が震える。彼女は竜の鱗に指をかけ足輪によじ登った。
次の瞬間には、竜の背に持ち上げられたシュテフィの身体があった。
「墨谷仁。次は君だ」
言われるがままおそるおそる前脚に近づく。竜の金色の瞳がぎょろりと仁を眺め回し、促すように前脚を少し差し出した。
嘘だろ。
賢すぎる。
水中から急浮上するような感覚があって、気がつくと仁はシュテフィの隣にいた。
「では頼むよ、G-04」
シュテフィの言葉を合図に竜は思いのほか高い声で一度咆哮すると、巨大な翼を二、三度羽ばたかせ大空に舞い上がった。
仁にとってそれは間違いなく人生初の体験だった。
暴れる向かい風が服の裾をばたつかせる。上空は地上より冷えていて空気が薄く息苦しい。命の危機があるジェットコースターに乗っているような心地だ。あまりの風圧に竜の角にしがみついていることしかできない。
隣のシュテフィに強く肩を叩かれた。どうやら景色を見ろと言っているらしい。正直それどころではないが男の矜持の問題がある。半ばやけくそで顔を上げた。
目の前の光景に仁は息を飲んだ。
「どうだい、なかなか悪くない眺めだろう?」
「悪くないどころか……最高だ」
見渡す限りにどこまでも濃淡のある緑の絨毯が続いていた。
濃い緑は森で淡い緑は草原だ。ときどき光っているのは湖や川だった。ところどころに白や橙の家々の塊が点在していてそこに町があると分かる。遠くの方無数の色が集まり高い塔のそびえ立つ大都市が見える。はるか彼方に連なる山脈が見え、平坦な場所は地平線まで一望することができた。
竜の背で仁はギリシャ神話のイカロスを思い出していた。
父の忠告を聞かず天高く飛び過ぎた青年は、太陽の熱で翼の蝋を溶かされ海に落とされる。子供の頃はイカロスお前限度を知らないのかと呆れていたが、今なら彼の心情が理解できた。
自力で飛ぶことのできない人間は、本能的にどうしようもなく空に焦がれてしまう生き物なのだ。もっと高く、永遠に飛んでいたいと願ってしまう。それが人間なのだ。
「おい君、聞こえているか? もうすぐ目的地に着く」
「え?」
仁が放心している間に竜はあっさりと目的地に着地した。
二人を下ろしシュテフィから料金とお礼の果物(彼女は葡萄ようなものを竜に食べさせていた)を受け取るとさっさと飛び去っていった。
飛行時間、体感三分くらい?
「もう終わり?」
「言ったろう? 本来タクシーを呼ぶほどの距離でもないんだよ。今のはサービス。ちなみに
「いや、いい」
気を取り直して仁は目的の場所を観察した。
それは地上に真っ直ぐに伸びた地割れの跡だった。
広々とした草原に唐突に百メートルほどの亀裂が生まれている。生まれているといっても割れたのは随分昔のことらしい。割れ口はすでに雑草で覆い尽くされ地面の露出は全く認められなかった。地上から遠目ににはただの草原にしか見えないだろう。
仁たちが立っているのは亀裂の中程だった。亀裂の幅は30メートル以上はあり、対岸へ飛び移るには遠すぎる距離だ。一方の端は次第に狭くなり地面に飲み込まれている。もう一方は崖に突き当たり開けていた。竜の背から見たときはたしか崖下に川があった。
草原の規模から考えれば長さも幅も大したことはないが、深さは検討もつかなかった。もはや谷と呼べるだろう。
仁は谷底へ耳を澄ませた。微かに水の流れる音が聞こえるような気がしなくもない。手頃な石を拾って投げ込んでみる。落ちる音は聞こえない。
仁がシュテフィに提示した条件はこうだった。暖かく、薄暗く、少しの日光が差し込み、じめじめと湿り気のある場所。
「この辺りは一帯が地底火山でね。この亀裂も数年前の地殻変動でできたものらしいんだ。私も降りたことはないんだが」
「降りてみないことには分からないが、たしかに条件的には当てはまるかもしれないな」
仁は谷底まで降りられそうな場所はないかと目を走らせた。しかし凄まじい断崖絶壁でそれらしい場所はない。
「ここから先は自力で飛んでいくしかなさそうだね」
そう言うとシュテフィは長いスカートたくし上げた。唐突に白い太腿が露出し、仁は慌てて目をそらす羽目になった。器用に裾を結び太腿に固定する。
シュテフィがちらりと仁を見る。
「箒に、乗った方がいいか?」
「黙って飛べ」
「
たった一言でいとも簡単に彼女の身体が浮かび上がった。箒も羽も要らないらしい。
「俺はどうすればいい? 飛べるようにしてもらえるとか?」
若干の期待を込めて尋ねたがシュテフィは首を横に振った。
「短時間ならできなくはないが、あまり現実的ではないね。魔力は必要ないが飛行訓練をしていなければ危険だ」
「そうか」
「なので単純にこうしよう」
次の瞬間、仁の身体が宙に浮いていた。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
理解したときにはすでに遅かった。仁の太腿と背中はシュテフィの細腕によって抱きかかえられ、彼女の顔がすぐ目の前にあった。
蒼穹のような瞳と目が合い、ふわりとスイセンの香りが香る。
逆ならどんなによかっただろう。仁は今、シュテフィによるお姫様抱っこの形で谷底へ下りて行こうとしている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます