11 脅迫犯の正体

「君の世界の問題について私も考えてみたんだが。おそらく敵は内部にいると思う」


 つまり彼女も上司と同じく内部犯の線を推しているらしい。仁としては複雑な思いだが根拠を聞いてみる。


「戦場で役職付きの上官が死亡する最も多い事例は何だと思う?」

「さあ……優秀な狙撃兵スナイパーに狙われたときとか?」


 シュテフィはゆっくりとかぶりを振った。


「謀反だよ。最も多いのは背後から部下に撃ち殺されることだ」


 その言葉は、酔っ払いやホストに混じって始発の中央線に揺られる仁の脳内でずっと反芻されていた。

 部屋に帰りつきベッドに転がったところ、薬の効果が切れたのかそのまま泥のように眠った。




◇ ◇ ◇




 その週末はずっと雨が降っていた。


 天気が悪かったということもあるが、仁はスーパーへ食材の買い出しに行く以外はほとんど外出せずに過ごした。

 むしろ先週まではこうして過ごすことが当たり前だったと思い出す。

 平日は会社と自宅の往復、休日は平日の疲れをとるためベッドに横たわるうちに過ぎていく。仕事をしているとき以外は食事と睡眠、生命を維持する最低限の行動だけで生活が完結していた。

 それを空虚だと感じすらしなかった。

 人は違う環境に置かれて初めて今の環境を眺められるのだと仁は悟った。


 雪の中に芽吹いた草があったとして、そのときは何も感じない。ある日、温かい春風に吹かれて初めて自分が冬にいたことを知る。


 シュテフィは週末はわざわざ来なくていいと言ったが、仁はむしろ行きたかった。

 仕事のない日中に訪ねればまだ見ぬ異世界の夜を体験できる。そう思ったことに自分でも驚いた。

 あちらの世界でも活動している分、身体的な負担は増えているはずなのに、なぜか今までよりずっと元気だった。


 週末に会社に呼び出されなかったのは意外だった。

 金曜日は一旦自宅に帰されたが、現場の状況は相変わらず切羽詰まっている。仁は土日の召集を覚悟していた。

 しかし予想外に上司からの連絡はなかった。やや拍子抜けしたが、休日出勤に駆り出されない分には有難い。


 気がかりな出来事もあった。ここ数日家を空けがちで十分な世話が出来なかったことと週末の天気の悪さも手伝い、ベランダの植物の一部が調子を崩していた。


 特にジュエルオーキッドが弱っていた。幸いにも時間はあったためあれこれ調べて検討した挙句、結局置き場所を少し変えるだけで様子を見ることにした。


 こういうとき人間に出来ることは実はあまり多くない。植物の生命線は、結局のところ最後は植物自身の力にかかっている。

 管理下の植物の健康の責任は管理者にある。仁は罪悪感と無力感に苛まれた。

 こういうとき、仁はいつも植物の口がきけたらいいのにと思う。どうしてほしいか教えてほしかった。いつだって本気で考えているつもりだが、いつももっとしてやれることがあったのではないかと考えてしまう。




◇ ◇ ◇




 月曜の朝は週末の天気が嘘のように晴れていた。


 天気が良くても悪くても日常は変わらない。いつものように満員の中央線電車に乗り込む。

 植物のことや仕事のことが気がかりではあったが、仁の精神状態はおおむね良好だった。

 土日に呼び出されなかったことを考えると現場の状況は案外問題ないのかもしれない。残業の程度にもよるが今晩もあの庭へ顔を出すつもりだった。


 シュテフィは無事に薬を完成させただろうか。雛は飛べるようになっただろうか。


 唐突にブザーが鳴り響き、車体が急ブレーキをかけた。

 仁は目の前の銀色の手摺にしがみついた。急停車します、ご注意ください、アテンションプリーズ。聞き慣れた音声録音が流れ身体が引っ張られる。もつれ気味の車内から軽く悲鳴が上がった。


 やがて反動と共に電車が完全に停止した。


 窓の外に目をやるとちょうど荻窪駅に滑り込んだところだった。急病人でも出たのかホームを数名が右往左往している。耳を塞ぎたくなるようなブザー音が鳴り続けている。


「た、ただ今、当駅にて――ホーム上の非常停止ボタンが押されました。現在――安全を確認しております」


 またかよ、と誰かが舌打ちした。


 そういえば先週の月曜日も荻窪駅で人身事故が発生したのではなかっただろうか。

 仁は駅員を気の毒に思った。ブザー音に混じってホーム上で怒号が聞こえ、錯乱したような叫び声にバタバタと走る足音、誰かの泣き声が重なる。随分と騒がしい。


「お客様に――えー、お知らせいたします。ただ今、当駅にて――電車と、お客様との接触事故が発生いたしました。現在、警察とレスキュー隊に出動を要請しております。お急ぎのところ申し訳ありませんが、今しばらくご乗車になってお待ちください」


 車内が一気にざわついた。


 仁の斜め向かいで扉の脇に立っていた女子学生がほとんど倒れるようにうずくまった。過呼吸を起こしたらしく周囲の人がビニール袋を手渡している。隣の車両では窓から脱出した男二人がスマートフォンの動画撮影を始め、とんできた駅員と押し問答を繰り広げている。人目をはばからない大声で下世話な勘繰りを始めるおばさんたち、嬉々とした興奮状態で友人に電話をかけるサラリーマン、即座にSNSで発信する人々。

 仁は心に暗い波が押し寄せるのを感じた。


 狂っている。


 こんな状況に立たされても自分のどこかがこれを日常だと冷めた目で眺めている。それが何よりおぞましかった。


 運転見合わせになった車両から乗客が降ろされた頃、電車の先頭付近はブルーシートで覆われ担架を持った救急隊員が駆けつけていた。


 どうせもう死んでいるのに。


 脳裏に浮かんだ考えを打ち消し、仁は会社までの道のりを機械的に足を動かした。


 遅刻してたどり着いた会社にも今朝はなんだか妙な雰囲気が漂っていた。

 普段ならたとえ電車の遅延が理由でも問答無用で嫌味を言ってくる所長が何も言ってこない。それどころかすれ違いざまに仁に挨拶した。

 ありえない事だった。普段は百パーセント無視されている。気味が悪いほど機嫌がいい。


 席につきPCを立ち上げていると、向かいの席の同僚の会話が耳に入った。


「なあ、聞いたか?」

「何の話だよ」

「俺さっき所長から聞いたんだけどさ、本社に脅迫メール送ったりハッキング仕掛けたりしてた犯人、見つかったらしい」

「マジかよ! え、誰。俺らの知ってる人?」


 聞き耳を立てるつもりはなかったが、かなり興奮した様子で喋っていたので自然と聞こえた。


「橘さんだって」


 一瞬、全ての音が止んだような気がした。


 気がついたときには仁は席を立って二人の方に歩いていた。


「その話、マジ?」

「おお、墨谷。らしいよ。先週末にはもう発覚してて、今朝家宅捜査行ったって。そういや今日橘さんいないな」

「ほんとだ、いつも一番早ぇのにな。そういうのって現行犯逮捕とかされんのかな」


 なんで。

 なんで。 


 仁の頭の中でそれだけが反響していた。まるで水の中にいるように景色がスローモーションに動き、音がくぐもって聞こえる。


「ヤバい、マジでヤバい」


 その時、もう一人同僚が部屋に走り込んできた。


 なぜだか仁はとても嫌な予感がした。これ以上は考えるのを止めなければいけないような。スクリーンの映像を眺めるようにぼーっと彼の動きを目で追った。


 蒼白な顔面で彼は言う。


「今朝の中央線の人身、橘さんだって」


 その後のことは記憶がない。

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