6 脅迫メール
翌朝、仁は普段通り始業より一時間早く出社した。
会社員は月に百時間を超えて残業してはいけないと法律で決められている。そのため超過しまいそうな場合には始業時間より早く出社して仕事を始めるのだが、仁の場合はもはやそれが日課になっている。
おかしな話だが、仁の会社には始業時間前の労働は残業に換算されないという風潮がある。つまり、タダ働きだ。
いつものように一晩のうちに溜まったメールを返していく。質問に返答したり各所に電話をかけたり要望に対応するデータを作ったり送ったりしているうちに、あっという間に昼だ。
昨晩、手元に戻ってきたUSBのデータに不審な点は見当たらなかった。件の工程表は朝一で担当者全員に送信した。
これにて一件落着。午後からは優先度の高い順に仕事に取りかかりたかったが、抱えている仕事の中で最も期日の迫っているのは反省文だった。気は進まないが、やるより仕方ない。
USB。
仁の脳裏に昨晩の出来事がよぎった。
光る扉、真昼の陽光の降り注ぐ森、植物の鉢でいっぱいの小屋、自称・異世界の魔女――
一体どこからどう突っ込めばいいのか分からないほど、空想じみた出来事だ。
しかし、今度は夢ではないという確信があった。あれは紛れもなく現実だった。
「墨谷、ちょっと来い」
「えっ。は、はい」
ふいに背後から肩を叩かれた。振り向くと所長がいた。
あと二分で休憩時間だというのに。内心でぼやきながら、こちらを見ずにどんどん先へ行ってしまう背中を慌てて追いかける。
所長は人気のない更衣室に入った。仁が後に続くと、扉を閉めて鍵をかけた。何事かと緊張が走る仁に所長が詰め寄る。
「お前、USBは見つかったのか?」
「はい。工程表も朝一で全員に展開しました。ご迷惑をおかけしてしまい、すみませんでした」
「ふん。結局家にあったのか?」
「はい」
実際は違うが、ここで否定するとややこしいことになる。咄嗟に嘘をついた。本当のことを言ったところで異常者扱いされるだけだ。
所長は仁を睨みつけた。
「実は今朝、本社にある脅迫メールが届いた」
「脅迫?」
「まだ限られた人間しか知らない情報だから口外するなよ。脅迫の内容は、うちの会社の労働状況やパワハラ? だかセクハラだか、ハラスメントの実情を開示して、今後一切しないという声明を出さなければ、会社の機密情報をばらまくというものだ」
誰だか知らないが随分と大それた駆け引きを仕掛けたものだ。
まさに被害者の立場の仁としては名も知らぬ脅迫犯を応援したいところだが。かといって会社側が大人しく従うとは到底思えない。
そんな声明、うちは最低劣悪の企業ですと自己紹介するようなものだからだ。得意先は自社の沽券のために取引を打ち切るだろうし、今時ブラック企業と分かっていて入社する新卒はいない。企業イメージは最悪、株価はがた落ち、数年内に会社がどうなるかは火を見るよりも明らかだ。そんな声明出せるわけがない。
仁の思惑を知ってか知らずか、所長は露骨に疑わし気な視線を向けた。
「お前、外で落として誰かに情報を抜かれたりしてねぇだろうな」
「まさか。家に置き忘れてたんですよ」
「もしかしてお前か? 脅迫犯。そういう陰湿なことやりそうだよな」
それ以上何も言い返せずに仁は後ずさった。背中がぶつかり、ロッカーがガシャンと音を立てる。
所長が追い詰めるようににじり寄る。
「いいか、脅迫とかふざけた真似してみろ。お前どうなるかわかって――」
「ちょっとちょっと! 一旦落ち着きましょう、所長。それこそ脅迫じゃないっすか」
突然、所長の背後のカーテンが揺れ、人影が飛び出してきた。
所長を諫めるように肩に手を置き、さりげなく仁との間に半身を割り込ませる。
昨日、会議室を退室する際に仁の肩を叩いてくれた先輩だった。
「なんだ橘、いたのか。お前、立ち聞きしてんじゃねぇぞ」
「すいません、聞こえちゃいました。でも墨谷が関係してるっていうのは有り得ないんじゃないですかねぇ。だって犯人だったら、わざわざ自分が疑われるようなタイミングで犯行しないでしょ。もし墨谷のUSBを拾った誰かがいたとしても、昨日の今日で脅迫メール打ちますかね。そういうのってもっと計画的にやるもんなんじゃないですか」
「まあな。俺も本気で言ってるわけじゃねぇけどよ。こいつにそんな度胸あるわけねぇしな」
不本意ではあるが、助かった。ちゃんと教育しとけよと言い残して所長は更衣室を出ていく。その背中に橘が声をかける。
「工程表も出たし、USBの件はもういいっすよね。俺こいつに頼みたい仕事あるんですわ」
「ああ」
バタンと音を立てて更衣室の扉が閉まった。
「だ、そうだ。しょうもない反省文書かなくていいぞ、墨谷」
「先輩……すみません。ありがとうございます」
◇ ◇ ◇
橘に誘われるがまま、仁は事務所の入っているビルの屋上に立った。
眼下にごちゃごちゃした新宿の街並みを見下ろす。六階建てのビルは周囲の建物に比べてさほど高いわけでもないが、屋上は風が吹いていて開放感があった。
「気にすんなよ。あのおっさん、誰彼かまわず文句つけたいだけだから。プライベートくそつまんねぇんだよ、きっと」
橘は屋上の柵にもたれかかり電子タバコをふかした。
彼は三十代半ばで、仁も属する若手チームのリーダーだ。上と下の板挟みになりがちな立場でありながら面倒な上司との関係もそれなりに上手くやっていて、仁のような孤立しがちな後輩のことまで気にかけてくれる。統率力があり、仕事の成果は誰もが認めるところだ。奥さんと二人の子供がいる。
仁より十歳ほど年上だが、たとえあと十年経ったとしても自分はああはなれない、お仁は思う。
「先輩はさすがですね……俺はあんな風に上手くあしらえなくて」
「慣れただけさ。墨谷もそのうち慣れるよ」
橘は空に向かって白い水蒸気を吐き出した。
「いや、慣れない方がいいか」
「先輩?」
「墨谷、お前なんかまだ若いんだから逃げられるうちに逃げた方がいいぞ。こんな会社辞めちまえ」
予想外の言葉に、仁は面食らった。まさか先輩の口からそんな言葉を聞く日が来るとは。
「若いって……俺もう二十六ですよ」
「ばか言え。まだ二十六だろ」
「俺、遠回しにこの仕事向いてないって言われてます?」
「ははは! どっちかっていうと逆だな。俺はこの職場がお前に向いてない気がする」
それとこれとはどう違うのだろう。考え込む仁にかまわず橘は続けた。
「狭い世界の評価だけで自分の価値を決めるなんて、勿体ないってことさ」
真意は分からなかったが、橘が仁を気遣って言ってくれていることは確かだ。そのことが少しだけ仁の気を晴らした。
それにしても脅迫メールとは穏やかじゃない話だ。
仁は彼女のことを思い出した。念のためシュテフィに確認する必要があるかもしれない。
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