7 氷鳥
「脅迫? 君ねぇ、心外だよ。私のことをそんなみみっちい真似をするような人間だと思っているのかい?」
「その台詞を言われるほどまだあんたのことを知らないんだが」
シュテフィは年季の入った辞書のような分厚さの本を片手で支え、モノクル越しにページに目を落としながらやれやれとつぶやいた。
脅迫メールに対する彼女の返答は案の定ノーだった。
仁としても、まだ出会って間もない間柄だが(二日だ)シュテフィがせっせと脅迫メールを送っている姿というのはいまいちイメージできない。
これは決して彼女が品行方正な人間だからという意味ではなく、むしろ逆で、彼女はやるからには脅迫などという上品な手順は踏まずに一息に会社を潰すような手段に訴えるタイプに見えるからだ。
「たしかに動機はあるね。私としては君が職を失ってくれるのは好都合だ。路頭に迷った君を速やかに雇用したい」
「簡単に言ってくれるな。そもそも仕事以前の問題だろ」
今度は仁がやれやれとつぶやく番だった。
シュテフィの提案は、彼女の下で専属の庭師にならないかというものだった。
昨晩は突然のことで驚いたが、冷静になって考えると彼女の提示した条件は仁にとって決して悪い話ではなかった。
というか、正直言って興味はある。
理想の庭を造るというのは仁にとって長年の憧れだった。
しかし現実問題として、一介のサラリーマンに広大な敷地を買ったり整備したりする資金があるわけもない。
だから、これはただの夢だった。
そこに思いがけなく降って湧いたチャンスだ。
彼女の下で庭師として働く間は生活を保障してもらえる。情熱を持てない仕事から逃れ、元手ゼロで憧れの仕事に就ける。こう聞くと迷う理由はないように思える。
ただし、それは勤務地が異世界ではない場合だ。
シュテフィの提示した条件には彼女の下で住み込みで働くことが含まれている。
つまり異世界で暮らすということだ。
一応通いの選択肢がないか聞いてはみたが、はっきりと却下されていた。
本来異なる世界同士は互いに交わることがない。それぞれの世界には独自の周波数があり、互いに感知できないようになっているらしい。
シュテフィは魔法でその波長を探知し、二つの世界を一時的に交わらせているということだった。
どんな場所でも結べるが、人が行き来する分には扉同士が最も便利らしい。
しかしそれも簡単ではなく、海中であるかも分からないネックレスを手探りで探し求めるような気の遠くなるような作業だということだ。
異世界同士の環境や文化は千差万別だ。
その中で仁の世界とシュテフィの世界はかなり近しい部類だが、あちらに存在する魔法がこちらにはなく、その代わり科学技術はこちらの方がかなり先進している。時節の概念はほとんど変わりないが、約十二時間の時差があるらしい。道理でこちらが真夜中のときにあちらが真昼間なわけだ。
シュテフィが違反しているというだけで、原則世界間の交流は禁じられている。異世界同士の過度な交わりは齟齬を生み、それぞれの世界の均衡を崩す恐れがある。頻繁な移動はリスクを伴う。
その上、物理的にもほぼ不可能ということだった。
世界の周波数は流動的なもので一定の周期で変化する。そのため再び同じ世界に繋げる保証はないという。
具体的には一月ほどで周波数が変わるらしい。
シュテフィが初めて仁の世界にやって来たのは一週間ほど前だ。あと三週間ほどで二つの世界はほとんど永続的に交わることはなくなる。
つまり異世界で長期的に暮らすということは二度と元の世界に戻れないことを意味する。
転職どころの騒ぎじゃない。それはもう異世界転移だ。簡単に決められることじゃない。
「君、ちょっとそこの薬瓶を取ってくれ」
ふいにシュテフィから声をかけられ、仁は思考を中断した。本棚から片手に収まるほどの小瓶を手に取り渡す。瓶には正体の分からない粉末が入っていた。
シュテフィはそれをビーカーの液体に振りかけた。瞬く間に透明な水のようだった液体が鮮やかな黄緑色に変わり発光し始めた。
これが魔法反応というやつだろうか。思わず釘付けになる仁の目の前で黄緑色の液体は何度か明滅し、唐突に濁った泥水の色に変わった。
「うーむ。やはりこれでは代用できないか」
分かり切っていた結果を眺めるようにシュテフィはため息をついた。どうやら失敗らしい。
「仕事か?」
「うん? いや、正式な依頼は受けていないよ。これは私の気まぐれかな」
彼女は窓の外を指し示した。指の先に一本の木が植わっている。
よく見ると昨日も見た青い鳥が数羽、木の周りを飛び回っていた。
「
「なるほど。燕みたいなものか」
「ツバメ……? 君の世界にも似たような習性を持つ鳥が?」
「ああ。こっちは逆に暖かい環境を求めて移動する」
「ふむ。それは興味深い」
彼女は傍らの双眼鏡を仁に手渡した。覗けということらしい。
「枝の間の巣が見えるかい?」
「ああ。一羽、残っているのがいるな。……まだ雛か?」
「巣の周りを飛び回っている四羽が、親と、同時に生まれた兄弟たちだ。おそらく先天性の発育不良だね」
シュテフィは読んでいた本をパタンと閉じた。
「本格的な暑さが来る前に氷鳥は北へ飛び立つ。あの家族もあと一月もしないうちに出発するだろう。あの子は置いていかれる」
「待ってやれないのか?」
「それは人間特有の感情だね。たった一羽のために集団を危機に晒す選択を野生動物はしないだろう」
「置いていかれた雛はどうなるんだ?」
「暑さに耐えきれないというのもあるが、その前に夜間に他の動物に食べられる可能性が最も高いだろうね。氷鳥は群れで生活する生き物なんだ。どのみち一羽では生きられない」
仁は双眼鏡から目を離した。
子供ではない。仕方のないことと頭では理解しているが、やるせなさは募る。
しかしすぐに、先刻シュテフィが作っていた薬が思い当たった。はっと彼女の顔を見る。
シュテフィがぱちりと片目をつぶる。
「ご明察だね。ちょうど今は他に依頼もないし、暇つぶしがてら鳥類の成長を促進する薬を作ろうと思ったんだ。しかし、困ったことに材料が足りないんだよ。代用品を使ってみたがご覧の有様だ」
「具体的に何が必要なんだ?」
「
「その様子だと、それほど希少な植物でもなさそうだな。採りに行けないのか?」
シュテフィは首を横に振った。
「生息地が分からない、というのが正直なところだね。沈黙の蔦は成長ホルモン剤や筋肉増強剤としての需要が高く、一部の者が利益を独占している。ゆえに採集場所も秘匿されている。市場に出るのは加工品ばかりで現物はほとんど出回らない」
「そうか……探そうにも手掛かりが全くないんじゃさすがに厳しいな」
「手掛かり……になりえるかは分からないが、ちょうど君の後ろに現物があるんだ」
「なにっ?」
それならそうと早く言え、むしろそれを使えばいいんじゃないのか? 頭の中で二つの思いを交錯させながら振り向いた仁の期待は脆くも崩れ去った。
「一月前はピンピンしていたんだが……その、私が世話をするようになってから、急速に調子が悪くなってね」
「おお……」
見事に枯れていた。
「根を粉末にしようにも一鉢では必要量が採れない。さすがにヒントにもならないだろう?」
「……いや。待ってくれ」
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