テリンドルの憂い

 二人のママはこれを海上へ引き上げた。

 水面への上昇の負荷はママを自室に引導した。


 ヒステリックなママはアップセットなまま、

 アルコールをあるだけあおぎ笑っていた。

 荒廃的な実家は夜な夜な笑うのだ。ママの次はテリンドルだ。

 深海に潜った彼は深海巨大症を罹患した。笑うのは海だ。


 梯子が伸びることを、だがヤコブはサディストで、

 致死量のフロータルが明日には誕生する、

 ヴァーリューレスな籠城戦はテリンドルのヒステリーで、

 秘密のアグリーが浮上しないからまだ続く、

 それまでテリンドルは潜り続ける。


「テリンドル。明日。

 僕は遠くの町に行くって、パパが言っていたよ」


 腹にウツボが入ったテリンドルの顔は青ざめた。

 彼はフロータルの肩を掴み、弟の顔を自分に向かせた。


「知らない。嘘だよ」


 零度の緊張はヒステリックだ。


「パパが言っていた」


 テリンドルとフロータルは向かい合う。

 それは深海に沈む蝶番のようで、上部空間のムーンライトと鱗粉は見下ろす。


 笑いが反響する家は、涙ぐむ兄弟の全て、

 血肉と皮膚を二度産み落としたようで、

 神が作った俺たち兄弟がどうしてこんなことに、ああ、ママが恋しい、

 その残虐な思考法とミザリーなゴーストを残したまま換骨奪胎させたようで、

 それが水質を凍らせる。


 からからと空気が変わる。

 家の窓ガラスはどれも粉砕され、

 窓辺には砕けたクリスタルの反射によって、リビングが照らされている。


 凍てつく深海でアナゴがゆらゆらと揺れ、

 キラキラの魚群が二階と一階を自由に泳ぎ回る。


 その三分の二の揺らぎが二人の唯一の救いだ。

 天井に吊るされた模造の魚介類の下に、

 何人ものバルーンマンが兄弟を囲んでいた。

 テリンドルはフロータルを見つめて、真剣な眼差しで言う。


「また一緒に遊びたい。絶対に帰ってきてね」


「うん。ありがとう。お部屋が綺麗だね。僕のために魚を飾ってくれてありがとう」


「僕はお前の兄だ。何だってするよ」


「なら僕の傍にいて」


 フロータルの細い両目に涙が浮かんだ。

 それはテリンドルにとって明確なインデックスだ。

 二年前に凝結したのは兄弟の思い出だ。


 凝結は兄弟の唇を閉ざしたが、その融解は一年前だ。

 青き秋が過ぎ、白き夏が到来した頃。

 兄弟を変えたのは一年間の幽閉だ。

 フジツボとウツボをまとったフロータルの帰還で、

 忘れられたのはテリンドルの笑顔だった。

 太陽の沈没がママの笑いだ。鋭い声に兄弟は釣られる。

 深海の反響が三分の三の揺らぎになるころ、それがお休みの合図だ。


「当然だ。ほら痛む前に飴弾を舐めてね」


 テリンドルは返事をした。


「痛みが消えたから何か遊ぼう。

 こんな保冷剤なんて要らないときに」


 無邪気な勧誘をフロータルは拒んだ。

 彼はただ兄とリビングに居たい。

 意識の残滓が全て沈むまで待って欲しい。

 それがフロータルの毎晩の願いだ。

 それを活気あるテリンドルは忘れていた。


「遊ばなくていい。ただ僕の隣に座って話して欲しい。

 学校の話を聞かせてほしい」


 テリンドルの心臓が鳴り始めたら、終わりなき合図がやってくる。

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