フロータルの痛み

 深海は暗闇だ。

 それでも、テリンドルは泳ぎ回るムーンライトを頼りに、

 微かに現れるバルーンマンを攻撃する。


 凍えた粘液はトレイルを残し、泳ぐ飴弾は鳩の群れを通り過ぎる。

 赤く潤んだ瞳。鳩があちらこちらで飛んでいる。

 その無実の羽ばたきが、笑い声を消す。

 シャワーヴォイス。ミュージックヴォイス。サイレンヴォイス。

 混ざり合う多様性のカオスが、幼いテリンドルを奮い立たせる。


「ママはどこ? ママ?」


 フロータルは泣きながら叫んだ。

 高らかな笑い声と混ざった軟な慟哭は、テリンドルには届かない。

 緊張のフロータルはミニマルな両目を震わせる。


「明日には終わる」「パパとママが泣いている」

「テリンドルはまだ知らない」「僕がお父様に会うって」


 ネガティブな思考法を習得したフロータルはそれでも、

 テリンドルと一緒に居たかった。ただ一人の兄の期待に応えたいのだ。


 背筋を伸ばしたテリンドルはケルト色の瞳を泳がせ、

 バルーンマンの臨終を楽しんでいる。

 飴弾を喰らったバルーンマンはすべからく空中へと融解した。

 臨界点に向かう稚魚。逃避の稚魚。


 バルーンマンは揺らぎの冷気となる。

 静寂の反響に抱かれたリビング。

 月光の成魚と鱗粉の稚魚でガヤガヤと輝く。

 脳内のウツボがドーパミンを啜る音色は舌を巻く旋律。

 残響のスワローと、ウツボはワイルドに踊るのだ。


 テリンドルは再び弟のフロータルを見る。

 ぼこぼこと伸縮する身体は、荒い呼吸で膨らむ。

 なくなくと泣くフロータルの風貌は同年代と比べると酷く痩せていた。


 骨を抜かれた魚のような、そのヘナヘナとした腰を、

 フロータルは懸命に使って少しでも立ち上がろうと、

 長いウツボをまといフジツボに寄生された両手を支えに、

 倒れながら、力みながら、倒れても力んで、その結果わずかだが、

 その顔と背中を上げて言葉を吐く。


「ママはどこ? 痒くて痛いよ」


  テリンドルは緋色の飴弾を拾い上げ、

 それをフロータルの口に押し込んだ。


 「フロータル。僕がお前を守るから大丈夫だよ。

 ママは二階の寝室でいるよ。

 でも今はすごく危険なの。ヒステリックというか。

 オーバードラマティックというか。アンコトロール。すごく危険なの。

 お前も。覚えているよな。パパが帰るまで待っていて、

 今日もバルーンマンは僕がやっつける。」


「はははっ、はは、ははは、はっ」


 朽ちた陰鬱な実家がわらわらと笑う中、

 フロータルの表情は証明がなくなったゆえに、

 ぼつぼつと沈没した遊覧船のようで、乗客は海中からヤコブの梯子を探る、

 それは不可能ながら可能な梯子だったが、テリンドルは数々で無数の、

 反復された繰り返しの、平日と休日の、

 日中と夜中にそれがアイロニカルな証明だと気づいた。


 だから諦めた。ヤコブの梯子なんてなかった。

 皮肉にショックなテリンドルはフロータルの有限性を証明した。

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