第5話 容疑者
翌日。私は職場に電話をして、有給休暇をもらえることになった。
いつも親身になって話を聞いてくれる直属の上司に事情を話すと、たいそう心配をしてすぐに許可をおろしてくれた。ありがたい。要件を伝えて電話を切って、ホテルのテレビをつけてみる。有名な男性芸能人の二股発覚のニュースが流れていた。
これだから男ってやつは……などと毒づきながらも、私は内心ホッとする。昨日の事件はまだ報道されていないようだった。
シャワーを浴びて、目を覚ます。一晩明けて、私はようやく自宅に戻ろうという気になっていた。洗濯もしないといけないし、着替えもしたい。
ホテルの朝食バイキングに行きパンを珈琲で流し込む。さすがにまだ食欲全開というわけにはいかないが、しっかり食べられる。そのくらいには回復したようだ。
昨夜も思った。私って意外と図太い生き物なんだな。
(今日は一度帰って着替えてから、『純喫茶ブリッジ』に立ち寄ろう)
今日も出勤しているとは限らないが、奥田君に会えるとしたら——その方法しか思いつかなかった。
突然押しかけて迷惑ではないだろうか。きっと彼は眉を八の字にして少し困るに違いない。目に浮かぶ。まあしかし、昨日のことを共有できる人間なんて彼以外いない。私は事件の話を、ひたすら彼としたかったのだ。やましい感情なんて——
ㅤきっと、ない、はず。
※
ホテルのチェックアウトを済ませた私は、電車とバスで三十分程の移動を経て自宅アパートに帰ってきた。
まず真っ先に、一階に住むアパートの大家にお詫びに行かなければと思った。
私がこのアパートに住んでいるのは、母の従妹にあたる大家さんに格安で紹介してもらったからなのだ。「他の入居者には内緒」という条件付きで、本来の家賃の半額近い金額で住まわせてもらっているのだ。
確かに外観こそ古い造りだが、三年ほど前にリフォームしたこともあって、内装はすこぶるきれいだ。私は母とこの大家に頭が上がらないのだ。
「昨晩は大変ご迷惑をおかけしました」
玄関先で頭を下げると、大家さんは目を丸くして、「いいのよ、そんなこと! それより大丈夫? 大変だったわね——」と心配をしてくれた。昨日から、人の優しさが身に染みる。奥田君といい、井上刑事といい、世の中はこれほどまで善意であふれていたのか。
「ありがとうございます。何とか気持ちは持ち直しました」
「すごい数の警察が来ていたものね。あたしびっくりしちゃったわ」
「そうなんですか?」
昨夜はあまりに余裕がなくて、何台パトカーが停まっていたかなんて気にもしていなかった。それとも、私が警察署で聴取を受けている間に増えたのだろうか。
「あたしも詳しいことは分からないんだけどね、大変だったんでしょう? ヒナコちゃんのお部屋にたまに来ていた男の子――」
「ええ、まあ」私は言葉を濁す。「彼氏、でした」うん、でした、だ。
「アア、ごめんなさいね、あたしったら余計なこと言って」
「大丈夫ですよ」
少しだけ胸がチクッとする。
「本当、あたしでできることがあったら何でも言ってね。お母さんからも任されているんだから」
少し雑談してから大家さんの部屋を後にし、覚悟を決めて自分の部屋に向かった。
(あれ?)
私は二階の廊下で足を止めた。
隣の部屋に人の気配がある。
安井だ。
珍しいこともあるものだなと思った。ほとんど部屋を留守にしているイメージの安井が、こんなに長いこと部屋を空けていないのは初めてかもしれなかった。
深夜に騒がしくしてしまったし、安井にもお詫びに行くべきだろうか。
いつも無愛想で何を考えているか分からない眼鏡を掛けた隣人の顔が浮かんでくる。
――まぁ、いらないかな。
そんなに普段からご近所付き合いがあるわけではないし。
隣の部屋の前を通り過ぎ、自室の前でカギを取り出す。
カチャリ。昨日のような緊張感もなくドアが開く。
昨夜一度帰ったはずなのに、まるで一週間以上も留守にしていたような気分だった。昨夜の現場検証の跡もきれいに掃除されている。恐れていたバスルームも、何事もなかったかのように掃除されている。恐るべし、日本の警察の機動力。などと感心している。思っていたよりも動揺はしていない。
私はそそくさと着替えを済ませて、冷蔵庫の中の炭酸水を空けた。お酒はあまり強くない。その代わり、強めの炭酸水を飲む。頭がすっきりとして、気分が良くなるのだ。
大変なことが起こっているんだよな、と他人事のように考える。
さて、これからどうしよう。疲れが溜まっているはずなのにじっとしているのは性に合わないようだ。昨日の橋まで行こう。奥田君の働くカフェにお邪魔してみよう。
そう思ってソファから腰を上げた時。
――プルルルルルルッ
私は驚きで腰を抜かしかけた。
部屋に置いてある電話機がけたたましく鳴り出したのだ。普段スマートフォンに頼り切りで、家の電話機などほとんど使わなくなっていたので、驚くほど大きな音で耳に飛び込んできたように感じた。
(い、イエデン?)
実家の家族からかな? などと考えながら受話器を持ち上げると、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
『佐藤ヒナコさんのお電話でよろしかったですか?』
声色は低いが物腰の柔らかい喋り方――井上だ。
「井上さん! 私です、佐藤です! ——どうしたんですか?」
私は人の声や発言をしばらく忘れないで記憶できるという特技を持っていた。奥田君は一度見たお客さんの顔は忘れない、と言っていたが、私は「音」の記憶力がすこぶる良いのだ。
誇るわけではないが、学校での成績はそのおかげで悪くなかったし、仕事にも役立った。だが、人付き合いの上でそれは時にアダとなることも多かった。
細かいことを覚えすぎているのも、不都合なことが多い社会である。
『〇〇署の井上です。声だけでよくわかりましたね。昨晩は遅くまでご協力ありがとうございました』
「ちょうど今ホテルから戻ってきたところです」
『昨日の今日で突然のお電話申し訳ありません。ゆっくり休めましたか?』
「おかげさまで……私、案外神経が太いんだなって気付きました」
『それは——』井上は少し言葉を選びながら、『よかったです。ショックでしばらく寝込んでしまう方も多いですから』
気を遣ってか直接的には言わないが、「死体を見たら」という意味だろう。
「なにか進展はありましたか?」
『いえ、すいません。実はお話しておきたいことがございまして』
「話しておきたいこと?」
そして、井上が告げた言葉はしばらく私を茫然とさせた。
『検死の結果を受け、今回の事件は「他殺」の可能性も考えて、捜査本部を設置することが決まりました。つきましては、佐藤さんにも再度協力してもらうことがあるかと思います』
他殺。
あまりにも現実離れした単語である。最初はその単語の意味するところが分からず、他人同士の会話を聞いているかのような気分になっていた。
そして徐々にその意味を理解してくると、脳天にトンカチで一撃食らったかのような衝撃を受けることになった。殺された。あの島田が。私の部屋で。
「――本当に、殺人事件の可能性があるんですか? 事故ではなく?」
『現状、バスルームで自ら転倒して頭を打ち付けたとは考えにくい状況です。おそらくですが、硬いハンマーのようなもので殴られたと考えられます。まだ捜査段階ではありますが——』
語調を変えずに井上は言う。それがかえって冷たい現実を私に突き付けた。
完全に事故だと油断していた。――いや、心の片隅でそうであってほしいと願っていたのかもしれない。
そして、私の脳裏にある記憶がよみがえった。
(ベランダのカギが開いていた!)
あそこから逃げたのだ。部屋の中には誰もいなかった。だからそうとしか考えられないではないか。
(でも二階からどうやって——)
ベランダから下へ飛び降りたとしても、下のコンクリートに打ち付けられてただでは済まないだろう。頭から落ちたら死ぬだろうし、うまく足から着地できたとしても骨折どころでは済まなかったに違いない。
「あの、井上さん」私は尋ねた。「犯人の特定は、できているんですか?」
『申し訳ありません。捜査中のことにつきましては、お話することはできません……』
「そうですか」当然だろうな。「そうですよね」
『進展があったらまたご連絡します。戸締りをしっかりして、なるべく深夜の一人歩きは控えてくださいね』
井上は紳士的に言った。
私は電話を切りながら、ある一つの可能性に気付きはじめていた。
いわゆる密室状況だったこのアパートの部屋。玄関のカギは内側から施錠され、唯一のスペアキーは島田本人が持っていた。と、いうことは——
島田を殺した犯人が存在するのであれば(考えたくはないが)、ベランダから逃走を計ったとしか考えられない。
もしもベランダから飛び降りて逃げたのではないとすると——
いる。一人だけ。犯行が可能な人間が。
私は深呼吸をして冷静に考えた。このアパートは、隣部屋同士のベランダは非常に近くなっている。火災などの緊急時には、隣の部屋に逃げ込むことができるようにするためだ。簡単な仕切りはついているが、人並みの運動神経さえあれば、手すり伝いにベランダ間を移動することも可能なんじゃないか。うん、できる。きっと。
そしてそれが実行できる唯一の人間は、私の隣の部屋の住人。
分厚い眼鏡を掛けた、ずんぐりむっくりで猫背の男。
(安井しかいない)
そして彼は今もまだ隣の部屋にいる。
私は財布とカバンをつかみ、慌てて部屋を飛び出した。
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