果てなき好奇
大好きな芸人さんが引退を宣言をした。
それを知った僕は推しロスになった。やる気を無くした。むしろ、この状態で、なにかをしろ、と言われたら、右人差し指と右中指を尖らせ、言った相手に無言で目つきを敢行するくらいの心境。雨、降って地など固まらぬわ、と大声で叫びだしたい気持ちになった。しかしながら、この後、ツチノコという不可思議によって地が固まるのだが。
◇
冬の晴れたある日。学校からの帰り道。
目の前にモゾモゾと動く物体。土色をした蛇に見える。胴が短く異様に膨れている。いや、ちょっと待って。いやいや、待てって。むしろ少し待て。などと眉間を右人差し指で押さえて目をつむる。意味不明な脳内ミュージックが思考の海で再生される。感情が海底噴火。新たな島さえも創造してしまいそうなイキオイだ。
推しロスで果てしなく落ち込んでいた気持ちが一気にあがる。
「あ、あれって……、ツチノコ、だよな?」
などと独り言が出てしまう。
周りには誰もいない。僕一人。だから誰に聞いたわけでもない。確認したわけでもない。しかし、この問いに、誰でも良いから応えて欲しい、と願ってはいた。無論、願ったところで誰も聞いてはいないのだから答えが与えられるわけもない。
しばらくの沈黙。春が近くなった冬の日差しが心地いい。どこかから聞こえる野鳥の独奏。白い雲が、のほほんと右から左へと流れ、時が進んでいるのだと理解出来る。頬を撫でて吹き抜ける一陣の冷えた風。
ゾクッとして冷たい風によって遠のいていた意識がハッと醒める。
ス、スマホ。スマホだ。と逸る気持ちが叫ぶ。写真だ。まずは写真を撮って。そのあと動画を……、などと考えている内にポケットから取り出したスマホが手のひらの上でブレイクダンスを踊り出す。クリケットからのジャックハンマー。決めはヘッドスピン。それくらいのイキオイでスマホが跳ねまくって地面へとダイブ。
のち、ボトンと、大きくもやっちまったなぁ感満載の盛大な音を立てるスマホ。
ざざざ。
と、これまたヤバいくらい切ない音を立ててツチノコは草むらに飛び込み逃げていった。写真も撮れず、ツチノコがいたという証拠すら何も手にできなかった。悔やんでも悔やみきれない大失態。大声をあげて泣き出したい気分だ。でも少しだけ嬉しかったのはツチノコが現われて興味がそそられて推しロスで落ち込んでいた気持ちが紛れた事。前向きになったって事。その意味でツチノコ様々だった。
◇
スマホを右手に虫取り網を左手に。
そうなのだ。先日の失態を取り返す為、僕は、あのツチノコを目撃した場所に舞い戻ってきた。準備は万端。気持ちも万全。ツチノコを捕まえた賞金で満漢全席を完食で満腹コース。そそ。ツチノコには賞金がかけられているのだ。詳しくは、よく知らないけども、確か百三十万超えだった気がする。もちろん生け捕りに限るのだが。どちらにしろ百万円は超える金額が手に入るわけだ。
ツチノコさんを生け捕りで捕まえれば。うひひ。だわよ。
というかだな。お金もあるが、それよりも僕の尊厳を回復したいわけだ。うん。
そうなのだ。ツチノコを見つけたぜ、なんて学校で言ったらどうなったと思う?
ウソつくな、阿呆、なんて言われて、本当なら証拠を見せろよ、と言われてさ。
もちろん証拠なんてないから嘘つき呼ばわり。まあ、僕は普段から調子に乗ると適当に言葉を吐くクセがあるからウソつきキャラが定着している。だからウソつき呼ばわりは仕方がないと言えば仕方がない。自業自得。それでもツチノコは本当にいたんだから、めっちゃ悔しいというのも本音なんだけど。
しかもツチノコを見つけたというパワーワードが、そうさせたんだろうね。ツチノコを発見の報は学校中の噂になってさ。大嘘つきイコールで僕という式が出来上がってしまったわけだ。不本意なる等式証明。
だからこそ、僕は、いくらか曇天模様気味な空の下、また、あの現場に立った。
そこは不穏なる空気と期待感という名の風が入り交じった、とても奇妙な空間。
霧雨と呼ぶにふさわしい細かい雨粒が鼻頭を湿らせる。雨天の決戦。それが今。
い、いた。
なんという奇跡。なんという、ご都合主義的なモラル崩壊。などと、また誰にともなく独白してからスマホを構える。慎重に、慎重に、慎重を重ね。そしてツチノコの艶やかな肢体を写真に収める。カシャっという軽い音に気づいたツチノコ御前がチラリと僕を一瞥したあと、また、そっぽを向く。どうやら、いつでも逃げられるぜ、ヘイヘイ、などと余裕をかましているのだろう。まあ、そのおかげでツチノコの写真を撮れた。次は動画だ。……うん。動画も滞りなくゲット。だわよ。
そして本番。生け捕りの時がやってきた。
そろりそろりと忍び足で近寄る。ツチノコに。相も変わらずのツチノコは泰然自若で、のほほんと構える。対して緊張しまくりな僕が網を構える。そろりという細心の注意を払っているアピール満載な擬音が似つかわしい所作で。一歩一歩、また一歩と。よし。遂にきゃっつを射程圏内に収めたぞ。
覚悟しろや。いくぜ。やったる。ツチノコゲットだぜ?
「そうですね。もう疲れ果てたんです。だから思い切って引退を宣言したわけで」
ぐわッ!
手に汗を握ってスマホをポケットにしまったら手が変な所にあたって芸人さんの動画が再生されてしまった。推し芸人さんの引退会見の動画。しかも大音量で。
ざざざ。
と、また、お待ちになってプリーズな切なき音を立ててツチノコが逃げて行ってしまった。ツチノコ野郎は、阿呆が、なんて言いながらオケツを叩いているような気さえする。まあ、あれだけ大きな音で動画が再生されたのだ。当然と言えば当然の帰結。というかだ。大丈夫だ。今回はな。もちろん生け捕りでの満漢全席は、おじゃんになった。が、今回は写真と動画が在る。証拠があるのだ。と負け惜しみとも言い換えられる言い訳をして自分を納得させた。
てかっ!
「皆が考えている以上に騒がれるってのはキツいですよ。四六時中、注目されているから心が安まる時もないんです。ずっとストレスマックスな生活なんですよ」
うおっ。
まだ引退会見の動画が再生されていた。スマホを操作して止めようとも試みる。
「逃げ出したい。誰も僕を知らない場所で生きていきたい、なんて何度も考えましたよ。でも、それは叶わないから、せめて引退して静かに生きていきたいと」
静かに生きていきたいか。そりゃそうか。誰だって四六時中注目されていたら。
動画を止めようと動いていた手が固まる。
そう言えば。……思い出した。思い出したくない事を。余計な事を。くそう。そうだ。僕は、子供の頃、クワガタを捕まえて、珍しい蝉を捕まえて、虫かごで飼っていたんだ。大切に飼っていたんだけど、クワガタや珍しい蝉を自慢したくなり、友達に見せたら意外とウケが良くて。色んな人の家に持って行かれて……。
そうか。
そうだった。今まで忘れてた。そうだよ。
クワガタと珍しい蝉が入った虫かごが僕の手に戻ってきた時。
みんな、死んじゃって静かに眠っていた。思い出した。思い出したくない事を。
静かに生きていきたい……か。だね。誰だって、どんな生き物だって。ハハハ。
ごめん。
動画を止めようと動かしていた手を反転させる。静かに笑み。
そして、……スマホで撮ったツチノコの写真と動画を消した。
「まあ、いいや。学校での僕は大ウソつきでさ。普段から、そういうキャラだしね。ただ色んな意味で、ちょっとだけ悔しいけど、それも、またアリっしょ」
などと独り言にしては大きな声で独白して未練を断ち切った。
空を見上げる。いつの間にか灰色の雲が掻き消え、青空が拡がっていた。そこには風花が舞っていて綺麗だった。それがツチノコの代わりのご褒美かって思った。
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