ep.1ー4
「なぜ·····っ」
フーディエの声は細く揺れていた。揺れる瞳が必死にヒースの姿を追いかける。その背中は傷つきながらもなお、彼女を守る盾のようにそこにある。
ヒースは、その身を賭して、フーディエを守ったのだ。
ヒースの表情には、苦痛を押し隠す余裕さえない。ただ穏やかな微笑みが浮かんでいる。その微笑みは、全てを受け入れた、運命を悟った者のそれだった。
「·····だって、俺は、君の花婿だから」
一言。
その一言が、フーディエの胸を抉るように響く。余計な飾りも理屈もない。ただ彼女の為だけに紡がれた言葉。それはまるで、彼女の中に眠っていた感情を呼び覚ますかのようだった。
しかし、その輝きも儚い月光のように一瞬の幻影にすぎない。ヒースの身体は徐々に重力に逆らえず、地に膝をついた。力を失った彼の体がゆっくりと横たわり、地面に流れ出る血が赤い花のように広がっていく。その赤い紋様は、彼の生と死、そして運命そのものを映し出しているかのようだった。
「〜っ、馬鹿な男です」
フーディエは動けない。時間が凍りついたかのようにその場に立ち尽くすだけだ。ヒースの言葉が彼女の中で繰り返される度、胸の奥深くに刺さったその感情が、徐々に形を変えていくように感じられた。
ヒースの血に濡れた地面に、静寂が訪れる。月明かりが彼の横たわる姿を淡く照らし、その影が【吸血鬼】の背後にゆらめく。フーディエは荒い息をつきながら立ち上がった。彼女の瞳は、痛みと怒りの狭間で揺れている。
「お前は、私が殺します」
低く抑えた声には静かな怒りと、揺るぎない覚悟が滲んでいた。フーディエの手には、冷たい銃が未だしっかりと握られている。彼女の視線は鋭く、闇の中で赤く光る【吸血鬼】の瞳を捉えていた。
【吸血鬼】は口元を歪め、侮蔑の笑みを浮かべる。
「無駄だ。蜂風情がどれだけ足掻こうと、我々には敵わない」
フーディエはそれには答えず、銃口を【吸血鬼】の胸元に向けた。その動きには一切迷いがない。空気が一瞬にして張り詰める。そして、鋭い銃声が夜を切り裂いた。
銀の弾丸が月光を受けて閃光を描き、【吸血鬼】の腕を正確に貫く。
「ぐっ·····!」
【吸血鬼】の苦痛の叫びが夜に響き渡る。しかし、フーディエは容赦しない。続けざまに銃声が響き、彼女は次々に弾丸を放つ。その度に、銃の反動が腕に響くが、彼女の瞳には迷いの欠片もなかった。
しかし、【吸血鬼】の動きは速い。傷つきながらも翻るようにして、フーディエに襲いかかる。そして、一瞬の隙を突いて彼女の手から銃を弾き飛ばした。
「終わりだ!」
【吸血鬼】が叫び、爪が彼女の喉元を狙う。
その時、フーディエは抉られた左肩に触れた。
滴る血液を指先に纏わせるようにして、宙に撒き散らす。
次の瞬間、その血液がまるで意志を持つかのように眩い光を放ち、形を成していった。それは黒く紅く輝く大鎌、血で構築された刃だった。
刃が月光を反射し、夜の闇に鮮やかに浮かび上がる。その場の空気が一変した。
「·····ッ!」
【吸血鬼】が僅かに後退し、その光景を見つめる。ヒースも同様にフーディエを、そしてその手に現れた鎌を見つめていた。
フーディエが成したその技は、あまりにも人間離れしている。そして、【吸血鬼】にとっては見慣れた、そして親しみ深い光景だったのだ。
【吸血鬼】の鋭い表情に、一瞬だけ恐怖が滲む。
「まさか·····、貴様」
【吸血鬼】はその光景に一瞬、動きを止めた。しかし、すぐに口元を歪め、笑みを浮かべる。
「【吸血鬼】が、【吸血鬼】を討とうというのかっ·····!」
フーディエは静かにその大鎌を握りしめた。フーディエの瞳が色を変えて、シトリンのように輝く。月明かりに映えるその姿は、まるで夜の女神のようで、化け物のそれだった。
「私は、貴方のような存在を赦しません。それがたとえ·····、『同胞殺し』と呼ばれることになろうとも」
フーディエの声が冷たく響く。彼女の言葉に呼応するかのように、手にした大鎌が光を帯びる。その姿は、もはや人間ではない。
【吸血鬼】となった彼女の瞳は、宝石のように輝き、乱れる髪はほんの少し緑色を帯びていた。
「面白い!」
【吸血鬼】が再び動く。鋭い爪が彼女を貫かんとする刹那、フーディエは躊躇なくその大鎌を振り下ろした。血の刃が空を裂き、【吸血鬼】の体を深々と斬り裂く。その攻撃に【吸血鬼】は口元を歪めて笑う。
「〜っ、同胞よ!その力、試してみるがいい!」
再び爪を振りかざし、鋭い突進を繰り出す。その速さは、躱す余地を与えない程だ。
しかしフーディエは微動だにせず、その場に立ち尽くしていた。そして【吸血鬼】の攻撃が彼女を貫かんとする瞬間、彼女の大鎌が鮮やかに軌跡を描き、振り下ろされる。
「ぐっ·····!」
【吸血鬼】が唸り声をあげる、次の瞬間には、フーディエの姿が目の前から消えていた。
「·····遅いです」
どこからか響いた声に【吸血鬼】が振り返る。目の前にフーディエが立っていた。視界に捉えた時にはもう遅い。大鎌が軌跡を描き、重々しく振り下ろされる。空気が裂け、【吸血鬼】の体に深々と傷を刻むと同時に、その血が飛び散った。
「っ、いい気になるな!」
【吸血鬼】は苦痛に歪んだ顔を無理やり笑みに変え、闇の中に溶け込むように姿を消した。その気配が次の瞬間には、フーディエの真横から襲いかかる。
しかし、フーディエは寸分の狂いもなく大鎌を横に振った。【吸血鬼】の体が力なく後退する。フーディエは一瞬も隙を見せず、大鎌を軽やかに振り直し、二撃目を【吸血鬼】の胸元に叩き込んだ。
「くそ·····っ」
【吸血鬼】は傷つきながらも力を振り絞り、血のように赤い爪でフーディエを狙う。しかし、その攻撃は彼女に届かなかった。フーディエは攻撃の軌道を正確に見極め、一歩も動かずにその爪をすり抜けて見せたのだ。そして大鎌を胸元に重く叩き込む。
「これで終わり、です」
静かな一言と共に、彼女の大鎌が最後の一撃を刻む。その一撃は、まるで夜そのものを切り裂くように鮮やかだった。
【吸血鬼】は絶叫を上げる間もなく崩れ落ちる。
【メリッサ】で作られた銀弾で傷つき、血の刃で斬り裂かれた【吸血鬼】は、もはや動く力を失いつつあった。それでも最後の意地で彼女を睨みつけ、低い声で呟く。
「我々のような·····、化け物がっ·····、何を守れる·····?」
【吸血鬼】の体は、夜闇に溶け込むようにゆっくりと霧散し始めていた。フーディエはその問いを静かに聞いていた。しかし、答えることはなかった。
【吸血鬼】はその形を保つことすら出来ず、崩れかけた体が地面に沈むように膝をつく。
「ここまで、か·····」
掠れた呼吸音が僅かに響く。深手を負ったその姿は、かつて恐怖を象徴した威容の欠片すらない。ただ朽ちていく運命に身を委ねる者のそれだった。その顔には、何故か安堵の色すら窺える。それでも、命の灯火は僅かに残り、彼の存在をこの世界に繋ぎ止めていた。
フーディエは迷いなく一歩を踏み出し、大鎌を静かに構える。その刃先に宿る重い決意が、彼女の瞳を冷たく彩る。静寂の中に沈むような怒りが、その瞳の中で揺れる。無慈悲にも見えるその眼差しの奥には、怒りを超えた強い決意と慈悲が秘められているようだった。
彼女がとどめを刺すべく刃を振り上げたその瞬間、緊迫した空気を裂くように、男の声が響いた。
「待って、フーディエ!」
その声は、ヒースのものだった。フーディエは眉間に皺を寄せながら振り返る。
声の主である彼は、傷だらけの体を酷使しながら立っていた。彼の姿はあまりにも痛々しく、血で濡れた服は赤黒く染まっていた。純白の面影などありやしない。それでも、彼の眼差しは揺るぎなく、フーディエに向けられていた。
「お願いだ、待ってほしい」
「·····奴を逃がせば、また誰かが犠牲になります。見逃す理由は、どこにもありません」
フーディエの言葉は冷たい刃のようだった。彼女の声には微塵の揺らぎもなく、使命に生きる者としての覚悟が滲んでいる。
しかし、ヒースはその言葉に応えず、ただ静かに首を振る。その仕草には、無言の説得が込められていた。彼の瞳の中に湛えられた慈愛の光が、フーディエの強固な意思をそっと溶かそうとしているかのようだ。
「少しでいいんだ。あと少し·····、だけ」
その言葉が響いた刹那、後ろから足音が響いた。影のように静かに現れたのは、純白のワンピースを纏った一人の女性だった。
彼女は、震える足取りで【吸血鬼】へと歩み寄る。その体は風に揺れる木の葉のように脆弱でありながら、その瞳には決意の色がはっきりと宿っていた。彼女の手が【吸血鬼】の崩れかけた体に触れる。
「遅くなって、ごめんなさい」
震える声で告げられたその言葉には、計り知れない感情が詰め込まれていた。涙で滲む瞳が、【吸血鬼】の顔を必死に見つめている。
白く清らかなワンピースは、地面の血溜まりに触れる度に赤く染まっていく。それはまるで彼女の覚悟そのものが形となったかのように見えた。お世辞にもウェディングドレスとは言えやしない。それなのに、彼女は酷く美しかった。
フーディエはその光景に息を飲み、思わず一歩後ずさる。
「何故、花嫁の彼女がここに·····?」
思わず漏れたフーディエの呟きに、彼女はすみませんと一言だけ謝った。それ以上は答えることなく、女性はただ【吸血鬼】だけを見つめ続けている。その瞳には熱の篭った愛情が宿っている。まるで時間すらも彼女達の為に止まっているようだった。
「愚か者め·····」
崩れかけた【吸血鬼】は、僅かに微笑む。血に濡れ、塵となっていくその顔には、僅かな疲労と諦念、そして言葉に出来ない何かが宿っていた。
「騒ぎに乗じて、逃げろと言ったのに·····、誰の為の茶番だと思ってるんだ」
彼の言葉には僅かな苛立ちと自嘲が滲んでいたが、それでも彼の紅い瞳は彼女だけを見つめていた。その視線を真っ直ぐに受け止めながら、彼女はそっと微笑む。
「あんな貴族の男と破談になったって·····、貴方がいないと意味がないわ」
その声には、決して揺るがない覚悟と深い愛情が込められていた。それは、奪う者と奪われる者の間には存在し得ないものだ。
誰がどう見ても、二人の関係は明らかだった。
ヒースが静かな声が優しく響く。
「·····この村には、決して語られることのない愛があった。彼らは禁じられた運命の中で、それでも惹かれ合ってしまったんだ」
彼の言葉は、まるで遠い昔話を語る吟遊詩人のようだった。旅人と名乗った彼なら、何も間違いという訳でもないのかもしれない。
月明かりに照らされたヒースの横顔には、どこか物憂げな影が落ちている。それは、言葉の一つ一つに重みを与え、耳を傾ける者の心を打つ力を宿していた。
フーディエはその声に誘われるように、彼へと瞳を向ける。フーディエの瞳には疑問と僅かな動揺が混じっていた。
「お前は知っていたのですか、二人のことを」
ヒースは僅かに肩をすくめて、苦笑を浮かべた。その笑みにはどこか切なさが漂い、胸の内に秘めた思いが滲み出ている。
「知っていたよ。·····それでも、何も言えなかった」
そう呟きながら、彼は申し訳なさそうに一息をつく。
「彼らが少しでも自由でいられるようにしたかった。だから身代わりの花婿になったんだ。彼らの事情を知っている俺なら、二人の為に何か役に立てると思って·····。ごめんね」
ヒースの声には、後悔と愛情が入り混じったような複雑な響きがあった。
フーディエは瞳を閉じ、ゆっくりと息を吐く。その手から力が抜け、大鎌が静かに下ろされる。彼女の瞳に宿るのは怒りではなく、深い悲しみと静かな慈愛の色だった。
「【吸血鬼】と人間が愛し合うことは許されません。どちらかが死ぬまで、その愛も、呪いも終わらない。私達は、呪われているのです」
その言葉は彼女自身への呪縛のように響き、重く空気を震わせた。
しかし、その呟きにも動じることなく、純白を纏った花嫁は振り返らなかった。彼女の腕の中には、崩れゆく吸血鬼の体があった。彼女は震える手で彼を抱きしめ、その冷たくなりつつある頬をそっと撫でた。
「それでも·····、わたしは後悔しません」
彼女の声は涙で震えていたが、その中には確かな決意が滲んでいた。花嫁は花のように笑う。
「きっと·····。この人と愛し合う為に、わたしは生まれたんです」
月光がそっと二人を包み込む。その柔らかな光は、まるで彼らの罪と悲劇を静かに洗い流すかのようだった。【吸血鬼】は、花嫁に身を預けるように寄り添い、最後の力を振り絞るかのように微笑んだ。その笑みは儚くも穏やかで、全てを受け入れた者だけが浮かべられる表情だった。
花嫁の瞳から涙が零れ落ちる。それは月光に輝き、宝石のように煌めきながら地面へと消えた。けれど、彼女の顔には悲しみ以上の静かな安らぎが漂っていた。
ヒースは視線を遠くへ向けた。その瞳には、彼らの選んだ運命を受け入れる哀しみと敬意がある。
「·····これしか、なかったのかな」
ヒースの声は静かで、それでいて深い重みがあった。フーディエは大鎌を握る手から力を抜く。気がつけば、その大鎌は音もなく彼女の手から消え去っていた。
「·····彼はもう長くありません。とどめを刺す必要もないでしょう」
フーディエの声には、彼女自身も気づかぬ程の哀しみが滲んでいた。
夜風がそっと二人を包む。その風は穏やかで、まるで【吸血鬼】と花嫁の永遠の別れを惜しむかのようだった。
再び夜の闇がその場を覆い尽くし、静寂が戻る。その中で、運命という名の歯車は尚も回り続けているのだった。
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