ep.1ー5
夜風が冷たく頬を撫で、乾いた地面に微かな音を残して消えていく。
暗闇の中で、フーディエはヒースの腕を自分の肩に回し、その重みを支えながら、無言で歩みを進めていた。
彼女の足音は微かに乱れ、時折息を呑むような音が漏れる。月明かりが二人を照らし、地面に長い影を落としていた。
血の匂いが鼻を突く。二人の体は戦いの爪痕に覆われ、服には鮮やかな赤と紅が染みていた。
しかし、お互い致命傷ではない筈だった。少なくとも、【吸血鬼】であるフーディエの傷は、時間と共に癒えるだろう。
ヒースの方も、人間といえど、死に至る傷ではなかった。その筈なのに·····。
「しっかりしなさい!」
フーディエの声は冷静さを装っていたが、焦燥の色が拭いきれていなかった。その言葉が届く筈だと、そう切に願う声だった。
しかし、ヒースの返事はない。
その代わりに彼の体がふと揺れる。肩にかかる重みが増し、フーディエの足取りを更に重くした。
「っ·····、聞いて、いるのですか?」
足を止め、彼女は急いでヒースの顔を覗き込む。
彼の唇の端から細い赤い筋が頬を伝い、地面に滴り落ちる。月明かりに映えるその血は、妙に鮮やかだった。
ヒースは胸元に手を置き、浅く苦しげな息を繰り返している。
「·····あれ、おかしい、な」
彼の声は掠れている。今までの軽口も影を潜めていた。
その様子に、フーディエの表情が一瞬で険しくなる。
「お前·····、【吸血鬼】の血を浴びましたね?」
彼女の声が低くなる。その中には、冷たい怒りと、押し殺した動揺が滲んでいた。
「【吸血鬼】の血は、人間にとっても【吸血鬼】にとっても、毒となります。人間にその毒が打ち勝てる筈も·····」
彼女の言葉は途中で詰まった。ヒースが、薄い笑みを浮かべたからだ。
「俺の失態だね·····。ごめん、君に·····、迷惑をかけるつもりじゃ、なかったんだけど·····」
フーディエは歩みを止める。その仕草には怒りではなく、静かな緊張感が漂っていた。
「黙っていなさい」
彼女は彼の額に手を置いた。火が灯ったかのような熱が指先に伝わる。その熱と対照的に、彼の肌は青白く、徐々に生気を失っていく。
「このままいけば·····、貴方は、間違いなく死にます」
静かな、しかし冷徹な響きを持つその言葉に、ヒースは微かな笑みを浮かべた。
「俺は·····、花婿として、役目を果たせたから。それだけで·····」
その言葉は、彼の薄れゆく意識と共に途切れるかと思えた。しかし、彼女の叫びがそれを遮る。
「黙って!」
その声には、彼女自身も気づかない感情が溢れているようだった。怒り、悲しみ、恐怖、そして·····。
目を伏せたフーディエは、拳を握りしめる。
「ねえ·····」
ヒースの目が薄く開く。その瞳は、まるで儚い光を宿す星のようだった。けれど、その光はやがて消えゆくのだろう。
それがただ、どうしようもなく悲しかった。
「·····人は死ぬと、どこへ行くんだろう」
掠れるような声が闇に溶けていく。その問いに隠された本音が、フーディエの胸に静かに波紋を広げた。目を逸らしたくなる程のその弱々しい言葉は、彼女の心の奥に眠る感情を呼び起こすようだった。
「お、れは·····、ひとりに、なる、のかな·····」
ヒースの声が途切れ途切れに続き、その瞳から徐々に光が失われていく。
フーディエは瞳を閉じて、冷たい夜風の中で深く息をついた。
ヒースを地面に静かに横たえると、フーディエは彼の顔を覗き込む。月明かりに照らされたその顔は、青白く、唇には一片の血色も残っていない。
それでも、その瞳はまだ彼女を捉えていた。けれど、その奥に宿る命の灯火は、今にも消えようとしていた。
「·····貴方は、こんな世界でも·····、生を望みますか?」
彼女の声は低く、しかしどこか震えていた。問いかけながら、彼女自身がその答えを恐れているかのようだった。
ヒースは弱々しくも微笑みを浮かべ、掠れた声で答えた。
「·····まだ、君の隣にいたいよ」
そう願うヒースの冷たくなりつつある手を、フーディエは両手でそっと包み込んだ。
次の言葉が続く。
「たとえ、それが呪いなんだとしても·····、俺は愛を信じたいよ」
それはただの告白ではなかった。
それは、彼の望みであり、彼が抱える全ての葛藤の中で、唯一、本当に輝いているものだった。
彼の言葉を受け止めながら、フーディエはそっと瞳を閉じる。
次に瞼を開けた時、彼女の瞳には黄金の光が灯っていた。それは、彼女が【吸血鬼】である証拠だった。
彼女は躊躇うことなく口を開く。
「お前には、ここで死んでもらいます」
その言葉は宣告であり、覚悟の表明だった。
フーディエは彼の頬にそっと触れる。冷たい彼の肌が指先に伝わり、それが彼の命が尽きようとしていることを痛い程に実感させた。
それでも、彼女は予感していた。
たとえどんな代償が待っていようと。
たとえこの選択が間違っていようと。
たとえこの願いの先に地獄が待っていようと。
──この愛が、呪いしか生まないのだとしても。
それでもきっと、この想いと選択を後悔する日など来ない。
「·····ヒース」
フーディエは静かに彼の唇へと顔を近づける。その唇からは鮮やかな赤の血液が零れていた。
微かに震えるヒースの呼吸が、彼女の肌に触れる。
最後にもう一度、彼の瞳を見つめた。
アメシストの瞳が彼女のシトリンを見返す。
「フーディエ?」
彼が小さく名前を呼んだその瞬間、彼女は答えるように、その唇を塞いだ。
「·····っ」
唇が触れると同時に、フーディエの零す血がヒースの体へと流れ込んだ。血液は、唇を伝って彼の中へと侵入する。甘さと鉄のような苦味が混じり合ったそれは、まさに呪いそのものだった。
甘味と苦味を伴った血液が、彼の中で毒のように広がり、ヒースの存在そのものを犯していく。
「·····くっ、ぁ」
ヒースの体が激しく反応する。背が弓なりに反り、喉から苦痛の声が漏れる。フーディエは自分の全てを捧げるように、彼の手を握り返した。
フーディエの血がその接触を通じて、彼の体に流れ込む。彼の体に、新たな生を灯すように。
唇を離したフーディエは、静かにヒースの顔を見つめた。彼の肌には未だ青白さが残っていた。
ヒースの口から苦しみの声が漏れる。
フーディエは迷うことなく彼をそっと抱き寄せた。彼の頭を自分の腕で支え、ヒースが安心できるようにと静かに包み込む。
「傍に·····、います」
純白のウェディングドレスを纏った彼女は、ヒースの花嫁のようだった。
フーディエはそっとヒースの髪に触れて、優しく撫でた。彼の苦しみを取り去ることはできなくとも、せめてこの瞬間だけは彼を安心させられるように。
ヒースの指がフーディエの腕を掴む。その力は弱々しいが、そこには確かに彼の生きたいという意思が感じられた。フーディエはその手を取り、自分の指を彼の手のひらに絡める。
「·····花嫁は、花婿を見捨てません」
それは甘い、甘い、毒の滲んだ声だった。
ヒースの呼吸は荒く、苦痛の色が瞳を揺らしている。それでも、彼の視線はフーディエを捉え続けていた。その瞳に宿る信頼と愛情の深さに、フーディエは胸が締め付けられるような思いだった。
·····やがて、ヒースの瞳がゆっくりと閉じられた。
喉から漏れる苦しげな呼吸は次第に穏やかになり、彼の体から力が抜けていく。それが生を意味するのか、死を予感させるのかは定かではない。
「·····ありがとう、フーディエ」
その声は掠れていたが、柔らかな響きを含んでいた。言葉の奥には、言い尽くせない感謝と何か深い感情が滲んでいるようだった。
その全てを理解することは出来ない。それでも。
「おやすみなさい、ヒース」
フーディエは彼の手をそっと握りながら、小さな声で囁いた。
「良い夢を、見られますように」
夜の静寂が二人を包み込む。月光が闇の中で唯一の光として、穏やかに彼らの姿を照らしていた。その光の中で、フーディエは瞳を閉じたまま祈るように唇を震わせる。
運命は、彼女達の紡ぐ夢の中で形を変えて宿る。それは、孤独と愛に絡め取られた二人の行く先を捉えるように。
眠るヒースの冷たい手に、蝶がふらりと舞い降りた。触れた瞬間、その蝶の羽は光の粒となって消え去る。
それはまるで、かつて交わされた約束の断片が、夢となって形を変えたようだった。
フーディエはその儚い光を見つめて、静かに唇を動かす。けれど、彼女の言葉は風にかき消された。
月だけがその祈りと囁きを見守っていた。
·····やがて、夜の闇が二人を包み込み、世界は再び静寂の中へと還る。その静寂の中、フーディエの心には、ただ一つの願いだけが響いていた。
赤で染まったフーディエの手が、ヒースの頬に触れる。彼女の瞳から一筋の涙が零れた。
それは月の光によって煌めいて、孤独な夜の静寂を彩るのだった。
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