ep.1ー3

 霧が深い森の奥、古びた大聖堂の扉が重たく軋んだ。静寂の中に微かに響く風の音が、不気味に反響する。錆びついた蝶番が奏でる音は、遠い記憶を呼び覚ますように響いた。

 窓からは月の光が降り注ぎ、二人の影を照らしている。


「·····くれぐれも、下手な真似はしないで下さいね」

「うん、肝に銘じておくよ。でも、君も無茶しないでね」


 フーディエとヒースが、ゆっくりと祭壇へ歩み寄る。二人の足元には無数の白い花弁が舞っていた。

 祭壇の上に並ぶ燭台は、二人を祝福するように照らし、その炎は互いに寄り添っている。


「·····私が愛を誓うだなんて、馬鹿げています」


 式はそのままゆっくりと進んでいった。村人達は静かな眼差しで二人を見守っている。出来るだけ距離を保って送られる視線は痛くも痒くもない。


 神父の言葉が、古びた響きを持って空気を満たしていく。フーディエとヒースの手が重ねられる。

 その手は、まるで運命に導かれるように重なり合った。もう、言葉は交わされない。ただ、互いの手が触れ合うその瞬間、空気が震えたような気がした。

 月の光がその手に注ぎ、二人の姿を神秘的に照らしていく。


「·····その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか?」


 応えるように、やがてヒースの手でヴェールがゆっくりと上がり、二人の顔が近づく。フーディエは形式的に瞳を閉じた。彼の息が、僅かに彼女の唇に触れる。


 ──その瞬間、突如として空気が一変した。


 冷たい風が辺りを包み込み、肌を撫でる。闇が立ち上がるように、何かが近づいてくる。その気配に恐怖が背筋を走る。


 空が引き裂かれるように、ステンドグラスが大きな音を立てて割れた。


 虹色の硝子が降りかかると同時に、漆黒の霧を纏った異形が現れる。それは、人の形をしていながら、どこか不自然で歪な姿をしている。闇そのものが、形を成したかのような異質さだった。瞳は紅く燃え立ち、獲物を逃さない捕食者の眼差しでフーディエを捉えている。息をすることすら忘れさせるように。


「·····花嫁は、頂いていく」


 低く響いた声は、夜の静けさをも引き裂く。

【吸血鬼】──その男は、そう呼ばれる化け物に違いなかった。


 その事実は、祭壇に集まっていた村人達を恐怖の底へと叩き落とした。小さな叫びがあちこちで上がり、足音と共に影が散る。


 人々が逃げ惑う中、その場に留まったのは、フーディエと、彼女の腕を掴むヒースだけだった。


「·····怪我は、ないかな?」


 ステンドグラスの破片から守るように、ヒースはフーディエを自身の胸の中に閉じ込めている。ヴェールから硝子を振り落とす姿は、こんな状況だというのに、彼を花婿と思わせるのに足りた。


「えぇ、お陰様で。貴方も、何処か安全な場所に隠れていてください」


 フーディエの言葉は冷たく、けれどどこか優しさを滲んでいた。彼女はヒースの手をそっと振りほどく。その仕草には迷いもなく、ただ強い決意だけが宿っている。


 ヒースは何か言葉を探しているように彼女を見つめた。しかし、フーディエはその視線に応えずに冷然と前を向く。【吸血鬼】と、目が合った。


「私は聖蜂機関【メリッサ】の者です。【吸血鬼】、お前を殺しに来ました」


 その言葉と共に、フーディエは静かにヴェールを取り払う。ドレスの裾をあげれば、隠されていた拳銃が、銀色の冷たい光を放ちながら彼女の手に収まった。銃口が【吸血鬼】の胸元を狙い定め、呼吸が短くなる。

【吸血鬼】は苛立ちを露わにした。


「人間風情が·····、我々を狩れると思うな!」


 フーディエの決意に応えるように、【吸血鬼】が動く。時間すらも歪ませるかのような速さで、闇の塊が彼女の前に迫った。その鋭い爪が、光を切り裂くように振り下ろされる。


 速い。そう感じる間もなく、【吸血鬼】の爪が空気を切り裂き、冷たい光を伴って振り下ろされる。その動きは残酷でありながら、どこか美しさも混じっていた。まるで夜の闇そのものが刃を持ったかのようだ。


「っ、」


 フーディエは身を引き締め、彼の動きを見据える。【吸血鬼】の鋭い爪の一撃をかわし、銃口を向けた。しかし、【吸血鬼】は予想を超える速さで闇に溶け込み、次の瞬間には背後から襲い掛かってくる。振り返りざまに引き金を引くも、その影のような動きを捕らえるには至らない。


「逃げてばかりの癖に、よく言いますね·····!」


 息を切らしながらも、フーディエの瞳は決して揺るがなかった。


 しかし、その瞬間、フーディエの視界の端に僅かな揺らぎが映り込んだ。闇の中に、存在を隠すかのように震える小さな影がある。微かな足音すら聞こえない程に弱々しいそれは、息を潜めるように震えていた。フーディエは無意識の内にその方向へ目を向ける。


 闇の向こう、ほのかな光に浮かび上がったのは、ただ呆然と立ち尽くす幼い子供の姿だった。


「っ、早く逃げなさい·····っ!」


 声を張り上げる。

 しかしその言葉は届かない。恐怖に支配されたその小さな体は、声に反応することすら出来ないようだった。


 その瞬間、空気が凍りつく。


 闇を引き裂くように、【吸血鬼】の影が動いた。黒い爪が闇の中から現れ、まるで夜そのものが形を持ったかのように鋭く彼女達へと迫る。風が切り裂かれる音が耳を刺し、爪の一閃が視界を覆った。その鋭さは冷たく、残酷な程に死を予感させる。


 避けることは容易だった。けれど、その行動がもたらす結末をフーディエは知っていた。その場所には、まだ何も知らずに震える小さな命がある。一瞬の迷い。しかし、それも束の間のことだった。彼女の瞳にあった揺らぎは次の瞬間には消え去り、静かな光が宿る。


 銃を構えた手に力を込め、深く息を吸う。彼女の影は、闇の中でさえ堂々と立ち続けているように見えた。その影は、もう何者をも恐れない。


 ──瞬間、爪が振り下ろされる。


 フーディエは避けなかった。

 鋭い痛みが彼女の左肩を深々と貫く。熱が鋭い刃と共に全身に広がり、血潮が夜の闇を彩る。飛び散った赤は、月明かりの下で花弁のように散り、静かに地面を濡らした。その温かさが嫌に彼女の意識を揺らす。


「·····っ」


 痛みの波が彼女を襲う。フーディエはその場に踏み留まり、子供を見る。

震えるように見上げる子供の目が、彼女の顔を捉えた。痛みで強張るその表情は、しかし、どこか凛然としていた。


 ふと、フーディエの手がゆっくりと動く。彼女は震える子供の髪にそっと触れた。その手は子供を優しく撫でている。その仕草には痛みを超えた穏やかさがあった。


「大丈夫·····、私は強いですから」


 その声には、どんな苦しみも受け入れるような慈悲深さと、子供への優しさが滲んでいた。まるで、全ての闇を溶かしてしまうかのような、そんな温もりを宿している。


 涙を滲ませていた子供は、その言葉に背中を押されるように駆け出す。幼い足音が去っていく。

 その姿を見送る彼女の瞳には、小さな安堵の色が見えた。僅かに口元が緩む。

【吸血鬼】は眉間に皺を寄せた。


「愚かな奴だ!」


 漆黒の刃がフーディエの胸元を狙うように形を変える。その動きは風よりも速く、確実に彼女の命を摘み取るためのものだった。


 負傷した腕から力を抜かないまま、フーディエは迫り来る闇を迎え撃つために動く。足元に滲む赤に構う暇はない。しかし、攻撃の軌道は彼女の予想をわずかに超えた。間に合わない。

 それでも彼女の瞳は、目の前の【吸血鬼】から一瞬たりとも逸らさなかった。


「·····っ、フーディエ!」


 その声は、月光を引き裂くかのように低く穏やかでありながらも、力強さを持っていた。


 視界に飛び込んだのは、黄金の光に包まれた影──ヒースだ。

 彼の瞳には迷いの欠片すらなかった。

 彼は選んだのだ。


 ヒースは迷うことなく、躊躇うことなく、フーディエと【吸血鬼】の間に割り込んだ。

 その刹那、彼の動きに呼応するように闇がざわめき、冷たい刃が閃く。


 闇を裂いて飛び込んだヒースの背中が、フーディエの視界いっぱいに広がった。


「──ヒースっ!」


 無惨にも、彼の体を刃が貫く。

 鈍い音と共に、紅い雫が宙を舞い、空に散らされた赤い花が弧を描く。

 しとり。微かな音が大理石の床を打った。

 それは妙に鮮やかで、酷く気持ちの悪い音だった。



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