第4話
「……描かないの?」
そう、聞いてきた。今、アンタにだけはそれを言われたくなかった。
「描けなくなった……」
「え?」
「アンタのせいよ! アンタがいるから、描けないの!!」
西川のせいにせずにはいられなかった。だって、私は満足してた。満足できていたのに、その上をまだ目指す西川を見て、もっとって思ってしまった。欲が生まれて、勝ちたいって。でも、このままじゃ勝てないって、分かってしまったから。
だから、私は描けなくなった。
泣いている私を見て、西川はそっと私の肩に手を置く。そして、少し
「僕は君が絵の道に進むって言ってくれた時、本当に嬉しかったんだ」
何の話、と言いかけて思い出す。そういえば、そんな話をしたような。目を擦って、涙を拭う。
「君の幻想を、凄いと思った。本当だよ。僕だって、君に勝ちたい」
西川がそんな風に思っていただなんて思わなかった。アンタの方が先に進んでいるのだと私は思って、それで描けなくなったのに、どうしてその相手に私は今、慰められているんだろう。
西川は懸命に、絞り出すように言葉を発した。
「だから、だからさ」
私の肩に置かれた手に、力が入るのを感じる。
「今更描けないなんて、言わないでよ。僕はまだ、君に勝ってすらいないんだよ」
西川の方が苦しそうな、悲しそうな声をするから、私は思わず「ごめん」と謝っていた。
どれくらいの間、お互いに黙っていただろう。ゆっくりと西川の手が離れ、何も言わずに帰っていった。それからしばらくして、私だけが絵画教室に戻った。池内さんが、おいで、と手招きするから、隣に座る。
「西川君、お父さんの跡を継いでほしいって言われたんだよ」
それは、私の知らない話。西川のお父さんは、自分の医院の跡を西川に継がせたかった。でも、西川はとっくに常桜高校に進学先を決めていて、美術部で活動する気だったらしい。だけど、それはお父さんに反対されて、入りたいと思っていた部活には入れず、絵画教室に通うことも制限されて、西川が自由に描けるのは自分の家でだけ。そして、その時間すらも今や三年近く先の受験のために使えと言われているらしい。
西川が抱いていた葛藤を聞いた私は、何も言えずにいた。エリートな家に生まれて、ちやほやされ続けていたんだとばかり思っていた私の考えが浅はかだった。西川は西川で、迷っていたのに。
「それでも、描くことを辞められないからって反発して、怒られたって。馬鹿だよねぇ。なんでそんなことしたんだと思う?」
「……描きたかったから」
「それだけじゃない。西川君には、目標があるんだ」
池内さんは、なんで気づかないかなぁ、とぼやいて。それで、私の額を軽く
「遥ちゃんを抜きたいって、目標が」
その言葉に、私は頭が混乱する。私を抜くのが、目標? なんで? だって、私は西川みたいな緻密な絵は描けないのに。目指す先は、きっと違うのに。
「私……? なんで、私……?」
疑問形の言葉しか浮かばない私に、池内さんは笑いながら呆れる。ここまで言わないと分からないか、と。分からないよ。だって、そんなこと一度も言わなかったし、そんな素振りすら見せなかったじゃない。
「遥ちゃん、西川君はさ」
だから、だから。もしそれが本当なら。
「昔から、遥ちゃんのことを認めてたんだよ」
私は、描き続けなきゃいけないんだって、思えるから。
金曜日の夕方とも言える時間に、差し込む日は夏を迎えるせいか、まだ暑苦しい。
自分の部屋で一人向き合うキャンバスには、まだ何も描かれていない。ここに私の、ありえない世界を描いていく。だけど、どうすればいいんだっけ。私は、何をあり得ないと思っていたんだっけ。描けない、やっぱり、私にはもう、できない。そう諦めかけて、筆を置こうとしたその瞬間に、西川の顔が思い浮かぶ。
絵だけが、私達を繋いでいる。それを、後悔にはしたくないと思った。
筆を握りなおして、懸命に何を描くか考える。私にとっての幻想。こんなことはありえないって、気持ち。
そう思い続けているうちに、西川のことばかりを考えていた。
「僕は君が絵の道に進むって言ってくれた時、本当に嬉しかったんだ」
そうだ。私が決めた道だ。それをなんでアンタが嬉しがるの。そっと、キャンバスに色をのせた。それからは、無我夢中だった。
君がいない世界を描いた。こんな世界はありえないって、そう思えて。
私のライバルはたった一人、絵の作風も、性格も、何もかもが違うアンタだけだから。
勝手にいなくなられたら、私は、私の目標を見失ってしまう。
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