〈中〉



 翌日は、予報にない雨が降った。


 五時限目の日本史の授業の最中、突然降り出して世界を灰色に染め上げた。夏だけれど、少しだけ肌寒い気がした。

 テレビの砂嵐のような音を聴きながら、昨日の彼女との約束はまた後日に引き伸ばされそうだなと、そんなことを考えて右斜め前の席に視線を向けると、彼女と視線がかち合った。同じことを考えていたという喜びが、沸々と湧き上がる。まるで内緒話をしているみたいだと、そんなことを思った。


 こうした不意の以心伝心に、私の心は酷く揺さぶられる。

 普通であれば言葉が必要な場面でも、そんな些細なものに頼ることなく、限りなく近い位置にある互いの心が、癒合した魂が、必然性を以て共鳴する。むず痒くて、甘く痺れる感覚。彼女が相手だからこそ、私はその官能に溺れることができる。




 その後の六時限目の英語も恙無く終わり、帰りのホームルームが瞬く間に過ぎ去り、私たちだけの時間が始まった。クラスメイトがぞろぞろと動き出し、各々の目的地に向かって足を運び始める。そんな中、私たちは教室の隅の方、掃除用具入れの隣で並んで人の流れを見ていた。


「今日、どうしよっか」


 公園行けなくなっちゃったね、と残念そうに遠くを見つめる彼女は、それだけで一つの作品になってしまうほどの美しさを湛えていた。


「傘、持ってる?」


「ううん」


「だよね、私も」


 水に濡れた水仙のように、どこか楽しそうに笑う。

 ……時折、途轍もなく不安になる。彼女の隣に、私がいるということが。

 私は、彼女と釣り合う存在なのだろうか。これ程にも美しく、可憐な彼女の隣を、私が歩いても良いのだろうか。——そういうことを考えてしまう。


「……くだらないこと考えてる顔」


 彼女がつん、と私の頬をつつく。沈みかけていた気分も、彼女が言う〝くだらないこと〟も、どこかへと消えていく。無条件に彼女の隣に居られるこの日々が、いつまでも続いてほしいと願うばかりだ。


「そうだ、図書室行こうよ。そこで晴れるまで時間潰そ」


 それはいかにも彼女らしい提案だった。

 何も、本の虫だとかそういうわけじゃない。読書量なら私の方が多い。

 彼女は、静かな場所が好きなのだ。例えば夕暮れの畦道だとか、誰もいない海岸沿いだとか、寂れた小さな公園だとか、雨の日の図書室だとか……そういう。何をするでもなく、ただ私たちは二人きりで、緊密な時間を過ごす。思い付いたことを話したり、何気なく触れ合ったり、身を寄せ合ったりする。そうすることで、世界から私たち二人だけを切り離してしまえる気がするから。


 並んで歩き、教室を出る。

 途中の中廊下から他人の気配が無くなったから、さり気なく手を繋いだ。互いの体温が溶け合う。心の側面から温かいものが染み込んでいく。

 雨音を聴きながら階段を上がり、四階の右端に位置する図書室に辿り着く。私たちの他にも利用している生徒が複数人いた。私たちと同じく雨が止むまで時間を潰す目的で来ているかもしれないし、あるいは勉強や読書をするために居るのかもしれない。誰も彼もが静かに席に座っていて、彼女好みの静寂が漂っていた。


 奥まった所にある八人掛けの大きなテーブルに並んで腰掛け、私たちで独占する。

 背後と前方から聞こえる雨音は、優し気ながらも弱まる気配はない。琴を弾くように静かなぽつぽつという音が、世界全体を統一しているようだった。


「静かでいいね」


 図書室の随所に掲示されている『図書室では静かに』という貼り紙の意向に沿って、声量を抑えた彼女がそう呟く。


「夢の中みたい」


 それは。


「私もいる?」


 何て強欲なのだろうと、自分で自分を恥じながらも、そう訊かずにはいられなかった。

 彼女の見る夢の中に、私は居るのだろうか。静かな、雨の降る世界で、二人きりで教室にいる景色を想像して、耳の付け根辺りが熱を帯びた。

 私の杞憂は彼女の一言で掻き消される。


「もちろん」


 緩く垂れた目元から、澄んで超然とした夜空のように黒い瞳が、私を射抜く。


「いつだって一緒だよ」


 するりと、彼女の手のひらが、私のそれへと滑り込んでくる。まるで、寒がりなわたしを温めてくれようとしてくれているみたいで、心の側面がじんわりと熱を持つ。

 どこからともなく漂う、シトラスの香り。彼女の一挙手一投足に合わせて、それは私を覆い隠すように広がっていく。残暑の続く九月、じめじめとした空気の中に、はっきりと感じる心地よい人肌の体温を意識して、背筋が粟立つほどの幸福が押し寄せる。

 隣に顔を向けると、私の好きな笑顔を湛えた彼女が、じっとこちらを見ていた。その瞳は、私の感じ入っている表情を眺めているようにも、私の内側を覗き見ているようにも思えた。


 自然と距離が縮まり、唇が触れ合う。啄むような口付けを交わす。首に手を回す際に発生する衣擦れの音も、漏れ出る吐息も、世界を静寂に染め上げている雨音が隠してくれるだろうと高を括って。


 ふと、彼女が不安げに視線を動かす。

 そこには、こちらを横目で見ている生徒がいた。

 強烈な既視感を覚える。それは言うまでもなく、その生徒が私たちに向けている視線そのものだった。母と同じ、藍色の海に浮かぶ巨大なクジラの死骸を思わせる、その視線。


 彼女がそんなものに気を取られているという事実が悲しくて、同時に少し腹が立った。だから私は、首に回している腕に、少しだけ力を籠めた。私だけを見て、私だけに集中してほしくて。果たして彼女は、ほんの少しだけ目を見開いて、でも嫌がる様子は微塵もなく、ただ私の我儘を受け入れてくれた。触れ合った唇に唾液が混ざり、微かに糸を引く。体を離す頃には、空に晴れ間が見え始めていた。


 それから三十分くらいの間、談笑していた。内容なんて何でもよくて、ただ二人で話しているその時間が重要だった。いつでも隣を向けば目が合って、触れ合える距離にいることが、何よりも。気付けば雨は上がっていて、遠くには再び分厚い曇天が顔を覗かせていた。もう一雨来る前に帰ろうと、小さい頃にした追いかけっこを真似て小走りのまま下駄箱に向かった。


 私が靴を履き、框の上で彼女へと振り返った時、宥めるような声が私へ向けられた。


「いい加減やめなよ」


 今日ばかりは予想ができなかった。

 何か咎められるような行為をしただろうか、と記憶を遡る。けれど、それらしいものは一向に思い出せない。……普段は、答えが外れ続ければいいなんて、呑気なことを考えているけれど、今回に限っては奇妙な緊張感があった。


 そうだ。答えが外れるのはいつものことだけど——答えそのものを思いつかないのは初めてのことだった。


 不安が膨れ上がる。

 彼女に拒絶されたくない一心で、言葉を絞り出した。


「……嫌いにいならないで」


 刹那、彼女の瞳に、後悔が揺らいだ。

 それは橙色の炎のようで、不確かに煌めいていた。


「そんなことで、嫌いになんかならないよ」


 ローファーを履いて隣に立った彼女は、そう言って私の手を取ってくれた。いつもより少し強く握られているその手のひらは、私を受け入れてくれているのだと、如実に示していた。


 こんなにも愛されているのだと実感して、涙が零れそうになる。

 でも、心配させたくないから、必死に耐えた。

 どうか、どうか。

 この愛情の矢印が、変わることが無いようにと、密かに願う。





 次の日は、ちゃんと快晴だった。


 ホームルームが終わってすぐに声を掛けに行くのは、年甲斐もなく燥いでいるみたいで恥ずかしくてできなかったけれど、そんなことさえお見通しという風に、彼女は座ったままでいた私に笑いかけてきた。


「行こ」


 その笑顔に絆されているから、私は彼女のいない人生を考えられないのだろう、と思う。

 きっとそれは、他の誰かが呪いだと言うかもしれない。行き過ぎた願いが、何もかもを束縛する呪詛となるように。

 だとすれば私は、呪いに生かされている。どこまでも優しく、眩しく、底知れない美しさを湛えた呪いに。それでいいんだ。そんな私を、誰も——彼女以外に否定できる人なんて存在しないから。


 ……件の公園までは、徒歩で三十分ほど距離がある。正門を出る辺りで、余りに暑いから直行するのはやめにしようと彼女が言った。


「コンビニでも寄ろうよ、一昨日みたいに」


 ふと、その日のことが思い出される。ふわりと香るシトラス、馴染む体温、触れた手の柔らかさ、甘い唾液——じん、と体が熱くなる。


「うん」


 呼応するように、自然と手のひらが彼女を求めた。

「暑いよ」と抗議されたけれど、今日はいつまでも離さない。火照る体の訴えを伝えるように。


 コンビニに寄って、買ったのはやっぱりアイスだった。カップ型のシャーベットアイスでいちご味。甘いものが好きなわたしのために、彼女は同じ種類のパイン味のアイスを買って、食べさせてくれた。


 途中、同じクラスの生徒を見かけた。私たちが一緒にいるところを見て、やっぱりあの視線を向けてきた。もう慣れてしまった……なんてことは無いけれど、彼女といる時は毎回向けられるので、もう何かを言う気も起きない。ただ、こうして幸福な時間を過ごしているのに水を差されるようで、憤懣を覚えていた。


 そんな私の感情を、今度は彼女が攫って行ってくれた。

 ぐん、と視界が動く。

 色彩が遅れて、一瞬だけ世界が灰色になる。

 その隙に、柔らかいものが口元に触れる。


 遅れていた色彩が追い付いたとき、そこには私の唇を奪った彼女の、澄んだ黒色の瞳があった。昨日私が図書室でしたように、彼女もまた、私に余所見をしてほしくなくてそうしたのだろう。そのことが堪らなく愛おしかった。

 パイン味の粘性を帯びた唾液が、舌と一緒に私の口腔へと入り込んでくる。有無を言わせず、私を溺れさせていく。幸福が運んでくる窒息に、脳味噌が麻痺したように何も考えられなくなる。

 掴まれた手首には、鈍い痛みが奔った。

 それが愛情の裏返しだと知っているから、私はされるがまま、その痛みさえも受け入れる。どんな形であっても、触れ合った部分からじんわりと熱を帯びて、私の心を喜びで締め上げることには変わらない。


 見つめ合ったまま三十秒もしないで、口付けは終わった。もっとしていたかった、なんて我儘を言いそうになって、慌てて口を塞ぐ。その仕草に「嫌だった?」なんて彼女から言われてしまったので、思っていたことを白状するしかなかった。すると彼女は愉快に笑って、「今度はさ、ちゃんと息継ぎしてやろうよ」とお道化ていた。




 公園は、記憶にあるよりも古ぼけていた。

 それはもちろん、最後に来た時から五年以上経っているというのが理由だろう。どんなものでも風化していき、やがて誰の記憶からもなくなっていくのだから。


 唯一の遊具であるブランコも、座席の部分が少し朽ち始めていた。二人並んで、少しの間漕いでいた。他愛のない話をして、意味もなく笑い合って、時間が過ぎていく。


 ブランコから降りた後は、誰もいないその公園の、端の方に設置されているベンチに並んで座って、色々なことを話した。それは昔の話が殆どだったけれど、そのどれもが、私たちに関することばかりだった。


「ねぇ、覚えてる? 初めてこの公園に来た時のこと」


「確か……小学校の帰りだったよね」


「そうそう。下校途中に寄り道して公園で遊ぶって、今からすれば大したことじゃないけどさ——その時は、悪いことしてるみたいでドキドキしてた」


「それからよく来るようになったよね」


「待ち合わせをこの公園にしたときもあったね」


「あ、懐かしい、それ」


 そうして話している間、私たちは自ずと手を繋いでいた。甘く穏やかな時間を過ごす中で、そういえば昔も、蛍の光が流れるまでこうしていた時間があったなと、ふと思い出した。


 公園の前を誰かが通りかかる度に、自然と会話が途切れた。授業中に目が合ったときと同じく、内緒話をしているような感覚だったから。聞かれてやましいことなんて一つも無いけれど、それでも。


 時折、思い出したように触れ合う程度の口付けを何度もした。回数を重ねる毎に、私の体の疼きが増していく。もっとたくさん、他の部分にも触れて欲しいと考えてしまう。どれだけその想いを隠そうとしても……あるいは、だからこそかもしれない。彼女はそれを敏感に感じ取って、さり気なく肩を寄せて、触れ合う面積を増やしてくれた。膨張する幸福感に、抑えきれない官能の荒波に、私はただ圧倒されていた。


 ……その日は、珍しく彼女からあの台詞を聞くことが無かった。理由なんて見当もつかないけれど、物足りないと感じている自分と、どこか安心している自分が共存していた。それが良いことなのか、悪いことなのかも同様に分からないけれど——それでも、今日という日が完全で、甘美なものであったことに変わりはなかった。



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