〈下〉
四日後の日曜日、彼女が私の家を訪ねて来て、「海に行こうよ」と言った。良く晴れた日だった。まだまだ暑気は健在で、これから夏が終わるということが信じられなかったから、その提案は魅力的なものだった。
「うん、行こう。……準備してくるね」
あまり彼女を待たせてはいけないと思い、ポーチに財布と日焼け止めを収納して、服装は迷うことなく、彼女が似合っていると言ってくれたデニムのショートパンツと、英字が印刷された白のTシャツ、ベビーブルーのサマーカーディガンを着た。日差しも強いから、彼女と同じように帽子を被っていくことにした。私もカンカン帽を持ってはいるけれど、彼女ほど似合わないのでメッシュキャップを選んだ。
「——じゃあ、行ってきます」
玄関でサンダルを履いてから振り返る。そこにはやっぱり、あの眼を湛えた母がいた。深々と漂う藍色に浮かぶ、巨大なクジラの死骸がこちらを見ていた。
どうして私と彼女を、母やクラスメイト達は、その瞳で見つめるのだろう。私たちが一緒にいたいと心から願っていて、望んで二人でいるというのに。外側の人間は、いつだってそうだ。
「行こ」
彼女はそんな私の薄暗い感情を察知して、手を差し伸べてくれる。そんなことは考えなくていい、二人きりで生きていけばいい……そういう意味を持った手のひらが、私に向けられていることが、何よりの救いだった。
素直にその手を取ると、彼女は一陣の風のように私を引っ張って、海へと歩き始める。純白の生地の上に小さな黄色の花柄が整然と施されたワンピース、日差しを遮るカンカン帽と、その下に浮かぶ微笑み、温く絡みつく手のひらと指や、胸を高鳴らせる声や瞳、全てを愛おしく思う。
十五分ほど歩いて辿り着いた海で、小石の群れをサンダルの底に感じながら、彼女と手を繋ぎながら歩く。海風と潮騒が私たちを包んで、心地よい静寂が拡散する。立ち上る熱気で汗が滲み、髪が少し額に貼り付いた。
「綺麗」
「うん。本当に」
「きっと、私たちがいるからだね」
幸福過ぎて、時折怖くなる。彼女と過ごすこの時間の多幸感を、本当に私だけが享受していいものなのか、後ろめたさに似たものが首元を掠めていく。
けれど、彼女が私の手を取ってくれるだけで、そうしたマイナスな感情は霧散していく。……あるいは彼女も、そうした感情を排除するために、私の手を求めてくれているのかもしれないなと、そんなことを考えて頬が緩んだ。やっぱり、私たちは二人で一人なのかもしれない。互いが、互いの半身なのだ。
「もうちょっと向こうまで歩かない?」
彼女が指を差した先には、堤防の切れ目があった。目算で、背丈の二倍以上ある大きなコンクリートの壁が聳えている。
「うん」
暑気からか、それとも向こうまで手を繋いでいられる喜びからか、じっとりとした手のひらが彼女のそれと癒合しているかのような錯覚を覚えた。このまま心まで一つに溶けあってしまいたいと、酔いしれる官能に身を任せて思考を巡らせた。
しばらく歩いた後、堤防へと続く石段に座って足を休めながら、体を寄せ合っていた。冬の海岸であれば少しは様になっていたかもしれないけれど、季節は夏で、人同士が密着するには適さない時期だった。そういう事実が、得体の知れない背徳感のような感覚を呼び覚ます。彼女は今日もシトラスを纏っていて、私の心臓はばくばくと煩かった。
喉が渇いたので、飲み物を買ってくると彼女に伝えてから、足早に堤防を下って自動販売機に立ち寄った。
「あ、あった」
私たちは相手のことを、自分自身より深く知っているから、飲み物は何がいいかなんて聞く必要もない。彼女は昔からカルピスソーダが好きなのだ。何か飲み物を買うときは、毎回それにするくらい。きっかけは憶えていないけれど、私が物心ついて一緒に遊ぶようになった頃には、既にそうだった。今更聞くつもりは無いけれど、その理由も私の存在が絡んでいれば嬉しいな、と少し思う。
カルピスソーダを二本買って、小走りに来た道を戻る。
堤防を上りきると、開けた視界に彼女の姿が映った。
サンダルを脱ぎ、高級そうなワンピースの裾を持ち上げ、膝上で雑に結んで、ゆっくりと海へ進んでいく。……それはさながら一枚の絵画か洋画のワンシーンのようで、何よりも美しく、儚く、眩しい光景だった。
そんな打ち震える官能とは裏腹に、私の心は急速に収縮していった。痛いくらいに萎み、締め付けられていた。ゆったりとした足取りで、しかし確実に私の元から離れていく彼女の姿に、恐怖が蔓延り、警鐘が鳴り響く。今すぐにでも彼女の元に辿り着かなければ、もう二度と会えなくなってしまうのではないかという、強迫観念じみた想像が、無際限に拡大していく。
カルピスソーダのペットボトルを地面に放り、暑気による汗とは性質の異なるそれを背中に感じながら、階段を駆け下りる。喉元まで出かかった悲鳴を押し留めるように、ぐっと歯を食いしばって、階段の最終段を蹴る。彼女までの直線距離が、ごろごろとした小石の群れに足を取られ、徐々に遠のいていくような錯覚に陥る。
「ねぇ、」
サンダルが脱げる。
「まって、」
帽子が脱げる。
「おねがい」
——近づいてくる足音を聞いてか、彼女はこちらを振り返った。夏の太陽に照らされる世界の中、彼女が手で押さえているカンカン帽の下だけは、居心地の良い薄暗がりだった。苦笑に近い表情を浮かべ、あやすような声で彼女は囁く。
「大丈夫」
抱き留められる。
白いワンピースから覗く、ぞっとするほど白い肢体が、ぼやけている。鼻の奥が痛い。海水が流れ込んできたみたいだ。耳と目元に熱が宿る。声が、指が、肩が震える。
「どこにも行かないよ」
カンカン帽が風に攫われ、メッシュキャップの隣へと墜落する。
聞きたかった言葉が返ってきて、安堵が全身を駆け巡った。統御しきれず、心の収縮を模倣するように、指先に力が籠る。彼女の綺麗な白い背中……傷一つない背中に、私の爪が軽く食い込んだ。きっと今、彼女の背中は赤く変色している。
涙を堪えて、鎖骨の辺りに顔を埋めている私の首元に、彼女は一度、口付けをした。顔を伏せている私に遠慮しての行動だと分かってはいるけれど、これ以上なく胸を焦がされた。口内に広がる塩味に構うことなく、私も彼女の首元に口付けをする。いつだって、気持ちは同じだ。
「だからさ」
あぁ、分かっている。
私は、その言葉の続きを、知っている。
本当は、ずっと前から。
「もう、」
けれど、聞きたくない。
貴女の口から、その言葉を聞きたくない。
我儘でも、傲慢でも、屁理屈でも、何でもいい。
何でもいいから、
これ以上は言わないで。
「いい加減やめなよ——」
瞬間。
私は、初めて強引に、彼女の唇を奪った。
その続きの言葉を言わせたくなくて、彼女の口から現実を聞かされたくなくて、長いこと口づけをした。勢い余って足を縺れさせて、足首ほどしか水深のないその場に二人で倒れ込んで、それでも続けた。下半身が海水によって熱を奪われても、なお余りある熱の塊が私の内側に燻っていた。きっと、これから何年、何十年経っても色褪せることなく、私を生かし続けてくれる情念。何もない、空っぽになるはずだった私を、それでもこの世界に繋ぎ止めた、ひとつの想い。
……私は、私たちは、弱くて脆かった。彼女の笑顔をもう一度見たくて、私のすべてを差し出そうとして、彼女に止められてしまったあの日を——あの便箋を、今でも思い出す。
だから、見たくないものは見ないし、聞きたくないことは聞かない。それでいいんだ。私の世界には、これからも彼女しかいない。彼女が、私のすべてだ。
「もぅ、いきなりだなぁ」
「……こっちの台詞だよ」
それっきり、彼女は何も言わなかった。ただ静かに、私を抱きしめてくれていた。残酷な温もりは、確かに私を包み込んでいた。
*
夕焼けが私たちを照らす。
半身ずぶ濡れになったけれど、小一時間も海岸に敷き詰められた小石の上で足を伸ばして座っていたら、ある程度乾いた。付着した海水で透けたワンピースから薄っすらと見える彼女の下着や、艶やかな存在感を放つ脚、吸い込まれるような深さを湛える澄んだ瞳に、私だけに向けてくれる媚笑……それらを全官能で感じ取ることで、私はただ満たされていた。薄闇の中、克明に浮かび上がる彼女の体を、その白さを、その柔らかさを、否応なく思い出した。彼女も、私の体を思い出すことがあったのだろうか。
「うん、おいしい」
カルピスソーダを飲みながら、彼女は満足げに頷く。
その表情を横目で見ながら、私は飲み物を買ったのは失敗だったかな、と少しだけ落胆する。彼女の笑顔が見られる、という点ではプラスだけど、飲んでいる間はどうしても手を繋げないから。
やがて、彼女の家が見えてきた。その頃にはもうカルピスソーダは飲み切っていて、空いた手のひらを繋いで歩いていた。隣に感じている温もりを手放すことに、私はもう、躊躇しない。なぜなら、「どこにも行かない」と彼女が言ってくれたから。明日も、明後日も、一週間後も、一か月後も、一年後も——私は彼女の隣にいられるのだから。
靴紐が解けるみたいに、自然と手のひらが離れる。そこに入り込もうとする空疎な影を撥ねかえす、確かな温度がそこにはある。
「もう言わないんだ、あの言葉」
揶揄い半分でそう訊くと、彼女は笑った。
「諦めたよ——」
水仙が咲く。
心をくすぐるような笑顔だった。
私の好きな、笑顔だった。
玄関を潜り、母の深刻そうな声音を聞き流し、自室のベッドで仰向けになる。
蛍光灯の明かりが滲む。噎せ返るような熱が喉元に溜まる。
あの手を、指を、脚を、瞳を、首元を、唇を——笑顔を、思い出す。
私はただ、彼女に会いたいと思った。
「いい加減やめなよ、
もういない私を妄想するなんて」
「いい加減やめなよ」 春斗瀬 @haruse_4090
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