「いい加減やめなよ」
春斗瀬
〈上〉
「いい加減やめなよ」
彼女はそう言う。
例えば、通学路の途中で。
例えば、教室の片隅で。
例えば、移動教室の合間で。
例えば、二人きりの帰り道で。
他にも沢山、彼女がその台詞を言う場面がある。最近になって口癖のように繰り返されるその言葉に、けれど私は鬱陶しいなんて思わない。彼女はいつでも、私のことを思って助言してくれていると、知っているから。
私と彼女は、幼馴染だ。保育園のころからいつも一緒にいて、小学校も中学校も、高校に入学しても変わらずに。家も近くて、歩いて二分のところにある。小学校の頃から頻繁に、互いの家に遊びに行っている。あまり娯楽がない私の家とは違って、彼女の家には沢山の玩具や、彼女のお兄さんが買ったというゲーム機があった。
互いが互いのことを、半身のように思っている。……少なくとも私はそう感じている。一緒にいると、欠けたピースがぴったり嵌まっているような感覚が、確かにあった。互いに人生を補い合っていて、それはまるで魂が癒合してしまったかのように、一時も離れがたい存在なのだ。
「やめるって、何を?」
私は彼女に問う。
呆れ混じりの溜息が返ってくる。
「……や、まぁいいよ」
その反応を見る度に、私は一つずつ、自分の悪癖を改善していった。もちろん、一日でどうにかなるようなら彼女があの台詞を言うわけがない。毎日少しずつ、メモ帳を捲って明日の予定を確かめるみたいに、意識的に悪癖を排斥していった。私のためを思って言ってくれているのだから、できる限りその思いに応えたかった。……彼女に嫌われたくないという気持ちもあったけれど。
「帰ろ」
九月。夏休みが明けて、まだ間もない頃。降り注ぐというよりも、のし掛かると表現した方が適切なくらい強烈な日差しを、ホームルーム後の教室の窓から眺めていると、彼女が私のところにやって来た。夏場の暑気をものともしていない様子を見て、少しだけ羨ましく思った。私は暑がりで、彼女は寒がりなのだ。だから冬になると、きっと今私が向けているだろう気怠い視線を、彼女から受けることになる。毎年のことだ。
「うん」
鞄を左手に提げて、一足先に教室を出ていこうとする彼女の左手を捕まえる。「暑いよ」と抗議されたので、一秒もしないで離した。
帰路は寂れていて、切妻屋根の民間が憮然と並んでいる他には、道を一本逸れたところにコンビニが一件建っているくらいだ。ガソリンスタンドも洒落た喫茶店もない。ついでに、街灯もない。
ブロック塀の上で器用に寝転んでいる茶トラの猫を眺めながら、彼女は退屈そうに歩く。
「ホントに何もないよね、この街」
「そんなことないよ。……きっと」
「じゃあ何か、コレだってもの挙げられる?」
「んー………………」
小考してみたけれど、この街の特徴的なものは浮かんでこない。よく分からない神様を祀った小汚い祠とか、砂の代わりに小石が敷き詰められている海岸とか、日本史の教科書にも載らないマイナーな偉人の邸宅跡とか──どれもこれもインパクトに欠けている。注目を浴びない観光スポットなんて、無いも同然だ。
そんなことない、と言ってしまった手前、素直に認めるのも癪だったから、少し恥ずかしい台詞で誤魔化すことにした。
「私たちがいるじゃん」
果たして目論見は当たって、彼女は呆れ混じりに「なにそれ」と言って相好を崩した。
彼女の笑顔は水仙のようで、底知れぬ瑞々しさと秀麗な雰囲気を纏っている。緩く垂れ、細められた目元から、視線を逸らせなくなってしまう。この笑顔が見られるのであれば、私は何だって差し出してしまうだろうな、と思う。
「ねぇ、コンビニ寄ってこうよ」
そう言うと、彼女は撫でるように私の手に触れた。
微かに漂っていた、制汗剤のシトラスの香りがふわりと私を包み、心拍数が上昇する。同じものを使っているはずなのに、どうして彼女の匂いばかりが私を刺激するのだろう……あるいは、彼女も同じように、私が纏うシトラスの香りに鼓動を加速させているのだろうか……そんなことを考えた。
「何買うの?」
心臓の高鳴りを隠すように、互いの手の甲を触れ合わせながら、お道化た調子で訊いてみる。
一瞬の間の後、
「やっぱり、アイス」
そう答えた。
二人で同じアイスを買って食べた後は、見かけた野良猫を追い駆けて帰路を逸れ、どのくらいの時間か分からないけれど、寄り道をした。ようやく陽の傾きを感じられるようになった頃、家路へと戻った。二人で並んで歩いていられるのは、今歩いている一本道の突き当たり、二股に分かれている地点までだけれど、あと半分は残っていた。
さらさらと肌を撫でる夏の透明な風、陶磁のように白く綺麗な肌、静寂に溶け込んだ蝉の斉唱、いっそ妖艶なまでに耳朶を打つ声音、見つめ返してくれる割れた宝石の断面のような瞳……そういうものに、私の官能は震えていた。この街が、この夏が、私たちだけのものになったみたいに思えた。
堪えきれなくなって、私は少しだけ強く彼女の手を取り、体を引き寄せた。教室の時と同じように「暑いよ」と抗議されたけれど、私は止めない。
手のひらに体温が滲んでいく。夏の空気よりずっと熱烈なその温度が、血液と共に体中を巡っていく。互いの手汗で、手のひらが癒着してしまいそうだ。
二、三分ほどそうやって、猫を撫でるような無言のまま歩いていると、不意に彼女が足を止めた。
「どうしたの?」
怪訝に思い振り返ると、
彼女の顔が目の前にあって、
その距離の近さに驚くことも、
危うい美しさに見惚れる隙もなく、
木の葉を浚う風のように、口付けをした。
伝わる柔らかな感触、絡め合った指先のさわり、先ほど食べたアイスの香気にまぶされた甘い唾液、味蕾が感じ取る舌の動き、薄く開けられた瞼から覗く瞳──彼女の存在が、私を優しく包み込む。どこまでも、どこまでも、彼女に溺れていく。
一分にも満たない静寂の中、緩やかに酸欠へと向かう下り坂、互いに薄く目を開いて見つめ合っていたけれど、やがて私は目を閉じた。これ以上見つめていたら、どうにかしてしまいそうだったから。
どちらともなく唇を離す。つ──と伝った唾液の糸は、吊り橋が中心から崩れるみたいに、ぷつりと切れた。
耳と登頂部がふわふわと浮いているようだった。体温よりも少し高い膨大な熱が、そこにはあった。
「……ふふっ」
彼女は愛おしそうに──けれど、どこか悲しげに微笑んだ。私も笑い返そうとして唇を曲げたけれど、うまく笑えていたか分からなかった。でも、この気持ちだけは伝わっていてほしいと、そう思った。
やがて、分かれ道が見えてきた。……一本道なのだから当たり前だけど、名残惜しさに歩幅が狭まる。互いに繋いだ手を離したくなくて、それらしい言い訳を考えるような空白が生まれる。すぐにそれが時間の無駄だと……会いに行こうと思えばいつでも行ける距離だし、少しでも楽しい時間を過ごすべきだと思い直して、口を開く。
「ねぇ、」
「なに?」
「明日はさ、あの公園行こうよ。昔よく遊んだ、あの公園」
「いいね。楽しみ」
「何して遊ぶ?」
「遊具はブランコしかなかったよね。……砂遊び?」
「あ、いいかも」
「冗談だったのに……」
「でも、それくらいしかないよ」
「じゃあ、途中で缶ジュースを買って、缶蹴りしようよ」
「私たちだけで?」
「それもそっか」
心地よいリズム、飽和する時間、間延びする今日。彼女の隣にいられる未来が、いつまでも続いてほしいと心から願う。
別れ際、彼女がこちらに振り返る。
「いい加減やめなよ」
宥めるような、背中を擦るような声だった。
私は心当たりを探す。……彼女にそう指摘されることが、最早ひとつの楽しみでもあった。あれこれ考え、思い出し、一つの結論を出す。
「アイスの棒囓っちゃう癖のこと?」
果たして彼女は、呆れたように……でも、少しだけ可笑しそうに、「……や、まぁいいよ」と言った。彼女が本当は何のことを指摘しているのか、今の私には全く、これっぽっちも分からないけれど……これからもずっと、私の答えが外れ続ければいいな、と思う。
家に帰ると、母が台所から顔を出して「随分遅かったじゃない」と言った。そんなに時間が過ぎていたのかと思い、愛想の無い白い壁に掛けられた時計を見ると、午後七時半を回っていた。
「ホントだ」
「どこか行ってたの?」
そう訊かれたので、私は彼女と一緒に寄り道をしていたと答える。
その言葉を聞いた母の瞳には、言い知れない感情の塊が浮かび上がった。視線を介して伝わるその塊は、藍色の海に浮かぶ巨大なクジラの死骸を思わせる。
──この変化も、最近になってからだ。思い返すと、彼女が私にあの台詞を言うようになったのと、殆ど同じタイミングのように感じる。だからといって、関係性があるようには思えないけれど。
見ていてあまり良い気分になるものじゃないから、私はすぐに視線を逸らす。今の私と母は、険悪とまではいかないものの、襖を一枚隔てているような、そういう空疎が混在する距離感にある。
でも、そんなことはどうだっていい。
私には、彼女がいる。それだけで全てが些細な事のように思えてくる。……いや、実際私は、彼女の存在がすべてなんだ。だから他の物事なんて、無いに等しい。
暫くの間、自室で課題をこなす。それが終わったら、ぎしぎしと音を立てるベッドの上で仰向けになって、今日過ごした彼女との時間と、明日訪れる彼女との時間を夢想する。そうすることで、私の世界は余分なものが排除されて、際限なく広がる白い空間へと変化する。
そこに彼女が現れて、のっぺりと広がっていた白い空間を、同色のチューリップが咲き乱れる一面の花畑に置き換えてくれる。新緑と純白の背景に、彼女の全てが精彩に映し出される。手を取ると笑ってくれて、口付けをすると抱きしめてくれる。私たち二人を邪魔するものは何もないエデンの中心で、窒息しそうな幸福に酔いしれる。
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