第二話 作業開始(一)

 「いやぁ、良い雰囲気のお宅だね!」

 僕の隣でニコニコしながらそう言ったのはもちろん橘さんだ。

 「ある意味、雰囲気はあるけどさぁ……」

 目の前に建っている住宅。ここが今日の仕事現場である。どこからどう見ても誰も住んではいないだろう。こうなる前はきっと立派な家だったのだろうが、今では見る影もないくらい寂れている。

 名前も分からないような草木が生い茂り、不届き者が投げ入れたと思しき空き缶や長年の風雨に曝されてグズグズになった新聞紙などが散乱している。これからここを掃除していくのだと思うと気が滅入ってしまう。

 先日、橘さんと別れた後、講義が終わってからすぐに山上へ連絡を入れた。するとそれから十分も掛からずに返事が来た。彼は意外と連絡マメな性格だ。

 雇い主曰く人手はあればあるほど嬉しい、とのことだった。こうして橘さんの要望は無事に叶えられたのである。それを伝えた時の彼女の喜び様はこの上ないほどだった。報酬も貰えないのに何故あれほどまでに喜ぶのか、僕にはとてもではないが理解できなかった。

 お金の他に目的があるに違いない。気になった僕は橘さんに直接訊いてみることにした。しかし結局明確な返事は得られなかった。何度訊いても「ちょっとね」とはぐらかされ続けているのだ。

 何か厄介なことにならなければいいのだが……。

 「あ、もしかしてあの人が雇い主かな」

 橘さんの視線の先でひとりの男性がこちらへゆっくりと歩いてくるのが見える。彼女の予想通り、その男性は僕たちの前で歩みを止めた。

 「皆さん、お待たせしました。こんなに集まっていただいて、作業も捗ります」

 男性は蓮田と名乗り、深く頭を下げた。人の年齢を当てるのは得意ではないが、おそらく六十代前半といったところか。

 僕たちも苗字だけを名乗り、彼の言葉を待った。

 「今日はこの家を掃除していただきたいんです。家主が行方不明になりましてね、今はもう誰も住んでいないんです」

 それは見ればわかる。しかし行方不明とは、なんとも不穏なことだ。それにしても蓮田さんと家主はいったいどういう関係なのだろう。

 そんな僕の疑問を余所に蓮田さんは話を続ける。

 「事前にお話ししていた通り、作業をしていただいた方には5万円差し上げます」

 あぁ良かった。実は今の今まで山上に担がれているのではないかと思っていたのだが、これでようやく安心できる。それは他のアルバイト達も同じだったようで、顔がほころんでいる。

 僕と橘さんの他にアルバイトは三人いた。その全員が男性だ。力仕事の現場なのだから当然と言えば当然なのかもしれない。これによりますます橘さんの存在が奇異なものに見えてきた。実際、アルバイトの男性達は橘さんのことをチラチラと見ている。可愛らしい容姿をしているから、というのもあるだろうが。しかし当の彼女はそんなこと気にしていない様子で機嫌よさげに鼻歌なんかを歌っている。

 「それじゃあ中に入りましょうか。今鍵を開けますから……」

 蓮田さんは生い茂った草木をうっとおしそうに手や足を使って掻き分け、玄関まで向かう。僕たちもそれに倣って後に続いた。そして雇い主の手によって玄関が開かれる。

 「うわ……埃臭い」

 そんな言葉が口をついて出る程、匂いがキツかった。長年空気の入れ替えをしていなかった証拠だろう。

 「すみません!靴はこのままでいいですよね?」

 僕が匂いを気にしていると、橘さんは小さく手を挙げて蓮田さんにそう訊ねた。確かに靴を脱ぐのは抵抗がある。床は埃にまみれているし、何なら一部腐り落ちてささくれ立っているところも少なくない。

 「えぇ、もちろんです。くれぐれも床を踏みぬかないように気を付けてください」

 これは思っていたよりも危ないのではないだろうか。僕は早々にここへ来たことを後悔し始めた。その一方で橘さんはやる気満々だ。着ている黒いジャージの腕をまくり、意気揚々と土足で上がった。

 僕も橘さんに倣って土足で失礼する。正面には短い廊下と扉があり、その左右には襖があった。外観からわかっていたことだったが、この家は平屋建てのようだ。扉も襖も閉められていて部屋の中の様子を窺い知ることはできない。

 僕はなんとなく不安になり、図らずもごくりと喉が鳴ってしまう。そんな情けない僕の後ろを他のアルバイト達と蓮田さんがすり抜けていく。皆、躊躇いはなかった。

 このまま突っ立っていても仕方がない。

 隣でキョロキョロと興味深そうに周囲を観察している橘さんの肩をひとつたたく。

 「みんな正面の部屋へ行ったから、僕らは和室の方から攻めていこうか」

 特に大した計画はなかったが、ひとつの部屋に何人も固まっているより手分けして作業をした方が捗るのではないかと思っての提案だった。しかし、橘さんは満面の笑みを浮かべながら「じゃ、頑張ってねー」とスタスタ歩いていってしまった。そして正面の部屋へと消えていく。

 「……あ、うん」

 玄関にひとり取り残される僕。

 虚空へと吸い込まれる言葉。

 なんだか虚しくなってきた。

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