第一話 誘い(二)
山上が帰った後、僕は非常に重要なことを思い出した。
「今日四限の講義あるじゃん!」
これまでこの時限はサボりまくっていたのですっかり忘れていたが、出席回数がそろそろぎりぎりなのである。すなわちこれ以上サボると進級に係わる。
もちろんそれだけは避けたい。
「サボり続けていて留年してしまいました」なんて母親に言った日には鉄拳が飛んでくること間違いなしだ。
本の塊に足を取られつつ、干しっぱなしにしていた長袖Tシャツを頭から被り、ベッドの上に放置していたチノパンに足を突っ込む。持ち物はスマホとルーズリーフとペンケースがあれば十分だ。時計を見れば、講義が始まるまであと1時間はある。今から出ても十分間に合うはずだ。僕は僕のズボラな性格をよく知っている。こういう時のために大学近くに部屋を借りたのである。
玄関扉に鍵を掛けたことを確認してから僕はアパートの錆びた階段を跳ねるようにして駆け下りた。
***
僕が通う藍澤学園大学は文理総合体制をとっている。だからこの辺にある他の大学と比べても結構大きめだと思う。再来年にキャンパスがもう一つできる予定だが、僕はもう卒業しているはずなのでもはや関係はない。立地に関して言えば、山を切り崩して建設されたためアップダウンが激しい。そのため地下一階で講義を受けた後に別棟の10階に移動する、なんてことはザラにある。面倒ではあるがもう丸二年続けたことだ。今更文句も何もない。偏差値は良くもなく悪くもなくといった感じだ。これは肌感覚だけど第二志望とか滑り止めとして捉えられることが多いように思える。だから、というわけでもないかもしれないが、いわゆる『普通の人』が集まっているような気がしている。この言い方で伝わるか分からないが極端に個性の強い人がいない、という意味だ。僕の性質と合ってるよな、としみじみ思う。
大学の無駄に豪奢な正門をくぐり、講義棟を目指す。たしか教室はB棟の3階だったはずだ。第1回目の講義で行ったきりだが恐らく合っている。なぜなら進行方向によく知った後姿を見つけたからだ。
少し距離があったので、僕は小走りでその人物に近づき背中を軽く小突いた。
「あれ、久しぶりやな。この講義はもう来ないかと思った」
僕よりも十センチは高い位置から笑い声が降ってくる。
「来るよ。僕だって四年で卒業したいし」
間宮は「そりゃそうや」と言ってずれてもいない眼鏡を触った。間宮は僕と同じく藍澤学園大学理学部生物学科の三年生だ。同じ学科ということもあり、基本的にはこの男と一緒に行動することが多い。僕と違うところといえば講義をサボらないことだろうか。
中学生まで関西方面に住んでいたらしく、言葉に訛りがある。本人は「だいぶ訛りが抜けた」と言っているが、産まれたときから標準語話者である僕からしてみればそんなことはない。
間宮は何かを思いついたように僕の肩に手を置いた。
「そうそう。山上とは会ったか?」
「あぁ、さっきまでウチで話してたよ。間宮もあいつから聞いたんだ? バイトのこと」
これまでの付き合いでなんとなくわかる。きっと山上に僕を推したのはこの間宮だ。
「聞いた聞いた。まぁ、断ったけどな」
「なんで?日給五万円なんて、やっぱり怪しいから?」
間宮だって金に余裕がある方でもない。誤解を恐れずに言うと、彼はアニメオタクだ。漫画雑誌だのフィギュアだのDVDだのと買い漁っていることを僕は知っている。
「うーん、それもあるけど……単純に肉体労働をしたくないから。だって廃墟の掃除やろぉ? 絶対大変やん」
この現代っ子め。
ってあれ?
「どした?」
「いや……廃墟の掃除? 僕は山上から引っ越しだの遺品整理だのって聞いたけど」
これは山上のヤツ適当なこと言ってるな。
間宮は顎に手をやって何か考えた後、苦笑交じりに言う。
「全部合ってるんちゃう? 家主が亡くなって廃墟になった家から引っ越すための遺品整理、的な」
なるほど。納得できなくはない。それならそうと山上もはっきり説明してくれれば良かったのに。
そんな話をしているうちにB棟出入口までやってきていた。各々の教室へ向かう為、エレベーターホールは多くの学生でごった返している。
階段で上がるか。
どうやら間宮も同じことを思ったようで、僕たちは言葉を交わすことなく何とはなしに階段の方へ歩みを進める。そして階段の一段目に足を掛けたところで、グイっと腰辺りを引っ張られた。
「うわっ」
予期せぬ事が起こって、思わず情けない声が漏れる。しかしこればっかりは仕方ない。だって本気で驚いたから!
僕は恐る恐る振り返る。すると思っていた位置よりだいぶ低いところに顔があった。それから視線の主とばっちり目が合う。
バンドTのような黒い長袖Tシャツに細身のジーンズ。ショートヘアを金髪に染め、あらわになった耳には無数のピアスが付いていた。その女の子は顔全体で笑みを作ってこちらを見る。端的に言えば可愛い。
「あの、何か?」
「さっき話してたバイトってまだ募集してる? 私も行きたい!」
「……どうだろう」
言いたいことは色々あった。僕らの話を盗み聞きしていたのかとか初対面なのにフランク過ぎるとか。
「聞いてみてよ。もし私も参加できるのなら給料は和泉にあげるからさ」
その子は笑顔のままで言うが、そんな上手い話があっていいのだろうか。というか廃墟の掃除を無給でやりたがるなんてどう考えてもおかしい。何か企んでいるのか?そうは言っても企めることなんてあるか?
疑問がグルグルと頭の中を巡り廻った結果、一番どうでもよいことが質問となって口から飛び出た。
「なんで僕の名前知ってるの? もしかしてどこかで会ったことある?」
「どうだろうね?」
曖昧な返事だ。この質問に対して曖昧に答える意味はなんなんだ。
「えっと、経営学部の橘さんやっけ。俺、間宮。覚えてる?」
僕よりももう一段上にいた間宮はわざわざ下りてきてそう言った。
彼女……橘さんとやらは大きく頷く。
「もちろん! たしか……映研の新入生歓迎会で話したよね」
だいぶ薄い関係性だった。お互いにそんなのよく覚えているものだ。まぁ橘さんは非常に目立つ容姿をしているので、覚えていてもおかしくはないのか。ちなみに間宮は映画研究会を二日で辞めた。
「山上に聞いてあげたら? 別に和泉は損しないんだし。むしろめちゃくちゃ得するやろ?」
それから間宮は橘さんと目を合わせて「ねぇ」と言った。
何故そっち側につくんだ。ちょっとおもしろがっていないか?
とはいえ、間宮の言うことは一理ある。女の子を働かせて、その分の給料をもらうなんて気が引けないでもないが、本人がそう言っているなら、まぁ、いいのだろう。たぶん。
「ん、聞くだけならいいか。それで駄目だったらきっぱり諦めてくれよ」
橘さんは天井に向かって大きく腕を上げた。喜びの表現だろう。
「苗字は橘……で下の名前は? あと連絡先教えといて。これから講義だから、終わったら連絡するよ」
すべてを受け入れた僕はスマホを取り出し、メッセージアプリを開いた。そして速やかにお互いのIDを交換する(何故かちゃっかり間宮も)。
橘さんは腰に手を当てて、見栄を切るように胸を反らした。
「『未だ明けず』で、ミメイだよ。夜明け前が一番暗いってね。それじゃよろしく!」
独特な名乗り方をして去っていく橘さんは何だか格好良く見えた。その後ろ姿を見送り、僕はため息をつく。間宮は嫌に神妙な顔で僕を見つめたあと、「女難」とだけ言ってサムズアップをしてみせた。
こいつ、他人事だと思って完全に面白がっているな。
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