第二話 作業開始(二)

 僕はふるふると頭を横に振ってからボディバッグに手を突っ込んだ。そして個別包装されている不織布マスクをしっかりと装着した。これでいくらかは埃の影響を受けないで済むはずだ。少し息苦しさを感じるが我慢できないほどではなかった。さらにボディバッグから軍手を取り出す。これでたとえガラス類が散らばっていてもケガをすることは避けられるだろう。

 「それじゃ和室から……」

 誰も聞いていないのだが、なんとなく呟いてから襖を開ける。左手には押し入れ、右手には敷布団や毛布が無造作に置かれていた。それ以外にも風化した新聞や雑誌などが雑に放置されている。部屋の中央には座卓と座椅子が鎮座する。とりあえず小さなゴミから回収して、必要ならば大きな家具は複数人で移動させるべきだ。

 そう判断した僕はまず新聞や雑誌をかき集めた。次々に積み重ね、タワーを作っていく。なんだか僕の部屋を思い出す光景だ。ここでふと気が付く。そういえば不用品をまとめるゴミ袋を持ってきていない。地域によっては指定のものもあるだろうし、蓮田さんに聞いてみるしかないか。

 「これ、使ってください」

 突然背後から声をかけられて反射的に肩が上がる。勢いよく振り返るとそこにいたのは蓮田さんだった。その手には半透明のゴミ袋とビニール紐が握られていた。なんとタイミングの良いことだ。

 「あ、ありがとうございます」

 「いえ……私は庭で草むしりをしているので、何かあったら声をかけてください」

 蓮田さんはそれだけ言って和室を出て行ってしまった。結構寡黙なタイプなのかもしれない。僕は受け取ったゴミ袋を畳に置き、ビニール紐で雑誌類をまとめる。

 その時、新聞の発行年月日が眼に入った。

 『2019年3月20日』

 今から約三年前の日付だ。他の新聞も大体二〇一九年三月に発行されたものだった。蓮田さんは『家主が行方不明になった』と言っていた。ということはここの家主は少なくとも三年前から行方をくらませているということになる。いや、もしかしたら二〇一九年三月分で新聞を購読しなくなっただけかもしれないのか。あるいは……。

 結局いくら考えても答えは出なかった。というより、途中で考えるのをやめたというのが正しいか。いずれにせよ僕の知ったことではないということだ。僕の仕事はこの家を綺麗に掃除することであり、それ以外のことに構っている暇はない。

 それから僕はたっぷり一時間ほど集中して清掃にあたった。自分が動くたびに埃が舞い、たまに名前も分からない虫の死骸が飛び出してくるようなこともあったが進捗状況は悪くない。あとは敷布団と毛布類を運び出し、畳や家具を拭き上げればこの和室の清掃は完了したと言っても差し支えないだろう。それにしても思ったより荷物が少ないし、荒れてもいない気がする。まるで最近まで誰かがひとりで住んでいたようだ。

 「うーん、まぁいっか」

 僕はまた深く考えることを止め、和室を後にした。橘さんがどうしているか気になったのだ。意気揚々としていたが、真面目に働いているのだろうか。

 橘さんが入っていった部屋の扉を開ける。そこはリビングだった。ここも1時間前までは雑然としていたのだろうが、やけにこざっぱりとしている。しかし、床は所々抜け落ち、基礎の部分がむき出しになっている。それを見たとき、僕はなんだか強烈な違和感に襲われた。なんというか、『ちぐはぐ』なのだ。

 僕は消化しきれない気持ちを抱えつつ、部屋を見回す。橘さんは割れた皿を回収している男性と何やら話し込んでいるようだった。

 本当に何をしに来たんだ、彼女は。

 それに初めて会った時も思ったが、コミュニケーション能力が高すぎるというか遠慮知らずというか。

 そんな彼女は僕の視線に気が付いたようでばっちり目が合った。すると橘さんは意味ありげに微笑んでから話を切り上げ、また別のアルバイトの元に向かった。一応箒とちりとりを持って作業しているようだがおざなりになっている。蓮田さんに気づかれるとまずいのでは、と思ったが彼はまだ庭で作業をしているらしく監視の目は皆無だった。これで僕に彼女の分のバイト代が入ってくるというのは少し罪悪感がある。

 「橘さん。ちょっといい?」

 話がひと段落着いたところを見計らって声をかける。彼女は片手を軽く上げ、僕の方へ寄ってきた。

 「調子どう? 和泉っち」

 適当なあだ名をつけるな。

 「調子はすこぶるいいけど。あー、もうちょっと真面目にやった方がいいんじゃない……かなぁとか思ったりして」

 ここはビシッと指摘しようと思ったのだが、結局曖昧な物言いに着地してしまった。僕の悪い所だ。

 「そりゃそうだ」

 嫌な顔をされるかと思いきや、彼女は意外にもあっさり受け入れてくれた。見た目は派手だけど素直で良い子なのかもしれない。ちょっと安心。そして実際にそれからの彼女は真面目に作業に取り組んでいた。その華奢な体躯に反して体力があるようで、男性陣にも引けを取らないくらいの作業量だった。それどころかいつの間にかリーダーシップを発揮していて、他のアルバイト達に指示まで出している。

 僕はなんだか彼女のことをもっと知りたいという気持ちになっていた。

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