第6話 黄昏と亡霊
夏の終わりになるといつも胸を締め付けられる思いに駆られる。
五十鈴玲香、社会人。切れ長の目とこじんまりとした薄い唇。涼やかな顔立ちを縁取る横髪は黒く、四角い。後ろ髪だけがトレーンを引くように長く伸びていた。
会社から帰り、一人になったときだけ、彼女は自由になれる。
玲香は高台に向かった。踏み出す足は控えめて遅れてパンプスの鈍い音が鳴る。
どこへ進めばいいのか分からず、用事もない。ただ、街で最も天に近いところへ赴けば、喪ったものに会えると思った。
鋭い風が吹き、激しく髪がなびく。脳裏に蘇ったのは赤褐色がかった記憶。
ランドセルを背負った子どもだった。群れるよりも個人で動くことを好むタイプ。友達を作ってもうまくいかず、きつく突き放したら誰も寄り付かなくなった。ただ一人、実穂を除いて。
茶髪混じりの黒髪の、ボブカット。一重まぶたながらに大きな目をした
ついに絶えきれなくなった玲香は、十字路の途中で振り向き、罵った。
「私は一人でいたいの。二度と関わらないで!」
目をつり上げ、口を大きく開き、唾を飛ばす。
実穂はしょんぼりとうなだれたが、良心は痛まない。むかっと硬い顔で正面を睨み、走り出した後、遅れて駆けてくる足音。
ちょうど道路を渡りきった後だった。横断歩道も信号機もない場所。車の通りがないわけではないけれど、気にしない。
フンッとそっぽを向いた。置き去りにしようとつま先を向けたとき、鈍い音が後ろで聞こえた。破裂し、なぎ倒されたような、衝撃音。まさか、いや、そんなはずは……。
いつも迫るはずの無邪気な声がしない。
血の気が引く。よからぬ可能性を振り払うように目をギュッとつぶり、恐る恐る振り返った。ドッキリを仕掛けてきたのではないか、からかって遊んでいるだけではないか。信じ、願い、現実を見据える。玲香は目を見開き、張り詰めた顔で硬直した。
グレーの面に艶めいた液体が流れ、広がる。下に投げ出された四肢が赤く濡れ、手前には傷ついた自動車のフロント。
玲香は声を失い、立ちすくむ。暗雲が頭上に垂れ込め、奥の通りから救急車のサイレンがこもって聞こえた。
実穂がいなくなって、なにがあったんだっけ。
艶のない黒服で葬儀に参列し、次の日は……? 平日、全校集会があって、黒いスーツを着た男性教師がなにかを述べた気がする。実穂の両親の元に出向き、話をした覚えもある。なにもかもがおぼろげに霞んで、思い出せない。
胸に空いた空白だけが、そこにあったと、突きつける。
もしも喧嘩なんてしなかったら。
突き放したりなんかしなかったら。
分かっていた。
実は誰とも関わりたくないのではなく、嫌われるのを怖がっただけ。
本当は孤独なんて好きでもなかった癖に自分勝手に一人になりたがるものだから、取り残される。
柵の内側に一人立ち尽くす。後ろへ長く伸びた黒い影。沈む夕日が眩しい。燃え尽きたような色は、あの子を送る灯火。玲香の心は夏の終わりの十字路に置き去りになっていた。現場に赴く勇気すらない癖に……。
自分は取り返しのつかない過ちを犯した。十字路の真ん中の、電信柱の角。自分のせいじゃないと言い聞かせても、実穂の捨て猫のような顔が頭にこびりついて、離れない。おのれの罪と向き合うと想像するだけで心が震える。抱え込んでいたほうがずっと楽だ。
ふと淡い風が吹いて、ほんのりと花の香りが舞った。香を炊いたような和風で落ち着いた感覚。
陽炎のように影が浮かび上がる。ボブカットに一重まぶたの丸みを帯びた目をした少女が、スクールバッグを肩にかけて、立っていた。子どものころの姿のまま、明るい顔で。
幻かと、目を疑う。実際に目の前の少女には現実感がない。吹けば飛びそうなほど輪郭が薄く、ほっそりとした見た目だ。
「いつもここにきてくれてありがとう。でもね、あたしはもうそこにはいないの」
透明感のある声が鼓膜を揺らす。口をあんぐりと開けたまま声も出せない女に向かって、幼い娘は優しく語りかけた。
「今日は別れを告げにきたわ」
きっぱりと、なんの未練もなさそうに。
「だから、ね。あなたも進むべき場所へ行ってもいいんだよ」
目を細め、眉を垂らす。弧を描いた口元。
声で言葉で、柔らかく包み込み、背中を押すように。
知らず、心が波立つ。胸の底から熱い感情が込み上げ、揺れる瞳。
丸い虹彩に映り込んだ少女が淡く霞む。風が吹くと花が舞い散るように彼女の姿は溶けて、消えてしまった……。
別れの言葉は間に合わず、伸ばした手は空を切る。
玲香はだらりと腕を垂らし、指の先を地へと向けた。かろうじて繋ぎ止めていた糸すら、ちぎれてしまったかのよう。
気がつくと眼下の街並みが薄藍色に沈んでいた。
あたりは薄暗い。太陽の残滓はとうに薄れた。
もう過去には戻れず、やり直すこともできないけれど。
玲香にはまだ、行くべき場所が残っていた。
女はまた歩き出す。硬質な音を鳴らしながら、坂を下り市街地へ。かかとから影が伸び、後ろへついてくる。タイトなシルエットを暖かな夕日が照らしていた。
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