第5話 涙の花

 祭りの後。秋前までのロスタイムのような時期だ。

 神社へと続く林の小道はひんやりと涼しく、薄暗い。

 昼間にも関わらず神社の境内は静まり返り、足跡すら沈み込むようだった。

 昨夜までのにぎわいが嘘のよう。提灯の飾りや屋台が取り払われ、殺風景な有り様。

 明るい地毛を持つ、ジャンパースカートを着た女子生徒は、つまらなさそうに目を細める。


 飯田明日香は柳辻中学に通う二年生。学校の宿題はほどほどに消化済みだ。夏休みの終わりに名残惜しさを感じる程度で、焦ってはいない。残った課題といえば自由研究、なにを調べるのか決めないまま時が過ぎ、残された時間は残りわずかである。

 あと少しで学校に登校しなければならないのに、祭りにはばっちりと参加した。

 地味な私服でうろつく中、賽銭箱へ続く通りで男子高校生が、なにかを話すところを聞く。


「白鷺神社、変だよな」

「なにがだよ?」

「なにを祀ってるのか、誰も知らないんだぜ」

「どうせ菊理媛あたりだろ」

 ぶっきらぼうに吐き捨てる。

「いいや、古事記にも日本書紀にも載っちゃいない。民間伝承にも。下手すりゃ、名前すらな」

「表面を繕うことすらしてないってか」

 あきれかえったように顔を上げる。

「とにかくだ。徹底的に洗って、白日の下に晒したいとは思わないか?」

「俺はパス。妙なことに巻き込まれそうだしな」


 自分は気になる。

 明日香は好奇心に満ちた目をして、白鷺神社に突入した――のはよかったものの、なにをすればよいのか分からない。

 砂利道のそばに立つ大樹を見上げ、目線を外す。そばには苔むした石碑があった。読めないのでスルー。

 手前には一つ花が生えている。五つの透明感のある花びら。植物図鑑には載っていない。野草にしては大きく華やか過ぎる。固有種だろうか。

 じぃっと見つめると、突然ぽわんと光が差し込む。明日香は口をあんぐりと開けて、のけぞった。

 構えようとした矢先、彼女の視界が真っ白に染まり、なにもかもが塗り替わる。


 彼女は目を丸くして体から力を抜いて、立ち尽くしていた。

 数度か瞬きをし、あたりを見渡す。

 同じ場所だ。かすかにセピア色がかった視界。しんみりとした林には小道が伸び、朱色の社へ通じていた。

 なにが起きたのか分からない。もしくはなにも起こっていない。気のせい、だろうか。

 首をかしげながら目線を滑らし、グレーの石碑を見る。まだ、真新しい。刻まれた文字は流麗すぎて読めないけれど、材質はきれいなままだとは伝わる。

 もしかして過去か? 全身に鳥肌が立ち、冴え冴えとした目を見開く。

 あらためて周囲を見渡そうとしたときだった。下駄特有の乾いた音が鳴り、かすかな衣擦れを耳が拾う。

 鳥居の手前に一人の男が構えていた。すらっとした外見。一瞬スルーしかけて、ふっと息を吐こうとしたとき、ある部位に気づく。角だ。額と一体になった形で血の色をした尖ったものが、伸びている。

 明日香は目を疑った。ハロウィンの仮装ですら見たことのない、鬼。まさかとは思うけれど、本物ではないか。


「ああ、よかった。あなたはまだそこにいる」

 駆けつけた女性は優美で儚げな印象を受ける。伸びた首はほっそりと、肩は華奢だった。

「ともに同じ空を歩めればどれほどよいものか」

 鬼はそっと手を差し出し、二人は一緒になって並ぶ。

 なにが起きたのか分からないし、なぜ女性が人ならざるものと接して平気なのかも、分からない。

 ただ空気を読んで口を閉ざす。なぜなら、男を見上げる彼女の目が熱っぽく、慈しみにあふれていたからだ。

 笑い、触れ合う二人の雰囲気は柔らかい。まるで背景に花が咲くかのようだった。


 いつの間にか日が沈み、あたりは薄闇に沈む。

 林は暗い色に染まり影の形すら伺えない。目の前が眩む中、彼女はおのれの手のひらに視線を落とし、まだ見えていることに気づく。

 うっすらと指先が透けていた。まるでおのれが亡霊となったかのように。突然のことで慄き肩をビクつかせるも、彼女にはどうすることもできなかった。


 以降も背景に溶け込んで観察を続ける。

 時折周りに着物姿の農民が近づいたが、皆素通りしていった。時には体を貫通して反対側へ歩いていったこともある。

 明日香は戸惑いを隠しきれない。眉を寄せ頬をつねる仕草も、表には伝わらない。

 彼女が同じ場所で棒と化す中、男女はいつものように逢瀬おうせを交わす。人目を忍んで、こっそりと顔を合わせ、二人だけの時間を共有する。

 ただそばにいて存在を確かめるだけで幸せそうだった。ほかにはなにもいらないと。温かな気持ちが伝わってくる。

 遠くからじっと見守りながら明日香はなぜか感傷的な気分になった。

 理由は分からない。ただ、なんとなく、表で堂々と会えないのは彼女たちが運命によって隔てられるものと、察したからだ。


 懸念した通り、二人の関係は長くは続かない。

 欠けた月が浮かぶ漆黒の夜だった。

 夏なのに空気が冷めたように乾き、足元から湿った気配が上る。薄霧が立ち込めそうな雰囲気で、鬼は神妙な面持ちで口を開いた。

「私は戻らねばならない。お別れだ。これでもう二度と……」

 整った眉をひそめ、目を細めた。

「そんな、まだ早いわ。話したいことがたくさんあったのに」

 女は長い袖を垂らしながら追いすがる。男は名残惜しむように振り返りながらも背を向け、歩き出した。

 ほっそりとした影が社の内側へ吸い込まれていく。木の柱を囲いとして、空中に開いた扉。四角く切り取られた中身は濃紺で、宇宙のようだった。


 頼りない月光の下、明日香は息を呑むように現場を見つめる。

 その視界を区切るように着物の影が走った。虚へ伸ばした指先。勢いあまって下駄が外れ、膝をつく。

 うつむき嘆きながらも立ち上がり、社の向こうへ駆ける。勢いよく飛び込もうとして、華奢な体が弾かれた。崩れ落ち、手のひらを地につける。

 壊れそうな表情で面を上げた先で、鬼は苦々しい顔つきで彼女を見つめ、またきっぱりとした態度で正面を向いた。

 消える影。人ならざるものの気配ごと闇の向こうへ。


「ああ、あああ……」


 腰を曲げ、首を垂らす。艶のある黒の先が、砂利道を這った。

 慟哭どうこくが止み朝になっても、彼はもう戻らない。社の門は閉ざされた。

 女はよろよろと立ち上がり、樹木の根本に立ち続ける。

 泥だらけになった着物を払いもせず何年も何年も。同じ場所で鬼の帰りを待つ。

 やがて彼女は朽ち、地に埋まった。こんもりとした土から芽が出て、花となる。

 夏の祭りの後、人知れず咲く。透明感のある白が風にさやさやと、なびいていた。



 明日香はハッと我に返る。

 なにが起きたのか分からない。自分がいったいなにと出遭ったのかも。

 激しく頭を振ると明るい地毛の細い束が、視界をちらついた。

 いちおうは現実。うっすらと紗がかかったように見えるものの、しっかりと地に足をつけて立っている。

 サンダルをはいた足は土にまみれ、神社特有の空気が全身を包んだ。

 林の隙間から注ぐ光はうっすらとしながらも心安らぐ。

 ちらっと横を見れば苔むした石碑。いったい誰を祀ったものだったのやら。


 よろよろと動き出そうとした矢先、彼方よりのんきな声が掛かる。

「これこれ、あまり境に近づくと連れさらわれてしまうよ」

 建物がない通りからやってきたのは、古風な服装を着た老人だった。

 一瞬、自身がまだ過去の時代に留まっていると錯覚するも、よく見ると宮司の袴姿だった。

「あの、ここはどこ……?」

 なにも考えずに口を動かすと、ぼけた発言が飛び出した。

 老人は気にもせずに答える。

「白さぎの社は特別でね。異界と現実の境目なのだよ」

 本当は現在地、現在時刻などを聞いたつもりだったのだが、図らずも神社の解説をしてくれた。

「柳辻がそうであるように、社は異界へ続く扉となる。我々は現実との境を守り、管理する者だよ。もう二度と開かぬように」

「扉を開け、導くのではなく?」

 明日香はきょとんと目を丸くした。

「すでに分かたれし運命。結びつけようとは思わぬよ」

 老人はホホホと、からかうように笑った。

「表と裏、陰と陽――重なり、背を向け合う。混じり合えば混沌こんとんとしてしまうのでね。とかく、この世とあの世は相容れぬ」

 厳しくも現実をとらえた口調だった。

「分かったのなら光の下へ戻るといい」

 うながし、去りゆく。

 明日香は放心と留まったまま。まだ現実感がない。先の話も古の出来事もまるで夏の夜の夢であったかのように。

 ガラス玉のような瞳で遠くを見つめる。トンネルの出口を探すように、か細い光の先を求めて。

 だらりと腕を下げ、指先が地に触れた。

 彼女は一度石碑のほうへ振り向く。古びた石材の足元は空っぽだ。花びらすらない。

 ただ土は暗褐色に湿っていた。きっと誰かが残した涙なのだろう。

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