第2話 ビターレモン
日はすっかりと暮れたとはいえ、空にはうっすらと青みが残る。気温は下がり、過ごしやすい気候だ。ザーザーとストライプを作るように降り注ぐ夕立から逃れるように、スカートスーツ姿の女性が西側の路地に逃げ込む。
グレーのジャケットをしっかりと着こなし、ほっそりとした脚をストッキングで覆った彼女は、手持ちのバッグだけを握りしめ、屋根伝いに進む。
奥には行きつけの店があった。《喫茶トロイメライ》看板がなければ見過ごしてしまいそうなほどさり気なく、控えめに扉がある。ドアノブをひねり、戸をぐうっと押すとジャラジャラと鐘の音が鳴った。
「はい、いらっしゃい」
栗色の髪を後ろで結び、クリーンなエプロンを身に着けた若い女性が出迎える。太い眉をつり上げた彼女はこちらの顔をよく観察しつつも口には出さず、爽やかな笑顔で挨拶をした。
「ではどうぞごゆっくり」
促されるように窓際の席へ入る。ドカッとソファに背を預けると、疲れが出てきた。ついで運ばれてきたお冷。水滴で曇った面におぼろげに映った自分はひどくくすんで見えた。パーツが小さく、薄い顔立ち。メイクをほどこしてなお地味めかつ、幸薄そう。みゆきという下の名に、幸ではなく雪を使ったせいではないか。OL川端深雪は訝しむ。
入社して一年目、成績は平凡。背丈もスタイルも目立つところはなし。そんな自分でも彼氏がいた。過去形。昼間、振られるまでは……。
曇ったガラスを見つめ、思い出す。
ちょうど、食堂でランチを取っていたころだった。好きでも嫌いでもないカレーを適当に注文して、真顔で食べる。スプーンを動かす最中、胸元でブルっとスマホが震えた。なんだろうとタップすると、着信。LINEだった。
『突然で悪いが別れることにした』
冗談かと思うほどあっさりと。本当に唐突すぎた。
みゆきはすぐに立ち上がり、廊下に出る。
「ねえどうして? 私のなにがいけなかったの? 駄目なところがあったら言って。直すから」
耳元に平らな面を当てて呼びかけると、ヘラヘラとした声が返ってきた。
『いいや別に。ただなんとなく、別れたくなっただけさ』
あまりにも軽い。別れを切り出すことは彼にとって些末な問題だという風だった。
『君との関係は甘々なんだ。僕はもう少し刺激を求めて旅に出る。遠く離れるんだ。ちょうどいいだろ? じゃあな』
さらりと述べ、一方的に切られる。
ツーツー。
無機質な音が耳の奥に残る。
深雪は唖然と立ち尽くした。
トボトボと戻って来ると昼食はすっかり冷めていて、食べても美味しくない。機械的な食事はいつものこととはいえ、いつにも増して憂鬱だ。以降の仕事も真面目にこなしやり遂げた自分を褒めてほしい。
かといって見ず知らずの誰かに不幸自慢をしたり号泣するほど周りが見えていないわけではないので、一人で喫茶店の隅で物思いに更ける。
バイトの若い娘が注文を受け取りにきたので少し悩んでから、「ブラックコーヒー」と口にした。
「かしこまりました」
腰を曲げ、目を伏せてから、背を向ける。淡々と歩き去った姿を見送ってから、前を向く。
そう、ブラックコーヒー。彼も好きだった。インスタントの豆に熱湯を注いだだけのストレートなタイプ。
ドリンクを待つ間も気持ちはまだモヤモヤとしていた。お冷の透明な面越しにかつての恋人の顔が浮かんでは消える。
彼は髪を明るい色に染め、ピアスをいくつかつけ、チェーンのネックレスを首に垂らした男だった。見た目通りのチャラチャラとした風貌で、性格も軽薄。責任感はなく、自分の好きなことだけをやる自分勝手な人だった。
少しは愛されていると信じたかったけれど、違ったみたい。彼にとって自分はただの遊び相手。暇つぶしの道具に過ぎず、飽きたらポイッと捨てられるだけの存在だと。
思い出してはまた潮の感情が込み上げ、鼻と目の間が熱くなる。目をうるませながらもなんとか上を向き、こらえた。
なんであんな人に惹かれてしまったんだろう。
口の中で声を震わす。最初はただ興味を抱いただけ。ただ、なんでも挑戦し危険なことにも挑む姿勢が輝いて見えた。弱虫で控えめな女にはないものを持っていると感じ、胸がワクワクドキドキと波立つ。吸い込まれるように彼を見ていた。彼と一緒にいられればなにかを得られると確信したのに……。
全てはまやかしだったようだ。
鬱々と下を向いたとき、アイスコーヒーが運ばれてくる。五百円サイズの逆三角形の形で、ストローが差してある。暗褐色の液体には角切りにした氷が詰め込まれ、グラスの表面は結露していた。いかにも涼しげだが飲む時間帯を間違えたかもしれない。
気持ちまで冷えるのを感じながら、思い切ってストローに口をつける。ちょろちょろとはい上がる泥のような飲み物。喉を通ったものもまた泥のように苦かった。
思わず口を離し、うげぇと顔をしかめる。
こんなののどこがいいのよ……。
――「コーヒーは王道のブラックだぜ! スッキリとした味わい。飲むとシャキッとするんだ! 朝に飲めばガツンと覚醒だ!」
熱く語り目を輝かせた彼の顔が遠ざかる。
深雪にとってはミルクをたっぷりと入れた甘々のものが好ましい。眉尻を垂らし息を吐きつつ、テーブルに置かれたガムシロップをつまみ、蓋をめくった。甘ったるい液体を流し入れ、さらに角砂糖をいくつか投入。
ぐるりとストローで回しながら、やはりこうなる運命だったのだと、独りごちる。
あの男との別れはある種の慈悲。ただし、彼のことはしばらく忘れられそうにない。レモンを丸かじりしたようなブラックコーヒーの衝撃が、舌に焼き付いてしまったから――
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