第3話
朝の空気の匂い。
金属の冷たさ。
誰かの笑い声が遠くに聞こえる時間帯。
そのすべてが、記憶の底で冷たく光っている。
触れると痛いのに、毎年この季節になると自然に手が伸びてしまう。
癖みたいなものだ。
“取り返せなかった何か”の映像は、いつも断片的に浮かぶ。
転がった何か。
こぼれた名前。
凍ったように動かない影。
そして、誰も責められないまま、静かに凍っていく時間。
誰にも話していない。
話したところで、何も変わらないことだけは、なぜか昔から知っていた。
だから、なのかもしれない。
屋上に通うようになって、白石さんと出会ってから――
少しずつ、「忘れないでいること」に意味がある気がしてきた。
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ゆっくり、ゆっくり。
今日も階段を上がる。
この場所に来ると、自分の中の「声」が少しだけ聴こえる。
耳じゃなくて、胸の奥にあるような、かすかな音。
それが、俺を屋上へと運んでいく。
扉を開けると、風が鳴いた。
冷たさに目が細くなった先に、彼女の姿が見える。
「……こんにちは」
白石さんは、ほんの少しだけこちらを向いていた。
けれど、その目は遠くを越えて、何か“思い出すもの”を見ているようだった。
「今日も、来てくれてありがとう」
「当たり前だろ。……俺は、街を見守る副隊長だからな」
「それ、毎日階級上がってるよね」
「明日は部長かもな」
白石さんは、口元だけで笑った。
でもその笑顔は、どこか眠ったような、奥まで届かない感じがした。
「ねぇ、黒巻くん」
「ん」
「つばめってさ。幸福を呼ぶって言うけど……逆に、幸福を運び終えたらどうなると思う?」
「え?」
「どこかに行っちゃうのかな、それとも……」
彼女の言葉が、途中で途切れた。
風の中でほどけて、消えていく。
「死ぬのかなって、思っただけ」
「……」
「でもね、それって悪いことじゃないと思うの」
「……幸福を届けて、いなくなるのが?」
「うん。だって、それで誰かが救われるなら。私はそれでいいって、思ってた」
白石さんの声は、氷の結晶みたいに繊細で静かだった。
触れると壊れてしまいそうで、俺は言葉を探すことすらできなかった。
「でも、ね」
「……うん」
「夢を見たの。つばめが、誰にも幸福を渡せなくて、ぐるぐる空を飛んでる夢」
「どうなったの?」
「最後は、翼が折れて、落ちた」
胸の奥に、ぴしりと細い亀裂が走った。
過去の記憶が、冷たい光となって背中をなぞる。
「そんな夢、見なくていいのに」
やっと出た声は、風に混じって震えていた。
白石さんは笑った。
でもその笑顔は、もう少しで泣きそうな顔と、限りなく近かった。
「ほんとはね、今朝、ここに来るのやめようと思ってたんだ」
「どうして?」
「来たら、きっと言っちゃいそうだったから。……助けてって」
その言葉が、胸の真ん中に落ちた。
音はしなかったけど、確かに波紋が広がった。
「じゃあ言えばよかったのに。俺は、ずっと聞いてたよ」
「……ほんとに?」
「俺だって、ずっと、誰かにそう言いたかった。誰かにそう言われたかった。
だから、お互い様だ。……俺がここに来る理由、きっとそれなんだよ」
白石さんは、まっすぐ俺を見た。
目を逸らさなかった。
その奥にある、まだ言葉にならないものが、ようやくほんの少しだけ近くに感じられた。
「じゃあ、来てくれてありがとう、副隊長」
「うん。これからもよろしく、隊長」
俺たちは並んで、柵の向こうの空を見た。
そこには、まだつばめの影はなかった。
でも、少しだけ雲が切れて、
どこかに眠っていた光が、すこしだけ頬を撫でていった。
「……まだ飛べるかな」
白石さんが言った。
俺は何も言わず、彼女の横でうなずいた。
風はまだ冷たいけど、痛くはなかった。
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