五、閃光
円の母親は、病院まで迎えにきてくれた。クロシロの母親は、円のことを責めたりはしなかった。反対に「うちの息子が迷惑をかけてしまって、申し訳ありませんでした」と謝ってきたくらいだ。
そのあとの記憶はない。母親と何を話したのか、どうやって家に帰ってきたのかもわからなかった。それよりも、クロシロに見えたたった一桁の数字。『0』が、頭をぐるぐると回っていた。
年収がゼロ。今のクロシロの状態を知っていたら、最悪の事態しか考えられない。彼は、収入を得ることなく、死に向かう。
もう一度ペンダントを握るが、当然のように何も見えなかった。部屋のベッドにうずくまる。他に可能性はないのだろうか。例えば、宝くじで大当たりして、働かなくて済むとか。ともかく何でもいい。『彼は死なない』と、自分に暗示をかけたかった。
そう考えていると、自然に電話の子機を手にしていた。月波なら。あの胡散臭いサラリーマンなら、何かわかるかもしれない。クロシロが死なない可能性を示してくれるかもしれない。
――でも、それを否定されたら?
子機を持つ手が震えた。ボタンを押そうとしていた指は、空を切る。一度ためらうと、月波に電話する勇気は、萎えてしまった。
持っていた子機が、音を立てた。空気の振動と驚いたことが重なり、手から落ちそうになる。床寸前のところでキャッチし、円はゆっくりと通話ボタンを押した。
「もしもし、金子ですけど」
相手はクロシロの母親だった。先ほどと同じように、円に迷惑をかけたことを謝罪すると、クロシロの容態について教えてくれた。
「今やっと眠ったの。きっと病院を逃げたのは、色々思うことがあったのね……。私もできるだけそばにいてあげたくて、本当は仕事を辞めたかったんだけど、思った以上に医療費がかかるって知って、働かざるをえなくて。塾も辞めさせてしまったし。……あ、ごめんなさい、おばさんの愚痴になっちゃったわ」
悲しそうに謝るクロシロの母に、円は黙ったままだった。
「クロシロは、手術をしたんですか?」
一つだけ質問すると、通話口の向こうで溜息が漏れた。
「まだよ。手術をしないと、あの子が助かる確率は低くなるの。だから、何とか説得してるんだけどね」
クロシロの母の重苦しい声を聞くと、円は自分の思いを手短に言った。
「あいつが起きたら、伝えてください。『俺はお前を信じてる』って」
クロシロの母親が了承すると、静かに通話ボタンを切った。
クロシロなら、わかってくれる。どれだけ自分が彼のことを心配しているかを。自分だけじゃない。クロシロの母親や光、家族全員そうだ。それに、レイジとライト。二人はクロシロの「一週間で治す」という言葉を信じている。例え、彼が重病だと感づいていたとしても、だ。
月波に電話をするのはやめた。子機を廊下に戻すと、自分の胸のペンダントを見つめた。
水色の海と、大きな陸地。日本のような形の島。それにかかる三日月。スペースシャトルのチャームは、初めて月波が取り出したとき、魅力的に感じた。昔の人間は、月に行くことを夢見ていた。そんなイメージでデザインされたと思われるペンダントは、実際には冷めた現実、変わらない将来を円に見せた。
円は、ペンチでチェーンを切ろうとした。柄をぐっと握りしめ、力を込める。しかし、何度やっても鎖が切れることはなかった。絶望した。
自分には、『年収』という形で相手の人生が見えてしまう。いい結果であれ、悪い結果であれ、わかってしまう。人生=年収。そんな構図を押しつけられたような気持ちだった。
人生の価値は、金ではかれるものなのか? 金って、それほど重要で、大事なものなのか?
「絶対、間違ってる」
呟くと、円はベッドに入った。何度寝返りをうっても、寝つくことはできなかった。
時計を見ると、朝の五時だった。一睡もできずにベッドから出ると、キッチンのテーブルには無造作に母親の財布が置かれていた。
金。世の中を支配する、諸悪の根源。全ての元凶。憎しみを込めて財布を開くと、一万円札が入っていた。
「こんなものが、人生をはかるものさしなんて、俺は絶対認めない」
円は、財布から諭吉を引き抜くと、自分の小さな財布にしまった。
今日は土曜日。母も父もまだ眠っている。一度部屋に戻り、小さなポーチの中にハンカチとティッシュ、携帯ラジオ、そして財布を詰めると、忍び足で家を出た。
人生をはかる紙切れに、どこまで力があるのか、試してやろうじゃないか。
円はまず、コンビニでお菓子とジュースを買った。一万円札をくずすと、九千六百四十七円お釣りが返ってきた。
バス停に行くが、始発のバスは六時すぎ。腕時計を見ると、まだ五時四十五分。これなら歩いた方がいい。
三十分かけて最寄りの駅まで歩くと、二十四時間営業のファストフード店があった。ちょうど朝ご飯もまだだったので、躊躇せずに入る。四百三十円のセットを頼むと、トレイを持って二階席に上がった。さすがに土曜日の早朝ということで、子供は自分しかいない。店内もまだ空いている。
席につくと、財布を確認した。まだ九千二百十七円ある。ポーチからラジオを取り出すと、イヤホンをつけて電源を入れた。お気に入りのラジオ局、ラックシックスが、交通情報とニュースを流す。それが終わると、ラジオは『聞いてよ! 街のいいところ』というコーナーに移った。
女性DJが、ハスキーな声でコーナーの説明をする。リスナーから募集した『自分の住んでいる街のいいところ』をDJが紹介し、一番住んでみたいと思った街を、彼女の独断と偏見で一つ選んで、『住みたいで賞』に認定する。受賞したリスナーには、番組オリジナルステッカーをプレゼントするという企画だった。
『ラジオネーム・みみごんさんのメール! 「私は葉山に住んでまーす! なんと言っても海が近い! 海水浴場もきれいです。浜辺の清掃活動、私も参加してまーす。まだ六月ですが、海開きしたら、ぜひ遊びに来てください!」うん、海や浜辺がきれいって、いいよねー』
海か。まだ行っても泳げないだろうけど、葉山の海を眺めたい。『海を見れば、自分のことがちっぽけに思える』。よくアニメやマンガでも使われる言葉だ。気分も晴れるかもしれない。
アイスティーを飲み干すと、円はラジオをポーチにしまい、席を立った。行く場所は決まった。確か葉山は逗子駅から行けるはずだ。海水浴場にも、小さい頃に連れて行ってもらった覚えがある。
ゴミを捨てると、店を出て、そのまま駅に直行した。
逗子までは子供料金で片道六百九十円。まだ財布には五千円札が一枚、千円札が三枚入っている。余裕だ。
電車に乗り込むと、しばらく乗り換えはない。ラジオを聴きながら、振り向いて窓を流れる風景を見た。東京よりも都会ではないし、かといって、田舎でもない中途半端な街。こうして一人で街を出るのは初めてだ。
『金の力を試す旅』。すでに答えは出ていた。お金があるから、ものが買える。食事ができる。初めてどこか遠くの世界にいける。当たり前のことすぎて忘れていた、金の力をまざまざと痛感させられて嫌だった。
所詮、世の中すべて金。金のないものは、淘汰される。土曜日だから、人数は少ないが、スーツを着ているサラリーマンは、生活費を稼ぐために働いている。それ以外の人だって、生きるために収入を得ている。
無表情な会社員は、つまらなさそうにドアに寄りかかって、窓の外を眺めている。目に映る景色に、感動はあるのだろうか。新鮮さや発見は? 全てを殺して大人になるのが、恐かった。
『夢ってある?』
月波に会ったとき、聞かれたこと。自分は心の底で、あきらめていた。いい大学に行って、いい職につく。それが大人になることだ。母親も父親も、そうなることを望んでいるに違いない。
夢なんてあってもなくても関係ないと思った。レイジはパイロットになれない。クロシロなんて、生きられるかもわからない。ライトだけは運良く夢を叶えられるようだが、すでに運命は決まっている。抗えない波に飲み込まれているようだ。
東京の端の駅で、乗り換える。ラジオが道路情報を伝えた。電車の自分には関係ないことだが、淡々としたしゃべり口は、DJのノリノリの口調と全く違ったトーンだ。時間に正確で、自分の感情を押し殺したようなしゃべり方は、どうも気に入らなかった。
二時間近く電車に揺られ、円は逗子駅に着いた。駅前の案内看板を見ると、数キロ先に海岸がある。どう行くかは一度で覚えられなかったが、ともかく歩けば海にたどりつくだろう。バスで行くこともできるようだが、何も考えずに歩きたい気分だった。
商店街はまだ開店前だ。シャッターが閉まった街を過ぎると、川がある。それに沿って進むと、今度はトンネルだ。歩道が狭い上に、暗く、車もスピードを落とさずに走っている。オレンジのライトがついてはいるが、さすがに恐怖を感じた。長いトンネルを抜けると、灰色の雲の隙間から、細い光が差し込んでいた。
緩やかな坂道を下ると、やっと潮の香りがする。大分歩いた。足も痛い。波の音が聞こえる方へ、精神力で動く。小道に入ると、柔らかく白い砂の上に出た。
大きな波のうねり。海が目の前にあった。
砂浜には誰もいない。海の家の骨組みだけが、そこにあった。円は、砂の上に腰を下ろし、黙って海を見ていた。
風が髪を揺らす。雲が進んでいく。さっきまで差しこんでいた太陽の光も、今は見えない。いつ雨が降ってもおかしくなかった。
波の音が心地いい。何も考えなくてすむ。ペンダントのこと、友達のこと、金のこと。今の自分が背負うには、大きすぎるものばかりだった。
親は心配しているだろうか。朝になったら、息子の姿がない。驚いているかもしれないが、どうでもよかった。もう、うんざりしていた。自分の顔色をうかがう母親に。大人の顔色をうかがう自分に。
考えると、笑いがこみあげてきた。親子でお互いの顔色ばかりみているなんて、滑稽でしかない。なんでこんな状態になったのだろうか。きっかけは昔すぎて思い出したくない。気がついたら、大人の喜ぶことしか言わなくなっていた。それでも最近は、友達を巻き込んで反発していたつもりだ。だけど、自分がはっきりと怒られることはなかった。
「本当は、怒ってほしかったんだ」
「へぇー。誰に?」
声に驚いて隣を見ると、いつもどおりのスーツに、緑のネクタイを緩くしめている彼がいた。
なんでこんな場所にいるのだ。
目を白黒させていると、月波はしゃがんで、煙草に火をつけた。にやりと笑うと、円の心の声が聞こえたのか、勝手に事情を説明した。
「いやぁね、土曜だっつーのに、お仕事ですよ。出張ってやつ。それにしても、超偶然だよなー。海でも見とこうと思ったら、お前がいるんだもん。偶然とおりすぎて、気持ち悪いな」
「それはこっちの台詞だよ」
月波ではなく、海をにらんで言うと、相手は鼻で笑った。
「円。お前、気持ちいいほど俺にたてついてくるな。そんなに俺が嫌いか」
返事はしなかった。正直、よくわからない。こいつは災難の根源だ。人の年収が見えるペンダントなんて、気持ち悪いし、そのおかげでやっかいな問題に首を突っ込まざるを得なくなった。
でも、月波からペンダントを受け取らなければ、レイジが悩んでいることも、ライトに才能があることも、クロシロの命のこともわからないままだった。そう考えると、彼と出会わなかったことの方が恐い。
それに、たまにこのダメサラリーマンが口にする、人の心を楽にさせる言葉。不思議だった。どんなに悩んでいることがあっても、ふいと飛んでいく気がした。
仕事はサボっている上に、小学校の校庭で煙草は吸う。軽い口調に、ちゃらんぽらんそうな性格。そんな彼だが、そのせいで、他の大人と一緒くたに見ることはなかった。
他の大人が好むようなきれいごとや、小学生らしい素直さを求めることもほとんどなかった。言ったとしても、「ガキはガキらしくしてろ、バーカ」という罵りぐらいだ。
彼自身が子供なのだろうか。円と同じレベルで対峙する人間――それが月波平だった。
海の音を聞きながら、大きく煙を吐き出すと、月波は静かに呟いた。
「俺が嫌いっていうか、本当は大人が大っ嫌いなんだろ」
黙ってうなずいた。その通りだ。むしろ、月波には本音で接することができた。彼が自分と同じレベルに立ってくれていたから。他の大人はそれに比べて、明らかに自分自身を大きく見せていた。そして、子供たちを、幼い頃から自分たちの思い描く『素直でいい子』に作り上げようとしていたのだ。
「友達百人なんて、できっこないんだ」
円が小さく言うと、月波は目の前の少年をじっと見つめた。
小学校に入学した直後、円は一部の児童から、軽いいじめにあった。当時は、レイジともクロシロとも特に親しくなく、孤独だった。原因は今思ってもくだらない。牛乳を飲むのが遅かったからだ。他のクラスでは、アレルギーで牛乳自体飲めない子もいたのだが、円のクラスは全員飲めた。もちろん、嫌いだという生徒はいたが、給食の時間内にきちんと食べ終わっていた。だが、自分は給食の時間をすぎても、牛乳を飲んでいた。
最初のうちは残すことも許された。しかし、「食べ物は大切にしましょう」と先生が言うと、他の生徒たちがうるさく騒ぎ出した。
小学校一年生の四月。入学式では「友達を百人つくろう」と心を弾ませた。でも、クラスの子供から受けた非難のせいで、それが幻想だと嫌でも思い知ったのだ。
「友達百人」なんて、大人の作った嘘だ。大人はなんで、そんな嘘を吹き込む?
いらだちはすぐさま不信に変わった。初めての授業参観で、『お父さん、お母さんの好きなところ』という作文の発表会をしたところ、クラスメイトのほとんどは、親をべた褒めする内容の作文を書いてきた。
円はぞっとした。それを発表する子供に、拍手を送る親。まるで、自分の子供が『素直でいい子』に育っていることを確認するためだけの授業参観に思えた。
円はそんな中、「母親はぐうたらで寝てばかりだ。でもそのおかげで自分も好きなことができる」と、少しばかりひねくれた作文を読み上げた。母親は赤面していたが、自分なりに『素直さ』を表現したつもりだった。学校の帰り道、母親が言った台詞が、余計彼を傷つけた。
「クラスの子は素直な子ばかりで、あんたとは大違いね」
ショックだった。自分も素直に言った。母親のことを直接褒めていないが、放任なのが心地いい、自由に呼吸できると言ったつもりだった。それは民子に全く伝わっていなかった。
大人がクラスメイトのような子供を望むなら、自分は大人の望む『理想の子供』を演じてやろうじゃないか。理想どおり、レールに沿って、高校、大学と進学し、いい会社に勤める。そういう『大人』を作りたいんだろう?
そう決めて以来、本音で話すことをやめ、母親や大人の顔色をうかがってばかりになった。それが正しいずっと思っていた。でも、月波からペンダントをもらってから、円の行動は変わった。レイジと一緒に反抗した。ライトも巻き込んで、家出騒ぎまで起こした。クロシロの脱走を手伝った。
いい子から脱却したつもりだった。これで民子から怒ってもらえるとさえ思った。なのに、母は何も言わない。ライトと一緒にレイジを家出させたときはげんこつを食らったが、それすらレイジの母親に対するパフォーマンスでしかなかった。
「俺はいい子のままなんだ。このまま大人が望むように、高校、大学、就職って進んでいく。将来の夢を見ることもできないんだ」
円が泣きそうな表情で月波を見ると、彼は困ったように溜息をついた。円の言葉は止まらない。
「でも、夢なんてあってもなくても、運命は変えられないんだろ? 人生の価値が金で決まる。『大人』はそれを望むのか? そんなの、おかしいよ!」
波の音に負けないくらいの円の叫びを聞いて、月波は携帯灰皿に煙草を押しつけた。
円にきつい眼差しを一瞬向けると、思いっきりでこピンを食らわせる。指の骨が、頭蓋骨にぶつかり、ジンと痛みだす。
月波は立ち上がると、額を押さえている円に笑いながら言った。
「……金はツールの一つでしかないんだ。要するに、そのペンダントもツールの一つ。ま、お前がおかしいと思ってることは、あながち間違いじゃないのかもしんねーけど」
言っている意味はわからなかった。まだ痛む額を擦りながら、円が月波を見上げると、彼は腕時計を見て焦った。
「やべ、俺このあとアポがあったんだ! じゃあな、円!」
足場の悪い砂の上にも関わらず、革靴で走り出す。全く不思議なサラリーマンだ。一体、どんな仕事をしているのだろうか。想像もつかない。
――想像したこと、なかったな。
月波の姿から、民間の企業に勤めるサラリーマンだということは想像していた。それにしても、怪しいペンダントを取り扱っていたり、ふらりと葉山に出張だったりと、行動が不可解だ。
走っていく彼の姿を見て、ペンダントを握りしめる。数字は出てこない。もう一度、集中する。
「うわっ!」
激しい閃光が目に入り、円は後ろに手をついた。彼の姿を探しても、もう浜辺にはなかった。
月波が去ると、白い砂に小さく水滴が落ちてきた。砂は、次第に灰色に変化していく。自分の頬にも冷たい雫があたる。雨だ。
怪しいサラリーマンの謎は、結局謎のままだった。
雨はどんどん激しくなる。それでも円は、雨宿りもせずに浜辺にたたずんでいた。波は大きなうなり声を上げて、押し寄せては広い海に戻る。じっとその様子を見つめていると、ふいに自分の頭の上だけ、雨が止んだ。見上げると、赤い傘を持った若い女性がいた。
「君、さっきから一人でどうしたの? こんなところにいたら、風邪引いちゃうよ」
女性の優しい言葉に、どうこたえればよいのかわからず、下を向いた。ずぶ濡れのスニーカーで、水を吸って土に変わった砂をほじくる。
何も言わない円をいぶかしんでいるのか、女性は訊ねた。
「もしかして、迷子? にしても、こんなところに来るわけないし。まさか……」
はっと何かに気づいたように、青ざめると、円の腕を引っ張り、浜辺から遠ざけた。彼女はぐいぐい円を引っ張り、御用邸近くの警察署に彼を連れて行った。円は雨に濡れ、すっかり疲れていた。されるがままの円は、警察に保護された。
「円!」
三時間後、母親と父親が葉山まで迎えにきた。警察官に頭を下げると、父親は円を抱きしめて、涙を流した。
「よかった……。全く、親を心配させるんじゃない!」
掠れた声を、搾り出すようにささやいた。信じられなかった。いつもきつい口調で、自分のことには淡白な父が、泣いている。
父の肩越しに、母の表情をうかがう。彼女は顔を真っ赤にして、円を見つめていた。父親が自分から離れると、母親は左の頬を思いっきり叩いた。
バチンと大きな音が鳴る。警察官たちは、こんな風景は慣れっこのようで、無関心に書類整理をしていた。
「この……バカ息子!」
民子が、怒った。円は叩かれた頬を触り、彼女の瞳を真っ直ぐ見つめた。涙が溜まって、今にもこぼれ落ちそうだ。
「あんたは今までいい子だった! だから、やっていいことと悪いことも、本当は理解してるんだって、お母さんは勝手に思ってたわ。円はいい子に育ったって、喜んで。でも、それは間違いだったのね」
そうか。母さんは誤解してたんだ。本当の自分を隠して『いい子』の演技をしていたから、勘違いしていたのだ。
民子は、自分が怒る必要がないほど、円が『いい子』に育ったと思ってしまった。それほど彼は、大人の想像する『いい子』を的確に演じてしまっていたのだ。
「あんたは、やっぱり普通の子供よ……。お母さん、あんたがいい子すぎるから、どう接したらいいか、わからなかった。悪いことをしても、『この子は、本当はわかっている』って、勝手に思いこんで。ちゃんと叱るべきだったのに、それができなかった」
母親の目に溜まっていた涙が、とうとう頬を伝って流れ落ちてきた。民子は、自分が泣いていることにも気づかず、円にすがりついた。
「だからって、なんで自殺なんて考えたの! お母さんが、あんたを追いつめていたの? だとしたら謝るわ。これからちゃんと、本当のあんたと向き合う。だから、死のうなんて、考えないで!」
そう叫ぶと、彼女は円をぎゅっと、苦しいくらい抱きしめた。息ができないほど圧迫されているが、母親がそこまで心配してくれたのは、嬉しかった。しかし、どうもおかしい。
「じ、自殺? 死ぬ? 誰が?」
「お前が入水自殺しようとしていたところ、保護されたって電話があったとき、俺は目の前が真っ暗になった。もう、二度とそんなことを考えないでくれ。お父さんやお母さんに言いたいことがあるなら、思いっきりぶつけてくれていいんだ。いい子でいる必要はない。だから、頼む」
洋も、話し終わると再び涙がこみ上げてきたらしく、片手で目頭を押さえる。
「え、ええ?」
それこそ大きな誤解だった。確かに雨の降る中、浜辺にたたずんでいたのは認める。だが、自殺なんて勘違いも甚だしい。
誰がそんなことを……。そう考えたとき、右目の端に、先ほどの赤い傘の女性が映った。彼女か!
「お、俺、自殺なんて考えてないから! ただ海を見てて、つっ立ってただけだってば!」
大声を張り上げると、女性と、洋、民子は、きょとんとした顔で円を見つめた。しばらくすると、洋と民子の視線は、きつく変化し、女性に向けられた。
「ま、まぁ、息子さんが見つかってよかったですね。私はこれで」
女性は逃げるように警察をあとにした。
家に帰ると、円はさっそく散々な目にあった。キッチンのフローリングに正座させられ、今までのことを、母と父にねちねちと説教された。レイジをそそのかしたこと、ライトの家にレイジを泊めたこと、クロシロの脱走の手伝いをしたこと。それと、今日のことだ。
レイジのことは「よその家庭の問題に、子供が首を突っ込むもんじゃありません」。ライトの家を家出の宿泊先にしたことは、「來人くんまで巻き込んで!」。クロシロの件に関しては一番厳しく怒られた。「病人が抜け出すのを手伝ったら、命の危険だってあるのよ! 現に雪白くんはそのあと倒れたじゃない!」。どの言葉もきつく胸に刺さった。怒ってもらいたかったはずなのに、本当に怒られると、泣きたくなってくる。しかも、二人の言うことは、まさに正論だった。
レイジの問題は解決したし、ライトとレイジもそのことで仲が悪くなることはなかったので、それはもう大丈夫だ。だが、クロシロのことはまだ片付いていない。彼の病状が気になった。
ちょうどその時、電話が鳴った。民子が出ると、すぐに円にかわると電話の相手に告げた。
「円、雪白くんから」
「クロシロ!」
円は受話器に飛びつくと、すぐに民子が釘をさした。
「また、変なことを言ったりするんじゃないわよ!」
こくこくうなずくと、クロシロにむけて喋りはじめた。
「おい、電話なんかして大丈夫か? まさか、また抜け出したとか」
心配するとクロシロは小さく笑い、「んなわけないだろ」と軽く否定した。
「昨日ぶっ倒れたばっかだってのに、そんな元気ないって。まだ腹も痛むし、今も点滴打ちながら公衆電話のところまで来てるんだから」
円は何も言えなかった。クロシロの脱走を手助けしてしまったことを、再び悔やんだ。自分があの時、無理にでも彼を引き止めていれば、こんな点滴だって受けていなかったかもしれない。
彼に見えた、「0」。認めたくなかった。それが例え、変えられない運命だとしても。
しばらく二人は黙っていたが、クロシロの方から静かに切りだした。
「母ちゃんから、伝言聞いた。お前が俺のこと信じてくれるなら、俺、恐いけど、手術受けるよ」
「……うん」
素直に喜べなかった。手術は受けてほしい。だけど、彼の運命が変わることはない。それならば、恐い思いをして手術をしないで、安らかに過ごした方が彼のためなのではないだろうか。
「それと、ライトとレイジにさ、言っといてくれないか? 『一週間じゃ治らないけど、絶対元気になる』って。今度の土曜に手術だから、当分会えないけど」
クロシロの言葉が重くのしかかった。
『お前が治るって信じてる』と言ったのは円だ。そう願っているのも本心である。しかし、円は彼が治らないことを知っている。口の中に、苦い味が広がる。
「わかった。伝えるよ」
つばを無理やり飲み込み、それだけ言うと、クロシロは電話を切った。通話が終わっても、受話器を元の位置に戻すことができないでいた。
受話器を手にしたまま立ちつくす円を、民子と洋は心配した。
「雪白くん、なんだって?」
心配する母の問いかけ。今までの円だったら平静を装って「うん、手術受けるって。俺も安心したよ」と答えていただろう。でも、もうそんな演技はしない。
受話器を投げると、円は民子に飛びついた。
「クロシロは、手術を受けても治らないんだ……! 俺はそのことを知ってるのに、『治るって信じてる』なんて言った。最低だ!」
声を上げて泣き出す息子に、母と父は困惑した。お互い顔を見合わせると、二人は息子の頭をなでた。
「円は彼を元気づけたかったんだろう? 黒田くんに希望を失わせたくなかったから、そう言ったんじゃないのか」
「そうよ。それに治らないなんて、悲観的になっちゃいけないわ。いくら絶望的だとしても、信じていれば奇跡は起こるわ」
奇跡は、運命をひっくり返すことができるのだろうか。二人の優しい言葉を聞いても、円の涙は止まらなかった。
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