四、ぜろ

 一日休んで、レイジは登校してきた。何だか憑き物でも落ちたような、すっきりとした表情に、円とライトは笑顔になった。

「おっす」

 少し照れたように挨拶する彼に、自然と二人は近寄った。

「おはよう、レイジくん」

「よう」

 二人から切り出すような無粋なマネはしない。レイジは、ランドセルをロッカーにしまい、席に戻ると、まず頭を下げた。

「二人とも、本当に今回はありがとう。おかげで母さんとしっかり話し合うことができた」

 一番聞きたかった台詞に、円とライトはお互いの手を叩いた。レイジも両手を差し出したので、交互にハイタッチして喜んだ。

 レイジの話では、早退した晩に、父親も含めた家族会議が開かれたとのことだった。そこで、レイジは溜め込んだ全ての思いをぶちまけた。母親は今までとはうって変わり、涙をこぼし、レイジの話をうなずきながら聞いていたらしい。

 母親に子供のことを任せきりだった父親も、さすがに一ヶ月近くも引きこもっていた息子に頭を痛めていた。かといって、自分がどうにかできる問題ではないと、仕事に逃げていた。しかし、身勝手なもので、母親を責めたこともあったようだ。

レイジが極めて実直に、自分の考えを吐露したことで、父親も息子から逃げることをやめた。そして、彼の要求をのむことにしたようだった。

 父の意見に、母も異議を唱えなかった。

「母さんも、父さんが俺のことに無関心なところがあったから、『自分がしっかり育てなきゃ』って、変な責任を感じちゃったらしい。それで、必要以上に俺のことに過敏になってたみたいだ」

 レイジの報告が終わると、ライトが難しそうな顔で呟いた。

「うちはお母さんと二人だけど、うまくやってる。なのに、お父さんが一緒にいても、ケンカしたり、わかりあえないことってあるんだね」

「家族の数だけ、問題はあるんだと思うぜ? それに、個人だってわかりあえないだろ。俺なんか、自分のことだってわかってないし」

 円が冷めた口調で言うと、レイジとライトはきょとんとした顔で彼を見つめた。

「お前、熱でもあるのか?」

 レイジが茶化すと、ライトも笑った。

 真面目に言ったことを笑われ、腹が立ったが、二人の笑顔を見ているうちに、今の発言は笑い飛ばしてくれたほうがいいと思いなおした。自分が今の時点で考えることじゃない。そのうち自然にわかるかもしれないんだから。

「それより、ライト。お前と、おばさんにうちの母さんがひどいこと言って、ごめんな」

 改めて頭を下げたレイジに、ライトは恐縮した。

「いいよ、もう終わったことだもん。それにお母さんも反省してたんだ。レイジくんの母さんは正しい。出張に僕を置いてっちゃったことも原因の一つだし。お母さんにも言われたよ。『寂しいときはちゃんと言え』って。これ、円くんにも前に言われたよね」

 ライトから突然名前を呼ばれて、円は驚いた。しかも、過去の自分の言葉を、彼はしっかり覚えていた。ライトの口から出たキザな台詞に、思わず顔を赤らめてしまう。

 にこにこしているライトから目をそむけ、斜め後ろ側の席を見た。クロシロの席は、まだ誰も座っていない。今日も休みなのだろうか。

「なあ、クロシロ、まだ休みなのかな。先週からずっとだぜ?」

 話題をすりかえようという下心もあったが、疑問を声に出していくと、段々心配になってきた。

 レイジも不安な顔をしている。

「そういえば、俺が登校してきてから、まだ一度も顔見てないんだよな。一、二年のときから、風邪をこじらせては一週間くらい休んでたけど……」

「黒田くんに、カセットレコーダーも返さないと」

 そうだ。クロシロからレコーダーとマイクを借りて、そのままだったのだ。ライトは小さな声で言った。

「黒田くんのレコーダーあったから、僕は応募することができるんだ。だから、みんな揃ってからポストに入れようと思ってたんだけど」

 そう言って、ライトは自分の席から茶封筒を持ってきた。宛名は『シックス・ナイトフィーバーテーマ曲係御中』と書かれ、しっかりと切手も貼られている。

「おっと、俺も忘れたけど」

 レイジも机の中をあさり、一本のカセットテープを取り出した。

「あ! レイジくん、それはダメ!」

 ライトが瞬間的にカセットテープを奪おうと、レイジに飛びかかる。が、余裕でかわし、にやりと笑うと、小走りで先生の机の横にあるカセットデッキを持ってきた。

 それをオルガンの上に置き、コンセントをさす。ライトはレイジの行動を止めようと必死になっているが、彼の運動神経の悪さが目立つだけだった。

 クラスメイトもレイジとライトの行動に興味を持って眺めている。円は訳もわからず、オルガンの横に立った。

「お、円。ライト押さえてて」

「何する気だ?」

 言われたとおり、ライトを羽交い絞めにすると、余計に彼は暴れた。

「ちょっと、円くんまで! 本当に、勘弁してよ!」

 騒ぐライトだったが、お構い無しでレイジは再生ボタンを押した。

 流れてくるギターの歪み。覚えがあった。これは、ライトが作った曲、『ドリーム・ライン』だ。イントロが終わると、ライトのガラスのように繊細で、しかし力強い歌声が教室中に響いた。

 クラスがざわめく。ライトはあきらめて、顔を真っ赤に染めながら床に座り込んだ。

「レイジ、いつの間にカセットに録音してたんだ?」

「ライトの家に泊まったとき。いい曲だし、どうせ応募するなら、他の人の感想も聞きたいじゃん?」

 レイジはライトの曲をバックに、クラスメイトの顔を見渡した。誰もが今の状況が理解できずに、ただこちら側を見ている。曲が終わると、クラスはまた普段どおりの風景に戻った。

 ただ、小野田のグループだけ、レイジの側に寄ってきた。ライトは逃げるように円の背に隠れる。とはいえ、身長はあまりかわらないので、隠れているようには見えないが。

 小野田はレイジに訊ねた。

「阿部くん、この曲って、なんていうミュージシャンの? かっこよくない?」

 周りの女子も彼女に同意する。レイジがライトの方を見ると、円の後ろで首を左右に激しく振っていた。

「あー」と、言葉を濁したあと、宙をにらみ、出した結論。

「これは『シックス・ナイトフィバー』のテーマ曲になる予定のアーティストだよ」

 全ては予定。予定は未定。そんなロジックをはらむ言い方で、女子を煙にまくと、レイジはライトと円を見て笑った。

 ともかく、評判はいいようだ。



 チャイムが鳴って、先生が来ると、つまらない朝の会が始まった。頬杖をつこうと左手を首の辺りにもって行く途中、冷たい感触がした。

「あ……」

 首につけられて、とれない地球のペンダント。最近は、数字もよほどのことがない限り見えなくなり、すっかり油断していたところだった。

 そうだ。レイジは塾をやめた。このことで、もしかしたら将来が変わった、なんてことがあるのではないだろうか。

 そっと胸の地球を触り、レイジに集中する。じんわりと薄く白い数字が浮かび上がってきた。……5……3……3、0が四つ。五百三十三万。

 円は溜息をついた。以前と変わらない結果に、嫌気がさす。

 今度は正面のライトの背中を見る。同じように集中し、地球を触る。彼も変わっていなかった。一億。

 一体なんなんだ、このペンダントは。どんなに苦労しても努力しても、結果はおんなじ。ライトはまだいい。彼はアーティストになる可能性があるという風にもとれる。しかし、レイジは、パイロットの夢が絶たれるのだ。

 ゴールがわかってるなんて、つまらない。映画のラストシーンを人から聞かされてしまうようなものだ。

 月波は「周りを注意深く見ていれば、その価値がわかる」と言っていた。このペンダントの価値は、人の将来の年収、行く末がわかる。それだけじゃないか。他人が稼ぐ金なんて、正直興味はないが、年収が見えてしまうから振り回されているところもあるわけで。そのおかげでライトと仲良くなったことは嬉しいが、純粋には喜べない。

 やっぱり、このペンダントは外した方がいいのだ。

 ぼーっとそんなことを考えているときだった。先生は朝の会の最後に、重大なお知らせを生徒にした。

「黒田くんは、体調があまりよくないようなので、しばらくの間お休みすることになりました」

「え!」

 円とレイジ、そしてライトも小さく声を上げた。

 クロシロ――本名、黒田雪白くろだ・ゆきしろ。『雪白』なんて名前のくせに、色黒で万年ノースリーブのため、付けられたあだ名が『クロシロ』だ。サッカーはもちろん、体を動かすことが大好きで、普段だったら風邪すらひかない元気っ子だ。そのたまにひく風邪がやっかいだというのは、円とレイジの常識ではあった。だが、今回は違う。風邪ではないようだ。

 先生は深刻な顔で、一度教室を出た。

「円くん。黒田くん、大丈夫かな」

 ライトが後ろを向いて、円に言った。表情は暗く、重たいものだった。彼の気持ちはよくわかった。自分と同じ、頭を鈍器で殴られたようなショックを、ライトも感じたようだった。

 レイジの方を見ると、彼も表情をくもらせうつむいている。三人の思いは一緒だった。



 昼休みに入る前、円は先生に呼び出され、職員室へと足を運んだ。用件は、予想していたとおりクロシロのことだった。

「金子くん。実はね、黒田くん入院しているのよ」

 二階まで響いているはずの、校庭の生徒の声が消えた。昼だというのに、空は夜のように暗くなっている。円の目には、色彩の世界が全てモノクロに見えた。朝の会よりも衝撃的なことを聞かされ、頭が真っ白になる。

「……くん? 金子くん!」

 先生の声で我に返るが、まだ聞かされたことが事実だとは受け止めたくなかった。

 それでも詳細は聞かねばならない。知らないでいることの方が、恐かった。

「まだ検査入院だって話なんだけど、やっぱりみんなと遊べなくて相当イライラしてるみたい。それで、お母さんからさっき連絡があってね。放課後にでも、お見舞いに行ってあげてほしいの。金子くんのお母さんにも了解は取ってあるからって」

 検査入院。何の検査かはわからないが、ホッとした。もしかしたら、本当にただの風邪かもしれない。そう考えなおすと、少し元気が出た。

 それなら、と、円は先生に提案した。

「レイジとライトも連れて行っていいですか? 他のみんなには内緒にしますから」

 円の案に、先生は笑ってうなずいた。



 三人は一度帰宅し、校門に集合することになった。

 円が家に帰り、すぐにお見舞いに行こうとしたところ、母親に止められた。

「円、行く前にちょっといい?」

 優しい笑みを浮かべる母に、仕方なく付きあうと、彼女は袋から新しい洋服を何着か出した。

「サイズ、これで合ってたと思ったんだけど」

 次々と円の胸に、新しい服をあてる。円は内心うんざりしていた。

 またか。

 母親は、たまに息子のご機嫌を取るかのように、新しい服を買ってくる。しかし、そのセンスは円と全くかみ合っていなかった。一度、そのことを素直に話そうかと思ったが、やめた。母親の――いや、世間が思う、『いい子』を演じることこそが、彼の目的だった。

 服をひと通りあてると、円は笑顔で言った。

「ありがとう、母さん。やっぱり母さんはセンスがいいね」

 母はにこにことうなずいた。心にもない言葉をいう自分が、恐かった。



 円が行くと、すでにレイジとライトが到着していて、なにやら楽しそうに話をしていた。

 ここ数日で、レイジとライトは仲がぐんとよくなり、うらやましいやら嫉妬するやら、複雑な心情だった。それでもみんな仲がいいことは悪いことじゃない。

 自分も話しに加わろうとすると、どうやら二人はお見舞いの品を何にするか考えていたところだったようだ。

「円はいくらかお金、持ってきたか?」

「二千円くらいかな。交通費がいくらかわからなくって。ライトは?」

「僕は千五百円。交通費は、バス代往復で三百八十円だよ」

 停留所までの道、三人は歩きながら、何を持っていくか考えを出しあった。まず出たのが、定番の花。しかし、それは満場一致で却下された。案を出したライトですら、違うと引っ込めたのだ。クロシロに花は似合わない。

 次に出たのはマンガ雑誌とお菓子。どちらも微妙だ。雑誌は読み終えたらそれっきりだ。

 クロシロのことだから、すでに売店で買っている可能性もあるし、飽きっぽい彼が何度も読み返すかどうかも怪しい。お菓子は、クロシロがどんな病気の検査をしているか分からないので、持っていってもいいのかわからない。

 小説もすぐに却下だ。クロシロは細かい文字を見ると、一瞬で眠くなる能力の持ち主だ。レイジは「眠れないときにいいんじゃないか?」と笑っていたが、それだけじゃ本がかわいそうだ。

「……ラジオは?」

 ライトが呟いた。ラジオ。レイジも反応する。

「いいかも、それ」

「うん、ラジオにしようぜ。『シックス・ナイトフィバー』も聴けるしな」

円が決定の一声をあげると、ちょうど停留所にバスがいた。三人はダッシュで信号を渡り、それに飛び乗った。



 三人は駅前まで行くと、夕方で混雑している近くのデパートに入った。地下街に向う奥さん方、三階にあるゲームセンターに向う学生たち。三人も、むかうは三階だ。エスカレーターは片側半分に、制服姿の男子学生がぎっしりと乗っている。なんだか奇妙な風景だった。

 フロアに着くと、すぐに電化製品コーナーを探した。ゲームセンターの対角線上にある、人気のないところにそれはあった。店員も一人、つまらなさそうにテレビを見ているだけだ。円たちが来ると、ぎょっとした表情で、仕事をしているフリをし始めた。

 コーナーをうろつき、目当ての品を探す。あった。薄いスタンドタイプのラジオは、切り替えスイッチが盤面にある。ちょっとレトロな感じがかっこいい。

 予算は最高で一人千円ずつ。計三千円だ。ライトの所持金が一番低かったので、それにあわせることにしたのだ。

 レイジは辺りをぐるっと見回した。普通のラジオなら、ひとつ千円でも買えるのだが、置いてあったのはこれだけ。ちょっとぼったくられている気もするが、その分デザインがいいのでこれに決めることにした。

「おい、どうしたんだ? レイジ」

 円が聞くと、レイジは二人に笑顔を作った。

「俺、今日所持金多いからさ、まとめて買ってくるよ。二人はゲーセンで待ってて」

 円とライトはその言葉を深くとらえず、ゲームセンターで彼を待つことにした。



 五分後、彼はラジオと電池の入ったビニール袋を持って、ゲームセンターに来た。

「あのラジオ、いくらだった?」

 円が訊ねると、レイジは歯切れ悪く「大体三千円くらい」と答えた。いつものレイジらしくない。

「ラジオが三千円、ってことは、電池込みだといくら?」

 今度はライトが聞く。レイジは珍しく、彼から目を逸らした。

「レシート、手に持ってるだろ? それ見て計算するか」

 円がレイジの右手を指すと、彼は何を思ったのかレシートをビリビリに破きだした。

「れ、レイジくん?」

 思わぬ行動に、ライトは焦ってレイジを止めようとした。が、すでにレシートは微塵と化してしまっていた。

「ともかく、俺の記憶に間違いはない。合計で三千円。一人千円だ」

 ライトは円に困ったような顔をしてみせた。円は、レイジの考えをすぐに見破り、ライトに軽く言った。

「レイジがそう言ってるなら、そうだろ。割り勘で千円だってよ」

 小さな財布から千円取り出すと、ライトはそれをレイジに渡した。確認すると、円も千円札を渡す。レイジが財布にお金をしまっているとき、円はライトの耳元で、ささやいた。

「あいつ、お前をバカにしてるわけじゃないから」

 ライトはくすっと笑い、「わかってるって」と返した。レイジなりに気をつかった結果なのだが、バレバレだった。器用になんでもこなせる彼だが、こういうことは苦手らしい。



 市立病院の一階で受付を済ませると、警備員に面会バッチを渡され、胸につけた。円は、先生に渡されたメモを見て、病室がある階を探す。小児病棟の三○二号室。

 エレベーターに乗り、三階のボタンを押す。箱の中で、三人無言だった。少し古い病院の、大きなエレベーターは不気味だった。円はふと、階数のボタンが設置されているところをに目をやった。B1、B2、B3……クロシロは、生と死がこんなに密接している場所に今いるのか。息が苦しくなる気がした。

 三階にたどりつくと、ポンと明るい音を立ててドアが開いた。三人は、いち早く箱の中から出ようとした。その様子を、点滴をしている子供と看護師のお姉さんが不思議そうな顔で見ていた。

「三〇二号室。ここだ」

 六台のベッドがある大部屋に、『黒田雪白』のネームプレートはあった。個人名が書かれたネームプレートの端には、緑、青、黄色など、色がつけられていて、カラフルだった。

 部屋に入ると、思いっきり水が飛んできた。円とレイジはうまくかわしたが、ライトがもろに食らった。髪の毛とメガネがびしょびしょだ。

「もう! やめなさい!」

 一人の看護師さんが、ずぶ濡れになりながら、必死に水鉄砲を手にして暴れる子供たちを止めようとしていた。その悪ガキたちの大将が、クロシロだった。

「クロシロ!」

 円が呼ぶと、彼は他の子供たちに休戦の合図をした。

「おーっし! 俺は友達がきたから、今日はここまでだ!」

「はあーい」

「ちぇっ、つまんねー」

 子供たちは自分たちのベッドに寝そべり、各自ゲームや読書を始めた。

 ずぶ濡れの看護師さんは、円たち面会者を無視して、クロシロにお説教をする。

「雪白くん! この水鉄砲は没収! 何度病室で暴れちゃダメって言えばわかるの!」

「はいはい、わかりました! それより友達が面会に来てるんだけど」

「お友達?」

 背後の三人に、鬼の形相で振り返る。円たちは苦笑いを浮かべ、挨拶した。看護師さんも、一度笑顔を作り挨拶したが、すぐ鬼の顔に戻ってお説教再開だ。

「ともかく、病室全体で大暴れするのは禁止です! あなたはここの部屋で、一番お兄ちゃんなのよ?」

 左右に三つずつ置かれたベッドの、ドアから見て左側一番奥の、窓際のベッドにあぐらをかき、クロシロは面倒くさそうに頭をかいた。反省の色はないようだ。

「すいません! また、雪白がバカやったんですか?」

 突然の高い女性の声が、看護師さんのお説教をさえぎった。円が振り向くと、ドアの近くには紺のセーラー服を着た女子高生が立っていた。彼女の姿を確認すると、クロシロの顔がどんどん真っ青になる。

「黒田さん、雪白くんは元気が有り余ってるみたいで。次からはもう少し大人しくしようね」

 そう優しい声で告げると、白衣の鬼は去っていった。円たちも、窓際のベッドに近寄る。その背後から、どしどしと恐竜のような足音を響かせて、女子高生が来る。円たち三人を早足で追い抜くと、彼女はクロシロの頭を思いっきりこぶしで殴った。

 ガツン、と鈍い音が病室にこだまする。同じ部屋の子供たちは、その様子を恐る恐る見つめていた。

「いってぇ……」

 なみだ目のクロシロが、頭をかかえる。女子高生は、フンと鼻息をかけると、怒鳴り声をあげた。

「このバカ! お前、一応検査入院してるんだから、大人しくしてろって何回言えばわかるの! わかるまで、『検査入院』っていう漢字、百回書き取り!」

 クロシロの目から、大粒の涙がこぼれた。ショートヘアーのかっこいい女子高生は、悪ガキの大将クロシロを一瞬にして泣かせた。円とレイジ、それにびしょびしょのライトは、そんな彼の初めて見せる表情に、唖然とした。

 クロシロの涙はとまらないどころか、今度は声を上げて泣き始めた。いよいよ信じられない光景だ。

「な、泣くなよ、クロシロ!」

 レイジがたまらず声をかけると、女子高生はやっと三人に気がついたようだった。じっと三人をにらむ。三人は身を縮ませた。鋭い目つきは、まるで雨蛙三匹を狙う大蛇のようだ。

「あんたたちは?」

「えっと、僕たちは黒田くんと同じクラスで……その、要するに……お見舞いに」

 ライトは濡れたメガネのレンズを袖で拭いながら、小声で説明した。だが、いつも通り語尾が小さくなっていく。

「はっきり言え!」

 女子高生は、腰に手をあててライトを威嚇した。思わず三人の体がびくんとはねた。

「すいません! 僕ら、黒田くんのお見舞いにきました!」

 さっきとは全く違い、早口でライトは言った。円とレイジの背筋もぴしんと伸びる。女子高生はそれを聞くと、にこりともしないで、自己紹介をした。

「そう、わざわざありがと。私は黒田光くろだ・ひかり。雪白の姉よ。それよりあんた、ずぶ濡れじゃない。タオル出してあげる」

 光はライトの腕を引っ張ると、ベッドの横のロッカーに入っていたタオルで彼の頭を拭いた。恐いけど、悪い人ではなさそうだ。むしろ、『クロシロの姉ちゃん』なら、このくらい迫力があって当然だろう。

「ったく、恥ずかしいところ見せちまった」

 やっとクロシロが泣き止んだ。円とレイジは、さっそくベッドの上の彼に近づいた。

「それより、大丈夫なのか? ただの風邪じゃないのか?」

 円が訊ねると、擦りすぎて真っ赤になった目を細めて、笑顔を作る。

「多分、風邪だろ。ちょっと熱が続くから、検査入院することになっただけだって。心配すんな! それより、当然お見舞いの品はあるんだろ?」

 クロシロはどこまで行ってもクロシロだ。円とレイジ、それとタオルを首にかけたままのライトは顔を見合わせて笑った。しかし、ここでも姉・光は容赦ない。

「雪白! 催促するなんて、みっともないだろ!」

「だってよー、やっぱ何か欲しいじゃん。あ、花なんてベタなのはなしだぞ!」

 クロシロの言葉に三人は腹を抱えた。やっぱり、花はハズレだ。クロシロに花なんか、似合わない。

 レイジはデパートの袋をクロシロに差し出した。受け取ったクロシロは、袋に手をつっこんで中身を取り出す。

「おお、すげー! かっこいいな、これ」

「ライトが提案したんだ。ラジオがいいんじゃないかって」

 円が言うと、クロシロはライトの頭をぐりぐりなでて、「サンキューな!」と、嬉しそうに言った。ライトは髪の毛をさらにぐしゃぐしゃにされていたが、彼も笑顔だった。

「あ、あとこれ」

 頭を押さえつけられたまま、ライトは自分のナップサックから、カセットレコーダーとマイクを取り出した。

「それ、あたしんのじゃない」

 光が気づくと、クロシロの表情がまた強張った。三人はすぐに察した。クロシロは、姉ちゃんに無断で持ち出した、と。

「あの、お姉さん。怒らないでください! 僕、レコーダーを借りられたおかげで、すごく助かったんです」

 ライトが恐々と口を開くと、意外にも光は怒らなかった。

「雪白、借りるときはちゃんと言えよな。おかげでかなり探したんだから」

 レコーダーを受け取ると、「ジュース買ってくる」と部屋を出ていった。

「姉ちゃん、恐いな」

 レイジが苦笑いを浮かべると、クロシロはすぐに否定した。

「『恐い』? そんなもんじゃねーよ。あれはもう、閻魔大王レベルだ。小さいときなんか、舌を引っ張られて泣かされたことがある」

 円とライトは、リアルに想像して舌が痛くなった。黙っていれば、クールでかっこいい女子高生なのに、中身はそんなにも鬼畜なのか。

 クロシロが言った、『閻魔大王』という呼び名。でも、閻魔様って、善悪を正しく判断して審判を下すものだ。と、いうことは、結構彼女も白黒はっきりつけるタイプ? それに舌を引っ張られたのは、本当のところクロシロが嘘をついたからだったりして。

 想像すると、やっぱりクロシロの姉ちゃんだ、といやに納得してしまった。



 廊下のエレベーター近くのホールで、ジュースをごちそうになると、時計が五時を指した。

「そろそろ帰るか」

 レイジが言うと、クロシロが口を尖らせて非難した。

「えー、もうちょい話そうぜ! 病院つまんねーんだもん」

 もちろん、すぐに光のチョップがクロシロの頭に落とされる。

「ダメ。面会時間も終わるし、お前は夕食の時間だろ」

 頭をさすりながら、クロシロは「ちぇっ」と舌打ちした。

「じゃあさ、姉ちゃん。外まで送るのはいいだろ? 時間かかんないし」

 クロシロが未練たらしく言うと、光は大きく溜息をついて、了承してくれた。その分、先ほどの白衣の鬼が、廊下ですれ違ったとき「雪白くん! ちゃんと夕食のときには部屋にいなさいよ!」と、しっかり釘を刺していった。

 光と別れて、クロシロと円たち三人はエレベーターに乗った。夕方のこの時間は、帰る面会者が多く、さっきとは違ってエレベーター内は混雑していた。大人たちに混じり、一階まで降りると、円はやっと気づいたように笑った。

「何かいつもと違うって感じてたけど、クロシロが長袖着てるの、初めてじゃないか?」

 レイジとライトは、クロシロをまじまじと見て、吹きだした。

「そういえば、そうだな! 入学式の時はさすがに着てたんだろうけど」

「僕も、クラス替えしてから初めて見た」

 ひどい言われように、クロシロは顔を赤くした。まるで子鬼だ。

「うるせー! 病院にいるんだから、パジャマ着てるに決まってるだろ! それとも、俺はノースリーブじゃないと変だとでも言うのか?」

「うん、変。雨降りそう」

 円が即答すると、クロシロが頭突きを食らわせた。ごちんと音がして、目の前に星が浮かぶ。クロシロは冗談につっこみを入れるときも本気だ。二人のじゃれあいに、レイジとライトは余計に腹をよじらせた。

 笑いながら、ライトはナップサックの中から茶封筒を取り出した。カセット在中の応募用封筒だ。頭突きを食らわせあっている円とクロシロ、笑いすぎてなみだ目のレイジの前に、突き出すと、ライトは言った。

「これ、みんなで一緒に出したいと思ってたんだ。病院のポストから送らない?」

 三人はじっと彼を見つめたあと、力強くうなずいた。

 それにしても不思議だった。円とレイジ、クロシロはずっと同じクラスだったから仲が良かったが、ライトが新しいメンバーとして加わることができたのは、ラジオがあったからだ。『シックス・ナイトフィーバー』を偶然聴いていなければ、応募のことなんか知らなかったし、円が彼に協力することもなかった。

応募しようと決めたとき、クロシロの姉がカセットレコーダーを持っていたのも偶然だ。カセットのことがなければ、クロシロが持つライトのイメージは、変わることがなかっただろう。

それに、今では自分よりもライトと仲良くなっているようにも感じられるレイジ。レイジの問題を解決できたのも偶然のような気がする。

 ラジオが全てのきっかけになり、四人の絆を作り上げた。もう、それ自体が奇跡だ。ラジオ局が発した『偶然』という電波を受信した四人が、今度は逆に発信する。

 四人は病院の外に設置されているポストの前に立つと、クロシロが二回手拍子をうって、手を合わせた。三人もそれをマネする。最後の最後は神頼みだ。

「ライトの曲が選ばれますように!」

 レイジが言うと、ライトと円が一緒に茶封筒を投函した。赤い鉄のボックスに、ごすんと落ちる音が聞こえた。

カセットは、完全に自分たちの手を離れた。あとは結果を待つだけだ。



「気のせいかもしれないけど」

 ライトが騒がしい教室で、呟いた。みんなでクロシロのお見舞いに行って、数週間。今では三人が交代で、学校で出た宿題のプリントを運びがてら様子を見に行くことにしていた。

「クロシロくん、少しやせたように見えたんだよね」

 円とレイジはトランプをしていた手を止めた。二人はゆっくりとライトに視線を合わせる。やっぱり、自分の目は間違っていなかった。円は思った。

 それに、検査入院だからといって、もうかなりの期間になる。すっかり季節は梅雨に近づいていた。今日も雨なので、校庭で遊べない。といっても、最近はライトにあわせて教室で遊ぶことが多くなっていたのだが。

 先生が来た。円は急いでトランプをかたして、朝の会の準備をする。今日は自分が日直だ。

「日直さん、出席をお願いします」

 先生が言うと、隣の加藤とともに席を立った。

出席番号一番のレイジから順に名前を呼んでいく。自分の名前の横の欄に斜線を入れたあと、下の名前に目を移した。黒田雪白。今日も休み。彼の欄は、欠席マークがずらりと並んでいた。あんなに元気なやつだったのに。なんで学校に来れないんだ。なんでずっと入院しているんだ。

 クロシロのところでつまると、加藤が横わき腹をつついた。我に返り、また出席確認に戻る。黙って席についているクラスメイトの顔を見渡した。誰もが普段どおりだ。クロシロが休んでいることも、普通になってしまっていた。

 レイジが登校拒否になったときと同じだ。クラスのみんなは、クロシロが入院していることをまだ知らない。だからといって、無関心なんて。以前のように、怒りは感じなかった。そのかわり、寂しかった。

 加藤が女子の出席確認を終えると、朝のスピーチだ。日直は、三分間スピーチをしないといけない。それが面倒くさくてしょうがなかった。円は、持っていたメモを横目で見た。話す内容は、昨日の夜に決めていた。『最近気に入っているもの』というタイトルで、ラジオの話をしようと思っていた。

 だけど、やめだ!

 円はメモをビリっと破いた。クラス中が何ごとかと目を見張る。こんな話より、もっとみんなに言いたいことがある。頭よりも先に、口が動いていた。

「みんな、クラスのやつが休んでて、気にならないのか? 自分には関係ないって顔で、笑ってさ。本当に、それでいいと思ってるのか?」

 円のきつい問いかけに、クラスが騒然とする中、誰かがとおる声で発言した。

「気にしても仕方ないよ。だって、家の事情だったりするかもしれないじゃん。お母さんも、『あまり他人のことに口出ししないほうがいい』って言うし」

 他の何人かの生徒からも同じ意見が出た。極めつけは、クラスで一番背の高い男子の一言だった。

「自分が踏み込んじゃいけないことだってあるだろ。むしろ、そう言って、自分の考えを押しつけるほうがうざくねぇ?」

 自分の感覚が間違っている? おせっかいすぎるのか? 円の言葉がとまる。同じく日直の加藤も、どうすればいいのかわからずにただ立ちつくすだけだ。先生は、さすがにまずいと察したらしく、スピーチを勝手にまとめた。

「要するに、金子くんは『友達は大事にしよう』って話をしたかったのよね。じゃあ、加藤さん、次のスピーチお願いね」

 ずいぶん勝手なまとめ方に、円はくちびるを噛んだ。自分はそんなことを言いたいんじゃない。

 横の殺気に気づいた加藤は、一瞬ためらったあと、メモをちらちらと見ながらゆっくりと話し始めた。

『金子くん、うざいよね』

『金子って、暑苦しくない? あいつ、自分が一番正しいと思ってるぜ』

 声が聞こえた。本当に聞こえたのか、幻聴なのかはわからないが、胃のあたりがチクチクと痛む。目には、自然と水が溜まっていた。

 加藤のスピーチが終わると、拍手の音がした。先生にうながされ、席につこうとライトのわきを通ると、心配そうな眼差しが注がれた。イスに座ると、後ろを向いたレイジの顔も見えた。彼も何か言いたそうな、切ない表情をしていた。

 二人だけは、自分の言いたかったことをわかってくれたのだ。少なくても、このクラスで、自分と同じ気持ちを共有してくれているのだ。

 目の端の水を拭うと、先生の話が始まった。しかし、その話は、円、レイジ、ライトに更なる大きなダメージを与えるものだった。



 クラスで折った千羽鶴を持って、円、レイジ、ライトの三人は、放課後に病院を訪れた。

「よう、なんだよ。その鶴。置き場所なんてないぞ」

 やせたクロシロは、相変わらずの口調で笑っていた。三人は何も言えず、ただ彼の顔を見るだけだった。

「おい、気持ち悪いなー。みんな、何黙ってるんだよ」

「先生に聞いた。お前、病気なんだってな」

 レイジが口火を切った。

 先生は、クロシロが検査の結果、大きな病気だということを発表した。どんな病気か、詳細までは話さなかったが、一時間目をつぶしてクラス全員で鶴を折った。

 円はそれが腹立たしかった。クラスメイトが、気にしてもいない病人のために、千羽鶴を折らせる教師の心情が。指示どおり、平気な顔で折るクラスメイトもだ。心のこもっていない色とりどりの鶴は、単なるゴミにしかすぎなかった。

「ああ、何か病気みたいだなー」

 クロシロ本人は、その鶴をぐしゃりとロッカーの一番下にしまうと、あっけらかんと言ってのけた。

「え?」

 思わず円とライトは不思議な顔をする。きょとんとした二人を見て、クロシロは笑った。

「お前たち、俺が死ぬような大病だと思ったのか? 勝手に殺すなよ」

「じゃあ、すぐ治るの?」

 ライトが聞くと、クロシロは強くうなずいて、「一週間で治してやるよ!」と宣言した。いつものクロシロだ。

 円は安心すると、彼の枕元にあるラジオに目をやった。イヤホンがささっていて、ついさっきまで聴いていたようだ。

「ラジオ、使ってくれてるんだな」

「まあな。勉強会があったりはするけど、結構暇でよ。夜もこっそり聴いてたんだけど、この間看護師さんにバレちゃって。取り返すのに苦労したよ」

 イヤホンから小さく音楽が流れるのが聴こえる。突然それが止まると「FMラックシックス!」とラジオ局の名前のコールのあと、交通情報に切りかわったのがわかった。

 テレビの上に置いてある、小さな時計を見ると、針は四時三十分を指していた。

「あ、悪い。俺、これから点滴なんだよな」

「あ……そうなんだ」

 ライトがうつむく。雰囲気が一気に暗くなった。『点滴』という言葉が、健康だったクロシロから発せられること自体が、信じられなかった。

 今日は、クロシロは一階まで見送りに来なかったが、円が「早く元気になるって、約束だぞ!」と言うと、「おう!」と力強く返事をした。

 手を振ると、三人はそのまま後ろを振り返ることなくエレベーターまで向った。やせたクロシロをこれ以上見たくはなかった。



 そのあとしばらく、三人の話題からクロシロは消えた。宿題が出たときだけ、誰が行くかで話し合うくらいになってしまっていた。クロシロの体調が悪くなっているのがショックで、そんな現実と誰もが向き合いたくなかったのだ。

 ただ、今日は持っていかないといけないプリントがある。クロシロのお母さんは働いているので、誰かが持っていかなければならない。第一、この役をかって出たのは、自分たちだった。ちょうど順番だと円が行く日だったので、放課後ランドセルを置くと、プリントを持って、市立病院行きのバスに乗った。

 病院のエレベーターは広い。誰か乗ってもおかしくない時間なのに、箱に入ったのは自分一人だった。三階のボタンを押すと、重い扉が閉まった。

 妙に落ち着かなかった。地下三階まである病院。その一番下の階に何があるのか、知っていた。案内板にもさりげなく書かれているそれは、病院がいかに生と死の羽間にある場所かを如実に示していた。この箱が長方形に造られているのも、寝台を運ぶ他に、亡くなった人を地下まで連れて行くことができるようにするため。人間が生まれてから、決して逃れられない最終地点。それが死だ。

 自分もいつか、そのゴールにたどりつくのだろうか。今は想像できないが、きっと自分がいざ死を迎えるとなると、怖気づくと思う。

 クロシロは「死ぬような大病じゃない」と言っていたが、彼は恐くないのだろうか。それが嘘か本当かはわからないが、少なくてもこんな死と密接なところにいたら、嫌でも感じるのではないか。

 三階に到着して、扉がゆっくり開く。プリントは紙だというのに、鉛のように重かった。

 三〇二号室の行き方は、もうすっかり覚えてしまった。看護師さんに会釈をすると、顔を上げてネームプレートを確認する。

「あれ」

 思わず呟く。六枚あったプレートが、五枚に減っていた。クロシロはまだこの部屋にいる。ノックして入ると、病室は少し陰鬱な空気だった。初めて来たときは、クロシロを初め、子供たちが水鉄砲を片手に大騒ぎするほどの元気のよさだったのに、今日は各自ベッドに寝そべっている。カーテンを閉めている子もいれば、眠っている子もいる。何か様子がおかしい。

「よう、円」

 クロシロは、円の姿を確認すると、ベッドの上であぐらをかいた。なんだかさらにやせたように見えて、心苦しかった。

「クロシロ、今日は静かだね」

 周りを見渡して円が言うと、彼は少し暗い顔をして、廊下に出るようにうながした。

「一人、部屋を移ったんだよ。これで、俺が来てから三人目だ」

 深刻そうな口ぶりで、その意味はすぐにわかった。病状が悪化したのだ。ナースステーションから一番近い、三〇一号室。ネームプレートは救急車のサイレンと同じ色。真っ赤なシールがつけられていた。

 三〇二号室はクロシロが一番の年長者だ。他の子は、三、四年生に見えた。そんな子たちは、同じ部屋の仲間だった子のネームプレートに、赤いシールが貼られてしまったらさぞつらいに違いない。「次は我が身だ」――そんなマイナス思考におちいるかもしれない。

 廊下から、三〇二号室の様子をうかがう。カーテンを閉めている子は何をしているかわからなかったが、他の子たちは、必死に平然を装っていた。

「お、円くん、こんにちは」

 廊下で二人、黙り込んでいると、光が来た。手には大きなバッグを持っている。

「あ……」

 いつも姉を見ると青ざめるクロシロが、今日は彼女を見たとたんに悲しそうな表情にかわった。姉は変わらず、サバサバした男口調で、クロシロに荷物を持たせた。

「ほら、新しい着替え持ってきたぞ。洗濯物はロッカーの中か?」

「うん」

「わかった。じゃあ、手伝え。あんたは病人っていったって、大したことないんだから」

「……うん」

 クロシロが変だ。何かがおかしい。嫌な予感がした。



 光は着替えをロッカーに入れると、「また明日来るから」とあっさり去っていった。クロシロは、家に帰る彼女に、何も言わなかった。さっきからずっと思いつめた表情で、考えこんでいる。今日は円ともほとんど会話していなかった。

「どうしたんだ? 恐い顔して」

 心配になった円が、緊張をほぐすようにからかいながら聞くと、クロシロは真剣な顔で彼を見つめた。

「円、ロッカーの中に俺の服がある。それに着替えてくれないか?」

「は?」

「いいから!」

 クロシロは小声で命令すると、カーテンを閉めた。クロシロの意図が全く見えなかったが、円はとりあえずロッカーの中にある服を適当に選んで着た。

クロシロは、おもむろにパジャマを脱ぎ出して、円が着ていた服に着替えた。

「クロシロ! 何やってんだよ? 俺の服、伸びちゃうよ」

「しーっ! 黙って着替えろ!」

 すっかり着替え終わると、クロシロはベッドの中にロッカーの中の服全部と、枕を詰めた。最後にキャップをまぶかにかぶると、財布とラジオをポケットに突っ込んだ。

「これでよし」

「何する気だ?」

「まあ、黙ってろって」

 カーテンを開けると、クロシロは大きな声で言った。

「クロシロくん、寝ちゃったみたいだね。僕らは帰ろうか!」

「え、ええ?」

 状況を理解できていない円の背中を無理やりおして、クロシロは病室を出た。隣のベッドで本を読んでいた子は、不安そうに二人を見ていた。

 ナースステーションを通り、一階に下りて、そのまま外に出たところでやっと円はわかった。これは脱走だ。

「クロシロ! まずいんじゃないのか? 外出届けとか、普通は出すものじゃないの?」

「今日一日くらい、いいだろ。それより久々の外出なんだから、お前には存分に付きあってもらうぞ!」

 少しきつめの円の服を着たクロシロが、勢いよくこぶしをあげた。



 最初に、二人はデパートのゲームセンターに行った。さっそくクロシロは、ギターを弾くゲームに目をつけた。

「ライトが弾けるんだから、俺もやってみたい!」

 結果は惨憺たるものだった。初心者レベルでやればいいものの、はじめっから上級者レベルでやったので、一曲も完全に演奏しきれずに、一瞬にして終わった。

 次は射撃ゲームだ。二人プレイが可能なので、円も一緒に参加することになった。が、結局こちらも惨敗。次に並んでいた、大学生くらいの男の人が、ありえないスピードで引き金を連打しているところを見て、二人は顔を見合わせた。

 大して欲しくないフィギアを狙って、クレーンゲームもしたが、無駄だった。そもそもアームが弱いので、取れっこない。それでもついお金を入れてしまうのが、ゲームセンターの魔力だ。

「つまんねーの」

「クロシロが弱いだけだって」

 ふてくされるキャップの少年に、円は笑いながら言った。

 クロシロはやせた。けど、中身は全然変わっていなかった。むしろ、病院に閉じ込められていた分、抑えていた元気が、急にあふれだしてきたようだった。

 『嫌な予感』は気のせいだった。ホッと胸をなでおろす暇もなく、円はクロシロにガチャポン広場まで連行された。

「このキャラクターのカード、向かいのベッドのやつが集めててさー。あ、そっちのキーホルダーのは、ドアの近くの子。ちぇ、ハズレかよ」

 目についたガチャポンの機械には、すかさず小銭をいれてレバーを回す。「病室のやつらにお土産」なんて言っているが、どうも自分が楽しんでいるようにしか見えない。

「あ、この猫のシリーズは……」

 言いかけて、その場を離れた。さっきと雰囲気が一変したクロシロに、不信感を持った円は訊ねた。

「どうしたんだ?」

「あ、何でもねーよ。それより腹減ったな! コンビニで何か買って、公園で食おうぜ!」

 何ごともなかったかのように、高いテンションを取り戻すと、再び円の腕を引っ張ってデパートを出た。



「うめぇ! やっぱハンバーグ弁当とから揚げ、たこ焼きと、フランクフルト! それにコーラ! これ食べられないなんて、地獄以外の何ものでもないよな!」

 公園のベンチに座ると、有り金全てを使って購入した食料をさっそくむさぼり始めるクロシロに、円は呆れつつ、自分も塩カルビ弁当に箸をつけた。

 ベンチの前にある、サックスのオブジェがある噴水は、きれいにライトアップされていた。右にある時計はすでに七時を十五分過ぎている。円は少し、家のことが気になった。遅くなると連絡は入れていない。だが、今、自宅に連絡することは、はばかられた。

 クロシロは病院を抜け出している。自分はお見舞いから帰っていない。レイジの件で前科二犯の自分は、当然マークされていることだろう。こうなったら、クロシロとともにとんずらを決め込むしかない。

 やせた少年は、元気だった頃と同じように、大量の食事を胃に入れていく。自分も負けじと弁当をかっこんだ。

「はー、食った、食った!」

 食べ終わり、コーラで口の中のものを流し込むと、満足そうに彼は腹を抱えた。円もお茶を飲み、口元を拭うと、ちょうど噴水のショーが始まる時刻になった。

 左右のベンチにはカップル。噴水近くにも、仲睦まじく手をつなぐ男女の姿がちらほらあった。

 一瞬ライトが消え、音楽が流れる。曲は『Over The Rainbow』だ。民子が好きで、たまに料理をしながら歌っていたため、円は知っていた。それに合わせて、水が空高く噴きあがる。左右から、一本ずつ水柱が立つ。光がそれに反射して、まるで魔法のようだった。

 クロシロも円も、それを無言で見つめていた。普段だったら、こんな夜遅くにここの公園には来ない。二人とも、初めての経験だった。

 カップルたちは、それをうっとりとした表情で眺めている。ポン、ポン、ポンと軽く優しくタッチするようなテンポで、水が小さく跳ねると、最後にサックスのオブジェの前に六本の水のラインが空をめがけて垂直に引かれた。

 たった三分程度の時間だったが、円たちは、夢のような空間にまぎれこんだ気分だった。

 水と光と音楽のショーが終わると、横でクロシロは呟いた。

「あと、どれだけこんな美しい光景を見ることができんのかな……」

 真面目に前を見つめる彼に、思わず息を飲む。気のせいじゃなかった。やっぱりクロシロは何かを感じている。それが何かわからない。

「クロシロ?」

 不安な表情で顔をのぞくと、彼の顔面はぐしゃっと潰れた。どんどん涙があふれる。それを必死にこらえようと、両こぶしを目にあてる。

「昨日、姉ちゃんが、目の前で初めて泣いたんだ。俺の顔を見て」

 円は驚いた。あの、いつもクールで少し乱暴で、すぐに手が出る光が、泣いた。クロシロはかすれた声で語った。

「川原先生――俺の担当の先生に、『何の病気か知りたいか?』って聞かれたけど、恐くて訊ねられなかった。同室のやつは、俺が入院してから何人も三〇一号室に移動してるんだぜ? 重い病気なんだって、嫌でも気づくさ。でも、手術をしないと手遅れになる。そう言われたんだ。俺、死にたくないよ。死にたくないんだ!」

 悲痛な叫びに、円は慰めることも、励ますこともできなかった。今のクロシロに、自分の声は届かない。届けることもできない。心がずたずたにされて、何も言えなかった。

 ――俺だって、クロシロに死んでほしくないよ。助かってほしいよ。

 でも、自分は子供だ。何もできない。医者のように治療をすることも、看護師のように健康状態を常に見ることも、光やクロシロの家族のように、必死に看病することもできない。ただ、祈ることしかできない、ただの小学生だ。

 自分より大柄なクロシロの頭を、そっとなでた。いつもはみんなの兄貴分で、いたずらが大好きなガキ大将。それが、今はこんなにも小さく、ベンチの上でひざを抱えて泣いている。

「……なあ、手術を受ければ治るのか?」

 静かに聞く。二人のベンチの前を、カップルたちが楽しそうに通っていく。泣いている子供がいるのに、誰も声をかけようとはしない。今が楽しい恋人たちは、生と死の羽間で泣いている少年に、気づこうともしなかった。

 クロシロは目に手をあてたまま、ゆっくりと首を振った。

「百パーセント治るかはわからない。それに」

 一旦言葉を区切ると、苦しそうに言った。

「死にたくないけど、手術も恐いんだ。全身に麻酔をかけられて、腹を切り裂かれる。そのまま俺は、目を覚まさない。毎晩そんな夢を見るんだ」

 木々がざわめく。こぶしの隙間から涙がこぼれ落ちる、クロシロの暗く重い気持ちが、円の心を揺さぶった。

 思わずペンダントを握りしめる。意味はなかった。だけど、円には、クロシロの将来の年収がはっきり見えてしまった。嘘だ。見間違えだ。もう一度、今度は丁寧に指を一本ずつ地球に絡ませて、握りしめる。

「……じゃない」

「へ」

 低い声で呟く円。クロシロは思わず涙を拭い、彼の顔を見る。

「いつものクロシロじゃないよ! 俺やレイジやライトが知っているクロシロは、大きなことを堂々と言って、それを実現するようなやつだろ? ライトにだって言ったじゃないか。『一週間で治す』って。手術が恐いのはわかるけど、俺たちは、お前が治るって信じてるんだ! それで、四人で遊びたいんだよ!」

「円……」

 大声で叫ぶ円も、クロシロに負けないくらい大粒の涙を目に溜めていた。そのまま泣き崩れると、クロシロも大きな声で泣き始めた。

 そうだ。自分たちは子供なのだ。泣きたいときに泣いてもいいじゃないか。だって、今は心が折れそうなくらい、ひどく悲しいのだから。


 泣き声が止んだ。その代わりにクロシロの呼吸は荒くなっていた。泣いたからかと最初は思ったが、どうも様子がおかしい。腹を抱えてうずくまっている。時折うめき声も聴こえる。

「クロシロ? どうしたんだ?」

 何度呼びかけても答えない。苦しそうな吐息だけで、返事にすらなっていない。

「救急車、呼ぶか?」

 背中をさすりながら問いかけると、クロシロは首を強く左右に振った。もしかしたら、緊急手術になるかもしれない。それが恐いのだろうか。

 円は意を決すると、自分よりも体格のいいクロシロを担いだ。

「ま、どか?」

 息を荒げたまま、クロシロは何か言いたげだった。それを無視して、円は歩き出した。周りの大人はロボットのように、自分たちの横を通り過ぎていく。救急車を呼ばれたくなくても、手術を受けたくなくても、クロシロを死なせるわけにはいかない。

 クロシロの体が、円の背中にめり込むようだ。それでも前に進まなくては。幸い病院は公園の前の信号を渡り、一直線で数十メートルの距離だ。自分が彼を運べない距離じゃない。

 赤い信号。クロシロのネームプレートにも、赤いシールが貼られるだろうか。でも、信号は必ず青に変わる。今は赤いシールが貼られたって、きっといつかは剥がされる。ただ、今は、彼を病院に連れて行くことが先決だ。無関心な大人は頼れない。自分が連れて行くしかない。

 どうやって病院までたどり着けたかなんて、覚えていなかった。入り口にいた警備員がナースステーションに連絡する。今までクロシロを探すために病院中を走り回っていたらしい看護師たちは、すぐに駆けつけてきた。彼は急遽担架に乗せられ、一階の緊急治療室に入る。

 担架に乗せられるとき、ポケットからラジオが落ちた。弾みで電源ボタンが押され、軽快なDJの声が廊下に響く。

『ラジオネーム・モモンガさんのリクエストで、「サイレン」!』

 円はラジオを拾い上げると、電源を乱暴に切った。こんなときに、皮肉すぎるリクエストだ。自分の頭の中では、サイレンの音が鳴っている。

 円の背後から、光とクロシロの母親が現れた。母親は心配そうにドアの前で様子をうかがう。

 光は「迷惑かけたみたいだな」と、円の頭をなでた。その手の温かさに、円は再び涙を流した。

 クロシロ、お前に花は似合わない。それはお前が一番よく知っているだろう? 花に囲まれたお前なんて、レイジもライトも見たくないはずだ。もちろん、俺だって。

 クロシロに見えた将来の年収は、たった一桁。

 ――『0』だった。

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