本音の声

 昼下がりのカフェ。窓際の席に座り、コーヒーを一口すする。


「今日は暑いですね」


 そう話しかけてきたのは、向かいに座る営業部の先輩、高橋さんだった。にこやかに微笑んでいるが、私はその言葉の裏にある本音を聞いてしまった。


『本当は、こんな外回りなんかやりたくないんだけどな』


 一瞬、耳を疑った。確かに彼は営業が得意ではなさそうだったが、そんなことを面と向かって言う人ではない。

 だが、今のは確かに彼の声だった。


「え?」


 私は思わず聞き返したが、高橋さんは何事もなかったかのように笑顔を崩さず、「いや、本当に暑いですね」と繰り返した。


『早く帰ってエアコンの効いた部屋でゲームでもしていたい』


 ——まただ。

 私は、混乱しながらも気づいた。この異変は、私だけが感じ取っているものだと。

 カフェの中を見回すと、他の客たちも普通に会話をしている。しかし、耳を澄ますと、彼らの建前の言葉とは別に、もう一つの声が重なって聞こえる。


『この人、話長いな……』

『正直、このコーヒーまずい』

『彼女と別れたいけど、言い出せない』


 まるで、誰もが無意識に心の中で呟いたことが、私には直接届くようになってしまったかのようだった。

 私は冷たい汗をかいた。


 ——これは、どういうこと?


―――――――――――――――――――――――――――


 その異変が起きたのは、今朝だった。


 出社すると、同期の佐藤が笑顔で「おはよう!」と声をかけてきた。


「おはよう、佐藤」


 いつも通りの朝。しかし、その直後、佐藤の口からは、聞こえるはずのない言葉が流れ出した。


『あー、また月曜日か。めんどくさいなぁ』


 驚いて佐藤の顔を見たが、彼は相変わらずにこやかだった。周囲を見ても、誰も気にしていない。まるで、私だけが余分な音声を拾っているかのようだった。

 最初は自分の勘違いかと思ったが、その後も社内で何度も同じ現象が続いた。

 上司が「頑張ってるな」と声をかけてくるが、その裏には『あんまり仕事できないな、こいつ』という言葉が聞こえる。


 同僚が「いいですね、そのネクタイ!」と言ってくれたが、心の声は『全然似合ってないけどな』と言っていた。


 私は気づいてしまった。

 ——人々が発する言葉とは別に、その裏にある本音が聞こえてしまうことに。


―――――――――――――――――――――――――――


 午後の会議では、さらに厄介な状況に陥った。

 営業部が新しいプロジェクトのプレゼンをしていたが、建前と本音のギャップに混乱させられた。


「このプランは、今後の市場において重要な役割を果たすでしょう!」

『上が勝手に決めたことだから仕方なく推してるだけだよ……』


「今回の戦略は画期的で、きっと成功すると思います!」

『ほんとはこんなの、うまくいくわけない……』


 周囲の誰もが建前で語り、その下に本音を隠していた。

 私はどうすればいいのか分からなくなった。


―――――――――――――――――――――――――――


 その夜、会社帰りにバーへ立ち寄った。

 一人で静かに考えたかったが、隣の席のカップルの会話が耳に入る。


「君と一緒にいると、本当に楽しいよ」

『もうそろそろ潮時かもな……』


「私も。あなたといると安心するの」

『でも、本当は彼のことそこまで好きじゃない』


 私はカクテルを一気に飲み干した。

 本音なんて知らない方がいい——そう思わずにはいられなかった。


―――――――――――――――――――――――――――


 翌朝、駅のホームで電車を待っていると、不意に隣に立つ女性がポツリと呟いた。


「本音が聞こえるって、辛いですよね」


 私は驚いて彼女を見た。

 知的な雰囲気を持つ彼女は、私の反応を見て微笑んだ。


「あなたも、ですよね?」


 その一言で、私は理解した。

 ——この現象は、私だけではなかったのだ。


「……あなたも?」


 彼女は頷いた。


「昨日からです。でも、こんな力…いらないですよね」


 彼女の目はどこか寂しげだった。


「人間関係って、建前があるからこそ成り立つ部分もある。本音が聞こえたら、壊れるものの方が多い……」


 その通りだった。

 私は初めて自分の気持ちを吐き出した。


「正直、聞きたくなかった。本音が分かると、余計に孤独を感じる」


「ですよね……」


 彼女は小さく笑った。


「でも、たまには悪くないこともありますよ」


「どういう意味ですか?」


 彼女はスマホを取り出し、何かを打ち込んで私に見せた。


——『私、あなたと話せて嬉しいです』


 そして、彼女は小さく呟いた。


「嘘じゃないですよ」


 私は彼女の顔をじっと見つめた。

 その声には、「本音の声」は重なっていなかった。

 その瞬間、駅のアナウンスが響く。


「——次の電車が到着します」


 そして、まるで何事もなかったかのように、周囲から本音の声が消えた。

 まるで、最初からそんな現象は存在しなかったかのように。


「……あの声が…消えた?」


 彼女も驚いたようだったが、少し考えた後、小さく笑った。


「やっぱり、こういうのは一時的な現象なんですね」


「……そうみたいですね」


 電車の扉が開き、彼女は軽く手を振って乗り込んだ。

 私もそれを見送りながら、ふと思う。


 ——建前と本音。


 どちらが本当に大切なのかは分からない。

 でも、少なくともあの時の彼女の言葉だけは、確かに本物だった。

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