灰色の世界

 目を覚ますと、世界が灰色に染まっていた。

 それは単なる「曇り空」のような色ではない。赤も青も、緑も黄色も、この世のすべての色が完全に消え去り、まるで古い白黒映画の中に放り込まれたような感覚だった。


 ——目の錯覚か?


 最初はそう思った。だが、手元のスマホの画面も、壁に貼ったポスターも、昨日買ったばかりの赤いスニーカーも、すべてが無機質な灰色に変わっている。


「……何だ、これ」


 声に出しても、当然ながら世界は何も答えない。

 カーテンを開けると、外の景色もやはり灰色だった。朝焼けのオレンジ色も、青々と茂る木々も、車のライトも、すべてが灰色に沈んでいる。


 ——夢じゃない。これは現実だ。


 俺は急いでスマホを手に取り、SNSを開いた。

 そこには、今の異常を訴える投稿が溢れていた。


「世界の色が消えた……」

「なにこれ、バグ?ドッキリ?」

「助けて、信号の色がわからない!」


 どうやら、この現象は俺だけでなく、世界中で起こっているらしい。

 だが、そんな異常事態の中で、一つだけ奇妙なことがあった。

 ——俺の妹、奈々美は何の違和感も抱いていないようだった。


「おはよー」


 キッチンに行くと、奈々美がトーストを頬張りながらテレビを見ていた。ニュースキャスターが「現在、世界的に色の消失現象が確認されています」と深刻そうに話しているが、奈々美はそれに対して何の関心も示していない。


「なあ、奈々美、お前……変だと思わないのか?」


「え?何が?」


「世界の色が……」


「色? いつも通りじゃん?」


 奈々美は不思議そうに首を傾げる。


「嘘だろ、お前……本当に色が見えてるのか?」


「うん。だって、兄ちゃんのパジャマ、青でしょ?」


 ——俺のパジャマは灰色にしか見えない。


「……何色が見えてる?」


「えっとね、カーテンは黄色で、マグカップは赤。あ、外の空も青いよ?」


 俺には、すべて灰色にしか見えないのに。

 奈々美には「色が見えている」らしい。

 学校に向かう道でも、混乱は続いていた。


 街中の人々は皆、困惑の表情を浮かべながら、灰色の世界を見渡している。信号機の色が分からないため、交差点では警察が交通整理をしていた。


「おい、透! これ、やばくね?」


 親友の悠真が駆け寄ってくる。


「なあ、マジで色、消えてんのか?」


「ああ、間違いない。お前もそうだろ?」


「当然。昨日まで普通だったのに、今朝起きたら全部モノクロになってた。マジで気持ち悪い……」


 悠真は腕時計を指さした。


「これ、赤いはずなんだぜ? なのに、今はただの灰色だ」


「……やっぱり、俺たちだけじゃないんだな」


 学校も騒然としていた。

 先生たちは冷静を装いながらも、この異常事態にどう対応するか困惑していた。美術の先生は「これじゃあ授業にならない」と頭を抱え、科学教師は「色は光の反射によるものだが、こんなことは理論的にあり得ない」と繰り返していた。


 だが、俺の心を最もざわつかせたのは、やはり奈々美のことだった。

 世界の色が消えたのに、なぜ彼女だけは普通に見えているのか。

 何か、おかしい。

 放課後、俺は家に帰るなり、奈々美に問い詰めた。


「奈々美、お前、本当に色が見えてるんだな?」


「うん、見えてるよ?」


「じゃあさ……」


 俺は机の引き出しから、奈々美が幼い頃に描いたクレヨン画を取り出した。


「この絵の色、全部言えるか?」


「えっと、空は青で、花はピンクで……」


 奈々美はすらすらと色を言い当てていく。


 ——間違いない。彼女は、本当に色を見ている。


 けれど、次の瞬間、奈々美は小さく呟いた。


「でもね……」


「……?」


「みんなが言う『色』って、本当にこれで合ってるのかな?」


 その言葉に、俺は息をのんだ。


「だってね、兄ちゃんが『赤』って言う色、私にはちょっと違う色に見える気がするの。『青』って言う色も、みんなが思ってるのと違うかも……」


 そういえば以前にも「色」について奈々美と話していた時、違和感を感じたことはあった。奈々美は、ずっと不安そうにしていたのだ。

 彼女が見ている「色」は、俺たちとは違うものなのかもしれない。

 俺たちが「正しい」と信じている色の世界は、彼女にとっては異質なものだったのかもしれない。


 その時、窓の外で一筋の光が走った。

 次の瞬間、世界に色が戻った。

 急に鮮やかさを取り戻した街の景色が、俺の目に飛び込んでくる。


「戻った……?」


 スマホを見ると、SNSには「色が戻った!」という投稿が溢れていた。


 ——だが、奈々美の表情は、どこか寂しげだった。


「やっぱり……私、みんなとは違ったんだね」


 彼女はそう呟き、じっと手のひらを見つめていた。

 その目には、何色の世界が映っていたのだろうか。

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