夢に囚われた街

 目を覚ますと、見知らぬ天井が広がっていた。

 いや、正確には「見知ったはずの天井が変わっていた」というべきか。部屋の配置も家具の位置も変わっていないのに、どこか違和感がある。

 違和感の正体を探るべく布団を剥がして立ち上がると、足元がふわりと揺れた。


「……なんだこれ」


 まるで床が雲の上にあるみたいに、柔らかく頼りない。恐る恐る歩いてみると、ゆっくりと沈み込み、それから元に戻る。まるでゴムのような弾力があった。

 カーテンを開けて外を見ると、息を呑んだ。

 街が、霞がかった夢の中のようになっていた。

 人々は歩いている。しかし、その動きがどこか奇妙だった。まるでスローモーションの映像のように、滑らかすぎる動きで進んでいる。

 車は道路の上を浮かびながら滑っているし、遠くのビルは波のように揺れている。


 そして何より——


「おはよう、達也」


 振り返ると、そこには亡くなったはずの母が立っていた。


「……え?」


 五年前、事故でこの世を去ったはずの母が、そこにいた。いつものエプロン姿で、優しい笑みを浮かべて。


「どうしたの? そんな顔して」


 母は心配そうに顔を覗き込んでくる。

 言葉が出なかった。

 恐る恐る手を伸ばし、母の頬に触れる。温かい。確かに母の感触がある。


「……夢、なのか?」


 小さく呟いた瞬間、世界がかすかに揺れた。

 窓の外を見ると、街全体がふわりと浮かび上がっている。まるで、大きな布団の上に乗っているかのように。


「さあ、ご飯にしましょう?」


 母が笑い、キッチンへ向かう。

 しかし俺は、足が動かなかった。

 これは、現実ではない。

 いや、現実であるべきものが、歪んでしまったのだ。

 急いでスマホを開く。時間は朝の七時半を示している。しかし、SNSを開くと、タイムラインが異様だった。


「#夢から覚めない街」

「#昨日のまま続いてる?」

「#死んだはずの祖父に会った」

「#これは夢か、それとも……?」


 震える指で投稿を遡る。どうやら俺だけではないらしい。いや、むしろ街全体が、何らかの異変に巻き込まれている。

 何人かが「これは夢だ」と確信し、無理やり目を覚まそうと試みたが、誰も成功していない。


 つまり——


「俺たちは夢の中に囚われている」


 そう結論づけた瞬間、リビングのテレビがついた。


『おはようございます。本日は……』


 ニュースキャスターが話し始める。だが、その映像はどこかぼやけていた。輪郭が定まらず、まるで蜃気楼のように揺れている。

 ふと気づくと、母がこちらを見つめていた。


「……達也、どうしたの?」


「母さん……本当に、母さんなのか?」


 母は微笑んだまま答えない。ただ、ゆっくりと俺の手を握る。


 その瞬間——


 世界が大きく揺れた。

 景色がぐにゃりと歪む。

 目の前にいた母が、一瞬だけ黒い靄のようになり、また元に戻る。

 息が詰まった。


 これは、母じゃない。


 「母の形をした何か」だ。


 俺は後ずさった。


「あなたは、ここにいるべきよ」


 母が——いや、それが——静かに言った。

 言葉の意味がわからない。

 だが、心のどこかで理解していた。

 この世界は、現実ではない。

 俺は——この夢から、目覚めなければならない。


「いやだ……」


 母の姿をした何かが、悲しげに目を伏せた。


「一緒にいたいのよ……」


 胸が締めつけられる。

 俺だって、本当はそう思っている。

 でも——


「さよなら、母さん」


 涙をこらえながら目を閉じる。

 意識を強く集中させる。

 ここは夢だ。

 だったら、俺は——目を覚ます。

 次の瞬間、視界が真っ白になった。


 目を開けると、そこはいつもの部屋だった。

 床は固く、空気は重みを持っていた。

 スマホの時計は朝の七時三十五分。

 外を見ると、街はいつも通り。

 母はいない。

 ベッドに座ったまま、俺はしばらく天井を見つめていた。

 夢だった。

 でも、あの温もりは、あの言葉は——

 果たして、本当に夢だったのだろうか?

 窓の外で、朝日が昇っていく。

 それをぼんやりと見つめながら、俺は静かに息を吐いた。


「……また、会えるかな」


 呟いた言葉は、誰にも届かず、ただ朝の光に溶けていった。

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