第6話 異変

 軍事総官たるもの、いつ如何なる時も模範たれ───理想論でいえば当然なのだろうが、当代のグアジェド・バーリュクスはそうは思っていないらしい。地位故に軍の誰よりも上質な上衣と、自身の多大な功績故に隙間無く縫い付けられた徽章きしょうがむさ苦しさに拍車をかけている。胸元のボタンを開けて着崩している軍事総官など、後にも先にも彼だけであろうとあちこちで話題になっている。


 そろそろ衣替えの時期。帝立央魔院の制服と時期を合わせて変更の指示を出すのも軍事総官の膨大な庶務の一つではあるのだが、向こうの返事がやや遅かったこともあって移行期間が明後日からとなっている。キドロアの兄であるイヴァンが総務管理長を引き継いだばかりで、多忙を極めていたのが原因だ。移行期間直前のこの時期こそ、冬用の軍服を最も鬱陶うっとうしく感じる時期である。

 そんなグアジェドでも自ずから、足先から襟元えりもとまでしっかりと正す時がある。


 「軍事総官がお通りだ。開けろ」


 三人いる門兵の長が門扉もんぴのすぐ傍に立つ二人の部下に指示する。間もなく大きな音を立てて、金属の扉が開けられる。市内を区切る外壁よりもさらに強固な魔法反射、消滅加工の施されたことで漆黒をまとった城壁。高さは然程さほどではないが、上部にはスパイクと呼ばれる突起物が隙間無く並んでおり、とてもよじ登るのは不可能だ。大人二人が大の字に並んでも足りないほどの分厚い扉には、それを縁取るように国内に自生する常緑樹の一種のつたを模した装飾。その蔦に一定の間隔を刻みながら錫杖しゃくじょうや大剣、盾と言った装飾品及び武具の類いが並ぶ、金と銀を贅沢にあしらった華美な正面。真ん中に作られたのは23対の花弁をもつ多弁花と、その中心に最大光度を保つための摩削まさく技術が施された橄欖石ペリドットの紋章。帝国の皇族の証である。そして流石は国の最重要人物を守る最後の砦、門番にもこの上なく筋骨隆々でたくましく、礼儀作法の一挙手一投足さえ気を抜くことの無い精鋭が集められている。そんな王の居城の正門を通るのだ、名声高い帝国魔法軍のトップの人間たるもの、生半可な気持ちと服装でいるわけにはいかない。

 サンティレアのど真ん中。ヘイグターレでもっとも高く、現存するなかで最も古い建造物、シュトラメルグ城。歴代の国王が住まい続ける、神聖で威厳に満ちた優美な建造物だ。活気のある庶民の居住区よりはもちろん、重要施設が立ち並ぶメイガー外壁の内部よりも更におごそかな静寂が支配する。城壁と対をなすが如く、純白の壁が長く伸びる敷地内。換気用と採光の為の小さな格子窓が規則的に並び、地面には隙間無く敷き詰められた濃淡のある茶色のタイル。その中を軍靴ぐんかの甲高く小気味良い足音が門から城の中心部へと向かう。


 「さすが、早いな」


 グアジェドが本殿の門前に到着したときには既にもう一人が端正に仕立てられた燕尾服イブニングに身を包み、開門を待っていた。


 「ジェドこそ。私は他に用件がなかったから先に来ていただけだよ」


 昼下がりの、最も気温が高くなる時間帯。テレンツィオは汗一つかかずに扉の前で待っていた。同い年だというのにすっかり色の抜け落ちた白髪は綺麗に固められ、本人が知ってか知らずか漆黒の燕尾服と見事な相対を成している。


 「今日のご用件は何なんだろうね。タバロ院長も呼ばれての緊急会合は久しぶりだからな……」


 見た目とは裏腹に柔らかい口調と声色でテレンツィオは顎鬚あごひげに手を当てて、さする仕草をした。ここにはまだいない帝立央魔院院長、タバロ・ウェルデミフは分からないが、グアジェドは今回の召集の理由はなんとなく察しがついている。


 「お待たせいたしました。お通りください」


 衛兵が城の入り口を開ける。木目調の模様が加工された扉は魔法駆動式のためか、その見た目と大きさに反してほぼ無音で開く。二人は目配せし合って、城内に入る。


 「……いつになってもこの独特のキラキラ感、慣れねえなあ」


 不変の静寂と非日常からくる緊張感を紛らわそうと、悪態のようにグアジェドは呟いた。やや長めの廊下を渡ると、五階分ほどはあろうか、高くまで吹き抜けた大広間に巨大なシャンデリアが空中に浮かんでいる。石英と石灰石がふんだんに使われ、白を基調しつつも、柱などは強化魔法のせいか漆黒を帯びている。無彩色の対比が緊張感をかもし出す特徴的な内装。しかしその無機質さはあまりにも派手なその他の装飾でかき消されるかの如く緩和されている。城の正門よりも更に精巧に造られた金細工は鳥や獣などをかたどっており、ヘイグターレの職人の技術の高さを伺わせる。左右に伸びる階段も含め、床一面の丹念に磨き抜かれた大理石は天然故の複雑で非規則的な模様と特有の光沢を称える。階段の傍には小さな植木鉢が林立しており、手入れの行き届いた、それぞれに違う色の花が彩る。廊下の突き当たりには噴水、その左右に両開きの扉があり、奥はパーティーなどが開かれる大食堂となっている。限りなく機能的に。それでいて見るものを圧倒する優雅で絢爛けんらんな輝きを放つよう、採光までも計算に入れられた意趣いしゅの深さがシュトラメルグ城の玄関だ。


 「何度も見た光景だが、まあここだけ見ると城というよりは宮殿だな」


 グアジェドとテレンツィオは尚も軽く言葉を交わし、規則的な乾いた靴音を響かせながら階段を上る。会合のある2階の聖堂へと向かう。ちょうど食堂の真上に聖堂がある形だ。深紅の絨毯じゅうたんが敷かれ、魔法により永久的に点いた灯が壁に並び、廊下を広く照らしている。


 「お待ちしておりました。国王陛下がお待ちです」


 聖堂の前にも守衛が二人立っており、グアジェドとテレンツィオの姿を認めるなり、扉に手を掛けすんなりと開け、招き入れるように少し身を屈める。グアジェドとテレンツィオはお互いに一つ息を吐き、口を真一文字に結び踏み入った。この先にヘイグターレの象徴、国王陛下がいるのだ。2人の体が完全に聖堂に入りきったところで奥から声がした。


 「……急に呼び出してすまないな、軍事総官、究魔院院長」


 刷り加工とあらゆる有色加工、高く伸びたステンドグラス。長机には椅子が間隔良く並び、魔法によって永久的に燃焼を続ける燭台しょくだいが柔らかい灯りをともす。中心には会議の際の邪魔にならぬようにと、低めのものが集められた生花が剣山に活けられている。その机の更に奥。王椅おうきに座するはヘイグターレ第22代国王、マーロスティ・ワズプリュード・ヘルナテュリオス。なお、ヘルナテュリオスとはヘイグターレ歴代国王に与えられる名前で、表立って呼ばれることはなく、ワズプリュードまでが大衆に認知される名である。本来であればよわい70を数える老爺ろうやなのだが───


 「陛下、またそのお姿でおられるのですか」

 「またとは何じゃまたとは。中身は変わらぬとはいえ、しわくちゃのジジイと座談会をするよりも、お主らの姪っ子と同じほどの女子おなごと話す方が余程気分も乗るじゃろうが」

 「我々は特になにも求めておりませんし娘も姪もおりませんが……」



 グアジェドの嘆息にまくし立てるように返す幼い声。薄い桃色のつややかな髪。純心が辞書からそのまま飛び出したような澄明ちょうめい浅葱色あさぎいろの瞳。フリルのついたワンピースドレスと白い靴下、小さな革靴かわぐつと5等身の体躯たいく。頭には不釣り合いな大きさの玲瓏れいろうな冠は王位の象徴。誰がどうみても幼女の姿をした国王は頬を膨らませている。近頃は自身の老いた男の姿に辟易へきえきし、魔法で幼子おさなごの格好に変身してはお洒落しゃれたしなみ、周囲の者を驚かせることに執心しているらしい。


 「いえ、支障はありませんが……それで?ご用件というのは」


 これ以上突っ込むとらちが明かないと判断したテレンツィオは早々に話題に入ろうと切り出した。


 「まあ待て待て、まだ央魔院院長が来ておらんではないか。しっかり椅子も用意しておるのだから座って気長に待つといい。急な召集とはいえ紅茶の一杯ぐらいは供するよう使用人には伝えてある。それにしてもお主ら、若き美貌びぼうへの理解がないのう」


 いくら若いと言っても幼子は保護欲しか湧かない―――そんな言葉を飲み込んだ二人をよそに国王は不満げだ。国王はことに茶菓子に関しては造詣ぞうけいが深く、このような集会の席の度に自国の銘菓めいかはもちろん、他国の甘味も頻繁ひんぱんに取り寄せ、振る舞いたがる。焼菓子のようにある程度日が持つものであれば輸入品で良いのだろうが、生菓子等は城内で作る必要があるため、時間に余裕のない今回のような場合は省くことが多い。間もなくして使用人達が扉をノックし、紅茶が運ばれてきた。ヘイグターレ産の新茶葉はしっかりとした香りがあって渋みが少なく、冷めても香りが消えにくいため、温冷兼用できるのが特徴だ。ぴょん、と玉座から飛び降りた幼女国王は長机の自分の席へと駆け寄り、飛び乗るようにして座る。きょうされた紅茶に角砂糖を2つ落としながら、えつに入った表情で口をつけた。


 「う~~~ん最高!今日のもメルシーフェリスじゃな?」


 使用人がさすが国王様、御名答でございますと称え、頭を下げるのを見て更にご満悦の国王。国内最大手の紅茶ブランドは国王のお墨付きで、絶大な信頼を得ている。グアジェドとテレンツィオもうながされるままに一口飲んだところで、三度ノックの音と守衛のお通りください、という無機質な声が響いた。僅かな動作音と共に開かれた扉の先には老年の男が一人。


 「……私一人遅れて申し訳ありません。他部署から連絡待ちだった仕事がようやく動き出したもので対応に追われてしまいました」

 「気にするなタバロ。指定した時間には優に間に合っておる。こやつら二人が早すぎるだけなのじゃ」


 被っていた大きな帽子を取り、一人の老人が挨拶あいさつをした。獣のたてがみを思わせる灰色の立派な髭に一切の躊躇ためらいもない頭部。濃紺のローブに身を包んだ帝立央魔院院長、タバロ・ウェルデミフがびを述べながら聖堂に入ってきた。国王の面前故に垂れた頭を上げて、幼女の姿を見るや否や、タバロの表情が即座に柔和にゅうわする。


 「これはこれは陛下。今日も見目麗みめうるわしいお姿に変わってらっしゃる」

 「さすがタバロ、心得ておるのう。子供は国の宝、可愛いは正義じゃ。ほれ、二人も見習わんか」


 ぷんすかしている国王を、グアジェドとテレンツィオはあえて紅茶を時間をかけて飲みながら無視を決め込んだ。タバロは幼女化した国王の扱い方を分かっているので、なだめつつやんちゃに乗じて四方山よもやま話を続ける。事を知らぬ第三者からの見た目だけなら祖父と孫の微笑ほほえましい日常なのだが、実のところジジイとジジイが馴れ合っているだけなので一回り以上若い二人にはかなりキツい。国王はその二人の困惑した様子に気づくと、一つせき払いをし、タバロに着席をうながした。


 「ふん、お主ら若造にもこういう心情になる時がいつか来る。ではでは閑話かんわ休題!伝えた時刻より早いが、役者もそろったところでお待ちかね、緊急召集の本題に入ろうか」


 国王は二度柏手かしわでを打ち、一度閉じた目をかっと見開く。あどけない姿からは想像もできないほど真剣な表情と雰囲気を作り上げる。年相応の気迫は幼女の姿になれど目減りするものではなく、しっかりと維持されている。この大国ヘイグターレの王たるに相応しい風格も彼が崇拝される理由の一つだ。


 「今回諸君らを呼び立てた理由は二つ。一つ目はディアゲラ・フィスドナークを含めた魔法士失踪事件についてだ。この件は担当の者から直接連絡を貰った軍事総官からご説明いただこうか」


 承知しましたと言いつつグアジェドは立ち上がる。その動作を読んでいたかのように使用人が二人現れる。長机に4人のそれぞれの前にメトラーナとリトマンティルに寄って縮尺されたアプロニア大陸の地図を拡げる。グアジェドは魔法を使いながら4人分の地図に同時に、分かりやすいよう印をつけながら説明していく。


 「昨日のことではありますが、メトラーナ軍から我が軍へ、派遣した調査部隊がディアゲラ・フィスドナーク軍将が失踪したと思われる区域、ウィップオーツ山脈南部から帰還したとの連絡が届きました。幸い彼らに怪我人は無かったようですが、フィスドナーク軍将の姿はやはり確認されませんでした。しかし収穫がいくつかあったようでして」


 ほう、続けよとの国王の声に頷き、グアジェドは続ける。


 「一つは軍将と行動を共にしていた、チャギーラ・バンデミスト大尉以下第一部隊12名の証言に共通していた"周囲の動植物が青黒く変色していた"という点です。これについては魔動射影機によって記録が残されており、その写真も後日我が軍に届くよう手配済みであります。その他、原因不明の息苦しさや奇形化した樹木の目撃等、証言の一致も多く見られました」


 テレンツィオとタバロはなるほど、と言わんばかりに大きく溜め息をつく。それをグアジェドは流し見て、尚も続けた。


 「そして最大の収穫といえるのは―――その変色した区域の中心部にいくつかの人体の一部が散乱していたことです」


 グアジェドの話を黙して聞いていた3人の目が細くなる。


 「間違いなく人間、魔法士と遭敵そうてきし、魔法攻撃を受けたものと考えていいでしょう。外部から相当な衝撃を与えない限り、人体が離断することなどあり得ません」


 何者か、それも相当な実力者で且つ反逆心に満ち溢れた者がウィップオーツ山脈で魔法士に危害を加えていることは間違いなさそうだ。テレンツィオは本人の癖である顎を擦る仕草をしつつ天井の一点を仰ぎ、タバロは尚も訝しげな視線を地図に落としたままだ。国王は早くも紅茶の二杯目に手をつけている。三者三様の態度で考える素振りをしている。


 「魔物の仕業という可能性は低いか……魔法士複数人を相手取る魔物など聞いたことがないですが」


 テレンツィオが口を挟んだ。ヘイグターレでも近年数が増えている魔物の目撃情報。それらのほとんどは動植物が魔力によって変化したものだとされている。とはいえヘイグターレで魔物の襲撃による人命の被害など聞いたことがない。それは一般的な国家魔法士であれば対処出来るほど手こずる敵ではないからだ。他国においてもそれは同じで、魔物は他の生物よりも攻撃性が高く、魔物化していない状態と比べると運動能力は上がっているものの、魔法士が発見の通報を受けて急行し、駆けつけてからでも十分対応できる程度の脅威でしかない。ではなぜ───いやだからこそ。大した脅威ではないからこそ彼らは悩むのだ。ディアゲラが敵の姿をそのままに残してしまったことを。行方をくらませてしまったことを。ディアゲラほど実力者であれば熊が魔物化しようとも手こずるはずもない、何ならその時連れていた部下に任せても問題なく対処できるはずなのだ。


 「……これ以上は推論になってしまうので、現段階での協議は以上にしたいと思います。この件については引き続き詳しく調査する必要があります。明日の14時頃、パシカーラとの合同演習から第三部隊が帰還致します。ギュロンらにも事情を説明したのち、疲労回復を待って、数日内に我が軍も派遣させる予定です」


 うむ、了解した。ご苦労だった、との国王の合図と共にグアジェドは椅子に腰を下ろした。早くも二杯目を飲み終えた国王が再び会話の主導権を握る。


 「では二つ目の議題。この情報も軍事総官には聞き及んでおることと思うが、かなり新しい情報が飛び込んできた。エクスリア外壁東部の壁門、エクスリア第18森林公園付近で正体不明の少年が通行したとのことだ。その少年なんだが、グラモニッドの者と思われる衣服を着用していたらしい」


 それを聞いていた全員の顔が凍りついた。この情報については国王以外誰も知らなかったからだ。


 「何ですと……?門兵協会の本部からそのような報告はありませんでしたが」


 ヘイグターレには門兵、衛兵のみで構成された"門兵協会"というものが存在する。大きく見れば軍事総官であるグアジェドの傘下さんかにある組織で、通門の取り締まりによる治安維持に大きな役割を果たしている。軍への不審人物の情報提供も彼らの職務の一つだ。とはいえ国家と地方、両方の魔法士が混在していることもあり、一概に魔法軍の管理下とは言えず、同僚同志の横の繋がりといった意味合いが強い。軍事総官といえどその体制や情報などを完璧に把握しているわけではない。


 「我が国の通行許可証を持っていたから通門を許可したらしい。その兵士は報告のむねを申し出たと言っていたから、些細な情報なら上層部に報告するまでもないと切り捨てることもあるじゃろうが、この事態は訳が違う。てっきり本部から知らされているものだと思っていたが……。その件も慎重に詮索せんさくすべきじゃな……ただ今は話を戻そうか。その少年はその後、なにかを思い出したかのように飛び去ったので、エクスリアの魔法士が追跡を試みたらしいんだが……あまりの早さに見失ってしまったと」



 ヘイグターレにおいて、大抵の魔法士は追風タービルが使える。恐らく追跡に用いたのもそうだろう。それでも追い付かないとなるとその上位魔法である進隼マウベトゥス飛音遷ファドミアーノ、もしくはそれ以上の魔法の使い手───相当な手練てだれということになる。少年の意思にもよるが、ヘイグターレにとって大きな危険因子であることは間違いない。


 「この少年がもし本当にグラモニッドの人間なのであれば大きな脅威となる可能性がある。どうにかして足取りだけでも掴みたい。サンティレアにいる全魔法士に警戒体勢と捜索協力を取り付けたいところ───」



 国王が言葉をつむぎ、他の三者がうなずきつつ意を固め、具体的な施策を思案するのと、聖堂内の燭台が僅かに揺れ、聞いたこともないような轟音がしたのはほぼ同時だった。


 「何だ……!?」


 隣の給仕室から壁越しに使用人の声が聞こえる。この期に及んで有事か。ディアゲラのことまで含めれば十二分にあり得る話───最悪の事態がグアジェドの頭をよぎる。咄嗟とっさに窓を見た。炎の混じった煙が立ち上っている。方角は東、ウレバの森がある。そして推察するにあれだけの魔法、そしてその魔法を使える者。誰が、今どういう状況にあるか。分かったときには既に体が動いていた。少なくとも国家全体を揺るがすほどの危機ではないはず。それだけ分かればいい。向かわねば。


 「グアジェド!……全く、あやつはこうと決めたら頑として突き通すからな」


 国王の嘆息すら聞こえないほどの速さ。他の二人も声を発する暇もなかった。グアジェドの豪風踏ゼル・アヴェルともなれば速度はロアのそれ以上、ヘイグターレはおろか大陸でも比肩する者もいないと言われるほど。燭台の蝋燭ろうさくの火さえも揺れないことがそれを裏付けていた。ふと、その蝋燭には焦点を合わさず、テレンツィオが壁の一点を見つめたまま呟くように言った。


 「……して国王陛下。私めの予想もグアジェドのものと相違ないと考えます。恐らくはあの炎。かの青年、キドロア・セルエイクのものと思われますが」


 「じゃろうな。わしは直に見たことはないが、噂には聞き及んでおるぞ。グアジェドが有無を言わさず急行したことが何よりの証拠じゃろうて」


 「……お言葉ですが。セルエイク、と言うことはかの先───」


 「テレンツィオ」


 国王は独り言のように言の葉を浮かべる。それでいてテレンツィオの台詞セリフさえぎるように語気を強めて。あえて階級ではなく、名前で。


 「人の目は何故前向きについていると思う?」


 尚もつぶやく国王に、図りかねる質問に、面食らったテレンツィオはやや遅れを取って答える。


 「……前へ前へ進むため、と何処かの書物で見かけたことがあります」


 「確かにそうかも知れん、いやそれが正しいのであろうな……。でもそれは結果論に過ぎないと思うのじゃ」


 「……はぁ」


 「人の目が前についておるのは……過ちにとらわれぬためじゃ。己の過ちに気づいた時、思い返した時。人は必ず立ち止まる。悔いるか悔いぬかは其奴そやつ次第。だが皆が等しく、その過ちを繰り返さぬようにと心に誓う。その誓いと引き換えに後ろを見ることをやめ、人は前に進むのじゃ。前進するその間は過ちから目を背けていることに変わりはない。そしてそれは、いずれまた過ちを繰り返してしまうということなんじゃ。人の歴史はそういった過ちの連続と、それを忘れずにいられる間に訪れる平穏と。その二つで出来ておる」


 過ちとは書いて字の如く過ぎしもの。人が生きるは現在いま。人が進むは未来。過去を見たままに進歩はしないのだ。国王はひたと一点、天井に描かれた古代の大陸神話の絵画を眺める。幼女の姿、あどけない声にはあまりにも似つかわしくないその言葉。それでも彼女は。否、彼はその身分故に。あまりにも多くのものを知った。知ってしまったのだ。歴代の国王から口伝にて授けられ、さとされ、受け継がれたその言葉は、テレンツィオとタバロの心には深く深く突き刺さった。3人と聖堂を支配する、1秒が何分にも感じられるような圧倒的な沈黙。落ち着きを取り戻した使用人すらも入ることを躊躇うような、妙に重々しい空気。果たしていつまで続くのだろうか。その場にいた誰もが思っていたであろうその疑問を打ち砕いたのは、その場にいた誰でもない者であった。


 「……人の進歩には過ちが必ずつきまとう。肝要なのは全く同じ過ちを繰り返さないこと」


 「変わる美学と変わらない美学。双方を重んじてこそ価値のある進歩を遂げる───そうだな?現ヘイグターレ帝国国王、マーロスティ・ワズプリュード・ヘルナテュリオスよ」

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