第5話 新たなる手

 目立つ行動をとれば生き永らえるのは難しくなる。それはどうも野生動物に限ったことではないらしい。人間も大志を掲げて世の為人の為、と己善きぜんの遂行を図る者が居る様に。善し悪しは別として、民を説き、煽動せんどうし大勢を束ねる者が居る様に。なかなかどうして彼らは等しく短命であった。その見上げた理念と行動力の代償として手に負えぬ病にむしばまれたか、あるいはその思想にあだなすものに志半ばにて横槍を刺されたか。いずれにせよ世界を大きく変えようと願う者ほど、誰よりも願った者ほど、望んだはずの行く末を待たずして現世を後にする。

 ───しかし自分はどうしても違う。世界を変えたいわけでも、周囲の人間を動かしたいわけでも、目立ちたいわけでもない。ただなのに絶えず横槍が飛んでくる。それも一人二人の暴徒等ではない。数えきれぬほどの悪意達だ。必死に走っても、魔法で薙ぎ払おうとも、湯水のように無制限に湧いてくる。やがて疲れ果て、足ももつれた頃に一体、また一体と身体にしがみついてくる。体勢が大きく崩れ、よろめく。そこに待ってましたと言わんばかりに無数の鉄塊が集る。ああ、最早これまでか。まるで大きなことなど望んでいない。ただ明日の、その先の安寧を手に入れたいだけなのに。何も為せぬまま。このまま───。


 「───またか」


 何度同じ夢を見ただろう。昔どこかで聞いた、自分が咥えていることも忘れ水面に映った肉を求める愚かな犬の童話のように、自分一人で解決し得ないものをいつまでも追い求めるあの夢だ。目を覚ましがてら嫌な気分も払いたい心持ちから頭を左右に振りつつ、一つ伸びをする。いつの間にか眠りこけて居たようだ。



 「あいつ……またいなくなってやがる」



 周囲を見回してみたが、連れ立ってきたもう一人が見当たらない。良く言えば自由奔放、悪く言えば傍若無人。自分の好き嫌いが全ての判断基準。赤子並みに世話がやけるだけでなく、


 「何もかもが悪目立ちするんだから考えろって……言っても無駄だからこういう状況なんだよな」


 彼は考えることをやめて、連れを探すことにした。互いに魔法士であることに加えて、連れ立って行動している以上、目的も同じだ。行き先は粗方あらかた予想がつく。



 ■■■■■



 狂気。いや狂喜か。"それ"の嬉々とした表情はあまりにもこの状況に似合わない。色が抜け落ちたのか、そもそもの色なのか分からないほどの銀髪が淡く光る。右は深紅、左は薄青という異彩眼オッドアイは大きく見開かれたまま、口元は緩みとにやつきを併せ持っている。端が不揃いの七分丈の袖の上着はそもそもの長さではなく、切れ落ちたかのような傷み具合で、足元もすすけたブーツと所々穴の開いたズボンといった格好だ。背丈はサルカーノと同じぐらいだが、顔付きはだいぶ幼く見える。青年というよりは少年と呼ぶ方が相応しいだろう。ロア達と|対峙(たいじ)するその少年は見た目通り声変わり前の男子特有のやや低めのソプラノで口を開く。


 「ははは、探したよ。───キドロア・セルエイク」


 ロアは理解が追い付かずしばし目を見開いて硬直した。理解したときには喫驚きっきょうと共に強い嫌悪と警戒心を抱きながら、目付きはこの上なく鋭く、いぶかしみに満ちたものへと変わる。見ず知らずの人間に名前を呼ばれ、居場所を探し当てられるほど気色の悪いこともない。無意識に食い縛られた奥歯がきしむ感触をかたわらに覚えつつ、ひたと少年をめつける。


 「おおっと、言いたいことは分かるよ。何故名前を知ってるかでしょ?でもその前に───」


 話し方もどことなくあどけない少年だが、彼の放つ異質なオーラは明らかにそこら辺の一般魔法士を遥かにしのくらさを帯びている。辺りの動植物も消え去り、空気すらもよどませている錯覚を招く。少年が句を継げようとするところをさえぎって、いきどおりをどうにかコントロールしたロアはミリーナを優しく横たわらせ、最大限声を低く尖らせて警戒心と敵意、憎悪のままに口を開く───てのひらには既に魔法陣を描く準備が為されている。


 「名も名乗らずに他者に危害を加えるのは感心しないな───何が狙いだ。返答次第では俺は即座に貴様を殺す覚悟が出来ているが」


 ロアの憤怒に満ちた眼差しに、少年は更に目を細めた後に絶えず浮かべていた笑みをしまい、ロアよろしく掌に魔法陣を浮かべる仕草をする。


 「遊んでよ。最近はどうも手応えのある相手がいなくて退屈してたんだ。でも君の名前と評判を聞いたときからワクワクが止まらなくて。これが世間で言う恋ってやつなのかな?」


 ロアとサルカーノは彼のあまりにも飛躍、破綻した論理に何を言ってるのかさっぱり分からなかったが、少年がロアと魔法の手合わせをしたがっていることはなんとなく察した。すると、少年の顔を長いことじっと見ていたサルカーノが突然声をあげる。


 「あ!思い出した!どこかでみたことあると思ったら───」


 少年はその声に、ロアに向けていた視線をサルカーノに一瞬移すと、妙案をひらめいたように目を見開いた。


 「ああ、君は。あの時の。まさかこんなに早く再開するとは思わなかったよ。───でも、出来ればこの形では会わない方が良かったかもね」


 少年の聞き捨てならない言葉にロアの視線もすぐさまサルカーノに向けられる。お前、まさか知り合いか?と言わんばかりに。その視線に気づいたサルカーノは慌てて弁明し強く首を横に振る。


 「ち、違う!知り合いなんかじゃない!ここにくるまでに一度街で話しかけられたんだ、キドロア・セルエイクを知らないかって───」

 「そうだね。でも君と話してる最中に偶然見付けてしまったんだよ。あの時は夢中だったから見落としていたけど、君にも魔法士のオーラがあるね。そしてキドロア・セルエイク。君のオーラは途徹もなく強くて、濃い。君の位置を特定するのは容易だったよ。でもなんだかたくさん人が集まってるのが分かってね。相手をしてくれるのは君一人で良いからどうしたものか困っていたら、丁度君が一人になるのを感じたんだ。それに豪風踏ゼル・アヴェルを使えるのなんてあの集団には君しかいない。僕の存在を悟られないよう君を追いかけてきたのさ。───まあ君のオーラが強すぎて二人居たことには気づかなかったけど」


 その口ぶりからするに、どうやら少年は魔法士や魔法士に準ずる魔法を使える者の存在やその魔法適正の高さを視覚的に捉えられる"異能"を持っているらしい。ロアも感じ取ることの出来る魔法士の気配とは違い、明確にどこにいるのか、どのくらいの適正の高さかというのが色で分かると言うのだ。それ故にロアの居場所と適正の高さが手に取るように分かり、追いかけてきたのだと。しかしこれでは理屈が分かっただけで理由が分からない。一番の疑問が解決していないのだ。


 「何の目的で俺に勝負を挑むような真似をしてるんだ?」


 依然として声を尖らせ警戒を緩めないロアを微塵もおそれる様子もなく、少年は乾いた笑いと共に告げる。


 「なぜ?強そうなやつと闘うのに理由がいるの?」

 「俺はお前を知らないし、お前と闘うことに利点がない。何より俺は今別の用事をいくつも抱えてる。貴様の余計で危険な魔法のせいで傷者も出たところだしな」

 「そうなんだ。でもそんなこと僕も知らない。そんなやつほっといてさあ、相手してよ。退屈なんだよね」


 ロアの怒りが頂点に達しそうになる。ここまでトンデモ理論で人を振り回しておいて、危害まで加えておいて知らないだと?……が、ここで感情に身をゆだねてしまってはチームメイトの二人を危険に晒しかねない。とはいえこの少年にこちらの話はまるで通じないことも理解した。すんでのところで勝った理性で抑え込み、少年を睨み付けたままサルカーノに話しかける。


 「……サルカーノ。ミリーナを抱えて出来る限り離れててくれ。」

 「え?あ、え?ど、どういう───」

 「良いから早く行け。死にたくなければな」


 ロアの語気と鬼気迫る表情に気圧けおされたのか、音にならないような怯えた息を吸ったサルカーノは丁重にミリーナを抱き抱えると、最初に三人が降り立ったギャップの方へと走り去っていった。


 「ふふふ……。自分から一人になってくれるんだね」

 「……お前のいう関係ない奴らを巻き込むわけにはいかないからな」


 少年の仄暗ほのぐらい微笑が一層強まる。得体の知れない思考回路の彼はずっと左手に魔法陣を明滅させている。ロアも負けじと魔法陣を作り出す手にいつも以上に力が入る。憎しみのままに強い言葉で揺さぶりをかけたいところだが、ここもすんでのところで口をつぐんだ。少なくとも今まで戦ったことのある誰よりも危険で手強い匂いがする───本能がそう告げる。感情に任せてまともに対抗できる相手ではない、と。他のチームに見つかりたくはないが、今は最早それどころではない。十分な距離まで走り去ったサルカーノをちらっと遠目に送り、少年に視線を戻す。


 「じゃあ、───やっちゃおうか」


 そう少年が告げたときには既にロアの首元を魔法がすり抜けていた。明らかに、そして正確に放たれたのは再び閹雷貫戟フォンバ・ロギドゥーカ。それを少年の僅かな予備動作と紫電の如きはやさで描かれた魔法陣から読み取り、体を少し右にずらす。標的を失った魔法はロアの後方遠くの樹木に当たり、即座にその幹を腐敗させた。樹皮は黒く変色し大穴が空き、ミシミシと音を立て大木が崩れ去る。急所を外した黒い尖槍せんそうを目線だけで流しつつも、即座に魔法陣を両手に構えるロア。───凄まじい強敵。気を抜けば死ぬ可能性もあるだろう。加えて同じ魔法でありながら先程とは桁違いの威力。彼は間違いなく"本気"だ。逡巡しゅんじゅんと戦慄を悟られぬよう手先の魔法陣と敵の動作に意識を集中させる。左手には得意の豪風踏ゼル・アヴェル、右手には同じく風属性だが電気を帯びた攻撃的な魔法を造り出す。刹那、少年の元までで駆け寄り、右手の電撃を叩きつける。少年は軽やかに近くの枝に飛び移ってかわす。あまりにも強力なその電気は地面に吸い消されること無く、地表を削り取る程の勢いで風を巻き上げながら駆け巡る。魔法が駆け巡った一帯は煙が立ち上り、高電圧で燃え尽きた草が黒く焦げている。


 「ほぉん……雷棘輪マグナ・エレネシアねぇ」


 自然の雷と同等の強い電撃をリング状にした強力かつ危険な魔法。手裏剣のように投げつけたり、今回のロア同様に一地点に叩きつけ展開するのが主だ。風属性魔法を最も得意とするロアのそれは魔法陣が並外れて精緻せいちさを増し、範囲も威力も桁違いではあるのだが、少年はいとも容易たやすく避けてみせた。少年の無駄のない、それでいて的確な回避行動に驚くロアだが、その程度でたじろいで隙など見せていられない。即座に次の魔法を構え、少年に反撃と回避の隙を与えないつもりで次々に魔法を放つ。


 「巨輪炎グラノ・リメリア氷柱連昇ジス・ファネリ……いいね、良いねぇ!久々の手応えだよ!」


 少年の瞳孔は大きく開かれ、口は尚も狂楽に歪む。火属性の普遍的な初級魔法、輪炎リメリアの数倍から数十倍大きな火の輪を作る巨輪炎グラノ・リメリア。魔法陣の紋様と難易度が大きく異なることから別魔法として扱われており、日常生活において使用する場面もなく、ほぼ魔法軍従事者専用魔法と言える。氷柱連昇ジス・ファネリは数百本からなる氷の棘を指向性で射出する攻撃的な水属性の上級魔法だ。一度回避されてしまったからか少年の移動範囲を制限しつつ密集した怒涛の連撃を展開することで逃げ場を無くす手に出たロア。


 「なるほどぉ。逃げ道を塞げば当たるだろって?まあ、避けるばかりじゃ面白くないよね」


 少年はロアの狙いを見透かすかのように、依然として笑みを浮かべたままだ。そして全く避ける素振りを見せずに、


 「はいよ、っと」


 魔法の軌道を"歪めて"みせた。氷柱つららは全て周囲の草木に散開し、あかく燃える火の輪も消し飛ばした。わずかに残った火種ほどの赤が湿った腐葉土に乗り、すぐに燃え尽きる。またしてもあっさり攻撃をいなされたロアが目を見開く様を見て

少年から笑みが消えた。どうやらようやくやる気になったらしい。


 「え?まさかこれで終わりじゃないよね?……続けないならまたこっちからいくよ」


 防戦から一転、やや高い位置から再び少年の魔法が飛ぶ。ロアは回避体勢を取ろうとするが、今回は違う。少年が撃ちだした魔法は先ほどとは違い、広範囲に漆黒の幕のようなものが展開され、ロアを包み込むように構えられていた。まるでたこ烏賊いかが触手を伸ばすように、放射線状に伸びる漆黒の網幕もうばく。予想外の攻撃方法にロアは一瞬反応が遅れる。



 「……!」



 ロアは攻撃範囲の広さから、移動魔法での回避が間に合わないと読むと、攻撃用の風属性魔法をその幕に撃ち込み、文字通り風穴を開け打ち消す作戦に出た。後ろに大きく体を傾けながらも魔法を射出する。圧縮され螺旋らせんを伴った空気は数百度にも達する。周囲の水分が急激な温度上昇により湯気が立ち上る中、その魔法は深くくらい空間を容易く一穿いっせんした。幕はその旋風の勢いで霧散していく。


 「おおっと!今度は吸層拳昇風ファルゴ・ニバスターとはね!この早さといい、精度といい、お得意は風属性というわけか!」


 吸層拳昇風ファルゴ・ニバスターは使用者の後方の空気を高速で吸引、前方の空気と合わせて圧縮し回転をかけることで、高温、高威力の空気の槍を作り出す上級魔法だ。ディアゲラからではなく、書物から独力で学んだ魔法の一つだ。少年はほんの一瞬意表を突かれたような顔をしただろうか。確信こそできなかったが、少年の動きが刹那鈍にぶったのをロアは見逃さなかった。


 後ろに大きく傾いたのは空気を前に送り出したことで、背後の気圧が一時的に急激に下がったからである。大気圧に引きずり込まれるような形で後のめりになるロアだが、そのままの勢いで後ろに左手をかざし魔法陣を展開。今度は自身の十倍ほどはあろうかという巨大な鎌を作り出し、その鎌を軸にして体を横に倒しながら、側転の要領で空中で回転した。体を少年の方へ向きなおす。回転を終えると同時に、側転の軸としての役目を終えた鎌を、少年めがけて投げつける。呼刃術ノピュド・サマニルと呼ばれる初歩的な土属性魔法で、その中でもロアが今回使ったものはヴィサラに該当する。通常片手で振り回せるほどのサイズで生成するのが主だが、ロアともなると家屋と同等の大きさの武器すらも取り扱えてしまう。本来なら不利ともいえるその大きさを逆手に取って利用し、後傾姿勢を立て直そうという狙いだった。大きな予備動作と派手な攻撃はあまりにも容易くかわされてしまうが、当てることが目的ではないため歯牙にもかけず、すぐさま次の魔法を構える準備に入る――—本心は相手に得意属性を悟らせたくないために多彩な属性を見せつけようとする気持ちの表れでもあるのだが。


 「呼刃術ノピュド・サマニルなんて名前しか聞いたことなかったなあ!初歩的な魔法だけど、どこまでも楽しませてくれるねえ!……でも僕の目はごまかせないよ、君の得意属性が風属性だってことはね」


 ロアの期待とは裏腹に少年の目はごまかせなかったようだ。事実、上級魔法と下級魔法という差がある。土属性と水属性を比較的苦手とするロア―――それでも一般的な魔法士に比べると抜きんでて適正は高いのだが―――しかし少年はまた別の理由でロアの適性を見抜いているのだった。


 「もしかして僕の言葉に踊らされた?多彩な属性を使い分けて惑わそうとしたのかな?……ハハハ!残念だったね!俺にはわかるんだよ!魔力の流れが!魔素が引き寄せられるその行き先が!そしてどの属性の魔素が強く引き寄せられるのかもね!早く見せてくれよ!小手先のごまかしに頼らないお前の真の実力ってやつをよぉ!」


 ついに少年の口調も変わった。ロアとしては当然実力を計り知れない相手なので探り探り戦っている部分がある。手の内を全て明かすことはないよう立ち回っている。少年としてはそれが全力ではないと分かっている。図りかねたゆえの手抜きに映っている。それがあまりにもどかしく、許しがたい。少年の顔はそう語っている。


 「まだまだ隠し持ってんだろ!?物足りねえなあ!?お前が行かねえってんならこっちから本気出してやるよ!!」


 もはや少年とは会話も成立しないように感じられた。少年は両手を前に突き出し、今までとは比べ物にならないぐらい巨大かつ複雑な魔法陣を作り始めた。少年の体躯たいくの優に五倍はあろうかというその紋様はロアですら見たこともない術式が刻み込まれていく。そして最も驚くべきはその速度。当然のことながら魔法陣の大きさ、難易度に比例して魔法の生成時間は伸びる。しかしながら少年はロアが驚いて、わずかに判断が鈍っている間に魔法陣を書き上げてしまった。


 「ほらほらどうすんだ!?今度は避けられるとは思えねえがなあ!?」


 ついにその術式から魔法が放たれた。数えきれないほどの黒い、人のものと思しき魔の手と、それらと同等に黒い竜頭のような悪意。身の毛も|弥立(よだ)つほどの邪念。常人なら見ただけで気を失ってしまうほどのおぞましく、深く、強い強い邪悪なオーラをまとった無数の影がロアめがけて降りかかる。───本能で察した。間違いない。これは禁止魔法なのだと。見た目どおり闇属性魔法なのは間違いないだろう。しかしロアの記憶のどこにもこのような魔法は存在しなかった。危険。脳がそう告げるか早いか、ロアは無意識に豪風踏で駆け出していた。だが───



 「いくら豪風踏だろうが、いくら君が風属性が得意だろうが、この魔法からは逃れられないよ。だってこれは″影"だから。影とは光のそばにできるもの。光あってこそ生まれるもの。常に表裏一体、行動を共にするもの。つまり……その速度も光に並ぶんだよ?」



 少年はロアの戦慄した表情を見たからか、無知ゆえに無駄な回避行動をとろうとするロアを見たからか、元の口調に戻っていた。光があるからこそ影がある。否、影が在るところに光が差してくる。影とはいつもそこに居て、気づいたときには傍に、いつも隣に出来るものなのだ。刹那、時機を得て|豪風踏(ゼル・アヴェル)は発動。僅かながら移動はできたものの、魔法陣を展開し終えた時には既に影の手がロアの左足を|掠(かす)め、邪念の竜頭は右腕を少し|抉(えぐ)っていた。


 「ぐっ……!!」


 言葉にならない激痛がロアを襲う。黒の連撃は容赦なくロアの身体を殴りつけ、ロアを魔法もろとも粉砕した。肉も、精神も削り取り、打ち付ける。四肢に留まらず腹部や肩にも攻撃は絶えず命中している。痛みと多量の流血で意識を保つことも難しい。逃げることも防御魔法の展開もままならずロアは弾き飛ばされ、地面に叩きつけられる。その後も倒れこんだロアに少年の連撃は止まることなくロアに襲い掛かり続ける。


 「……ん?やりすぎたかな」


 何秒経ったか分からないまま、影がロアを覆いつくしていた時、少年はふと魔法をやめた。全力を出し、|止(とど)めを刺した―――そう思ったからだ。それまでのロアの連撃をはるかに凌駕りょうがする強さと手数を放った少年。彼にとっても渾身の魔法だった。極限の戦いを求める中で彼は、相手をまだ生かしておくために手加減をすることがままある。悪い癖なのかもしれない、と少年は薄々考えてはいるが、相手が死んでしまってはそれ以上戦いは楽しめないので致し方がない、そういう風に結論付けている。その癖が今回ばかりは鳴りを潜めるほど全力だった。底知れぬ強さの真髄を見せたかに思われた。しかし、ひとつだけ腑に落ちないことがあった。少年がいつも望むのは互いのどちらかが死ぬまでやめない、命のやり取りのような戦い。今までもそしてこの戦いも、これからも手加減のつもりは毛頭ない。事実、今の攻撃に関してもそれまでのロアの攻撃を見届け、実力と立ち居振る舞いを見極めたうえで完膚かんぷなきまでに叩きのめすつもりで放った魔法だった。それなのに───


 「ほう……これを喰らっても立ち上がるなんて……お前が初めてだぜ」


 少年の不快感は再び荒げられた口調が物語っていた。ロアは禁止魔法をもろに受けても立っていたのだ。少年からは表情が確認できないほど深くうつむき膝は曲がってこそいるが、手を膝につくこともなく、二本足で立っている。事実ロアは誰がどう見ても満身創痍、立っているのが不思議なぐらいだ。左足はズボンのすそが無くなるほど擦り切れ、至る所が流血し、右腕に関してはさらに損傷が激しく二の腕が抉れてしまっている。呼吸をするたびに肩が大きく浮沈し、指先まで紅に染まったそれは最早魔法陣の展開はおろか、力が入っている様子さえうかがえない。恐らく上げることすらままならないだろう。そんな彼が立っていられた理由、それは


 「なるほど……そのマフラーか?」


 たとえ夏になろうとも、何年経とうとも絶対に手放さなかったマフラー。この初夏の真昼だというのに巻き付けたままだった緋色ひいろのマフラー。これが人間の急所である首元と頭部への攻撃を防いでいたのだ。しかしまだ疑問はある。首元はまだ分かるが、頭部はなぜ無事だったのか。答えはマフラーの先端にあった。それはまるで先程の影の手と竜頭を弾き返したかのように、複数の穴が不自然に開いていたのだ。


 「なにか特殊な魔法が施されているのか……?でも物が所有者の意志とは別にひとりでに動く魔法なんて聞いたことがないな……いや、何なんだあれは?」


 少年が一人思索にふけっていると、ロアはゆっくりと比較的傷の浅い左手を真横に突き出した。未だ尚ロアは魔法を展開するつもりでいるのだった。俯いたまま、噛み締めるように言葉を紡ぐ。これだけの傷を負いながらもロアの声は至ってしたたかだった。


 「よくも……」

 「ん?」

 「よくも……師匠のマフラーに傷をつけてくれたな……許さん……絶対に……それに、お前の実力を少々見くびっていたようだ…………どこの、誰だか知らんが……貴様だけは、俺の全身全霊を持ってじ伏せてやるよ」



 少年の眉間にしわが寄った。ロアの様子が、明らかに今までとはオーラが違う。本気を出したというよりは殺意を帯びたと形容したほうが正しいかもしれない。そんな少年の放った魔法よりも禍々まがまがしい雰囲気が今のロアにはあった。いついかなる時も肌身離さず身に着けていたマフラー。それは他でもない師匠、ディアゲラ・フィスドナークから譲り受けたものだったからだ。ディアゲラが魔法軍第一部隊の隊長となり、多忙を極め、ロアに魔法を教える時間が十分に無くなってしまった代わりに、"これを持っていろ"と渡したものだった。当時はディアゲラの昇進への喜ばしい気持ちと、心の拠り所が遠くへいってしまうような寂寞せきばくが入り混じるような感覚があったが、その寂寞を幾分かまぎらわせてくれる程度のものだった。それがいつしか年数が経つにつれ、会える回数も会う時間も減っていき、手紙だけやり取りする日々が続いたせいか、忘れ形見のような、固執と呼んでも差し支えないような愛着を覚えていたのだ。今となっては身に着けていないと落ち着かないほどの存在と化している。その何よりも大切なマフラーが傷んでいる。これはロアにとって自身が傷を負うよりもはるかに許しがたいことだった。怒りが頂点に達した、否、超えたロアはかえって冷静さを伴っていた。ロアは尚も下を向いたまま言葉を紡ぐ。


 「これを使うのは人生で二度目だがな……失敗なんてしないから安心しろ。規模も威力も桁違いだからよく見ておけ……最後まで見届けられるかは保証しないが」


 息の激しく混ざる、それでいて重く低く芯のある声。ロアのただならぬ雰囲気は少年の動きを止めるには十分過ぎた。左手に先ほどの少年の魔法陣よりも更に大きな魔法陣が描かれる―――今までに使われたどの魔法よりも大きく、精密で、それでいて今までにない特徴を兼ね備えた魔法陣が。


 「魔法陣の……上に魔法陣だと……!?」


 一般的に、というよりほぼすべての魔法は一つの魔法に対し一つの陣が展開される。しかし今、ロアが展開している魔法陣は"三段構成"になっている。一番下の巨大な魔法陣の上に、更に二つの魔法陣が同時に、それでいて独立した別の魔法陣が形成されていく。少年はこれから起こるであろう未来の予測も出来ず、見たことのない魔法に対しただ呆然ぼうぜんと立ち尽くすしかなかった。未知との遭遇、認識の範疇はんちゅうを越えた事象との邂逅かいこうに動作思考が停止するのは、たとえ嬉々として死闘を望む彼とて例にたがわなかった。

 やがて一段目の魔法陣が突如、煌々こうこうと朱色の光を帯び始め、二段目の魔法陣へと垂直に数本の光柱を伸ばし始める。陣そのものと並走するように、間に円柱が形成されていく。沸き上がる憎悪と憤怒、荒い呼吸にぶれることはない、正確で巧緻こうちな高等魔法陣。二段目の生成が終わったかと思うと、三段目が急激に拡大する。溝を流水が駆け巡るように瞬く間に描かれていく中、周囲が少しずつ変わっていっていることに少年が気づいたのはその三段目すらほぼ完成したときだった。対峙するロアだけではなく、自身も呼吸が荒くなっているのだ。魂が震えるほどの死闘にただ己が高揚しているせいではない。間違いない。ここら一帯の酸素が


 「……今更だ」


 少年の心の機微きびは読まれたかのように、ロアの想定通りだった。たじろぎを見せない少年に対して、ようやく完成した三段の術式を伸ばした左腕ごと向ける。一呼吸置いたかと思うと、未知の魔法の名前が告げられた。



 「……廈劫炮爛燄ゲオローザス


  ロアがその魔法───火属性の最上位である"禁止魔法"の名を読み上げると同時に三段目の魔法陣が激しく光り、初擊が放たれる。…が少年がその初擊を初擊と認識するにはあまりにも一瞬で、あまりにも広大だった。


 「……!?」


 少年が気づいたときには全身が巨大な火球の中にあった。熱い。痛い。苦しい。頭頂部から足先に至るまで全てが焼け落ちる感覚がする。残酷なまでの絶叫が二人のいる河原、ギャップすらも越え、ウレバの森全体に響き渡る。意識が、本能が、生命が。存在の危機を強く強く訴える。そんな少年のもがく様を意に介せず、ロアは二段目の魔法陣を起動させる。少年の足元から、小屋三つ程度ならまとめて容易く打ち壊しそうなほどに太い火柱がごうごうとけたたましい音を立て天に向かって立ち昇る。少年はおろか、彼の立つ地面ごと削り飛ばさんとする勢いで。当初こそ他の受験者に見つかるまい、衝突は避けるべきと隠密を心がけて行動していたロアだが、今となってはそんなこと、と思うほど些末なものであった。ただ一人、目の前の人間が自分の生命を脅かす対象であること。何よりも大切な師匠から譲り受けたマフラーを、思い出を傷付けたこと。その憎き存在を葬るため、ロアは只管ひたすらに魔法陣を書き上げ、展開していく。一つ目の火球に閉じ込められた彼を、絶対逃がすものかと猛追する追い討ちの火炎。ロアは表情一つ変えることなく、憎敵ぞうてきを焼き殺さんと三段目の魔法を構えたままだ。


 「これが火属性唯一の……三段術式魔法、最後の一撃だ」


 口を開くと同時に最後の、三段目の一番大きな魔法陣が作動する。最早少年にこの言葉が届いているか、理解できているかはどうでも良い。死にゆくであろう、否。死なせるつもりで技を浴びせた者にせめても告げてやろうと、無意識に発していた。火球と天高く伸びる火柱に炙られ、焼かれ続けた少年を取り巻く火球ごと真正面から火を帯びた號砲ごうほうが刺さり、大気を切り裂き、突き抜ける。回転がかかるその熱線、熱風は容易く周囲の木々をも焼き落とし、長く長く地を駆け伸びていく。二段目の立ち昇る火柱の轟音をも掻き消すような異様な爆音と燃焼音は地面を揺さぶりながら響鳴する。少年は果たして再び苦痛の悲鳴を上げたのだろうか。それすらも聞こえないほど囂々ごうごうと爆炎は森を駆け抜け、触れんとするもの、道を妨げんとするもの全てを焼き払い、すすへと変えながら広がり続ける。間違いなく森にいたもの全員、その音は耳に届いているだろう。ミリーナを抱えロアから離れたルカだけでなく、同じく試験を受け、ロアの置かれた状況など露知らずの者達も、森を棲み家とする数多の動植物達も。そして───


 「なんだなんだ!?この爆音は───何なんだあの火柱は!?」


 ゴール地点でもある特設会場のテントで悠々と構えていたガオニとその横で静かに書物に目を通していたヴェジルにもそれに漏れず。オーブを見つけた者同士の衝突が起こることは織り込み済み―――むしろそれも狙いの一つだが、これほどまでの大規模な魔法、重い音は仮試験に限らず彼らの生涯に於いても前例がない。ロアを眼前にして取り乱すことの無かったヴェジルですらも書物から目を離し、遥か遠くで屹立きつりつする盛炎に目を見開き、絶句している。未だ経験したことの無い光景だが、その二人にも今何をすべきなのかは即座に判断できた。


 「……中尉。ここは私が。他の生徒をこれ以上混乱させるわけにはいきませんが、その為にもどちらかがここを守らねばなりません。となれば多くの者を統率できる中尉が残るべきです」


 ヴェジルはガオニの反論を封じるために一気に言い切り、その言葉を紡ぎつつ刹層滑ガウダ・ギエーナの術式を起動していた。返事を待つことなく音のする方へ飛び去っていく。それはガオニを信頼しているからでも、信頼していないからでもない。単純にガオニよりも自分の方がからである。ヴェジルは軍への入隊がガオニよりも遅いが、学術においても実技においても入隊当時、現在、いずれもガオニに勝っている。ともあれヴェジル自身、昇任して仕事が増えるのは|億劫(おっくう)と感じるため、少尉で大方満足しているが。


 「……有無を言わさないのは相変わらずだな、ヴェジル。こちらは任されよう」


 最近覚えたばかりの通信魔法でここぞとばかりにガオニが連絡してくる。その返答を聞くことが無駄だからこうして飛び出してきたと言うのに。その上これが相互送信式ではなく単方向送信式だから向こうが要件を言い終えるまで切れることがないのがまた腹立たしい。だからそう言ってるじゃないの、と食い気味に一人ごちて、意識を目の前の異常事態へ専念する。

 何が起きているか詳しくは分からないが、生徒同士の衝突程度で済む事態でないことだと本能が理解し、警鐘けいしょうを絶えず鳴らしている。ヘイグターレ国民ではない何者かがウレバの森に侵入し、魔法を放ったのか……?足は止めず、いとまなく思考を反芻はんすうする。そしてその途中で、一人だけ。ただ一人だけ。この場においてこれだけの大規模な魔法を扱い得る人間を想起した。


 「まさか……いやまさかね」



 ■■■■■



 何分。何時間。どれだけの時間が経っただろうか。己の精神力、生命力、怒りの原動力。続く限り魔法を放ち続けた。鬱蒼うっそうと生い茂る天然の迷路は、万物を灰燼かいじんと帰す灼熱の猛威の前に、文字通りの変貌を遂げた。巨大な火球と、地表と平行にい広がった熱線に沿い、名もなき小川を中心として大きく開けた森から黒白こくびゃく入り交じって煙が上がっている。辛うじて形を留めた大木も見る影もないほど小さく焼け落ち、くずおれるのも時間の問題のようだ。再び項垂うなだれ、肩で息をするキドロア・セルエイクの前に、倒れ込んでいる一人の少年。先程までロアと対峙し、生死を賭けた激闘を繰り広げた異彩眼オッドアイの少年である。感情に任せた、暴走と呼ぶしかないその魔法に後悔はない。やがてロア自身も二本足で立つことが辛くなり、バランスを崩し膝をつく。怒りのあまり我を忘れてその感覚もなかったが、身体はとうに限界を超えている。咳込むと喀血かっけつした。精魂尽き果てる寸前まで戦ったのだ。当然だろう、と言う気持ちが先に湧き、死への畏れや傷の痛みなどは不思議とどうでもよかった。倒すことに全力を出してしまい、もはや治癒魔法を自身にかける気力すらも残っていない。住人を失った森は緩やかに風が吹き抜けるだけで、鳥のさえずりも葉のれる音もない。しばし少年の横たわる様を見ていたロアの目の前で、一つ。意図的に何かが動いた音がした。


 「……は」


 ───どういうことだ。


 「────はははははははははははははは!!!!!!!!」


 認めたくない。あってはならない。理解できない。違う。脳が理解を拒絶している。本当にどういうことか、少年の体が倒れ込んだままバリバリといびつな音を立てて肥大したかと思うと、背中が割れ、。生きた少年が。それはまるで遠い異国の工芸品である、人形の中から同じ模様の人形が出てくるように。爬虫類や甲殻類の生物がふるき体を捨て、脱皮をするように。人間にはあるまじき現象であると共に、あれだけの魔法を食らわせたにも関わらず生きていることをロアは許せなかった。許したくなかった。許してはならなかった。


 「……いやあ、初撃を食らったときはどうしたものかと思ったけどね。実に痛い。実に強い。……だからこそ実に面白い。これだよ、これ。こうでなくっちゃなぁ……!」


 中から出てきた少年も決して無傷ではなかった。顔には火傷を負い、衣服もだいぶ煤けている。左腕は特に損傷が激しくひじから先が黒く変色し、人差し指と中指の先は焼失したのか、短くなり先が縮んでいる。それでも生きている。ロアよりも傷は浅いらしく、二本足で難なく立っている。


 「廈劫炮爛燄ゲオ・ローザス、だっけか?思い出したよ。史上最強の火属性魔法だったね。施設の書物で読んだから存在こと知っていたが、多段式とまでは書いてなかったからねぇ。それにまさか使える人間がいるとは、そしてこの身で味わうことが出来るとは……愉悦の極みだあ……」


 痛いとは言いつつも焼け焦げた左腕や顔を痛がる素振りも見せず、むしろロアと遭遇した当初のようにこの上なく悦びに満ちた顔をしている。この期に及んでも少年は命のやり取りを楽しんでいると言うのか。自分の全てを出し尽くしたつもりのロアに対し、謎の脱皮のような魔法でそれを凌ぎ、尚も立ちはだかる少年。果たして敵わないのか。ここまでしてもあいつを倒せないのか。喫驚、落胆、拒絶、絶望、畏怖、戦慄。あらゆる感情が目まぐるしく沸き上がる中、一つだけ確信に近いものを得た。───否。得てしまった。


 "死ぬ。"


 だが、今のロアには最早、逃げる気力どころか指一本を動かすことさえ難しい。少年は突如笑うのを止め、思い出したように喋り始める。


 「飛びきりの苦痛を、生の実感を与えてくれた君に一つ、教えて差し上げよう。第一、僕としてのお礼が君にとって嬉しいものとは限らないようだけどね。初撃こそもろに受けてしまったが、でもその程度で僕が死んでしまったら楽しめないだろう?そこで展開していたのがあの脱皮のような魔法さ。その名も崩黒絶蜉蛹ダヴィア・ゼルアドゥナ。これも闇属性の禁止魔法。君のとっておきの禁止魔法を、僕もとっておきの禁止魔法を以てしてようやく生き永らえたわけだよ。決して君が弱いわけでも魔法の練度が低いわけではないから、誇りに思うと良い」


 そう言いつつ少年は比較的傷の浅い右腕で魔法陣をゆっくりと描き始めた。


 「惜しかったね。後少しで仕留め損ねた。倒し損ねてしまった。でもそれは君のせいじゃない。相手が僕だったからだ。ごめんね。これだけの力を持ちながら、これだけの魔法を知っていながらここでお別れなんてね」


 ロアにはもはや恐怖などなかった。いや、感じていなかったわけではないのだろう。ただそれすらも消し去るほどの圧倒的な力の差を見せつけられてしまったからだ。死にたくないと思うことさえ烏滸おこがましい。逃げたいという生存本能さえわずらわしい。ただ強者の前にひれ伏し、下される選択をたたずみ待つのみ。弱者、敗者に生殺せいさいの是非を決める権利など無い。ロアの顔をひた見つめ返し、終始真面目な顔で話す少年。魔法陣が粗方出来上がったところでゆっくりとその右腕が持ち上がる。またもロアの見たことの無い魔法だ。


 「最高に楽しかったよ。……さようなら、キドロア・セルエイク」


 少年の顔に僅かながら悲哀が浮かぶ。こんな優しい表情も出来たのか。そしてそんな顔に見届けられながら俺は死んでしまうのか。こんなところで。まど何も果たせていないというのに。情けない。しかし己の無力を嘆くしかない。―――ロアがそう考えるのと、少年の右腕をがっしりと掴む別の人間の手が見えたのは同時だった。一瞬浮かんだ悲哀の表情は立ち消え、今度は少年の顔が戦慄に染まる。ゆっくりと振り返った少年の目線の先、背後には薄手の深緑のローブに身を包んだ男が立っていた。背はロアとほぼ同じ程度か。ローブよりも濃い、黒緑とも呼ぶべき髪と群青の瞳。痩せ気味に見えるが、少年を掴むその腕は筋骨隆々で、所々に傷が見える。グアジェド程の太さではないが歴戦の証だとすぐに見てとれた。


 「……え?」

 「寝ていた俺も悪いけどさ、まさかこんなに大事起こしてくれるとは……分かってるよね?シャト・メングアル君?」

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