第2話
陽菜ちゃんから『今日は日番だから先に行ってるね』と連絡がきたので、今日はひとりで登校しています。
今日も寝坊をしてしまって、家の中でばたばたしていました。でもいつも通りの時刻に家を出ることはできたので、ゆっくり歩いています。
登校中、昨日の出来事を思い返します。
昨日、いきなり転校生がやってきたこと。
一目見ようと思っても、一時限目が終わる頃には早退をしていて、見られなかったこと。
それと——
昨日の放課後、わたしの机に誰かさんからのメッセージが書かれていたこと。もしかしたらイタズラかもしれませんが、一応返事は書いておきました。返事がくるといいなって密かに期待しているわたしです。
「早乙女、彩香さん?」
急にわたしの名前を呼ばれ、反射的に声の方に振り向きます。
——そこには、とっても綺麗な女の子がこちらを向いて立っていました。
思わず、わたしは見惚れてしました。
さらっとした金色の長い髪。
美しくも、なんだか儚げで、端正な顔立ち。
わたしよりすこしだけ背が高くも、理想的なスタイル。
わたしと同じ中学校の制服を着た女の子が、スカートの前で両手に鞄を持ちながらわたしを見つめ佇んでいます。
「あ、あなたは……」
「ご紹介が遅れました。私、小日向蒼と申します」
そう言ってその女の子はぺこりとお辞儀をしました。
その仕草は精錬されていて、見ていてうっとりしてしまいます。
「こ、小日向……さん……?」
「蒼、でいいですよ」
「じゃあ……あ、蒼……ちゃん?」
「はい」
蒼ちゃんはにっこりと微笑みます。
「蒼ちゃんも……うちの中学校、なんだね」
「そうなんですよ」
こんな綺麗な子、うちの中学校にいたかな……? とわたしは疑問に思います。これほどにかわいくて目立つ子がいたら、違うクラスでも、違う学年でも噂が漂うはずです。ですが、わたしはこの蒼ちゃんのことはまったく記憶になかったのです。
しかし、その声になんだか聞き憶えがある気がして——
それにしても……蒼ちゃんがどうしてわたしに声をかけてくれたんだろう?
そう思っていると、蒼ちゃんがわたしの気持ちを見透かしたように、
「実は、彩香さんと一緒に登校したかったんですよ」
「わ、わたしと……?」
そう訊き返すと、蒼ちゃんは「はいっ」と微笑みます。
なんだか釈然としませんが、わたしは、そうなんだ、と答えてふたり肩を並べて歩きます。
「蒼ちゃんは、何年生なの?」
「二年生です。実は、昨日転校してきたばかりなんですよ」
「えっ⁉︎」
わたしはつい驚きの声をあげてしまいます。
わたしの驚きの声に蒼ちゃんも驚いたようで、びくっとしていました。
この子が、昨日の転校生なんだ……
昨日クラスメートが言っていた通り、とっても美人さんです。
「蒼ちゃんが転校生だったんだね。うちのクラスでも話題になってたから、会えてびっくりしたよ」
「そうなのですね」
蒼ちゃんは納得したように相槌を打ちます。
そこから、会話が続かず、なんだか気まずい空気が流れそうでした。
その状況を打破しようと、わたしは話題を探していた、その時——
「あ、あの!」
意を決したように、蒼ちゃんが立ち止まります。わたしもつられて立ち止まり——
「て、手を繋いで、いただけませんか……?」
と言いました。
思わず「え?」と蒼ちゃんの顔を窺ってしまいます。
蒼ちゃんの頬はほのかに赤くなっていました。
そんな表情もかわいらしいのですが、わたしまでなんだか恥ずかしくなってきてしまいます。
「べ、別に、いい、よ……?」
きょどきょどしながら、わたしは答えます。
「では、失礼しますね……」
そう言って蒼ちゃんは、わたしの右手に左手を添えてきました。
冷たいけど、儚くて柔らかい手——
すごく、ドキドキします。
動悸が激しくて、今にも心臓が張り裂けてしまいそうです。
ふと、蒼ちゃんの方をちらっと見てみると——
蒼ちゃんはすこし俯いています。頬は先ほどよりも赤く、いや、紅くなっていました。
「では、行きましょうか……」
そう、わたしたちは立ち止まっていたのです。手を繋ぐことに意識を向けすぎていて、呼吸をすることさえ忘れていました。ゆっくりと、歩き始めます。
学校までわたしと蒼ちゃんに会話はありませんでした。
わたしも蒼ちゃんも、話す余裕なんてなかったんだと思います。
どれくらい時間が経ったのかわかりませんが……
気づけば、学校の正門前まで来ていました。
「じゃあ、わたしは保健室に行きますので……」
蒼ちゃんの手が、わたしの手から離れていきます。
「うん、バイバイ……」
わたしは控えめに手を振ります。蒼ちゃんの姿が見えなくなるまで、その場で立ち尽くしてぼーっとしていました。
蒼ちゃんと別れても——
わたしの心臓は、とくんと激しさがおさまっていませんでした。
教室についても、蒼ちゃんのことばかり考えていました。
「おはよー、彩香」
「あ、うん、おはよう」
陽菜ちゃんが声をかけてくれます。
「どうしたの、彩香? なんか元気ないね?」
そう指摘されて、どきっとしながら、
「……ちょっと寝不足なの」
わたしは愛想笑いをして誤魔化そうとします。本当は葵ちゃんのことでぼーっとしているのですが、寝不足を理由にしてしまいました。わたしは蒼ちゃんとの出来事を秘密にしたかった、というか、恥ずかしくて言いたくなかったのかもしれません。
そう言いつつ自分の席に着き、鞄から今日ある授業の用意を取り出していきます。
それらを机の引き出しにしまった瞬間——
「あ、そうだ。返事きてるかな?」
机でのやりとりのことを思い出し、つい声に出してしまいました。しまった、と思って誰かに聞かれていないか周りをきょろきょろします。だけど、がやがやしている教室です、わたしの方を見ている人はいませんでした。
よかった、と思いながらそっと机の隅を覗きます。
すると——
『返事してくれてありがとう。早乙女彩香ちゃんだよね』
とわたしの返事の下に書かれていました。
返事が来ていて、ほっとします。
わたしは嬉々としてシャーペンを取り出し、なんて返事をしようかうきうきしながら考えます。
——そうだよ、とか? それとも、あなたの名前は? にしようかな……。こちらこそ返事をくれてありがとう、もいいかも。いっそのこと、書きたいこと全部書いちゃおうかな。いや、それだったらたくさん書きすぎて相手の子にとって読みにくくなっちゃうかも……
ひとり妄想の中に入りこんで、なんだか楽しくなってきちゃうわたしです。
しばらく考えていると先生が入ってきてホームルームが始まりました。わたしは何を書くか思いつかないまま我に返り、先生の方に注目するのでした。
「みなさん、おはようございます」
櫻井先生の明るく元気な声が響きます。わたしはそれを聞いて頭がしゃきっとした感じがしました。
「昨日、転校生が来ましたね。その方が同じ学年のクラスにもあいさつがしたいという申し出があったので、このホームルームを使ってその方に自己紹介をしてもらおうと思います」
先生の言葉にクラス中がざわつき始めます。
わたしも蒼ちゃんのことが頭によぎって、心がそわそわします。
「じゃあ、小日向さん、どうぞ〜」
先生が教室のドアに向かってそう言うと、控えめな音でがらがらとドアが開く音がしました。
わたしの心はさらに緊張感が増して、とくんと鼓動をうちます。
蒼ちゃんが教室に入ってきました。顔が赤く、恥ずかしそうに俯いています。
蒼ちゃんは教室に一歩足を踏み入れましたが、そこからどうすればわからないと言わんばかりの仕草でおどおどしていたので、先生が「どうぞ」と教壇の方に手のひらを向けました。蒼ちゃんはそれに誘われるようにとことこと教壇まで歩いていきます。
教壇に立って初めて、蒼ちゃんは顔を上げました。するとクラスの何人かが「おおっ」と声をあげます。
——やっぱり、綺麗な子……
思わず、素直な感想がもれてしまいます。クラスメートが感嘆の声をあげてしまうのにも頷けます。
それから蒼ちゃんは黙ったまま、教室をきょろきょろと見渡します。
数秒ほどそうしていると、左の後ろのほうに座っているわたしと目が合った気がしました。
直後、蒼ちゃんが、ふふっ、と微笑み、軽く手を振ってくれました。
「……!」
わたしの心臓はもうばくばくです。
わたしは、肩で息をするくらい慌てていました。クラスメートの何人かがわたしのほうを向きましたが、わたしは心の高鳴りを周りに気づかれないように平然を装うと必死です。
——アイドルのライブとかで、推しの子にファンサービスをもらえた気持ちって、こんな感じなのかな……
「それじゃ、自己紹介いってみよ〜」
櫻井先生の呑気な声で、蒼ちゃんは視線をわたしのほうからクラス全体に向けました。
「あ、あの……。こんにちは……。わ、わたし……、小日向、蒼、です……。よろしくお願いします……。あの、えっと……」
蒼ちゃんはしどろもどろに話し始め、やがて言葉が詰まってしまいました。それに伴い、前を向いていた顔がどんどん下がっていきます。
やっぱり、緊張しているんだよね……。わたしは机の下で両手を組み、うまくいくことを願いながらそっと見守ります。
「がんばれー!」と激励をかけるひともいます。
それは蒼ちゃんの心に届いたようで、顔が少し上がって——
「あの、わたしは……、桜ヶ丘中学から、きました……。これから、よろしくお願いします……」
言い終わると同時に、拍手が起こりました。ですが、わたしを含め、クラスメートの何人かは驚きの表情を見せていました。「桜ヶ丘ッ⁉︎」と思いっきり驚いている男の子もいます。
桜ヶ丘中学というのは、県内、いや、日本屈指の進学校です。幼稚舎から大学まである女子校で、親が政治家や社長などでお金持ちのお嬢様が通う学校と聞いています。
——そんなお嬢様の子が、なんでうちの中学校に……?
わたしたちの中学校は、どこにでもあるようないたって普通の中学校です。それに、桜ヶ丘中学校とこの中学校はかなり距離があるので、たとえ桜ヶ丘中学校についていけなかった、という理由であってもわざわざこの中学校を選ぶのには違和感があり、ますます不思議が募るばかりです。
「じゃあ、みなさん、仲良くしてあげてくださいね〜」
櫻井先生がそう言い、しばらく続いていた拍手が止みました。
蒼ちゃんは「それでは……」と小さな声で呟き、ささっと教室を去っていきました。
「これで今日のホームルームは以上になります。今日も一日頑張っていきましょうね」
ざわついていたクラスが、櫻井先生のその一言でさらにざわつきました。
クラスの男の子の誰かが、「連絡先聞いてくるわ」と言ってすぐさま教室を出ていったり、「桜ヶ丘……⁉︎」といまだに驚きを隠せていない子もいます。
そんな中、クラスの女の子がわたしのほうに来て——
「ねえ、早乙女さん。さっきあの子、あなたのほうを見ていたわよね」
「え⁉︎」
さらに多くの女の子が寄ってきます。
「あの子とどういう関係なの? 幼なじみとか?」
「え、えっと……」
なんて言えばいいのでしょうか……わたしは戸惑ってしまいます。
わたしと蒼ちゃんの関係ってなんなんだろう……
改めて考えてみますが、やっぱりわかりません。
気づけば、わたしの周りに人だかりができていました。
なんだかわたしが人気者になったかのような光景ですが、人だかりの中心にいるわたしは、どうしよう、どうしよう、と混乱するばかりです。
わたしは一時限目の授業が始まるチャイムが鳴るまで、迫ってくる女の子たちの質問を慌ててはぐらかし続けるのでした。
「なんだか今日は疲れたな……」
放課後、わたしはひとり溜息をつきながら教室を出ました。いや、ネガティブな意味の溜息じゃなくて……、なんていうのでしょう。慣れていないことがわたしにふりかかってきたことでちょっとだけ疲れちゃっただけです。
休み時間の度に、蒼ちゃんの話題がありふれていて、蒼ちゃん本人にアプローチするひともいれば、わたしに情報を求めてくるひともいました。
わたしはずっと「なんにもないよ……」と知らないふりを続けていました。いや、実際に蒼ちゃんのことはほとんど何も知らないのですが、今朝一緒に登校したことは秘密にしたかったので、言わないでおいたのです。
ちなみに、陽菜ちゃんはいません。生徒会の手伝いを強制された、と言い残して授業が終わると早々教室を出ていったのです。
わたしはそれを見送って帰ろうとしたのですが、椅子から立ち上がると同時に、机の上にあるメッセージが視界に入って何にも返事を書いていないことに気づきました。
結局、朝に妄想して以来すっかり忘れていました。わたしはなんて書こうかあわあわしながら頭を働かせます。
考えに考えた末、『こちらこそ返事をくれてありがとう。またお話ししようね』と当たり障りのないことを書き残しておきました。あんまり機転を効かせたことを書けない自分が情けないです。
靴箱で靴を履き替え、校舎を出てから、ひとりぽつぽつと歩きます。
「彩香さん」
正門を出たあたりで、蒼ちゃんと遭遇しました。
「あ、蒼ちゃんっ」
「はい、蒼です」
わたしは軽く気が動転してしまいました。まったく、今日は蒼ちゃんに会ってはびっくりしての繰り返しです。
「き、奇遇だね」
「いえ、奇遇ではありません。彩香さんを待っていたのですよ」
「わたしを……?」
わたしは自分で自分を指差しながら彩香ちゃんの言葉を繰り返してしまいます。
直後、また自分の心拍数が上昇していくのを感じます。
「はい、一緒に帰りませんか?」
「え、えっと……」
わたしは、うまく言葉が出ません。
すると——
「彩香さん? 大丈夫ですか?」
蒼ちゃんが、わたしを覗きこむようにして言いました。
わたしは平然を装って、
「うん、大丈夫だよ。じゃあ、一緒に帰ろっか」
「ふふっ、ありがとうございます」
蒼ちゃんは手で口元を隠して微笑みます。わたしの動揺がバレてしまったのでしょうか……
そうしてふたり並んで帰路を歩きます。
しばらくして——
「そ、そういえば蒼ちゃん。今日、うちのクラスにまで来てくれたね」
わたしはホームルームのことを話題にします。
「そうですね。でも、ちゃんと自己紹介できなくて……、申し訳ないです」
蒼ちゃんがしょんぼりしたような声色でそう言ったので、わたしは慌てて——
「いや、そんなことないよ。蒼ちゃん、すごく頑張ってて……。クラスのみんなも、蒼ちゃんのこと興味津々だったよ。友達いっぱいできるといいね……」
と弁解します。
わたしは蒼ちゃんが多分わたしにファンサービス(?)をしてくれたことを話題にしようとしたのですが、蒼ちゃんは自己紹介でしどろもどろになってしまったことを思い出させてしまったようです。
「ありがとうございます……」
蒼ちゃんの声色は元に戻りましたが、どこか切なげです。
「でも、私が欲しいのはたくさんの友達じゃなくて……」
蒼ちゃんはそう言いかけて、なにか決意をしたような表情でわたしを見据えました。わたしはその眼差しにどきっとしてしまいます。
「あの、彩香さん。今から一緒に遊びに行きませんか?」
「え?」
急な質問にわたしは戸惑いましたが——
「い、いいよ」
「本当ですか? ありがとうございます!」
と、蒼ちゃんは今日一番の満面の笑みを浮かべました。わたしもそれにつられて笑顔がこぼれます。
「じゃあ、ショッピングモールに行ってみたいです」
蒼ちゃんってお嬢様だから、ショッピングモールにも行ったことがないのかな……、と思いながら蒼ちゃんのほうを見ます。ごく普通の一般庶民であるわたしにとって、お嬢様というのは雲の上のような存在です。ですからますます蒼ちゃんのことが気になってしまうのです。思い返せば、仕草や言葉遣いも丁寧でやはり品のいい家で育ったんだなって気づいた時には、なんだか蒼ちゃんに憧れの念が芽生えていました。
「いいよ、行こっか」
そうしてわたしと蒼ちゃんは地元の近くにあるショッピングモールへ向かうことになりました。
「…………」
——歩いている途中。
わたしは、今朝のことを思い出していました。
ひとりで登校しているときでした。
見知らぬえらく美人な子に話しかけられて。
一緒に学校に行こうと誘ってもらえて。
その子が噂の転校生だということに気づいて。
そして、一番印象に残っているのは——
蒼ちゃんと、手を繋いだこと。
今でもその感触が忘れられません。
わたしは、ちらりと蒼ちゃんの手を何度も盗み見てしまいます。
蒼ちゃんの両手には鞄が握られています。
——なんだか、蒼ちゃんの両手に握られている鞄の持ち手が羨ましい……。来世は蒼ちゃんの鞄になりたい……
なんて、へんてこなことをぼんやりと思っていた頃でした。
「彩香さん?」
「はいっ!」
わたしは反射的に返事をして——
「どうかなさいましたか?」
「い、いや、なんでもないよ」
とはぐらかします。
わたしは、臆病なのです。だから「手を繋いでほしい」だなんて恥ずかしすぎて口が裂けても言えません。
でも、どうにかして蒼ちゃんの手を握りたい……
なにか自然と蒼ちゃんの手を握れる方法を考えないと……
——えっと、わざとものを落として、拾うふりをして蒼ちゃんの手に触る? いや、そんなの不自然すぎます。
——じゃあ、何も言わずにしれっと手を握る? いや、恥ずかしすぎてできるわけありません。
方法を思いついては却下、思いついては却下っていうのを繰り返していると——
「彩香さん。私と手を繋ぎたいんですか?」
ズバリわたしの心中を言い当てられてしまいました。
わたしは頭の中が真っ白になりながら——
「ど、どうして?」
と訊くと、
「だって彩香さん。ずっと私の手を見つめているんですもの」
と蒼ちゃんはくすくすと笑っています。
……参りました。蒼ちゃんが慧眼の持ち主なのか、ただただわたしがわかりやすすぎるのかわかりませんが、わたしは彩香ちゃんの言葉に白旗を上げるしかありません。
「……いいの?」
「いいですよ、ほら」
そう言って蒼ちゃんは左手を差し出してくれます。
わたしは羞恥心が込みあがりつつも右手を差しだして——
ふふっ。あははは。
思わず、笑みがこぼれてしまいます。
どうしてかは、わかりません。もしかしたら、ほしかったものを手に入れられたよろこびからくるものかもしれません。
蒼ちゃんと、繋いだ手——
今朝のことをさらに鮮明に思い出します。
同時に、心もどきどきしていて、息が若干荒くなっているのを実感します。
「どうですか? 私の手」
蒼ちゃんがちょっとだけ意地悪そうな口調で尋ねてきました。
それに対し、わたしは——
「あったかい」
とだけ、答えました。
実際、蒼ちゃんの手は冷たいのですが、温度のことじゃなくて——
蒼ちゃんと手を繋いでいると、手だけじゃなくて、心でも繋がっているような気がして——
誰かがわたしのそばにいてくれるんだって、強く感じて、心があたたまるような気がしたのです。
わたしは蒼ちゃんの手を握ったまま、歩き続けるのでした。
「ここがゲームセンターですか。思ってたよりずっと賑やかですね」
わたしたちがショッピングモールに着いて真っ先に向かったのは、ゲームセンターでした。
これは、「ゲームセンターというゲームばかりできる夢のような場所に行ってみたいです!」という蒼ちゃんたっての願いからきたものです。お嬢様である蒼ちゃんにとってゲームは興味のないものだとばかり思っていたのですが、意外と庶民的ですね。
「彩香さん彩香さん。あれはなんですか?」
蒼ちゃんはわたしの名前を連呼しながら、目を輝かせています。
「あれはメダルゲームだね」
騒音の中なので、わたしは普段より大きな声でそう答えます。
「とっても楽しそうです! 一緒にやりませんか?」
わたしは「いいよ」と答えて鞄から財布を取り出します。
「蒼ちゃん、まずはメダルを買わないと」
真っ先にメダルゲームの筐体に向かおうとしている蒼ちゃんの袖をつかみ、メダルの両替機のほうへ引っ張っていきます。
「メダルゲームはメダルがないと遊べないから、ここでメダルを買うんだよ」
「そうなんですか」
「そして、ここにお金を入れるんだよ」
「なるほど」
「そしたら、ここからメダルが出てくるから、ここにカップを置いておくの」
「合理的ですね」
蒼ちゃんが律儀にわたしの説明に相槌を打ってくれます。
なんだか、わたしが先生で蒼ちゃんが真面目な生徒で、授業ごっこ(?)をやってるような光景です。もっとも、本来ならわたしは教えられるほうだと思いますけど。
ふたりでメダルが半分ほど入ったカップをひとつずつ抱え、先ほどのメダルゲームの筐体へ向かいます。
そのメダルゲームの筐体は六角形になっていて、ふたりほど座れる椅子が六つ設置してありました。
わたしたちは空いている椅子にふたり並んで座ります。わたしが右側で、蒼ちゃんが左側です。
「どうやって遊ぶのですか?」
蒼ちゃんが、元気な声でそう尋ねてきました。その声色から、蒼ちゃんがわくわくしているんだなあってことが感じ取れます。
蒼ちゃんが選んだのはプッシャーゲームというやつです。内部に押し板というマシンが内蔵されていて、その周りにメダルがたくさんあります。外部からメダルを投入し、押し板を利用しながら内部にあるメダルを当たり口と呼ばれる落とし穴に落としていきます。落とせたら、そのメダルを獲得することができるというゲームです。
内部にあるメダルの中にはカラフルなボールもあり、それを落とすとミニゲームのようなものが始まります。もしそれに打ち勝つことができたら、大量のメダルが内部の押し板めがけて投入されて大量にメダルが獲得できるかもしれないという面白い機能も持ち合わせています。
メダルの投入口は左右の両サイドにあり、わたしは実際に右側の投入口からメダルを投入しながら、「こうやるんだよ」と蒼ちゃんに教えていきます。
蒼ちゃんはわたしの動きを真似するように左側の投入口からメダルを投入していきます。
お互いメダルを投入しながら、わたしは「ああすればいいよ」、「こうすればいいよ」とアドバイスしていきます。その度に「わかりました」と相槌を打ってくれるのはわたしとしても教え甲斐があります。
「面白いですね! こんな体験初めてです!」
蒼ちゃんが、そう嬉々として言いました。
ボールが当たり口に落ちて、ミニゲームが始まった時は「ドキドキしますね!」と蒼ちゃんがわたしの方を向いて笑顔を見せてくれます。
ミニゲームに勝った時は、子供のようにはしゃいで女の子らしい反応を見せてくれます。
蒼ちゃんが楽しんでいるのをわたしにもお裾分けしてくれているように、わたしも今までにないわくわく感を抱えながらゲームに打ち込んでいました。
ですが、ひとつだけ気になっていることがあります。
わたしたちは、ふたり用の椅子に並んで座っているので——
蒼ちゃんの腰とか、腕がちょこちょこわたしに当たるのです。
決して、ネガティブな意味で気になるのではなく——
なんだか、蒼ちゃんをより「女の子」として意識してしまうという意味で気になるのです。
蒼ちゃんの細い腕。わたしの腕と軽くぶつかった時、蒼ちゃんの冷たくてさらっとした感触を感じ取ってしまいます。
蒼ちゃんの腰。スカート越しから腰の感触も伝わってきます。座り始めた時からずっと当たっていますが、全然慣れてきません。ゲームを楽しみつつも、心のどこかでは緊張している感覚です。
蒼ちゃんのことが気になりつつも、楽しい時間というのはあっという間に過ぎるもので——
「もうなくなってしまいましたね」
「そうだね」
メダルが無くなったのを確認して、ふたりでゲームセンターを出ます。
ずっとゲームセンター内にいて爆音が鳴り響いていたので、耳がきーんとします。
「楽しかったね」
「そうですね! またやりたいです!」
そう言ってくれただけで、嬉しくなっちゃう単純なわたしです。
その後、わたしと蒼ちゃんはショッピンモール内をぶらぶらと散策していました。
「夜ご飯、食べてく?」
そうわたしが訊くと、蒼ちゃんは、
「ごめんなさい。もう帰らなくては……」
「そっか……」
蒼ちゃんが腕時計を見ながらそう言いました。名残惜しいですが、蒼ちゃんはお嬢様だから門限が厳しいんだろうな、とひとりで納得します。
「帰る前に、ひとつだけしたいことがあるんですけど、いいですか?」
「したいこと?」
「ついてきてください……」
そう言って蒼ちゃんはひとり目的地に直行するように歩き出します。
したいことってなに? とか、どこに行くの? とかいろんな疑問がありましたが、訊けるような雰囲気じゃありませんでした。わたしは黙って蒼ちゃんについていくことにします。
エスカレーターを下って、またさらに下って。
わたしは一体どこに行くのかまったく見当がつかないまま、蒼ちゃんの背に向かって足を動かしていきます。
「蒼ちゃん、この先は駐車場しかないよ」
「……それでいいんです」
蒼ちゃんは凛とした声できっぱりと答えました。
地下の駐車場につきましたが、蒼ちゃんの足は止まりません。
——お迎えの車が来てるのかな? だったら、そう言ってくれればいいのに。それに、したいことってなんだろう? 一緒に車に乗って帰る……とか?
わたしは予想しつつもあんまり当たっている気がしません。
なんだか不安を感じつつも、おとなしくついていくと——
駐車場の奥、まばらに車が停まっている中で、ひとつ端っこのほうにある柱のそばで蒼ちゃん立ち止まりました。
わたしはこんなところで止まると思っていなかったので、蒼ちゃんの背中に激突してしまいます。
「蒼ちゃん、ごめ……」
「ごめんね」と謝ろうとしたわたしですが、言いきる前に蒼ちゃんがこちらを振り向いてわたしのほうをじっと見つめます。
蒼ちゃんの急な行動にわたしの心臓はどきっとします。
わたしの瞳の奥まで覗きこもうとするような、まっすぐな視線——
だけど、ちょっとだけ、わたしを憐れむような眼差し——
わたしより背が高い蒼ちゃんの少し見下ろすような力強さに——
わたしは目を逸らすこともできずに立ち尽くしていました。
しばらくの間、わたしと蒼ちゃんの間に沈黙が訪れます。
わたしの頭には、はてなマークがたくさん漂っていましたが、蒼ちゃんに訊けるほどの空気じゃないのは肌で感じ取っていました。
なので、蒼ちゃんオーラに圧倒されるように佇んでいると……
「彩香さん」
唐突にわたしの名前を呼ばれました。わたしは緊張から全身に力が入りながら「はいっ」と答えます。
「急にこんなところに連れてきて、ごめんなさい」
蒼ちゃんはわたしから目線を外し、少し下を向きながら言いました。
「彩香さんに一生のおねがいがあるのです」
ふたたび、わたしの瞳をまっすぐと捉えます。
「……なにかな?」
わたしは震えた声で、そう訊きます。
そしたら蒼ちゃんは「すぅー」とひと呼吸おいて、はっきりとした声色で言いました。
「わたしと、キスしてください」
……え?
蒼ちゃん、いま、なんて?
「わたしと、キスしてほしいんです」
……どうやら聞き間違いじゃなかったようです。
恋愛経験に疎いわたしはその言葉を聞いただけで、顔が真っ赤に染まっていきます。
「き、きき、キス⁉︎」
このとき、わたしはどうやら本当に慌てていたようです。全身から汗が噴き出すのを感じながら、蒼ちゃんの言葉を何度も何度も脳内で反芻していきます。
目の前が真っ暗になったように感じて、どうしていいかもわかりません。混乱の奥底で彷徨っていたわたしですが、すぐに現実に引き戻されました。
だって、蒼ちゃんの瞳は先ほどと同様、まっすぐにわたしの方を見つめていて——
とても冗談を言っているようには思えなかったからなのです。
この時初めて、蒼ちゃんは「本気」なんだって感じました。
わたしは冷静さを取り戻しつつも、ちょっとだけ息が荒れている気がします。
「き、キス、……したいの?」
「はい」
その返事に、わたしはとくんと心臓が跳ね上がります。
キス、って、男の子とするものじゃ……?
なんで、蒼ちゃんは出会って数日しか経ってないわたしなんかと……。
頭の中で勝手に新たな疑問が湧いてきます。
でもそんなことを訊くのはなんだか気恥ずかしいし、野暮な質問だと思ったわたしはその質問をのみこもうとした途端——
「お願いします」
と、蒼ちゃんが頭を下げてきます。
——わたしは、蒼ちゃんに傷ついてほしくない。
だから蒼ちゃんのお願いをできるだけ引き受けたい。
でも、蒼ちゃんのお願いはハードルが高すぎて、ためらってしまう。
だからといって断ってしまったら、せっかくの蒼ちゃんの覚悟を無駄にしてしまう。
それに、蒼ちゃんとの関係が壊れてしまうかもしれない——
蒼ちゃんの下げた頭を見つめながら、そんなことを考えていました。
蒼ちゃんをあまり待たせるわけにはいかない、と思ったわたしは——
「いいよ」
と、気づけば、そう答えていました。
わたしの返事に、蒼ちゃんが頭をゆっくりと上げます。
「本当に、いいんですか?」
「……うん、緊張するけど……、いいよ」
「……ありがとう、ございます」
そう言って、蒼ちゃんはわたしの肩にそっと手を置きます。
その瞬間——わたしは、これまでにないようなどきどき感に襲われました。
自分の鼓動の音がわたしの耳にも蒼ちゃんの耳にも届くのではないかと思うほど心臓が張り裂けそうで、眩暈がしそうなほどくらくらと頭が揺らいでいます。
……本当に、わたし、蒼ちゃんと……
気づいた時には、蒼ちゃんの顔が目の前にありました。
わたしはびくっとしてしまいます。
こ、こういう時って、目を瞑ったほうが、いいのかな……?
そっと目の前を見ていると、蒼ちゃんは目を瞑っています。わたしもそれに倣って、ぎゅっと目を瞑ると——
目の前は真っ暗ですが、蒼ちゃんが徐々にわたしの唇めがけて近づいてくるのを感じました。
そして、蒼ちゃんの唇と、わたしの唇の距離が、限りなくゼロに近づいていって——
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