こんなわたしで、よかったら
松本凪
第1話
……ジリリリリリリリリリリリ!
夏の日が差しこむわたしの部屋に、目覚ましの音がけたたましく鳴り響きます。
その音を合図にわたしは嫌々ながらも重い身体を起こすと——
そこは、いつものわたしの部屋でした。白いベッドに、白い壁。そして、必要最低限の家具。お母さん曰くわたしの部屋は女の子の割には質素な部屋らしいです。
——あ〜、眠い。
どうも朝は苦手なわたしです。前日の夜にどれだけ早く寝ても、翌日の朝は眠気を残した状態で目を覚ましてしまうのですから困ったものです。
——どうにかしてすっきり起きられないのかなぁ。
頭をくらくらさせながら、目覚まし時計を止めるためにスイッチに向かって手を伸ばします。スイッチを止めるとそれまでうるさく鳴り響いていた音が嘘だったかのようになくなりました。
目を擦りつつベッドからおりて、ぐーっと背伸びをするのが最近できた習慣です。
先ほどまでわたしを襲っていた眠気ですが、今ではそれが清々しさに変わっていました。
すると——
「彩香、もう朝だよ」
お母さんの声がドア越しで聞こえました。
お母さん起こしにきたってことは、あんまり時間に余裕がないっていうことです。
わたしは「はーい」と返事をしてリビングへと向かうためにドアノブに手をかけました。
「おはよう、彩香」
「おはよう、お母さん」
あくびをしながらリビングへ行くと、お母さんが朝食の支度をしていました。
背伸びをして眠気を覚ましたはずなのに、ふたたびわたしにまとわりついてきます。
「朝ごはん、もうできるからちょっと待ってて」
わたしは「はぁい」と返事をしながらソファに座り、向かいにあるテレビを観ます。ニュースキャスターが「今年の夏は例年以上に気温が上がる見込みですので、くれぐれも熱中症には気をつけるよう……」と暑さの忠告をしていました。
そういえばもう夏か……、とわたしはぼーっと思います。
中学二年生になってまだ三ヶ月しか経ってないんだよね……、と感慨深い気分に浸るわたしです。去年の今頃は中学生になったばかりでとてもあくせくしていました。だけど今年は中学校にも慣れてきて、なんだかぼけーっと毎日を過ごしている気がします。
でも、何にも身に入らないんだよね……。受験もまだ遠いし、部活動もやってないし……。
「できたわよ」
そんなことを思いめぐらせていると、お母さんの声が聞こえました。わたしは目をこすりながらダイニングテーブルに向かいます。
ここでお母さんの作ってくれた朝食を紹介します。薄力粉百パーセントのさくさくしていて、ふわふわしているトースト。塩漬け肉を練って、詰めて燻製した手作りのソーセージ。地鶏卵の目玉焼きとレタスのサラダです。お母さんは、料理が本当に上手です。お母さんの料理を食べると毎朝がんばろうって気合いが入ります。
わたしの向かいにお母さんが座り、ふたりで朝食をとっていると——
「あんたさ、カレシとかつくらないの?」
「え?」
食事を初めて数分後、お母さんが突拍子もないことを言ったのでわたしはむせてしまいそうになります。
「つ、つくらないよ」
「なんで?」
そう言われて、わたしは言葉が詰まってしまいます。
「……わかんないけど、つくらない」
「つくった方が、人生捗るよ? あんた、部活もなんにもやってないのにさ」
相変わらず、下世話なことを呟くのが好きなお母さんです。
わたしはお母さんのぼやきを無視して食事を続けます。
——けど、実はわたしも恋人というものに憧れがあるのです。
恋をしたことがないわたしにとって、恋心がどのようなものかは全然わかりません。時々将来できる好きな人とデートしている妄想みたいなことをひとり頭の中でシュミレーションしてみるのですが、すぐにばかばかしくなって羞恥心に悶えながらその妄想を振り払うのです。
街中でカップルを見かけることもあります。手を繋いで、ふたりとも笑いながら歩いているのを見ると、羨ましいなあ、とか、憧れるなあ、って思います。
だけど、カップルのお姉さんはみんな綺麗な人ばかりです。容姿に自信のないわたしは、こんなわたしでも恋人になってくれる人がいるのかなってすこし落ち込んでしまうこともあるのでした。
「あんた、もうすぐ出る時間じゃないの?」
お母さんのその言葉でわたしは我に返りました。
テレビの近くにある壁にかけてある時計を見ると、針は家を出る時間の十五分前を指しています。それを見てわたしは——
「わああ、急がなきゃ!」
と、急に焦燥感がこみあげてきました。
直後、わたしは「ごちそうさま」と言うのと同時に席を立ち上がり、洗面台に向かって——
急いで顔を洗い、歯磨きをします。学校に持っていくものは昨日のうちに鞄に詰め込んであるから、あとは着替えるだけ、と考えを巡らせているうちに歯磨きが終わりました。
髪を頭の後ろでひとつに括ってゴムでまとめて、身だしなみを整えていきます。
ご覧の通り、わたしはいつも急いでいるのでポニーテールですますことが多いのです。
ふう、とひと息つくと、わたしは自分の部屋に向かいました。壁にかけてある制服に手にかけ、上から順番に着替えていきます。
——今何時だろう……
時計をちらちらと窺いながら、ブレザーに手を通していきます。
着替えが終わる頃には、もう三分前になっていました。時間ギリギリだけど、今日も間に合った、と安堵しながら玄関の扉に手をかけました。
「行ってきます」
わたしは大きな声で言います。するとリビングの方から「行ってらっしゃい」とお母さんの声が聞こえてきました。それを聞いてわたしは学校へ向かう、というのがわたしの毎日のルーティーンなのです。
「おっはよー」
わたしは前を歩いている見慣れた影に声をかけると——
「彩香、遅いよ〜」
振り向きながら立ち止まり、にこっと笑いながらそう答えてくれました。
目の前にいるこの真っ黒なストレートの髪の綺麗な子は、志崎陽菜ちゃん。
陽菜ちゃんは小学校のときからの幼馴染で——今はわたしと同じ中学校で、同じクラスなのです。
「……ごめん」
わたしも陽菜ちゃんの笑顔につられたように笑いながら答えると、陽菜ちゃんはわたしの瞳を覗きこむようにして、
「今日も彩香ちゃんはお寝坊さんかな?」
と、わたしの心の中を見抜いたように言いました。
「そ、そうなの」
わたしは「降参です」と言わんばかりの表情で頷きます。
「でも、よく寝ることはいいことだと思うよ」
「そうかなぁ?」
陽菜ちゃんは「そうだよ」と呟いて再び前を向いて歩き出します。
——今日は晴天でした。
上を見ると、抜けるような青空が広がっています。
その中央で太陽がさっきの陽菜ちゃんが見せた笑顔みたいに光輝いていました。
ふたり話しながら、学校まで歩いていきます。
最近のドラマ、流行っているスマホのゲーム、期末テストのことなど——わたしと陽菜ちゃんは、いつものように他愛もない雑談をしていました。
ふたりで笑い合っている最中、わたしはびびっと受信したように思い出しました。
「陽菜ちゃんって、恋人いないよね?」
陽菜ちゃんはとってもかわいい女の子です。女の子だけなく、男の子からも人気があるのです。
それに、陽菜ちゃんがよく男の子から告白されるという話を聞きます。この前も「二組の武田からラブレターもらった。でも、直接告ってこないような度胸のないやつだから断るわ」と愚痴をこぼしていました。そんな話をそばで聞くたび、すごいなあ、とちょっとだけ羨望が芽生えてしまうわたしです。
陽菜ちゃんはわたしの質問に驚いたようで、
「どうしたの? 急に」
と、ぽかんとした表情をしていました。
わたしの口からほとんど恋愛に関する言葉はほとんど出ません。
なので、陽菜ちゃんを相当驚かしてしまったようです。
同時に、なんだか恥ずかしさがこみあげてきて——
「いや、その、なんでもないんだけど……」
わたしは顔が赤くなってくるのを感じます。
それを見た陽菜ちゃんは、にやりと笑顔を浮かべて——
「なぁに、彩香ちゃんもそういうことに興味あるのかな?」
「え、えっと……」
「彩香ちゃんもお年頃の女の子だもんね〜。どの男子が気になってるの?」
「そ、そうじゃなくて……」
「それとも誰かに告白されたとか? 誰にも言わないから教えて、ね?」
「違うの……」
陽菜ちゃんの質問攻めに、わたしの顔はますます真っ赤に染まっていきます。
沸騰しそうなほどの羞恥心に苛まれているとき、陽菜ちゃんの質問攻めは止みました。そのあと、
「彼氏はいないよ」
ぽつりとわたしの質問に答えてくれました。
わたしはそれを聞いて顔を上げます。
「どの男もピンとこなくてね。だから告白とかも全部断ってるし、告白するつもりもないってわけ」
そんな話を聞くと、なんだか陽菜ちゃんはわたしと別の世界で生きてるみたい、って思います。
陽菜ちゃんはわたしと違って、いろんな男の子から好意を向けられて……、そして、好きになった男の子を告白できる勇気を持ち合わせている女の子なんだなぁ、ってわたしとの距離みたいなものを感じてしまいます。
でも、陽菜ちゃんはわたしと同じで——
「恋心」を知らない女の子なんだな、とも思いました。
「別に答えなくてもいいんだけどさ、なんでそんなこと訊いたの?」
陽菜ちゃんの表情はからかうときのにやりとした笑顔ではなくて、いつも見せてくれる優しい微笑みに変わっていました。
わたしは今朝、一緒に朝食をとったときにお母さんから言われたことを話しました。
「ははっ」
わたしの話を聞いた陽菜ちゃんの反応は、大きな笑い声で——
「彩香のママもなかなかにお節介だね。恋愛ぐらい自由にさせてくれていいのに」
陽菜ちゃんは素直な感想を述べます。
「まあ、彩香も気にしすぎないでいいと思うよ」
と、アドバイスをくれました。
やっぱり、陽菜ちゃんは、優しいな——って、心が温まった気がします。
「そういえば、美咲ちゃんは元気?」
美咲ちゃんというのは、陽菜ちゃんの双子の妹です。美咲ちゃんと陽菜ちゃんは双子なだけあって見た目がかなり似ています。ですが、性格はあんまり似ていなくて、というより真反対です。なのに正反対の者同士は惹かれ合う、というようにふたりは昔から仲良しです。
そんな美咲ちゃんはとっても頭がいいです。わたしも陽菜ちゃんも美咲ちゃんも、同じ小学校だったのですが、美咲ちゃんだけ中学受験をして県内で一番の女子中学校に通っています。寮暮らしをしているそうで、今は陽菜ちゃんと一緒に暮らしていません。
急に美咲ちゃんの話を振ったからなのか——
「え⁉︎」
陽菜ちゃんは、びっくりしたような声をあげました。
——あれ、わたし、なにか変なこと言ったかな?
「げ、元気だよ」
陽菜ちゃんはそうぎこちなく笑いながら言いました。
「小学校を卒業して以来、一度も会ってないからまた会いたいな」
「そうだよね。美咲が帰ってきたら連絡するよ」
「うん、お願い」
そんなことを話していると、学校の正門まで着きました。
「……ん?」
なんだか、いつもよりもにぎやかな気がします。いつもなら周りは比較的静かで、あくびをしながら登校している生徒も多いのですが、なんだかざわついている音が聞こえます。
その原因はすぐわかりました。
「ねえ、陽菜ちゃん。あそこ、見て」
そう言いながら、わたしは校舎の左側にある中庭の方を指さします。そこには人だかりができていました。
「あ、ほんとだ」
「なにかあるのかな?」
わたしたちと一緒に登校してきた生徒も不思議そうな表情をして人だかりの方を見つめていますが、数秒後にまた前を向いて歩いていきます。
「まあ、後々わかるんじゃない?」
陽菜ちゃんはそう言って靴箱の方に向っているのでわたしも陽菜ちゃんに続きます。
陽菜ちゃんはあの人だかりにはあまり興味なさげです。対してわたしはなぜか気になり続けていました。
——なんだか、不思議なことが起こるような……?
そんな胸騒ぎを感じながら、教室まで足を運んでいくのでした。
「えー、今日は、大事なお話があります」
朝のホームルームのことでした。
教壇の向こうで、担任の櫻井綾子先生がいつにない真面目な口調が響いていきます。
「皆さん、心して聞くように」
いつもは明るくて面白い櫻井先生が深刻な表情をしています。それを見て、わたしだけでなくクラスメート全体に緊張が走っているのを肌で感じます。
「今日、ひとり転校生がきます!」
先生がばんっと教壇を両手で叩きつけ、そう高々に告げました。
てっきり怒られると思っていたわたしは、「え?」と声をもらしてしまいました。
周りのクラスメートも「転校生?」「マジか」と意外そうな声色でがやがやしていました。
先生は直後、仕事を終えたと言わんばかりにいつもの優しさが溢れ出ている雰囲気に戻って、
「ですが、転校生が来るのはこのクラスではありません。隣の二年二組です。同じクラスではないのでなかなかコミュニケーションをとる機会はないかもしれませんが、ぜひ仲良くしてあげてくださいね」
そう先生は笑顔で言いました。
ますますクラスのざわつきは増していきます。
「じゃあこれでホームルームは終わります」と先生が告げた瞬間、クラスの誰かが「観に行こうぜ!」と言い、それを筆頭にみんなが席を立ち上がりました。
わたしも気になったので、みんなに紛れて隣の二年二組までいきます。
隣のクラスにつきましたが、わたしたち二年一組のみんなが二年二組のドアや窓付近に集まっているので、転校生の姿が見えません。
この学校の校則上、別のクラスに無断で入ってはいけないルールなのです。
だから、みんなクラスのドアや窓から覗きこむような仕草をしているわけです。
「あの人が転校生⁉︎」
「すげー美人!」
男の子を中心に、クラスメートが感嘆の声をあげています。
わたしはますます一目見たくてうずうずしていきました。
ですが、わたしはみんなよりも背が低いので、みんなの頭や肩が邪魔してなかなか見えません。
どうにかして見ようとぴょんぴょんとジャンプしていると、そばに陽菜ちゃんが寄ってきました。
「彩香、肩車してあげようか?」
そう提案してくれました。
確かに、肩車をすると悠々と転校生を一望できます。陽菜ちゃんは体育の成績もいいので、わたしの身体をさくっと持ち上げてくれるかもしれません。
なので、その提案を受け入れようと、
「じゃあ、お願い」
と言った瞬間、彩香ちゃんは、
「あはははは!」
と腹を抱えて笑い出しました。なんだか、わたしと陽菜ちゃんの周りにいた何人かの女の子も笑っています。
わたしは「え?」と首を傾げていると、「冗談だよ」と陽菜ちゃんはわたしの心情を汲み取るように答えました。
途端、わたしの顔はまた真っ赤に染まっていく気がしました。今日これで二回目です。
「ひ、ひどいよぉ」
そう涙目で訴えると、陽菜ちゃんは「ごめん、ごめん」と言いつつもその口角は上がっていました。
……ああ、もう消えてしまいたい。
「もう授業始まっちゃうからさ。休み時間にまた来ようよ」
陽菜ちゃんがわたしの肩をぽんぽんと叩きながら言います。
それに対してわたしは「……うん」と首を縦に振ることしかできませんでした。
授業中、わたしは転校生のことで頭がいっぱいでした。
わたしのようにそわそわしていていたのは、多分、クラスメートのみんなもだと思います。
一時限目の数学でも、授業中にも関わらずこそこそと転校生の噂が漂っていたからです。クラスメートの男の子が数学の西谷先生から何度か注意を受けていました。それでも周りの囁き声の数は少なくなりつつも止みません。
わたしもなるべく意識しないようにしていたのですが、「めっちゃかわいかった」「放課後話しかけにいこうかな」「連絡先知ってる?」など聞こえてくるものですから、意識しざるを得ません。
そのため、数学の授業が終わった途端、全然授業の内容が頭に入ってこなかったことを嘆きつつもすぐに隣のクラスに向かいました。
陽菜ちゃんもついてきてくれています。
「彩香、全然授業に集中してなかったでしょ」
「え、バレてた?」
「バレバレだよ〜。ま、気持ちはわかるけどね」
ズバリ言い当てられて、わたしは動揺を隠せません。
動揺とやっと転校生を一望できるというわくわく感を抱えて隣のクラスに向かいました。周りにはわたしと同じように転校生を見にきたクラスメートが何人もいます。
わたしと陽菜ちゃんは真っ先に向かっていたので、わたしの前には数人しかいませんでした。なのでほとんど最前列で教室を覗きこみ——
……しばらく見ていたのですが、それらしき人物は見当たりません。
それはわたしだけではなかったようで、
「え? 転校生、どれ?」
陽菜ちゃんも見つかっていないようでした。
すると陽菜ちゃんが「ちょっと訊いてくるわ」と言い残し、二組の子に話しかけにいきました。
わたしは胸元で両手を組みながら見守っています。
すぐに陽菜ちゃんは帰ってきて——
「転校生、保健室に行って、そのまま早退しちゃったんだって」
陽菜ちゃんが溜息まじりの声でそう言います。
わたしも「……そっか」と言いながら、陽菜ちゃんとふたり並んで自分たちの教室に戻っていきました。
「陽菜ちゃん、一緒に帰ろうよ」
今日最後に行われる授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響き、わたしは陽菜ちゃんの席のそばに行くと、
「あ、ごめんね、今から委員会なんだ」
陽菜ちゃんが両手を合わせてそう謝ります。
陽菜ちゃんは、部活動はなにもやっていませんが、委員会なら入っています。ちなみに風紀委員会です。本人曰く委員会には入るつもりはなかったようなのですが、クラスのみんなに押し付けられて仕方なく入ったそうです。まったく、人気者は大変ですね。
それに陽菜ちゃんは勉強でも運動でもなんでもできるひとです。部活動に入れば陽菜ちゃんなら活躍できそうなのに、なぜ部活動をやらないのか不思議だったのです。だからいつの日かに訊いてみたのですが、わたしは陽菜ちゃんの「めんどくさい」という一言で納得してしまいました。
ちなみに——
陽菜ちゃんは小学校の間、演劇の習い事をしていました。その実力はプロ顔負けであるそうで、何度かテレビに子役として出演したことがあるのです。将来を誰よりも期待されていたのに、中学校に入ると同時に両親に「やめたい」と直談判したそうです。わたしは、陽菜ちゃんは演劇部に入ると思い込んでいたので、その話を聞いた時はとっても驚きました。同時に、ちょっともったいないな、って思いました。だってわたしは才能も特技もなんにもないのに対し、才能がある陽菜ちゃんはそれを活かさない道を選んだのですから……
「いいよ、図書室で待ってる」
「おっけ〜。ありがとね」
わたしは陽菜ちゃんと「バイバイ」と言い合って別れた後、わたしは図書室に向かいました。
わたしの中学校の図書室は、図書の数が他の中学校のはるかに多いそうです。もっとも、実際に比べたことはありませんけどね。何代目かの校長先生が読書をたくさんすることをポリシーにしていたらしく、何年か前に奮発して図書室を大改造したそうです。
そのおかげで、図書室がとても綺麗で、自習や読書のためのフリースペースが充実しています。
わたしは図書室について、大きな机にたくさん席がある中で端っこの方の席に座り、数学の宿題を始めますが——
「……………」
あんまり集中できません。理由はたかが知れています。転校生のことです。
誰かが美人って言ってたなぁ……、とか、どんな子なんだろう……とか、お話できるかな……、と気づいたら妄想の世界に入り込んでしまっています。
妄想しては我に返り、宿題をやろうと気合を入れ直すのですが、気づけばまた妄想していて——
そんなことを繰り返していたからかも知れません。わたしは気づけばうとうとしていました。
目は半開きになっていて、数秒単位でがくっと首が少し下がっては元に戻し……
やっぱり夏でクーラーが効いた部屋にいると襲ってくる睡魔は非常に強力です。
わたしはその睡魔に到底勝抗えず、机に突っ伏しながら意識がそっと落ちて——
キーンコーンカーンコーン。
そのチャイムを合図に、わたしは目が覚め、自分がうっかり寝てしまっていたことに気がつきました。
「やっとお目覚めだね」
わたしの真横から聞き馴染みのある声が聞こえます。
そっと横を見ると——
わたしの隣の席に座っていた陽菜ちゃんが、わたしの頬を人差し指でつんつんしながらにやにやしていました。
「……ひな、ちゃん……?」
わたしは寝ぼけていて、意識が朦朧としていました。
「はーい、陽菜ちゃんですよ」
陽菜ちゃんのにやつきはますます増していきます。
「待たせちゃった?」
わたしは寝ぼけた声で尋ねると、
「いや、ついさっき委員会が終わったところだから大丈夫だよ」
陽菜ちゃんは微笑んで答えます。
「こっちこそ待たせてごめんね、じゃあ、帰ろっか」
陽菜ちゃんが席を立ち、わたしもそれに合わせて席を立ちます。
「ふわぁぁぁ……」
まだ、わたしの頭は眠っているのかもしれません。わたしはただただ親ガモについていく子ガモのように、陽菜ちゃんの半歩後ろでついていきます。
「風紀委員ってなんでこんなにめんどくさいんだろうね。真面目な人ばっかりで、なんかついていけないわ。私、そんなタイプじゃないんだけどなー」
「そうなんだ、大変だね……」
わたしは陽菜ちゃんの話に相槌を打ちながら廊下を歩いていきます。
基本的にわたしは陽菜ちゃんとお話しをする時では聞き役です。わたしはあんまりひととコミュニケーションをとるのは得意ではないのですが、陽菜ちゃんはお話をするのが上手なので、そんなところも羨ましいな、って思うのです。
「そういえば、英語の宿題の提出は確か明日だよね。彩香はやった?」
「……あ!」
陽菜ちゃんのその一言で、わたしの意識は一気に現実まで帰ってきました。
「え? どした?」
「わたし、英語の宿題、教室に置きっぱなしだった」
わたしはやっぱりおっちょこちょいです。数学の宿題に気を取られ、英語の宿題があることすら忘れていました。しかも、英語の用意は鞄にすら入っていません。
「あはは、じゃあ取っておいで。靴箱のところで待ってるね」
「うん、ありがとう」
その場で陽菜ちゃんと別れ、わたしは駆け足で二年一組の教室まで小走りで向かいます。
首の皮が一枚つながった瞬間でした。陽菜ちゃんのあの言葉がなければわたしは宿題の提出を忘れ、先生にまた怒られ、自己嫌悪に陥るところでした。
息がすこしきれる頃に教室の前までたどり着き、ドアをがらがらと開けます。教室は誰もいませんでしたが、ドアの鍵は空いていました。
教室の鍵は最後に出たひとがかけて職員室に届けるルールなのですが、鍵がかかっていません。最後のひとがかけ忘れたのでしょうか?
しかし、教室をすこし見回しても、鍵はどこにも見当たりません。
どういうことだろう? とわたしの頭にはてなマークが浮かびますが——
「あ、陽菜ちゃんが待っててくれてるんだった」
きっと誰かが間違って持ち出してしまったのでしょう、と自分を納得させ、わたしの席に向かいます。
「あったあった」
わたしは自分の机の中の引き出しを探り、英語の用意一式を取り出しました。
すると——
『……みえてる?』
と、机の右上の端っこのほうに書かれていました。
わたしは「ん?」とぽろっと声をもらしながら、その文字を見つめます。
丸っこくて、かわいらしい文字。でも、わたしがこんなことを書いた憶えなんてありませんし、わたしが書く文字の雰囲気とも違っている気がします。
それと、よく見てみればその文字の横に、
「……ひまわり?」
綺麗にひまわりの絵がちょこんと描かれていることに気がつきました。文字にばっかり気を取られていたので、今まで気づきませんでした。
わたしはしばらくそれらを眺めていましたが、誰が書いたのかもわからないし、意味もわかりませんでした。
ですがその時、誰かから問われているのですから、返事するのが礼儀じゃないのかなという発想が頭の中で芽生えました。
なので——
『みえてるよ』
と、ペンケースからシャーペンを取り出して、そう書いておきました。
書き終わってそのやりとりを見返してみると、なんだか心がほっこりした感じがして思わず微笑んでしまいます。
「……はっ、陽菜ちゃん!」
……また忘れていました。陽菜ちゃんが待っていてくれているのでした。わたしは英語の用意を鞄に詰め込み、急いで教室を後にしました。
陽菜ちゃん、怒ってないかな……。十分くらい時間がかかってしまい、陽菜ちゃんに迷惑をかけてしまいました。自責の念を抱えながら足を動かせます。
わたしは来た時よりも三割増しのスピードで靴箱までかけていくのでした。
「陽菜ちゃん、お待たせ」
「あ、彩香。おかえり」
靴箱までついた時、陽菜ちゃんはスマホを触りながら待っていてくれていました。
「ま、待たせて、ごめんね?」
「いいよ〜、気にしないで」
そう笑顔で許してくれます。
はあ……、はあ……、とわたしは肩で息をしながら靴を履き替えます。
——校舎を出ると、夕焼けがわたしたちを迎えてくれました。
しばらくふたり並んで歩いていたのですが、わたしも陽菜ちゃんも黙ったままでした。
今になっては、その沈黙があってよかったって思います。
なぜなら、わたしはさっき教室であった出来事をあんまり話したくなかったからです。それがなぜかは、わかりません。
きっと、あの文字でのやりとりは、なんだか誰にも知られない秘密のやりとりだ、って心のどこかで思っていたからでしょう。
今回はたまたまかもしれませんが、わたしの求めていることを汲み取ってくれる陽菜ちゃんはやっぱり優しいです。
返事くるかな……、とわくわくした気持ちとどきどきした気持ちを胸に秘めながら、わたしは陽菜ちゃんと、とことこ歩いて帰るのでした。
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