第1話 『亡国の暁星』

 太陽が一番高く昇る時刻、馬車を停めて木陰で休んでいた二つの影のうち、小柄な方が木漏れ日ごしに空を指して言った。

「一年のうちで一番太陽が長く顔を出す月が、灰の月……来月です。今は陽の月と呼ばれる月で、冬の寒気から完全に脱する暖気の月ですね。灰の月になればもっと気温は上がりますが、同時に雨も多くなり曇天が続くために灰の月と呼ばれます。ですが、他の大陸だと逆にこの月に晴れ間が続いていたり、完全に気候が逆転して冬季になる国もあります」

 小柄な影の隣、今は同じく木陰にて腰を下ろして休んでいる長身の影が頷き地面に小枝で文字を書いた。『陽の月/灰の月』と書かれた文字を見下ろして、小柄な影……ラウルは説明を続ける。

「灰の月の次はあいの月と呼ばれ、月の途中から完全に雨期が抜けます。その次が草の月。暑さが増す季節ですが草葉がよく育ち、緑が一段と美しく輝く時期でもあります。草の月が終わると、くれの月です。暑さは徐々に緩和していき、作物が収穫の季節に向けて実を付け始めます。次に、の月。この頃になると急に寒気が混じるようになってきて、厚着の衣服の用意をしなければなりません」

 ラウルの説明を聞きながら、長身の影、シダルガは次々と月の名前を書き連ねていく。

「衣の月が終わるとけぶりの月です。この月に入るともう暖気はすっかり抜けて、空気が冷たくなっていきます。煙の月の次にもくの月。これが一年の終わりの月とされていて、雪が降り積もる地域では戸を閉じて冬ごもりを始めます。黙の月が終わると新しい年が始まり、最初の月……霜の月になります。霜の月は最も寒くなる月ですが、この月の半ばを越えると寒気は緩み始めます。霜の月の次に、絹の月。絹の月からは雪の量も減り始めて、晴れ間が増えます。絹の月が終わると水の月。早い地域では雪解けが始まり、凍った川や湖も溶けて水流となります。水の月の次にせいの月。寒さは緩和されていき、雪はこの月で溶けきる地域が大半ですね。青の月の次が陽の月……これで一年が完全に廻る事となります」

「……ふむ」

 青の月の次に陽の月、と書き記し、シダルガは並べられた月の名前を再度始めから見遣った。

「全てを急に覚える必要はありませんよ、過ごしている内に自然と覚えていきますから。この月決めや名前はオリエンスの中央史歴ですが、ほとんどの国が公歴にこれを採用しているんです。オリエンスは大国ですし、ギルドや商業連が中央史歴を採用しているのでその影響もあるのでしょうね。空国が暦を記した書物を毎年の始めに出しますが、そちらを購入しても……」

「いや……大事ない。もう記憶した」

「……もう、ですか?」

「ああ」

 驚きに声を上げるが、シダルガは今しがた地面に書き記した月の名前を掌でざっと土を払う事で消し去り、静かな表情でラウルを見る。

「今はオリエンス中央史歴1475年、陽の月の20日。現時刻は……太陽の高さを見るなら正午を多少過ぎた頃合いか」

「……はい、合っています」

 木の枝の間から太陽を見上げるシダルガの横顔を見て、ラウルは頷いた。月の名前より先に告げた暦法の年数もしっかり覚えたらしい。

 シダルガには眠りに着く前の記憶は薄っすらとしか残されていないという。そしてそれはオリエンスすら忘れ去った程の、数千年以上も過去の話であり、現在の世界の暦や成り立ちについては完全に未知だ。その彼に乞われてまずは暦法の名前から説明しており、全く知らないものを突然ずらずらと並びたてられても困るだろうかと危惧していたが、今の一度の説明で記憶したと言う。それは彼の優れた頭脳か、『勇者』という特質のためか、ラウルには判断がつかない。

 シダルガ・クラルスは遥かな過去に邪竜を打ち倒すために製造された勇者だという。目覚めたばかりの彼にはこの世界の事が解っておらず、彼の目覚めの時に偶然立ち会ったラウルが案内人として雇われ、オリエンスの古都・コンコルディアを出立した。

 しかしシダルガが指針とするはずの邪竜の動きが全く見えず、二人はとりあえずギルドにて情報収集の手続きをした後で、まずはこの世界、大陸の成り立ちから知りたいと申し出たシダルガの言葉によりオリエンスの王都に向かっている最中であった。

 コンコルディアから王都プルースレクスまでは専用の旅馬車が出ており、丁度少数用の旅馬車に空きがあったのでそちらを借りている。旅馬車にはコンコルディアからプルースレクスまで、あるいはその逆巡といったように決まったルートを行くものと目的地を自由に定められるものがあり、当然定巡行の旅馬車の方が安価だ。道行は徒歩でも問題はないが、大国の王都であるプルースレクスにはもしかしたら邪竜の情報も届いているかもしれない、その可能性を鑑みてみれば早く着くに越した事はないだろう。

 休憩を終えて再度馬車を走らせた二人は、夕刻にはプルースレクスの大門に辿り着いた。




   ◆ ◆ ◆




 宿を取り一泊した翌日、二人は王立国史書館を訪れた。

 道行の間で話したのだが、シダルガは邪竜の情報の他に、己自身でもこの世界の事や歴史を知っておきたいのだと言っていた。そして、手っ取り早く歴史を学ぶならば歴史書を読むのが一番だろう。文字自体はシダルガの時代とそう大きく変わっていないようで、多少のコツを掴めば解読は出来ると言い、実際にラウルが基本使用文字をざっと見せてシダルガの質問に幾つか答えた後で彼はもう解読に困る事はなくなったらしい。

 歴史書を幾つか取ってテーブルに置くと、後はもう大丈夫だとシダルガは言った。

「私はここでしばらく学んでおく。君も、もうここに用事がないのであれば好きに過ごしてくれて構わない。私も夕刻までには宿に帰るようにしよう」

 分厚い歴史書は館外持ち出し禁止だ。館外貸し出しはオリエンス国民に限られており、入館もギルド登録済の冒険者だから許されている。

「そうですね……じゃあ、僕はギルドで情報の確認と、夕食の買い出しをして先に戻ってます」

「ああ、頼む」

 頷き、分厚い歴史書を開いたシダルガの横顔を少しだけ見守った後で、実際に読書に困っていないようだと把握したラウルはそっとその場を離れた。書架の前で本を探す人や手に取りぱらぱらとページをめくる人、返却された本を戻す司書。静かな空間を横切り国史書館を出たラウルは、ひとまずギルドへと向かった。



 ギルドに顔を出し情報提供がないか確認をしてみたが、今のところ邪竜どころか竜種に関する情報すら一件も届いていなかった。ギルドが精査中の情報すらまだないようだ。

(まあ、そうなるか……)

 ギルドを出て果物とパン、塩漬けの塊肉など買い込んだ品を抱えながらラウルは宿に向かって通りを歩いた。

 長い間冒険者をやっているラウルも、ギルドで竜種の話題を見かけた事はほぼないと言っていい。チビのような〝はぐれ〟に出会う事はあるが、それらは人的な場所ではなく自然の中で偶然といったパターンが多い。コンコルディアのギルドで見た、火竜かと思っていたら火蜥蜴サラマンダーだったといったように近似であるが全くの別種の魔物の場合が大半で、故に竜種は幻種とまで呼ばれているのだ。

 ……だが、シダルガの言葉を信じるならば彼が現世に蘇っている以上、邪竜も何処かで目覚めているはず。もしかすると他国と交流を断絶した国で、かつその国にシダルガのように強力な魔術師なり闘士なりが居て彼らに抑えられている、という可能性もないではないが、それでも情報というものは何処かしら流れ出してくるものだ。拳一つで懸賞金の掛けられた魔獣を打ち倒すシダルガの強さを考えれば、その彼を造り出した存在がついに仕留めそこなったという神話にまで語られる邪竜は決して生易しい生き物ではないだろう。通常の竜種より強力であるなら、一体でも大国を崩壊させられる力を持っていてもおかしくはない。

 ラウルはチビや他の幼竜以外の、成体の竜に遭遇した経験もある。それは、になってからというものの死という感覚から程遠くにいたラウルでさえ、心臓が凍り付くような威圧感を覚える程に強力な、個体として全てを超越した生命体だった。息吹く山というものが存在するならばまさに竜はそれそのものだった。呼吸し、歩き、飛翔する、それだけで地形を変えてしまうような、竜とはそういう存在であった。

(……でも、もし……)

 もし、邪竜が己以外の者に打ち倒されていたり抑えられていた場合、シダルガはどうするのだろうか。邪竜を打ち倒す事しか存在意義を感じていないような彼は、もしその対象が消失した場合は……どうするのだろうか。

 下を向き考え込むラウルの懐で、キュウ、と小さな声と共に低い体温のものが僅かに動く。ふっと表情を緩め、ラウルはそこに小さく手を当てた。

「何でもない。さ、早く宿に帰ろうか。おまえの好きそうな木の実も見つけて来たからね」

 ラウルの心が沈み込むといつもそうして慰めてくれる小さな存在に微笑み、気を取り直して荷物を抱え直す。――と、その時、ラウルの耳に涼やかな音がひっそりと流れ込んで来た。

「……音楽?」

 顔を上げてみれば、大通りの片隅で一人の老人が何かを演奏しているのが見えた。鍵盤楽器のようだがふいごのような蛇腹の部品がついており、老人は片手で鍵を抑え、片手でふいごを動かして不思議な音色を奏でている。その音に惹かれ、ラウルはゆっくりと老人のいる方に向かい足を進めた。



 何処か哀愁の漂う音楽が止み、老人は深く息をつく。少し離れた場所で演奏を最後まで聞いていたラウルは、そっと老人の前まで歩み寄り蓋の開かれた楽器ケースの中に十金貨を二枚置いた。コンコルディアよりも遥かに大きく、また人も多いプルースレクスの大通りは賑わっており、老人の演奏はかき消されて耳を傾ける者もほとんどいなかった。老人は十金貨とラウルの顔を交互に眺め、掠れた声で話しかけて来る。

「ありがとうよ。しかし、若いのには退屈な音楽だったんじゃないかな?」

「いえ。とても綺麗でした。……変わった造りの楽器ですね」

 微笑みかけながら屈み込み老人の持つ楽器を見るラウルに、老人は苦笑してその楽器を手で撫でた。何度もそうして撫でて来たのだろう、木造りの楽器は角が取れ艶やかに深みのある飴色をしており、その年月に身を染めている。

「エオリーネという名前だそうだ。落ち着きのない祖父から貰ったものでね、異国の楽器なのに肝心の演奏法や楽譜なんかは知らずに買い求めたというんだよ。それを子供の頃から私がいじくり回して鳴らしているものだから、眠らせておくよりはくれてやると言ってね……」

「では、先程の曲や演奏は、」

「曲も演奏も我流だよ。二度とは再現できない、その場限りの即興ってやつだ」

「我流でそこまで……凄いです」

 はは、と笑う老人にラウルはすっかり感心してしまい、再度しげしげと楽器を見遣る。エオリーネというらしいその楽器は何度も破損と修理を繰り返して来たのだろう、蛇腹に折り畳む部分も所々破れた後を補修したようにつぎはぎで、鍵の形も幾つか違っている。

「変わった楽器が好きかい? 見たところ君は冒険者だろう?」

 老人は掠れた声で穏やかに尋ねて来た。ラウルは素直に頷く。

「楽器もですが、音楽が好きなんです。あなたの音楽にも、とても心を打たれました」

「うん……ありがとうよ」

 照れくさそうに鼻の頭を掻く老人に、ふとラウルの後ろから声がかけられた。

「おーい、爺さん。交代の時間だぜ、そこ片付けてくれ」

「ああ、もうそんな時間か」

 老人に声をかけて来たのは大きな木箱を抱えた青年で、彼は老人がエオリーネを畳み仕舞おうとするケースの中を覗き込んで口笛を吹く。

「凄いな、今日は十金貨が入ってるじゃないか。太っ腹な慈善家でも通りかかったかい」

「いいや……そこの若いのがくれたんだよ。異国の楽器が珍しかったんだろう」

「へえ……」

 どうやらこの場所は時間交代制になっているようだ。蓋をして金具を留めた楽器ケースを持ち上げて場所を空ける老人の代わりに青年がそこに木箱を下ろす。木箱は前開きになっており、中央から窓のように開いたそこにはミニサイズの舞台と糸を通された人形が複数仕舞われていた。どうやら青年は人形遣いのようだ。

 人形劇の舞台セッティングをしている青年の前にはもう数人の子供が集まって来ており、顔を輝かせて待ち侘びている。彼は子供達に人気があるようだ。老人が演奏していた時は人気ひとけのなかった一角に賑わいが集まって来ている。

「……さて、私は帰るとするよ。ありがとうな、若いの」

「はい。この街に来た時には、また聴きに来ます」

「はは、その時はまた違う曲を聴かせてやるよ」

 ケースを大事そうに抱えて老人はゆっくりとした足取りでその場から去って行った。子供達のために隅に寄っていたラウルも、人形劇の邪魔にならないようにとそこから立ち去る。青年が僅かに惜しそうな目線でラウルの背中を見たが、すぐに子供達にねだられて人形劇を始めるために準備の続きに取り掛かった。



 宿に帰ったが、シダルガはまだ史書館から戻っていないようで不在だった。

 とりあえずチビを懐から出してやり、買い込んだ食糧の中から木の実や果実などチビの好きそうなものを与えてから、ラウルは自分の荷物を念の為にチェックしておく。そろそろ無くなりそうだと思っていた道具がやはり心許ない程に消費されており、ラウルは〝それ〟を入れていた容器を持ち上げて考え込んだ。

「作っておきたい、けど……シダルガが見たら驚くだろうね、やっぱり……」

 ラウルにとっては旅の必需品でもあり、危機回避の為の大事な道具でもある。幸いシダルガはまだ帰っておらず、もしあの歴史書を隅から隅まで熟読するならもっと時間はかかるだろう。今は昼と夕の丁度中間という時刻であるが、夕刻には帰ると言っていたようにまだ時間の余裕はある。ここは手早く済ませておいた方がいいかもしれない。

「よし、今のうちに……少し多めに作っておくか。チビ、ごめんね、それ食べたら少し寝てて貰うけど」

 亀の甲羅に似た容器と短刀を取り出したラウルを見てチビはピイと鳴いた。不安そうではあるが了承の声だ。

「すぐに終わらせるから。結界も張っておくし、ここは王都の街中だ。魔獣がここまで来る心配もないから大丈夫だよ」

 言い聞かせるラウルにチビは再度ピイと鳴き、殻を齧っていた木の実をその両翼でぎゅっと抱きしめた。




   ◆ ◆ ◆




 歴史書を読破し、大まかな世界史と貨幣制度や売買の割合などを記憶したシダルガは、そのまま宿へと向かった。現在、オリエンス中央史歴1475年……つまりシダルガにはこの1475年以上の知識の空白がある。だが、いつまでもラウルの手を煩わせる訳にも行かないだろう。場合によっては別途に行動、或いはどちらかの都合で離別するという可能性もある。ならば現在の世界の事を知っておくのは必須だ。

 まだ明るい通りを歩き、子供達が大道芸の人形劇のクライマックスに目を輝かせ歓声を送っているのを横に帰路を辿る。――異変を感じ取ったのは、宿の部屋へ向かう途中の事だった。

 ごく薄くではあるが――不意に鼻をついた、その香り。甘くかぐわしく、常に凪いだこの心をもざわつかせるような、覚えのある匂い。これは。この匂いは。

 ラウルの血だ。



「ラウル!」

 扉を叩き割らん勢いで部屋に走り入ったシダルガは、途端に強烈な眩暈を感じた。そしてそれ以上に目の前の光景に息を飲む。褐色の肌を染める赤、滴る赤、驚きこちらを見上げる幼い顔。

「ラウル……、これは……」

「扉を閉じて!」

 再度香り立つ蠱惑的な匂いにぐらぐらとした眩暈を感じつつ問おうとしたシダルガより強く、ラウルが声を上げる。それで何とか扉を閉じて、シダルガはふらりとラウルの元に向かった。

「すみません、これには理由があって……」

 困ったようにこちらを見上げるラウルの周囲は、薄く膜が張ったように揺れている。水面のさざ波のようなそれはある種の遮断魔術だとシダルガは本能で理解した。そして彼が遮断しているのは香り――血の臭いだとも。だが彼の血の臭い、いや匂いは遮断魔術を通り越して漂って来ていた。それはつまり、それ程に香りが強い事を意味する。

 遮断魔術の結界の内側では、ラウルが己の短剣を右手に持ち、左腕の……腕の肉を、自らぎ落していた。

 無意識の内に結界の境を通り越し、内側に入る。この結界は出入りを禁じていないし、侵入不可の術式であっても今のシダルガなら強引に破り入っただろう。

「その、僕の使用している道具の作成に必要というか……」

 ラウルは未だ何か言い訳めいた事を口にしているが、シダルガの耳はそれを素通りしていた。

 赤い血。滴る血。削がれた褐色の肌から覗く肉。湧き立つような、甘い香り。

 床の上には油紙が広げて置かれており、血肉はその上に溜まり床に落ち染みないようにされている。

 ラウルの前に膝を折り屈んで向かい合ったシダルガは、血の滴るその左腕を手で掬い上げ――そのまま、口元に運び、舐めた。

「……!? シダルガ!?」

 甘い、とろけるように舌の上に広がる香味と甘美。熟した果実も煮詰めた糖もこれには敵うまいとすら感じる程の。あの時も――そうだ、あの時もこの香りを感じていた。あの森で目覚めた時だ。薄く漂っていたこの甘い香りに惹き寄せられるままに進むと、獣に襲われている小さな人影があったのだ。だがそれは獣を退けている内に薄れて行き、完全に獣が退いた後はシダルガはもう平静に戻っていた。だが今はどうだろう。目の前にこのような至上の甘露があり、それは理性をぐらつかせて痺れさせ溶かして、本能だけを剝き出しにさせていく。

 彼は衝動のまま、それを舐めた。何度も舌の表面で傷口に触れて往復し、恍惚とその味を味蕾に沁み込ませる。

「うっ……、くぅ、」

 じゅうう、と吸い上げると痛みに耐えるような、しかし微かに危うい甘さを秘めたような声が上がった。それを耳にしてもシダルガの脳はまだ霞に覆われている。その味が、蜜が次第に途切れて、吸い上げても何もなくなった時。滑らかな皮膚の表面しか舌に触れなくなった時。その時になってようやく、シダルガの意識が戻って来た。

「――……、…………、ッ!?」

 意識が鮮明になった瞬間に驚き顔を離す。

(……私は、今、何を……?)

 己の行動が信じられず、しかしまだ舌先に残る甘い残滓と唾液に濡れた己の唇と少年の細い腕。掴んだままの腕をそのままに、困惑にシダルガはラウルを見遣った。

「ラウル――私は――いや、君は――……」

 一体何なのかと問おうとしたシダルガは、そのままぐらりと再度の眩暈を起こし……その場に昏倒した。

「……シダルガ!?」

 慌てるラウルの声が脳にぐわんぐわんと響く。これは、経験ではなく知識で存在する、泥酔と呼ばれる現象。シダルガはそこで、酔い潰れたように意識を手放した。



「説明して欲しい」

 時間にして五分程。それでも自分が酔いに意識を失った事が信じ難く、すぐさまに身体を起こしたシダルガはラウルに問いかけた。心配そうにしていたラウルは、急に倒れて急に起き上がったシダルガに多少引きながら困ったように眉を下げている。

「ええと……さっきも言いかけたんですけど。これは、僕の魔術道具の素材造りの……その工程でして」

「自分の腕の肉を削ぐ事が?」

「腕でなくてもいいんですけど……普段は小指を斬ってるんですが、それだと指を擂り潰して乾燥させる過程が必要なんです。あなたにそれを見られると驚かせてしまうかと思って、腕の肉なら見られてもそう容易たやすく看破されないかと」

「ラウル。問題はそこではないだろう」

 呑気にそんな事を説明するラウルは、それがどれ程に異常な事であるかをまるで理解していないように見える。

「何故、己の身を使う? 君の魔術は禁忌のそれに該当するものなのか?」

「そこまででは……。……シダルガ。出会った時の事を覚えていますよね」

 僅かに思案した様子だったラウルは、しかし何かを決心したように声音を真剣なものに変えた。

「覚えている」

「なら、僕の傷の治りが早い事も、もうお解りのはずです」

「ああ。……治癒魔術によるものかと思っていたが、どうやらそうではないようだな」

「はい」

 ラウルは頷き、己の左腕を掲げた。つい先刻、自分で傷付けていたそこ。

「僕には高度な治癒魔術すら凌駕する程の再生能力があります。例えば四肢が欠けても、一刻もせずに生えてきます。内臓も同じく、腸くらいならば失っても問題ありません。さすがに心臓や頭は試した事がないので解りませんが」

「…………」

「そしてもう一つ。僕の血肉は、どうやら……魔獣を引き寄せるらしいんです。僕の血肉を喰らった魔獣は酒に酔うように酩酊し意識喪失状態に陥ります。僕は再生能力があるとはいえ、戦闘技能に優れている訳ではない。あなたのように強くはないし、血を流せば獣を引き付ける。なので、対策が必要でした。それがこれです」

 説明しながら彼が取り出した容器。亀の甲羅に似た丸みを帯びるそれは、香炉の一種のように見える。

「これは竜酔香るすいこう……それを収めていた香炉だと言われています。僕は、自身の血肉や骨を乾燥させて粉末状にして、それを魔術で発動させる事により竜酔香の再現を試みました。これが、僕にとって身を守る術なんです」

「竜酔香……それは、初めて耳にする名だな」

「では、恐らくシダルガの時代より後に作られたのでしょう。竜すら酔わせる、という触れ込みでした。本物の竜酔香がどういったものかは僕もよくは知りませんが、僕の血肉の特質を利用したこれは実際に有効です。なので、作る時は魔獣のいない街中で、臭いの遮断結界を張り、チビも寝かせた後で作っていました」

「……そういえば、ちびは寝ているのか」

 今更ながらそれに気付く。部屋を見渡してみれば、幼竜はそちらも小さな遮断結界が作られた中で丸まって眠っていた。

「僕の再生能力これは生まれつきではありません。後天的に……人工的に、施されたものです。そのせいで僕は、死ぬ事も老いる事もなくなってしまった」

 自身の胸に手をあて、ラウルは吐き出すように言う。不老不死。それは人間にとって理想の完全体とも呼べるものかもしれないが、少なくとも目の前の少年はそうは思っていないようだった。

「では、君の年齢は見た目通りではないと?」

「そうです。僕はもう、少なくとも三百年は生きています。数えるのを止めてしまったので、正確な年齢は覚えていないのですが」

 そう言ってラウルは苦笑した。少年の丸みを帯びた頬に苦々しさを湛えて。

「僕は――僕をこの身体にした魔術師を追っています。元の……人間に戻して貰うために、その人を探しているんです」

「……成程」

 少なくとも嘘を言っているようには見えない。ならばシダルガはラウルの言葉を信じる事にして、ただ頷いた。そのラウルがじっとシダルガを見上げて来る。その目には猜疑心があった。

「次はシダルガあなたが説明してください。何故、竜や魔獣にしか効果のないはずの竜酔香の効果があったのですか? 僕はあなたが造られた勇者だと聞いてはいましたが、人間にはこの香は効かないはずなんです」

「ああ――そうか。それならば単純な話だ。私を組織するものに、竜の因子が使用されているからだ」

「……竜の因子?」

 驚きに目を見開くラウルに、シダルガは頷く。

「ただの人間が邪竜に対抗するには、数千数万の優れた兵士が必要だ。だがヒトという生き物は、それすらも追い込まれないと不可能。私を造った者達は、優れた勇士の肉体を素材とし、あらゆる魔術要素、そして賢竜の因子を組み込む事で〝私〟を造り上げた」

「賢竜……」

「ああ。今は数を減らしているようだが、私の時代にはまだ竜は多かった。国は竜を崇め、竜が国を守る。竜の庇護下にない国もありはしたが、大抵の国には守護竜がおり、私のいた国では賢竜と讃えられていた。最も、ちびのような幼竜は成長するまでは人間の前に出ず、竜の巣から決して外に出る事はなかった。竜はその強大な力が故に、幼い時分は隠されて育つものだ。……君に初めて会った時、ちびを連れていたので私が君を竜の眷属かと疑ったのはそのためだ」

「……そうだったんですね」

 ちらりとラウルは眠るチビを見遣る。シダルガは頷き、続けた。

「邪竜が目覚めると連動して私が目覚めるのも、この因子を持つ賢竜が邪竜に近しい血を持つため。だからこそ君の――竜酔香も、私には強く作用する」

 シダルガの言葉に、ラウルは次第に顔色を失っていく。

「では……僕はもしかして、あなたに……だいぶ失礼な事をしてしまった、とか……?」

「いや、そうではない」

 今にも頭を下げそうなラウルにシダルガは素早く肩を掴みその顔を覗き込んだ。

「私の方も、急に暴挙に出た。君の血に酔ったのだと今なら理解しているが、あの時は思考も理性も全てが消し飛んでいた。こちらこそ非礼を詫びよう。君の血の香りは抗い難く魅惑的で、我を忘れて欲のままに振舞ってしまった」

「え、あ、」

「君の再生能力がなければ、あのまま血が流れ続けていればどのような醜態を晒していたかと思うとひたすら己を恥ずべきだと認識している。私には通常の味覚が備わっているはずだが、それでもどのような食物よりも甘く舌が溶けるような味だった。天上の果実が存在するならばあのような味なのだろうと思わされる程に。あれの前では私もただの獣と化してしまう。あのような乱暴に出た私の責だ」

「あの……物言いが……、いや、僕の非礼を許して頂けるなら、僕もあなたに責任があるとは思っていません」

 ひたすら困ったように言うラウルに、「そうか」とシダルガは顔を上げてゆっくりと細い肩から手を離した。

「ええと……とりあえず……」

 こほんとひとつ咳をして、ラウルは油紙の上に広がる血とその上の肉片を見下ろす。

「僕はを干して竜酔香の粉末を作ります。これの使い所も今後は考えていかないといけませんが……これは僕にとって、必要な魔具でもあるので」

 使えば魔獣は退けられる。だが同時にシダルガにもそれが効いてしまう。確かに、今後も行動を共にするならば使用箇所は考えておいた方がいいだろう。シダルガもそれでいいと頷いた。

「それを止める権利はない。……だが、ラウル。私は一つだけ、気付いた事がある」

「はい? 何でしょうか」

 油紙をくるくると丸めて血肉を包み込むラウルをシダルガは真っ直ぐに見遣る。

「あのような行動に出た以上、説得力には欠けるだろう。だが私はどうやら、君が己の身を傷付けてそういった道具を作り出す事に不満を抱いているらしい」

「……何故ですか?」

「何故だろう。自分でもよくは理解出来ないが……」

 そうしてシダルガは、ラウルの、少年にしか見えないその身体を抱き寄せた。

「え、あの、」

「可能な限り、君の身は私が守ろう。君がその道具を使わずに済むように」

「…………、」

「君に傷付いて欲しくない。それが私の思いだ」

 細い背中をそっと手でさすり、そうしてまたゆっくりと離す。ラウルは顔を赤くして言葉に詰まったように口を開閉させ、そして重い息をついた。

「努力は……します」

「ああ」

 はああと息をつき、乾燥用の魔具だろう、表面に陣が描かれた小ぶりの窯に似たものを取り出しているラウルに、ふとシダルガは尋ねた。

「君の探し人は、君をその身体にした魔術師だと言っていたな」

「はい。変わった人なので、色んな場所で見た人はいないかを聞いて回っているんですが、なかなか……」

「その者も君と同じ体質なのか?」

 窯の上に油紙を載せたラウルは、軽く首を傾げる。

「再生能力は近いかもしれません。不老も。でも、その人にこの……血肉が魔獣を引き寄せるといった事はなかったはずです」

「成程。魔術師と言っていたが、君の師か?」

「そうですね……師でもありますが、その人は、」

 手をかざして窯を発動させ、ラウルは苦く笑う。

「僕の父です。実の親ではなく、孤児だった僕を拾ってくれた人ですが」




   ◆ ◆ ◆




 翌日、その日もギルドに竜種の情報はないと確認し、二人は王都プルースレクスを出た。

 ……王都でも、シダルガを探しに来る者も迎えに来る者もいなかった。

「ならば、この国はではないのだろう」

 プルースレクスの大門を背にシダルガは言う。

「私の国は滅び、オリエンスこの国が建った。それだけの事だ」

 それは、シダルガの封印がコンコルディアにあり、オリエンスの王都はプルースレクスである、それにも表れている。勇者が眠る地こそが、彼の時代の王の住まう都であったはずなのだから。

「……寂しくはないんですか?」

 そっと尋ねるラウルに、シダルガは至って平然と頷く。

「そのような感情も感傷もない。私の行うべきは一つだけだ」

 邪竜を打ち倒す事。それだけだと勇者は言う。

「そう、ですね……」

 複雑そうな顔でラウルは答え、肩越しにプルースレクスの門を見た。大国の王都の門は荘厳かつ堅牢で、輝かしい歴史をうかがわわせる。だが、それ以前に、確かに一国がありそれが滅び去ったのだ。

 亡国の勇者は、それでも己に刻まれた使命を追って前を見ている。

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