第0話 『殻の刻』


≪創世神話≫


 遥か昔、世界は七色の混沌の海で包まれていた。

 その色は次第に混ざり合い固まって行き、それぞれの色から、大地、植物、人間、動物、火、水が生まれた。

 全ての色への祝福に、まばゆく輝く光、原始の黄金が生まれ、また、それぞれの色を冠する王が誕生した。

 王達は互いに協力し合って巨大な王国を作り、よくこれを治めた。祝福は王達の額を飾る黄金の冠となり、冠はあまねく世界を照らす光となった。

 だが、そのどれでもない淀みがゆっくりと海底に沈んで集まって行き、第八の忌みなる色が生まれた。

 第八の色はまどろみ、重なり、ひとつの塊となった。そうして塊から全てに仇なす災厄の邪竜が生まれたのだ。

 邪竜は果てなき欲望から世界の全てを手中に入れんと欲し、輝く王国の壊滅と祝福の独占を企んだ。

 邪竜の襲撃により王国は壊滅的な打撃を受けたが、王の中の王、勇者たる王が己の冠をつるぎに変えて邪竜に立ち向かった。

よこしまなる心を持つ悪竜よ、我が命に賭けてその欲を断ち切らん」

 勇者の王と邪竜の戦いは七日七晩に渡り続き、戦争の嵐は王国を荒らしたが、最後には黄金の剣が竜の心臓を貫いた。

 しかし、邪竜に打ち勝った王は深手を負い、自らも戦場にその命を散らしたのである。

 だが邪竜は完全には死なず、いずれ復活の時が来ると予言をして鮮血の大地に伏した。

 黒き心臓を残して肉体は綻び、世界中に弾け飛んだ邪竜の血肉からは数多の魔獣が生まれた。

 王の民らは遺された祝福の冠を天に掲げ、王の死をいたみ、平和を願った。祝福の光は民の願いを聞き入れ、天に昇りあまねく輝きとなりて人の世界を照らした。

 黄金の光――すなわち太陽。我らを見守る美しき光により、我らの世界は保たれる。

 光ある限り、この世界に邪竜の居場所は無く、存在すら許されぬ。

 光ある限り――……




   ◆ ◆ ◆




 一陣の風に少年は顔を上げる。

 風は木の葉を巻き込み、どこまでも青い空に駆け上がって行った。

 美しい、底が抜けるような澄み渡った空だ。

 しばしそうして風の行方を追っていた少年は、小さな存在に急かされて顔を戻す。

「……うん、解っているよ。行こうか」

 穏やかに語り掛け、少年は歩き出した。広い道のその先に大きな関門が見える。その背後に続くのは、広大な国の、首都ではないが有名な街だ。

「しっかり隠れているんだよ。夜になったら果物をあげるから」

 ぽんぽんとマントに包まれた己の胸元を優しく撫でると、内側からキュウと小さな返事が来る。うん、と頷き、少年はマントを頭から被り直し、肩に下げていた荷袋を改めて背負い直した。




 大王国オリエンス。

 豊かな大地と広い国土を誇る王国で、中でもここ、古都コンコルディアは有名な街だった。大国王の住まう王都でこそないが、様々な文化の発祥地だと言われており歴史は深い。今はさして賑わってもいない街だが、ここの歴史や伝統に惹かれる者は多く、それなりに観光客もいる。中でも特に巨大な鍾乳洞にある玉泉や大鉱石柱は貴重な鉱石類の採掘所としても広く知られていた。足場を組まれた一本道を通り長い鍾乳洞の道を行き、『大広間』と呼ばれる開けた洞窟に辿り着けば、その中央には巨大な鉱石の塊がある。この塊こそ大鉱石柱と呼ばれる名物であり、観光客は柱の足元で鉱石の削り出しをする職人達の働く姿が見られた。

 とはいえ、言ってしまえばただの鉱石の塊なのだが、この鉱石柱の奇異な点は『削っても削っても一晩経てば再生する』というもので、そのために汲めども尽きぬ資源の元、そしてその謎めいた特質を見に学者や研究者、一般の民も訪れるのだ。



「はぁ……当てが外れたな。こんなに大きな街なのに」

 コンコルディアの街のギルドにも彼の探す情報はなかった。少年――ラウルは今しがた出て来たばかりのギルドの巨大な建物を肩越しに振り返った。最古のギルドとして有名なそこは、石造りのまるで館のような佇まいをしていた。最古のギルド、そしてこの外観に惹かれてわざわざ遠方からここに登録をしに来る冒険者も絶えないという。ここならば『彼』の痕跡も残されているかもしれない、と考えたのだが、それは徒労に終わってしまった。

 とはいえ、記憶にある限り『彼』は賑やかで人の多い場所を好み、古き良きの懐古趣味とは縁がないような性格ではある。面白いもの、新しいものが好きなのだ。だが同時に歴史への興味や造詣は深く、失われた神秘や魔術といったものになら即食い付くだろう。だがやはりコンコルディアは基礎的すぎたのだろうか、足跡すら見当たらなかった。目立つ外見ゆえ、立ち寄っているなら必ず目にして記憶に残す人がいるだろう。そうでなくとも、ギルドとは違う組織――『彼』の所属する組織――の痕跡が見つかるかもしれない、と思ったのだが……。

「さすがに、もっと深くに隠れているかな」

 隠れているか、あるいはギルドや商業組合とも協定を結んでいるか。どちらにせよ、どこにも所属しないただの一冒険者の身となったラウルが己一人の力で探せるものはもうなさそうだ。……大国のギルドや商業組合直轄の組織に入り込む手も考えてはみたが、ラウル本人が一つ箇所に留まるのを好まず、一つの身分を持つ事を好まなかった。なのでそちらは諦めて、今までと同じく自分の足で地道に探そうとまた決意する。

「宿を取って、一日くらいは泊まっていくか。チビ、有名な鍾乳洞を見に行ってみよう」

 懐に向かい小声で呟くと、ラウルにしか聴こえない程度の小声でキュウと小竜が鳴き、少年はそれに微笑んだ。



 鉱石柱のある大鍾乳洞は入場自体は無料で開放されている。同じく鉱石柱を見に来たのだろう、まばらに歩く人々に混じってラウルは整備された道をゆっくりと歩いた。鉱石柱以外にも玉泉や天井から垂れる鍾乳石、地から湧いて立つような石筍、岩肌の裂け目から突起のように突き出す鉱石達など、ランプの火に揺れるそれらは幻想的な光景だった。とろりとした乳白に、輝くような緑に、海のような青に、血の如き赤。炭混じりに濁ったものもあれば、磨いたと見違える程に透き通ったものまで多種多様な石達がそこには存在していた。

 美しい、とは思う。思うのに。

(……何だろう、この感じ)

 道の奥。洞窟の奥の方から、奇妙な波動を感じる。そこに近付くたびに心臓が一つ速さを増し、息苦しさとゆるりとした圧迫感が生まれている。

(何か、いる?)

 ラウルの周囲の人々は何も感じていないようで、石の織り成す光景に歓声を上げている。彼らの歩みに合わせようと意識しないと足が止まってしまいそうだった。

(……引き返したほうがいいか?)

 そう逡巡する。この感覚。悪しきものか善いものか――それすらも解らない。ただ、全身に奇妙な緊張感があった。

 迷いつつも足を止める事が出来ず、結局ラウルは洞窟の奥へと進む。微かに不安気な声が己の懐から聞こえた。小竜にもラウルの緊張感が伝わっているらしい。

 何か、何か、奇妙な波動、気配、とても大きくて、恐ろしい程に……強いもの。

 それが例の鉱石柱から発せられているものであると、『大広間』に出た瞬間にラウルは気付いた。思わず大広間の入り口で足を止めてしまう。

 巨大な開けた空間、名にし負う鉱石の塊。鉱石柱。大広間の中心地にあるそれは、人の身長の数倍はあるかという大きさの美しい石塊だった。巨大な分厚い水晶、透明度の高いそれの奥には青い輝きが見える。そしてその青の奥にもまだ、色を持つ石の核があるようだった。鉱石の屈折による湾曲や厚みのためにそれは薄っすらと『あるらしい』という事しか解らない。

 ……気配は、その鉱石柱の奥、核から放たれていた。

(この、気配、は……)

 立ち尽くす足が震えている。道の隅で立ち止まるラウルを不思議そうに見ながら他の観光客が横を追い越して噂の鉱石柱を見ようと近付いている。だがラウルはそれ以上近付く事が出来なかった。

 ラウルは知っている。この気配を知っている。

「――竜気」

 竜の気配。

 掠れる程の呟きは誰にも拾い取られる事なく、冷たい洞窟の中に消えていく。

 ラウルはその場できびすを返した。来た道を足早で戻り、とにかくここを出ようと急ぐ。ラウルのその背を追うように、竜気はいまだ濃く漂っていた。



 宿屋の部屋に駆け込み、一息をつく。

 ピイ、と声がして、ラウルはようやくそこに目を向けて懐を緩めた。

「ごめん、窮屈だったよね」

 小竜はピイピイと鳴きながら忙しなくラウルの顔の周囲を飛び、最後に肩にとまると心配そうに少年の顔を覗き込んで来た。

「うん、大丈夫。僕は大丈夫だから。……それより、おまえは平気?」

 ピイ、と小竜は答える。常と変わらぬその様子に、ラウルはほっと胸を撫で下ろした。幼いとはいえチビも竜だ、影響があったかもしれないと思うと一気にぞっとする。幸いにも何ともないようだが……。

 竜気。竜が放つ、独特の気配。常人には感じ取れぬそれが、ラウルには解る。そしてあれは、あの鉱石柱から発せられたものは。

「あれは、確かに竜気だった。それも、とても大きな……」

 宿屋の簡素なベッドに腰掛け、ラウルは考え込む。

 何故、鉱石柱から竜気が?

 竜が封じられている? いや、そんな話は聞いた事がないし、封じられてもなお気を放つ程の竜ならばあの大きさではすまない筈だ。ならば何故――……。

「……もう一度、確かめに行くか」

 先刻は急な事で驚き逃げ出してしまったが、確かめてみた方がいいかもしれない。もしかすると、それはラウルの探している『彼』が関わっているかもしれないのだ。

 出来るだけ近くに、なるべく人目を避けて見に行きたい。夜はあの鍾乳洞も封鎖されるのを知っていたので、ひとまずどう行動するかをラウルは考えた。



 深夜。観光地の一つとはいえ古都の夜は深く暗い。そのためか出歩く者も滅多におらず、哨戒の兵士が数時間に一度巡回する程度であった。

 数日滞在し兵士の哨戒ルートや鍾乳洞付近の様子を探っていたラウルは、月が傾く時刻にどちらの警備の目も薄くなると突き止めていた。問題は鍾乳洞の入り口に張られた結界であるが、これも昼の内で手は打っている。

 フードを目深に被り、ラウルは宿屋の窓からそっと抜け出し、街道の裏道を素早く移動した。小一時間ほど歩き、鍾乳洞の前に出る。

 警邏の配置などはされていないが、この洞窟はその特異性か過去に賊や遊び半分の輩が侵入する等の小規模な事件が多々起きており、そのために夜は出入り口に結界が張られるようになっていた。

 ちらとラウルは大きく開いた鍾乳洞の入り口を見遣る。鉄条の柵で閉じられ錠の代わりに結界が張られているが――……ラウルは柵の向こう、結界の内側に向けて手を伸ばした。すると、内側の岩壁でパチンと音が弾ける。内側の岩壁、左右丁度同じ位置に赤い光を放つ石が刺さっていた。そのまま手を伸ばして柵を掴むと、柵はすんなりと音も立てずに開く。僅かに開いたその隙間から身体を滑り込ませて、内側に入ったラウルはまた元通りに柵を閉じた。これで一見すると結界が破られていると気付かれる事はまずないだろう。露見するとしたら明朝、作業員が来てからだ。

 内側に入ったラウルは左右の岩壁に突き刺さっていた石を回収した。掌に収まる程度の石は既に光を失い、ただの鈍い色をした塊に見える。これは清流の深くで採れる鉱石の一種で、これにラウル自身の血と魔力を込める事により簡単な魔術なら中和する効果を持つものだ。昼の内に観光を装い訪れたラウルは、作業員や監視の目を盗みこの石をそれぞれ埋め込んでおいたのだ。悲しいかな、長い経験の内でこのような小細工がすっかり得意になってしまっていた。

 それはともかく、無事に侵入出来たのだ。まずは確かめなければならない事がある。

「…………」

 微かな緊張に息を飲み、ラウルは足を進めた。――今も鼓動のように感じる強い波長、竜気を感じる〝そこ〟に向かって。



 大広間と呼ばれるそこは、夜の闇でもなお美しかった。発光する鉱石や菌糸類、水辺を好む小さな虫。ほんのりとした光を放つそれらが揺れて囁き合うように、幻想的な光景の中にあの鉱石柱が静かにそこにある。

 洞窟に亀裂でもあるのだろうか、天から入り込む月光が鉱石柱に降り注ぎ、巨大な鉱石の塊は美しく輝いていた。

 透明度の高い水晶、その奥に青金石、更にその奥にも別の鉱石の塊。鉱石柱は複数の鉱石がまるで包み込むように重ねられていた。

 美しく神秘的で――……しかし、近くまで来て立ち、やはりとラウルは確信した。

(この鉱石柱の奥から、竜気が流れている)

 見えない程に重ねられた石の奥。そこから竜気が漏れ出している。

 この鉱石柱は削っても削っても再生する、尽きない鉱脈であると言われていた。だが、もしその原因が、石から発せられる竜気からだとすれば。

「…………」

 だとすれば。……だとしても。自分はどうするべきなのだろう。

 突然の竜気に驚き、つい確かめるためにこんな不法侵入まで試みたというのに、こうして竜気の元であると確信した上でどうすればいいのか、ラウルには解らなかった。例えこれが竜気の源でありそれが尽きぬ鉱石の原因だとしても、誰に何をどう言えばいいのか。

 危険だと言う? ――誰に? オリエンスに? コンコルディアに? それとも、ギルドに?

 だが実際に竜気が原因であるとしても、もうずっと何事もなかったのは確かだ。魔物を呼ぶ、魔物を生む等の弊害があるならこんなに放置はされていないだろう。ならば、この鉱石柱は強い竜気すら発してはいるものの、無害であるのだ。

「…………」

 口をつぐんだまま、ラウルはそっと手を伸ばす。月の光を受けて輝く石の柱、鼓動のように竜気を感じるそれに、そっと少年の指先が触れた。その時だ。

 ラウルの耳に、異様な音が響いた。同時に目の前で鉱石の柱に亀裂が走る。

「――……!?」

 ギッ、ビキ、パキ、と固い音は立て続けに上がり、亀裂は叫ぶような音と共に広がった。

 裂ける。割れる。開く。

 一歩、ラウルがおののきに後ずさったその時には鉱石柱の亀裂は決定的なまでに大きくなり、がぱりとそれが口を開くように割れて――中から、ごろと重みのあるものが転がり落ちて来た。それは真っ直ぐにラウルの腕の中に落ちる。灰白く、亀裂の走った、捻じれた角のある……

「竜……!?」

 竜の頭蓋骨。ひとかかえ程もあるそれを視覚で認めた次の瞬間、竜の頭骨に変化が起きた。

 ずるりとどこからともなく血と筋組織の赤が走り、それらに纏わり付くように肉が盛り上がる。白い骨が粉から固まるように再生していき、血が肉がそれに絡み付いた。頭骨を飲み込み見る間に形を変えて、まるで、ヒトガタの崩壊を逆再生するかのようにそれは作り上げられ――最後に白い皮膚が全てを覆い、瞬きの間に、それは白い男の姿になった。

「な――……、ぅわっ!?」

 呆然とそれを見ていたラウルの腕の中に、再び男が倒れて来る。思わず受け止めたものの、上背の高く鎧のような筋肉のついた男の予想外の重量を完全には支えきれず、ラウルはそこに尻餅をついてしまった。驚いたのかチビが懐から飛び出て来てピイピイと鳴きながらラウルの周辺を旋回する。

「だ、だいじょうぶ……僕は、大丈夫だから……」

 鳴いて飛び回るチビを呆然とした声音のまま何とか宥め、ラウルは腕の中の男を見遣った。――白皙はくせきの男は力なく目を閉じている。緩やかに呼吸はしているため、ただ気を失っているだけだろう。だが、しかし。

「……チビ、見た?」

 ピイ、と小竜は応える。ラウルは己の目の前に聳え立つ鉱石柱――内側から裂けて割れた鉱石柱と、腕の中の男とを交互に見遣った。

 鉱石柱が割れて、中から竜のものと思わしき頭蓋骨が転がり出て、それがこの男に変化した。

「どういう事だろう……?」

 呟いた後で再度男を見下ろし、今更ながら男が全裸であると気付いたラウルは深く深く溜息をついた。



 さすがにそこに捨て置く訳にも行かず、ラウルはひとまず男を背負って鍾乳洞を脱し付近の森にまで来た。

 せめて服の代わりにラウルのマントを被せ、がっしりとした体格に似合う重量を持つ男を何とか背負って移動し、そのまま宿屋に戻るのも難しいと判断して身を隠す事を優先したのだ。朝になれば結界が破られている事、そしてかの鉱石柱が割れている事に気付かれ大騒ぎになるだろう。そうなればまず下手人の捜索の手がかかる筈で、このような森に身を潜めるのは逆に危ないのだが他にアテがある訳でもない。出来れば朝になるより前に男が目を覚まして穏便に別れられればいいのだが。

「ふう……」

 分け入った森の大樹の麓でようやく男を降ろし、ラウルも一息をついた。そうしてやっとで、いまだに目を覚まさない男をしげしげと見てみる。肌は透き通るように白いが不健康という訳ではなく、磨かれた大理石のように滑らかで美しい。隆起した筋肉は見事に鍛え上げたそれで、傷のひとつも見当たらなかった。肩より僅かに長い髪も透けるような銀の色を持ち、毛先に行くにつれて青みがかかって見える。長く通った鼻筋に薄い唇、彫りの深い顔立ち。皺の少ない外見からすると二十代半ばから後半だろうか。……見た目だけ、ならば。

 身長は高く、今はケットのように被せているラウルのマントでも手足がはみ出る程に長い。

 唇に耳を寄せてみれば微かな呼吸音がし、厚い胸もゆっくりと上下している。眠っているだけ、のようだ。

「……さすがにこのまま置いておくのは、ちょっとなぁ……」

 ラウルのぼやきにチビがピイと鳴く。

 鉱石柱の中から出て来た竜の頭骨、そこから蘇ったかのような男。気を失っている以前に状況が状況だ、捨て置く訳にも行くまい。少なくとも彼が何者なのか確かめる必要があった。

 ――と、ラウルは顔を上げる。同時にチビも不安気に鳴いた。

「……うん、解ってる」

 潜めた低い声でラウルが呟いた。この森は深い。可能性は考えていたが、やはり……魔獣が出るらしい。魔獣はこちらに気付いたようで、近付いて来る気配がした。

 ラウルは男を見る。彼はまだ目覚めない。ならば。

 そっと手をかざし、ラウルは男に向けて気配遮断と視線除けの魔術をかけた。

「チビ。この人を見ててくれるかな」

 そうして少年は小竜に向かい笑いかける。この男の傍にいれば、チビにも魔術効果が行く筈だ。不安そうに鳴く小竜に、ラウルは静かに立ち上がると細身の剣を引き抜いた。

「大丈夫、僕なら何とかなるよ。それより、この人が見つからないよう、おまえが守ってあげて」

 キュウ、とチビが鳴きマントをかけた男の胸元に降り立ったのを確認すると、ラウルは大きく息を吸って、その場から駆け出した。



 男は、長く深い夢の中にいた。

 澄んだ水の中に沈み微睡まどろむかのような心地。どれほどに長い、永い時間そうしていただろうか。

 不意に、夢の水底から水泡が上がり、蒼い夢に揺らぎが生じた。

 ――ゆっくりと意識が浮上する。何か、音が聞こえる。音……いや、声だ。小動物の声。まだ小さな幼獣の鳴く声。ピイピイと忙しなく、親を恋い呼んでいるような声。男が目を開いたその瞬間、声の主……小さな竜がばっと飛び上がり、まるで怯えたように飛び去って行くのが見えた。

「…………」

 男は上体を起こす。その動きで己の上にかけられていたマントがずり落ち、同時に隠匿の術……気配遮断辺りの魔術が解ける感覚があった。男は薄い青と緑の目でマントを見下ろし、そして小竜が飛び去って行った方を見た。

 甘い血の匂いがする、その方角に。



 ラウルは剣を振るい魔獣の胴を斬り付けた。

(――浅い……!)

 それは表面を掠っていっただけで、牽制にもならない。

 襲い掛かって来たのは群れをなして狩りを行う、狼に近い四つ足の獣だった。群れは多く若く、その力も強い。なるべくチビと謎の男から距離を取るために走りながら戦っていたラウルだったが、幾らもしない内にそれは防戦に徹する事となってしまった。

 一頭の攻撃を防ぐために剣を振りかぶった隙を見て魔獣が左後方から襲い掛かる。

「ぐッ……、」

 その爪がラウルの背中を大きく傷付け、また血が流れた。

(まずい、かな……)

 朝になれば流石に魔獣も逃げて行くだろうと算段していたが、それより先に血を流しすぎた。魔獣はラウルの血の匂いに興奮し、更にいきり立って襲って来ようとしている。さすがに巣穴に持ち込まれたらラウルにも不利だ。

 いっそ街の方に逃げて兵士の助けを乞うべきか、と迷うラウルの元に、素早く小さな影が滑り込んで来る。

 蜥蜴に似た細長い身体に小さな羽、キイキイと鳴きながら必死に全身で魔獣を威嚇するそれは、ラウルの庇護する小竜であった。

「チビ!?」

 竜が魔獣種の上位存在とはいえ、チビはまだ幼く力のない子供だ。精一杯に威嚇した所で成熟した魔獣の群れは怯みもしなかった。体格の大きな一頭が唸り声を上げて襲い掛かって来る。

「チビ!」

 咄嗟にラウルはチビを胸元に抱き込み、蹲るように地に伏せた。魔獣の爪が背中に食い込み、服ごと引き裂かれる激痛が走る。

「うっ……、グ、う……、」

 血が迸る。魔獣はますます興奮に声を荒げている。だが、とラウルはチビを庇い蹲りながらも薄く色を変えていく空の色を見遣る。もうすぐ、もうすぐ夜明けだ。この森は深いが日差しを防ぐほどに密集してはいない。太陽が出れば、陽光に弱い魔獣は逃げて行くだろう。あるいはラウルの血肉に酔うかだ。それまでしばらくの間、己が耐えていればいい。ピイ、と不安そうに鳴くチビを腕の中に庇いながら、ラウルは小さく声をかけ続ける。

「大丈夫、大丈夫だよ。いい子にしているんだ、僕は平気だから……」

 ラウルが抵抗を止めた事に気付いたのだろう、魔獣はラウルを取り囲む陣形を取り、興奮に涎を垂らしながらも距離を置いた。その魔獣の内、一等大きな個体がのっそりと前に出て来る。きっとこれが群れのリーダーだろう。これがラウルの肉を多少喰らい、群れの仲間もお零れに預かる頃には太陽という救いの手が出て来る筈だ。ラウルはそう覚悟をし、来たる痛みを予想しながら身を固くした。

 リーダー格の魔獣がラウルの背に前脚をつき、裂けるように大きな口を開いた――その瞬間、その魔獣が横に吹き飛んだ。

 ごおん、と有り得ざる鈍い轟音を立てながら魔獣の身体が樹に打ち付けられる。

「……?」

 一瞬の間を置いて、他の魔獣が騒ぎ出した。ラウルではない、別のものに向かい盛んに吠え立てて跳躍し襲い掛かる。だがその全てが、勢い良く弾き飛ばされた。恐る恐る顔を上げたラウルは、見た。飛び掛かる魔獣を、拳一つで次々に殴り飛ばして行く男の姿。そしてその男は、あの鍾乳洞の、あの鉱石柱の中から出て来た、あの白皙の男だった。

 数頭、体格の良い魔獣が殴り飛ばされ、リーダーも真っ先に弾き飛ばされ、魔獣は武器一つない男相手に不利を悟ったのか、じりじりと後ずさりしていく。群れの内の数頭が口から泡を吹き失神するリーダーを咥えて引き摺りながら逃げて行き、それを追うように次々と魔獣は姿を消していった。やがて最後の一頭の姿が森の陰の奥に消え去ると、男はゆっくりとラウルの方に向き直る。

 太陽の光が射し込み、男の白い姿を浮かび上がらせた。白皙の整った顔、彫刻のような雄々しい優美さ、どこか温度を感じさせない相貌――……。

「…………」

 呆然と男を見上げていたラウルは、しかしこの堂々たる美丈夫がいまだに服の類を身に纏っておらず、かろうじてラウルのマントを腰に巻き付けただけの姿であると気付いた。恥じらう様子すらない偉容にうっかりと忘れていたが、ほぼ裸同然なのだ。

「あ、あの、」

 とりあえずそっと声をかけてみる。言葉が通じれば良いのだがと思いつつ。

 白い男は、ラウルを見たまま軽く鼻を動かし、微かに不思議そうな表情をした。

「あの……ありがとうございます。助けて、くださって」

 男がどういう人物であるにしろ、魔獣から助けられたのは事実だ。ラウルが感謝を述べつつゆっくり身を起こすと、男はやはり目を離さないままに軽く首を傾げ、頷いた。

「……ああ」

 どうやら言葉は通じるらしい。ほっとするラウルの前で、……結びが緩んでいたのか男の腰に巻かれたマントが解け、ばさりと地面に落ちて男は完全に全裸になった。

「……!?」

「……む、」

 ぎょっとするラウルに、男はしかし軽く声を上げただけで少しも動じずにいる。

「すっすみません、いや、というか、せめて隠してください!?」

 慌てて顔を逸らしつつ手を振るラウルに、ピイピイとチビが男を警戒するように声を上げた。



「怪我はありませんか?」

 ひとまずの動揺が過ぎ去った後で、ラウルは男にそう訊ねる。男はマントを腰布のように巻き直していた所で、ラウルの質問に軽く首を振った。

「私は大事ない。……君の方は。血の臭いがした」

「ああ……僕も平気です」

「しかし、あれだけ濃厚な血臭であるなら大きな傷を負っている筈だ。見せてみろ」

「大丈夫です、――ほら」

 示すように男に向かいラウルは己の背を見せる。主に魔獣の爪や牙を受けていたそこ、マントもなく衣服も引き裂かれているそこは……しかし、もう傷ひとつ無かった。衣服や肌に血の跡こそ散っているが、褐色の肌はなめらかな表面を見せるばかりだ。

 示されたそれに男は胡乱うろん気な顔になる。

「……確かに血の臭いも薄れている。だが……」

「僕は人より少し頑丈なんです」

 何でもないかのように微笑むラウルに、まだ奇妙な顔をしていた男は、しかし頷いた。

「……僕はラウルと言います。あなたの名前は?」

 名乗ってから相手に問うと、男は軽く考え込む様子を見せて、少ししてから呟く。

「私は――シダルガ。シダルガ・クラルス」

「シダルガさんは……」

「敬称はいらない。名前で呼んでくれればそれで良い」

「……じゃあ、シダルガ。あなたが何者か、聞いてもいいでしょうか? ……あなたは人間ですか? 僕は、あなたが巨大な鉱石の柱の中から出て来たのを見ました。助けて頂いた事に感謝はしていますが、あなたがただの人には見えません」

 僅かに警戒を滲ませて、ラウルが問う。

 今の彼は、ひどく美しいがただの人間に見える。だがこの男はあの鉱石柱が割れた中から出て来た竜の頭骨、それから再生してその姿になった者なのだ。どう考えても、只人ではない。只人である筈がない。

 ラウルの再度の問いに、男はまたも僅かに考えた後で静かに返した。

「――私は、『勇者』と呼ばれる存在であった。そう記憶している」

「…………」

「君の言う巨大な鉱石は私の封印だ。私はあの中に、この肉体のまま後世まで在れるようにとあの中に封印されていた」

「後世まで、在れるように?」

 奇妙な物言いにラウルは眉を寄せる。つまりは彼を後の世にまで生きたまま残せるように誰かが彼を封印した、という事だろう。いや、転じて、彼はそうやってと誰かが判断した、という事になる。死なず、滅ばず、遺せるように。そうするだけの理由がある筈だが――……ラウルの思考に応えるように、男は……シダルガは続けた。

「私の使命は、邪竜の討伐。私は邪竜が蘇りし時に連動して目覚めるように封じられた」

「……邪竜?」

 またとんでもない名前が出て来たとラウルは目を見開く。

「邪なる、大いなる者。討ち果たさねばならぬ者だ」

 竜と呼ばれる種族は、幻に近い存在でありながらも確かに実在する。だがこの世で邪竜と呼ばれしものは、ただ一つの個体を指した。

「それは……創世神話にある、あの邪竜ですか? いずれ蘇ると予言を残したという……」

 ――いわく。

 遥か昔、世界は七色の混沌の海で包まれていた。

 その色は次第に混ざり合い固まって行き、それぞれの色から、大地、植物、人間、動物、火、水が生まれた。

 全ての色への祝福に、まばゆく輝く光、原始の黄金が生まれ、また、それぞれの色を冠する王が誕生した。

 王達は互いに協力し合って巨大な王国を作り、よくこれを治めた。祝福は王達の額を飾る黄金の冠となり、冠はあまねく世界を照らす光となった。

 だが、そのどれでもない淀みがゆっくりと海底に沈んで集まって行き、第八の忌みなる色が生まれた。

 第八の色はまどろみ、重なり、ひとつの塊となった。そうして塊から全てに仇なす災厄の邪竜が生まれたのだ。

 邪竜は果てなき欲望から世界の全てを手中に入れんと欲し、輝く王国の壊滅と祝福の独占を企んだ。

 邪竜の襲撃により王国は壊滅的な打撃を受けたが、王の中の王、勇者たる王が己の冠を剣に変えて邪竜に立ち向かった。

「邪なる心を持つ悪竜よ、我が命に賭けてその欲を断ち切らん」

 勇者の王と邪竜の戦いは七日七晩に渡り続き、戦争の嵐は王国を荒らしたが、最後には黄金の剣が竜の心臓を貫いた。

 しかし、邪竜に打ち勝った王は深手を負い、自らも戦場にその命を散らしたのである。

 だが邪竜は完全には死なず、いずれ復活の時が来ると予言をして鮮血の大地に伏した。

 黒き心臓を残して肉体は綻び、世界中に弾け飛んだ邪竜の血肉からは数多の魔獣が生まれた。

 王の民らは遺された祝福の冠を天に掲げ、王の死を悼み、平和を願った。祝福の光は民の願いを聞き入れ、天に昇りあまねく輝きとなりて人の世界を照らした。

 黄金の光――すなわち太陽。我らを見守る美しき光により、我らの世界は保たれる。

 光ある限り、この世界に邪竜の居場所は無く、存在すら許されぬ。

 そう言い伝えられている、崇められる原始の神話。

 そうだ、とシダルガは頷いた。

「私の時代に――いや、私より僅かに前となる時代に、邪竜の復活があった。その際、多大な犠牲を払いながらも連合軍が邪竜を下したが、やはり終ぞ邪竜の心臓を滅ぼす事はあたわなかったという」

 シダルガがさらりと言ったそれにラウルは驚く。何せラウルは、創世神話しか知らなかったのだ。その後に邪竜が一度復活していたなど、聞いた事もなかった。

「そこで、連合軍を指揮していた国の王は考えた。邪竜は此度も復活の予言を残していたのだ。なれば確実に、邪竜はいずれ蘇るのだろうと。ならば邪竜に対抗する力を手に入れねばなるまい。……それで造り出されたのが、私だ」

「……造り出された?」

 奇妙な表現に聞き返せば、シダルガは是と頷く。

「人的な『勇者』の製造。王国は専用の研究施設を作り、長きに渡って『勇者』を製造する研究を続け、ついにはそれを成し遂げた」

「それが、あなただと……?」

「そうだ」

 あっさりとシダルガは頷く。ラウルは続く言葉を失った。ただシダルガの言葉だけを聞いていれば、それは酷い妄想や幻想のように思う。言葉だけなら彼を創世神話に囚われた狂人だとさえ思うだろう。しかしラウルは確かに見たのだ。鉱石の中から出て来た骨と再生する人体。そしてあの鉱石柱が、遥か古代から存在するという歴史に裏打ちされた事実。

「…………」

 とてもではないが即座に飲み込めるものではなくラウルが戸惑っていると、シダルガは重ねてラウルに問う。

「私が目覚めたという事は邪竜の目覚めも意味する。……君は邪竜の居場所に心当たりはあるか?」

 ふるふるとラウルは首を横に振った。今の今まで邪竜など既に過ぎ去った神話の一つだと思っていたのだ。シダルガは頷くが……

「そうか。――或いは、君も竜の眷属か?」

 すうと視線を眇めてそう問いかけた。殺気に近い鋭い視線に、ラウルの背が凍り付く。

「小竜を連れていただろう。人の身で竜種を連れて歩ける者は、そうはおるまい」

 はっとラウルは己の懐に手を当てた。そこには小さな竜、ラウルがチビと呼んでいる竜が隠れ潜んでいる。だが。

「違います。チビは、親と逸れて迷い子になっていたのを保護しただけで、僕はただこの子が独り立ちできるまで代わりに見ているだけに過ぎません。……確かに僕はチビ以外の竜と会った事もある。けれど、邪竜と呼ばれるものに心当たりはありません」

 ラウルは過去にも竜種に多少の関りを持った事はあるが、そのすべてが大いなる自然と近しいもの、あるいは賢者と呼ばれる古き知識を持つ者であった。邪竜と呼べる程のものは、記憶にない。

「…………」

 シダルガは、その薄い青と緑の目でラウルを見る。彼のいっそ冷淡とも呼べるような目を、ラウルは真っ直ぐに見返した。

 ふう、と息をつき視線を緩めたのは、シダルガの方だった。

「信じよう。君からは邪なる気は感じない」

 ほっとラウルも息をつく。射抜かれるような視線にはひどく強い力がある。

「君が邪竜の眷属であるなら、私が気を失っている間に始末するのが一番早かっただろうが、君はそうせずに身を呈して私を守った。ならばその誠意に応えなければなるまい」

「信じて頂けたなら嬉しいです。……シダルガさ、いえ、シダルガ。あなたは、これからどうされるのですか?」

 躊躇いを感じつつも訊ねると、シダルガは迷いなく答える。

「私のやることは変わらない。邪竜を見つけて打ち倒す事、それが私にある唯一の使命であり存在意義だ」

「…………」

 では、邪竜を見付け打ち倒した後は。もしも見付けられなかったら。ふと、そんな疑問がラウルの頭に持ち上がった。シダルガに、彼に余りにも迷いがないせいかもしれない。まるでそれ以外の全てをそぎ落としたかのように、そう感じたのだ。……邪竜を打ち倒すためだけの、『人造の勇者』。

「君には世話になった。礼の言葉しか差し出せない事を心残りに思う。――では、」

 そうして颯爽と立ち去ろうとするシダルガのその白い背中を見て、ハッとラウルは我に返る。

「ま、待ってください! さすがにその格好で出歩かれると大騒ぎになりますよ!?」

「……む、」

 堂々とした佇まいにすっかり忘れていたが、彼は腰布にしたマント以外は全裸なのだ。武器どころか服も靴も何もない。

「ならば、どうするべきか……」

 はてと真面目に思案気に首を捻る男に、ラウルは苦笑した。

「街の服屋にまで案内します。とりあえず、必要なものを揃えましょう」



 街の服飾店を訪れると、余りの有様に店の主人に大いに驚かれてしまった。そこに行くまでの道中でも注目を集めていたが、白皙の美丈夫がほぼ裸で堂々と歩いているのだ、それは目立つだろう。

「森で魔獣に襲われてしまって……彼は沐浴の最中だったので、このようなものしか残っていなかったんです」

 ラウル自身も背中が大きく裂かれ血がこびり付いた服を身にしていたためにその言い分は何の疑いもなくすんなりと受け入れられた。

「そりゃ災難だったねぇ。あの森には狂暴な魔獣や妖獣が棲みついてるって話だ、命が助かっただけでも幸運だよ」

「はい。それで、彼には服の一式と靴を、僕もシャツをお願いします」

「ああ、いいよ。そこに並んでるので丁度いいのがあればそいつを、サイズがなけりゃその分は縫ってやるさ。布の見本は必要かな?」

「とりあえず、あるもので見てみます。シダルガ、こちらです」

「ああ」

 陳列された服の方にいまだマント一枚を巻いただけの男を連れて行き、「入りそうなものがあれば選んでください」と言い置きラウルは自身の服の替えを探した。チビを懐に入れている事が多いので、出来れば布地は厚みがあり丈夫なものが好ましい。今着ているものも革のように丈夫な生地だったのだが、あの魔獣の爪と牙はあっさりとそれを破ってしまうものだったのだ。

 上背のあるシダルガに合う服があるかどうかが心配だったが、さすが王国の有名な古都、服のサイズも小から大まで取り揃えがあり、新しく繕って貰わずとも二人共丁度良いサイズの服が見付かった。着替える際にラウルは素早く新しい上着の内にチビを隠し入れた。チビももう慣れたもので、声も上げずにするりと滑り込んで少年の腹付近に巻き付き居場所とばかりに収まる。

 シダルガも服を着こみ、今は革手袋越しに感覚を確かめるように手を握り開きしていた。

「いやぁ兄ちゃん、元からいい男だってのにちゃんと服を着ると余計に色男だねぇ!」

 店の主人が笑いながら言うように、しっかりと着込んだシダルガは一層壮美に見える。だがそれは、造り物めいた美しさをより際立たせているように見えて、ラウルは心の片隅に棘が刺さるような感覚をまた覚えた。――この外見も、そうあれかしと造られたものなのだろうか?

 しかし、そんな疑問を持つのも失礼なように思えて、無理矢理に己の脳から追い出す。

 シダルガの服をマントや靴も含めて一式、ラウルの上着とマントも新調し、代金はラウルが支払った。シダルガはラウルの払った金銭――オリエンスでは通常のゴールド金貨が使われる――をじっと見ていたが、その後に己の服を手で触れながら問いかける。

「一から十まですまない。どうやって君に償えばいいだろうか」

「ああ――気にしないでください。あのままあなたを放り出すのは忍びない僕のお節介のようなものですから」

「それではいけない。私は何か、君に返さねばならぬ筈だ」

「でも……」

 小さな押し問答をしていると、それを見ていた服飾店の店主が「それなら」と横から声を掛けて来た。

「そっちの兄ちゃんは腕が立ちそうだし、森の獣を一頭狩って来ちゃくれねぇか?」

 言い合っていた二人もはたと言葉を止めて店主を見る。

「鹿でも兎でも構わねぇよ、毛皮と肉になる動物ならなお歓迎だ。俺がそいつを買い取って兄ちゃんはそこの坊主に代金分を渡すってので、どうだい? ギルドを通さねぇから仲介手数料もかからねぇ、お得じゃないか?」

 そうは言いつつもこれが店主の厚意である事は明らかであったので、シダルガはその提案にすぐ頷いた。

「解った、狩って来よう。森の獣で良いのだな?」

「おう。なるべく皮に傷をつけずにいて貰えると有難いね」

「承知した」

「……シダルガ、」

 即時に出ようとする男にラウルは声をかける。彼が並大抵の強さでない事は身を以って知っていたが、それでも本来は受ける必要のない依頼だとラウルは思っていた。シダルガはラウルの肩をぽんと軽く叩く。

「君はここで待っていてくれ」

「…………」

 そうして店を出ようとした彼は、だが直前でまたくるりと振り返った。

「すまない、ラウル。武器を貸してくれないか」

「あっ、」

 その一言でシダルガが武器類を持っていなかったと気付き、ラウルは慌てて己の所持する武器に目を移す。

 ラウルの所持する武器は弓と細身の剣と小さな短剣だ。その内、弓と細身の剣を借りてシダルガは店を出て行った。



 シダルガを待つ間、ラウルは店先から外の通りを眺めていた。

「坊主はその破れた服とマントはどうするんだ? 良ければウチで買い取りもするよ」

 血が着いて破れた上着と汚れたマントを畳んで仕舞っているラウルに店主が声をかける。「いえ」とラウルはそれに首を横に振った。

「洗ってからこのマントの布を服の補修に充てます。それで、予備にしようかと」

「はぁ、若いのにしっかりしてんねぇ」

 感心したように言う店主に苦笑していると、店主は外を忙しなく行き交う人々の足並みを見ながら溜息をついた。

「まったく、外は大騒ぎだ。今日は兄ちゃんら以外に客は来そうにねぇな」

「何か、あったんですか?」

 慎重に訊ねてみると、店主は腕を組みうんうんと頷く。

「坊主は鉱石柱は見たかい? どうも、あの鍾乳洞の鉱石柱に異変があったようでね、兵士さんらは大勢行き交うわ野次馬も集まるわで洞窟方面はえらい有様らしい」

「鉱石柱が……」

「割れただとか倒壊しただとか、いや変色したんだったかな? まあとにかく異常があったってんでね、この騒ぎで町はずれの服屋になんか誰も来ねぇって訳さ。いや、あんたらが来たか。でも魔獣に襲われたってぇのは災難だったから、ラッキーという訳じゃねぇな」

 はははと明るく笑う店主は本当に人が好いのだろう。大雑把な言動のようで彼の親切や気遣いは有難いもので、ラウルは内心で自分達こそこの騒ぎの原因となっている事に詫びた。

 しかし、鉱石柱に異常があった――もしラウルがシダルガを連れて出た時のままであるなら、あれはただ割れただけだと見做されているだろう。倒壊しても、自然現象か経年によるものだと思われるだろうか。もし、ラウルが破った結界に気付かれずにいなければ、だが。

 いや、だがもしも。

(王国内部にシダルガの伝承が残っているのなら、兵士はシダルガを……『勇者』を探しているんだろうか?)

 正直、オリエンスやコンコルディアの鉱石柱の扱いはただの資源と観光用にしか使われていなかったように思う。もし伝承が残っており、勇者の封印を守っているのだとしたら、あんなに薄い警備状態のままで放置しておくだろうか?

「…………」

 考え込むラウルをどう受け取ったのか、店主は慰めるように笑って言った。

「そんなに心配しなくても、今は昼だし危険な魔獣は出て来ねぇさ。あの兄ちゃんも強そうだったしな」

「あ、……はい、そうですね」

 シダルガの身を案じていると思われたらしい。ラウルはとりあえずそれに頷き、もう一度外の通りに目を移した。行き交う人々、好奇心をあらわにした表情、困ったように速足で過ぎる兵士もいる。――この国は、勇者を忘れてしまったのだろうか。



 それから一時間程して、シダルガが帰って来た。その両腕に仕留めた魔獣を抱えて。

 さすがに店内に持ち込む訳にも大通りに面した入り口に置く訳にもいかず、裏の勝手口で魔獣の骸を地に降ろした。

「こりゃ驚いた、獣じゃなくて魔獣か。それも五頭も!」

 店主はシダルガが下ろした魔獣を見て感心した声を上げる。魔獣は猪に似たものが二頭、狼に似たあの魔獣が三頭、どちらも巨体のものだった。それらを抱えて平然と歩いて来た彼は相当な膂力を持っているらしい。

「すまない、森には魔獣が多くて獣が少なかったのでこのような結果になった。不足であれば再度狩りに行こう」

「いやいや! こいつらは毛皮も丈夫だし肉は臭くて食えたもんじゃないが胆嚢やらが薬になるってんで薬師くすし局に高く売れるんだ。しかもこっちの奴は確か懸賞金も掛かっていた筈だ。不足どころか過分にも程があるくらいだよ!」

 しかも毛皮にもほとんど傷がない、と店主は嬉しそうに笑いながら魔獣の骸を確かめている。そうしてシダルガの手には、巨額の金銭が支払われた。懸賞金の分だけでも相応の額であったらしい。

「ありがとうな、兄ちゃん! 相当腕利きの冒険者と見たよ。今度何かあればまたあんたらを頼らせて貰いたいからギルドの登録名を教えてくんねぇか?」

 シダルガとラウルを交互に見ながら問う店主に、二人は互いの顔を見遣る。口を開いたのはシダルガだった。

「私はシダルガ・クラルスと言う。ギルドには登録していないが……」

「え、そうなのかい!? そりゃあ勿体ねぇなぁ」

 残念そうな店主を見て、シダルガはラウルに問う。

「そのギルドとやらには登録しておいた方がいいのだろうか?」

 ギルド自体を知らない――無知とも取れるような質問に店主が不思議そうな顔になるが、シダルガの時代にはギルドという組織は無かったのだろう、ラウルは素直に答えた。

「ギルドでは依頼を受ける他、こちらから情報収集のための依頼を出す事も出来ますよ。なので、その方がいいと思います」

「ふむ。……君は登録しているのか?」

「はい」

「ならば私もそうしよう。すまないが、案内を頼めるか」

「解りました」

 頷き、ラウルは店主に向き直る。

「これからシダルガも冒険者登録をしてきます。ですので、依頼があればぜひ彼に」

「そっか、ならこれから困り事があれば兄ちゃん達の名前を優先的に探してみるよ。あんたらもまた服が入用だったらうちに来てくれよな」

「はい。お世話になりました」

 ぺこりとラウルが頭を下げ、シダルガも会釈をすると二人はにこやかに手を振る店主に別れを告げて、まだ慌ただしい空気の漂う大通りに出た。

「ギルドでは情報収集も可能だと言っていたが、邪竜に関する情報も含まれるだろうか?」

「含まれると思いますよ。……そうですね、邪竜というよりは竜種に括った方がいいのかもしれません。僕でも邪竜の話なんて耳にした事がなかったので、恐らくギルドでも眉唾物の噂話しか集まって来ないと思いますし……」

 首を傾げつつ答えるラウルを、隣り合って歩くシダルガは横目でちらと見遣る。だが彼は特に何も問わず、ただ首肯した。

「そういえば――君の武器も返さなくては。それと、衣類の対価か。先程頂いた金銭の半額を渡そう」

 さらりと言われたシダルガの提案にラウルはぎょっと目を見開く。何せ、シダルガが貰ったのは半年は生活に困らないという程の大金だ。

「いえ、あれはあなたへの報酬でしょう。僕は案内しただけで何もしていません」

 慌てて断るが、シダルガは足を止めてラウルを見下ろす。

「だが、君に言われなければ私は裸のままで出歩いていた」

「そ、それはそうですが……」

「武器も借りた。今もギルドとやらへの案内を頼んでいる。そも、目覚めた時に私には隠匿の魔術がかけられていた。状況からかんがみるに君が私を隠し守るためにあの魔獣共を引き付けていた。違うか?」

「……違いません、が……」

 ずずいと顔を寄せて覗き込んでくる白皙の美貌に、しかし無表情かつ怜悧さを湛えたそれに間近で詰められるとひどく腰が引ける。ラウルの遠慮を見て取ったか、「ならば」とシダルガは続けた。

「頂いた金額の三割。武器の賃貸料と案内料も込めて。それでどうだろうか」

「……それなら、まあ。はい」

 これ以上は妥協しないという強い意思を感じて、ラウルは彼の言葉に承諾した。断ったら無理やりにでも懐に金を突っ込んで来そうな圧がある。ラウルが頷いたので、「よし」とシダルガもひとつ頷いた。

「ならば、ついでに頼みたい事がある」

「何でしょうか?」

「武器や武具を扱う店があれば、案内してくれないだろうか? 私にも必要なものだ」

「ああ、そうですね。ええと、では先に武器屋から行きましょう。ギルドにはその後で」

 幸いにも大通りには行き交う冒険者用に武器屋が複数店を構えている。ここからも一つ、武器屋を示すマークを掲げた看板が見て取れた。



 シダルガが選んだのは両刃の長剣だった。彼は「頑丈で丈夫で壊れにくければそれで良い」という基準でそれを選び、店にあった長剣の中でも重量のあるそれを買い求めた。

「長剣が得手なんですか?」

 返還された弓と細身の剣を元のように仕舞いつつラウルが尋ねると、鞘に納めた長剣を革のベルトに固定しながらシダルガは頷く。

「大抵の武具は扱えるが、この武器が一番使いやすい。刃がこぼれても打撃武器になる」

「…………」

 それは鈍器扱いにしているというのでは、とラウルは思ったが、心に仕舞っておいた。

 そこから一度宿屋に向かいラウルは己の荷を引き上げてチェックアウトを済ませる。次に向かったのはギルドで、ギルドでもこの鉱石柱崩壊騒動の余波でごった返していた。ギルドは情報の集まる場所でもある、鉱石に関する情報収集を個人的に出す者、また己の持つ情報がどれだけ高く売れるか依頼表を見て計る者。またここにも国の兵士が出入りしておりそのせいでラウルが以前訪れた時よりも騒々しくまた独特の緊張感もあった。

 先にラウルが依頼表を見た後で窓口の係員と話し、それから隅の机で登録記入票と睨み合っているシダルガの元に戻って来る。

「やっぱり、邪竜に関する依頼や噂はないようです。邪竜に関わらず、竜種自体の話題がほぼありませんでした。二つあったのも過去の依頼で、そちらは竜ではなく火蜥蜴サラマンダーの類だったようでもう片付いていました」

 説明しつつシダルガの手許に目を落とせば、彼の登録用書類は空欄のままだ。

「どうしました? 解らない箇所でも……」

「――まず、出身地。私はこの地で製造された者だが、既に当時の国は滅びており名前がない。次に年齢。あれからどの程度経過したのか計算していない。次に人種、来歴……」

「あ、ああ……そういえばそうですよね……」

 シダルガが悩んでいた事にやっとで思い至り、ラウルは苦笑してペンを手に取った。

「……適当に埋めましょう。出身地は僕の知っている国にします。年齢は……二十七くらいで。来歴も適当に書きます」

「それでいいのだろうか」

「実のところ、こういったもので真実を書く冒険者は少ないんです。それに、罪を犯して手配犯にでもならない限り精査もされません。……結局冒険者というのは、匿名の便利屋みたいなものですから」

 さらさらと書き込んで行くラウルにシダルガは特に咎めもせずにただ「ふむ」とだけ呟いた。

 そうして書き上がったシダルガの登録記入票は、名前だけが正確な後はでっち上げにも程があるものになってしまったが、逆に全て真実を書けばそれこそ悪ふざけと見做されて無効となってしまうだろう。

 登録窓口に書類を持って行き、受付の若い青年にシダルガは訊ねる。

「ここで情報収集の依頼もしておきたいが、構わないだろうか」

「はい、受け付けますよ。どのような情報でしょう?」

「竜……竜種についての情報を。噂でもいい、竜種の目撃情報があれば渡して貰いたい」

「ああ、さっき竜について尋ねられたのはあなた達でしたか。はい、構いませんよ」

 ラウルが先に聞きに行っていた事もあり、シダルガの依頼はすんなりと通された。でも、と受付の青年は依頼書を見る。

「竜種についての話だけだと括りが大きすぎて。こういう依頼にははした金目当てでガセやでっち上げをわざと掴ませる輩もいますが……どうでしょう、もしこの依頼に情報が寄せられた時、一度私達ギルドの方で情報内容を調査し、真偽を確認してからご連絡をするという方式では? こちらだと追加料金がかかりますが、確実ですよ」

「…………」

 にこやかに青年はシダルガとラウルの両名に説明した。確かに青年の言葉は最もだが、それは同時に『ギルドが率先して情報を掴む』という事でもある。商業組合が国の枠組みを超えてギルドという組織を立ち上げているのはこうして己らが一番に重要な情報を収集する事、そしてその上での仲介料や腕利きの冒険者を把持する事であった。だが実際にギルドの広い人脈と情報網は有益であり、そのためにこうして冒険者登録もしているのだ。

「解った、その提案を受けよう」

「はい、受領しました。それではこちらの情報が入り次第、調査後に結果を確保しておきます。情報をお求めの際は最寄りのギルドにてお問い合わせください。依頼の保有期間は半年になり、半年が過ぎると失効扱いになりますのでお気を付けください」

 青年が依頼書を隣の木箱に置くと、ふわりと依頼書が薄く光り、木箱から依頼書が消えた。ギルドの専用魔術によるもので、受領された依頼書はこうして全世界のギルドに同時に共有される事となる。

 受付の席を立ったシダルガとラウルは、しかしラウルの「少しだけ待ってみませんか」の言葉で、騒がしいギルドの隅、壁際にてそれから一時間程を過ごした。だが結局その後も特に何もなく、二人はそこを後にした。



「鉱石柱は、人為的なものではないとされているようですね」

 ギルドで、そして街を行く住人や兵士達の話をさり気なく聞いている限り、鍾乳洞の大鉱石柱を割った下手人が捜索されている様子は無かった。恐らく鉱石柱に探知魔術をかけて調べたのだろうが、それならあれが内部から破壊された事にも気付かれている筈だ。外側からの圧ではなく内からの圧で割れたならば、とても人の手の為せる事ではないと見られたのだろう。あの鉱石柱は長年の研究でも、どの刃物でも魔術でも或いは探知魔術でも、水晶の内の青金石より内側への干渉を全て弾く事が検証されているのだ。もしかすると、結界が破られた事も鉱石柱が内から割れた衝撃の余波と思われているのかもしれない。そうだと有難いのだが。

 ……兵士は『鉱石柱を割った人物』の捜索はしていないようだった。同時に、誰の事も探していない。この王国に封印され、今蘇った勇者の事すらも。

「もし、王国が今でもあなたの事を覚えているなら、登録した名前を見て使者か誰かが来るのではないかと思ったんです」

 ギルドから出て通りを歩きながらラウルは呟いた。シダルガは幼いその顔を見遣る。

「だが、特にそういった兆しはなかった。どうやら王国は私や邪竜の事は忘れたようだな」

「…………」

 シダルガ本人は平坦な口調で答える。どうやら彼は、己が忘れられたという事にすら頓着していないようだ。

「……シダルガは、これからどうするんですか?」

「私の為すべき事は変わらない。邪竜を見つけ、討伐する。国があろうがなかろうが変わらない」

「そう、ですよね……」

 彼はずっとそうだった。知り合ってからまだ半日も経っていないが、シダルガはずっとそうだった。頷くラウルを見てシダルガは少しだけ考え込む様子を見せ、そして口を開いた。

「――ラウル。君さえ良ければ、」

 名を呼ばれ、ラウルは顔を上げる。

「私はこの世界に疎い。今がいつなのか、地理がどう変化しているのかすら解らない程だ。だから、私の案内人になってはくれないか? これは私からの依頼だ、勿論対価も約束しよう」

 森から街に連れて来たように、武器屋にギルドに案内したように、邪竜捜索のための案内人に。シダルガはラウルにそう訊ねた。ラウルは彼を見上げ、笑って頷く。

「……そうですね。僕も、ある目的があって、長いこと探し物をして歩いているんです。僕の探し物も、どこにあるのか全く解らなくて。このまま無為に迷い歩くよりはもう一つ、指標があってもいいのかもしれません」

 だから、とラウルは続けた。

「その依頼をお受けします」

「そうか。――ならば」

 そうして、シダルガはふっと微笑した。それはラウルが初めて見る彼の笑顔だった。意外な程に柔らかくて優しい微笑み。

「これから宜しく、パートナー」

「はい。宜しくお願いします」

 差し出された白く大きな手を取り、ラウルは握手を返す。

 その懐の中で、ピイと小さな声が不満気に鳴いた。ラウルはそれに苦笑する。

「すみません。……チビはまだあなたのことが怖いみたいだ」

「私は人に仇なさぬ小竜に危害は加えないが」

 軽く遺憾の息をつくシダルガにラウルは声を上げて笑う。

「いつかチビも慣れますよ」

「そう祈ろう」

 そうして二人して肩を並べ、関門の方へ……街の外へと向かい歩いて行く。

 古都はいまだ喧噪の中にあるが、それは二人の歩みとは逆の方へと流れて行った。




   ◆ ◆ ◆




「勇者が目覚めた」

 その一言は、会議堂に静かに落とされた。

 七の大椅子とその複座も併せて十四の椅子、そこには現在四人しか腰掛けておらず、会議堂に存在するのもまたその四人だけだった。

 初めの一言を放ったのは白髭を蓄えた老人であり、彼の傍らには複雑に絡まり合った木の杖が立てかけられている。その杖は長年老人の元にあり、また『土』の色を贈られる司祭に代々伝わる象徴でもあった。

「……確かなのですか」

 土の司祭である老人より空席を一つ置いた次の椅子に静かに腰掛ける老女が訊ねた。つばの狭い深緑の帽子を被りベールの薄布で口元までを厳かに隠した彼女は『緑』の色を持つ司祭でもある。

 彼女の問いに答えるように、土の司祭は白い布に包まれたものを机上に差し出した。老人の手を離れふわりとひとりでに宙に浮いたそれは、中央まで来るとまるで花が綻ぶように開き、包まれていたものが光の照り返しにより輝く。

 透き通った赤い石、それから青い石、完全に無色透明な石、それぞれ歪で尖った欠片。――赤琥珀、青金石、そして水晶。それはこの教団、そしてこのテーブルに着く者なら誰でも知っているものだった。

 勇者を保護し、また封印となる鉱石の棺、その素材達だ。一番外側に露出している水晶なら広く出回っているだろうが、水晶に包まれた青金石、青金石に包まれた赤琥珀となると、それは棺の『中身』が表に出て来ない限りは決して外部には出ない筈のものだ。

「フラッグの伝手つてからの情報だ、間違いはない。――かの国の棺は割れ、内側は空洞になっていたという。これらは現場に散っていた証拠品だ。そして同時にギルドに冒険者としてかの方の名前が登録された。オリエンスは棺……鉱石柱の崩壊騒ぎに気を取られて一冒険者など気にも留めていないだろうが」

 老人の言葉、特に冒険者の下りで堂内には戸惑いのざわめきが上がった。

「――差し出がましい意見をお許しください。それは真実、かの方なのでしょうか? 偶然、名前が似通った冒険者が新規で手続きをしただけでは? 我々のように伝承を正しく引き継ぐ古き民が皆無とは限りません」

 冷静に指摘したのはどこか冷淡な印象を与える女性だった。まだ二十半ば程度の外見を持つ彼女の問いに、土の司祭は首を横に振る。

「名前だけならば、或いはな。だが、その冒険者は『シダルガ・クラルス』と名乗り、銀の髪に青と緑の目を持ち、白皙の肌をした男で……ギルドに、竜の情報を求めていたそうだ」

 再度、ざわめきも収まり場は静かになった。

 しばらくして、緑の司祭が穏やかな声で切り出す。

「……それは、その名は我々がかの方に与えた名。そうですね?」

「そうだ。我らの祖が献上した貴名である。名だけならば、姓だけならば偶然の可能性もあった。だが棺が割れ、外見も伝承と同じくし、竜を探しているとなれば」

「……成程。勇者が目覚めた、という他ありませんわね」

 土の司祭の言葉に女性……紫の司祭も頷く。そして、ずっと黙っていた男……くたびれたような外見をした中年の男が己の顎を撫でて口を開いた。

「だから助祭もアリナも呼ばずに我々だけが召集されたのですな。フリューゲル殿から問答無用で呼び出された時は何が起きたのかと慌てたものですが、成程、これは我々の教団にとって真実一大事だ」

 呑気な男の……暁の司祭の言葉に土の司祭が眉を寄せて頷く。

「他言無用もこの為。教団では近頃、我らの存在意義や真なる経典を理解せずただ魔導のために入り込む鼠が散見されるものでな」

「結構だと思いますよ。でもアリナくらいはいいんじゃないですか? 彼女は『黄』の代理人……助祭ですし」

「……否、だ。あくまで司祭の位のみの召集は、かくも事が大事である故。貴様ら、若き世代はこの重さを理解しておらん」

「司祭の色を賜った時からよ~く聞かされていますって。ご老体こそ、余り考えを固めすぎると良くありませんよ。昔と違って今は世の成り立ちも複雑なのですから」

「猥雑と煩雑であろう。……よい、貴様の軽口に付き合う暇はないわ。勇者が目覚めたのならば、連動するものもある。それは皆、理解しておるな?」

 暁の司祭は肩を竦め、土の司祭は彼から視線を外し義堂の中をぐるりと見た。紫の司祭が整った顔を微かに歪めて呟く。

「――邪竜の復活」

「その通りだ。勇者が棺の封印から目覚めたという事はすなわち、邪竜もまた目覚めた事を意味する」

「ですが、邪竜が復活したのなら確実に我々にも情報が入るはず。それなのに、世には何も起きてはおりません」

「然様だ。目覚めたのならば、確実にかの竜は大地を征服せんと動く筈。だがそのような動きはどこの国にもない。皇国、空国、怜国、蒸気の国も砂の国も、砦を築き閉じた国もオリエンス自体にも何処にも、邪竜が出現したという知らせはないのだ」

「…………」

「そしてもう一つ、留意して頂きたい。勇者をギルドに登録した際に供人がいたという。供人も冒険者で、名前は『ラウル』。十代半ばという若い冒険者で辺境村の出身だと来歴に記しているが……使いをやり調べた所、その村に『ラウル』という村人がいたという記録はない」

「それだけなら、よくある事でしょう。冒険者の半分は後ろ暗い過去を持つか、本当の家から逃げて来たかどちらかだ。脛に傷ある奴が仮の出身地とするのは大抵、捜査の手など入りようもない田舎村だ」

 暁の司祭が口を挟んだ。実際にその通りであり、自ら申請した来歴と本当の来歴が違っていても、無名の冒険者ならば発覚する事は少ない。ギルド側もそれを知っていてあえて捨て置いているのは、そういった冒険者は大抵能力に欠けておりすぐに脱落する死ぬからだ。

「そうであろう。だが、その偽りを持つ冒険者が勇者と行動を共にしているとなれば、話は違って来る。邪竜の復活の兆しは見えず、勇者は偽りの冒険者と共にいる。何とも……不吉な予兆ではないか?」

 三度みたびの沈黙が落ちた。四人の司祭はそれぞれに深く考え、しかし答えなど出よう筈がない。

「邪竜の方は、今は静観するしかないですね」

 緑の司祭が静かに言い、紫の司祭が同意に頷く。

「私も緑の御方に賛成です。邪竜の件は今は置いておくとしましょう。問題は勇者の方ではありませんか?」

 紫の司祭の問いに暁の司祭も諸手を上げた。

「私もそれで。幸い、勇者様の方でも邪竜を探しているようだ。これは我らが先に邪竜の情報を掴んだ後に〝お土産〟を引っ提げて勇者様にご挨拶に行くべきでは?」

 軽い言葉に厳つく顔を歪め、土の司祭は溜息をつく。

「俗な物言いをするでない。――しかし勇者には今一度、我らの許にお戻り頂けるよう手配をする。頼めるか、ローズ」

 ローズと呼ばれた緑の司祭は微笑んで頷いた。

「お任せを。ヴィティスに任を与えましょう」

 うむ、と土の司祭は答えて他の三人を見る。

「我らの使命はあくまでも勇者のお力添えとなる事、勇者と邪竜、そして創世の伝承を保持する事。魔導や錬金術の道はそのための手段に過ぎぬ。勇者の復活が為されたのならば、世の混沌は来たれり。我らの教団は混沌の海を渡る舟、或いはその道標である。――黄の司祭には私からお伝えしよう。この件は助祭のみに伝え、他言はせぬよう。特に商業連合総部、商業ギルドやオリエンスを初めとする国々にも知られてはならぬ。フラッグや目達オクルスには引き続きギルド内で情報を集めさせよ。――解散」

 カン、と木の杖が義堂の床を打つ。それを合図に、周囲に張られていた遮断の結界が解けて、窓の外からは小鳥の鳴き声が聞こえて来た。




「ウルプラ、この件どう思う?」

 広い通路を歩きながら、暁の司祭……つるばみが呑気な口調で傍らの女性に話しかけた。

「どうとも。フリューゲル様の仰った通りでしょう」

 紫の司祭、ウルプラがいつものように冷たい声でそう答える。橡は苦笑して腕を組む。

「俺としては、なかなかにきな臭いと思うんだよ。十年戦争が終わってからまだ三年も経っていないだろ? それに、が復活したのに王様が敵対するべき悪者が行方不明ってんだから。しかも王様のお供は何処の馬の骨とも知れない奴だという」

「…………」

「こんな時、司祭が全員揃っていればいいんだけどね。海の司祭は不在、黄の司祭は引き篭もって数年も人前に出ず、赤の司祭は……」

「その名は禁句ですよ」

 突き放すようにウルプラが橡に言い放った。橡も笑った口を手で押さえて肩を竦める。

「言わないさ。……の色の方なんて、呼んだだけでも呪われそうだ」

「貴方なら既に呪われているのではありませんか?」

「怖い事言うなよ。さて、お互い忙しくなるな。王様の復活なんて、俺の世代で見れるとは思わなかったから、何をしたらいいのやらだ」

「フリューゲル様にご相談なさっては? とても仲がよろしいでしょう?」

「……冗談だろ。え、冗談だよね。ウルプラ、君もそういうジョーク言うんだ? いいじゃないか、意外だけど」

 にこりともせずにただ一瞥をするウルプラに橡は明るく笑い飛ばし、ではと軽く手を振った。

「ま、王様の帰還までにお出迎えの準備だ。お互い頑張ろうな」

 そうして呑気な男は呑気な足取りで分かれ道を左に曲がって行く。

「……騒々しい御方だこと……」

 呆れた息をつき、ウルプラは道を右に曲がった。




「師匠、会議は上手く行きましたか?」

 若い青年が老女をねぎらうように問いかけ、彼女の好む香りの良い紅茶を淹れる。

「ヴィティス……今回の会議は、議論ではないのよ。上手くもしくじりもないわ」

 老いた淑女、緑の司祭でもあるローズは弟子でありまた自身の孫でもある青年が淹れてくれた紅茶を手に取った。

「少し、疲れたけれど……貴方には言っておかなくてはね」

「はい?」

 柔らかな茶の髪を持つ青年は首を傾げる。ローズは弟子の邪気のない様子に苦笑した。今から彼に課す任務はこの青年にはまだ重いように思えるが、しかし適任と言えるのもまた彼しかいなかった。

 つい先程、議会を終えた後の『お茶会』の事を彼女は思い出す。



 義堂を出て、彼らは事前に示し合わせた『談話室』に居た。

 土の司祭であるフリューゲル、緑の司祭であるローズ、そして土の司祭補佐……助祭である黄丹おうにという青年の三人。

「先の議会ではあえて告げずにいたが……勇者の供をしているという冒険者について、気にかかる事がある」

 フリューゲルが重く切り出し、そのただならぬ様子にローズは姿勢を直し、黄丹は二人分の茶を並べた後で動きを止めてフリューゲルを見遣った。

「……名前で気付いておりましたわ」

 ローズが言い、フリューゲルも手にした杖に凭れるように視線を落とす。

「やはり、君もか。黄丹には彼の出自とされている村を調べて貰ったからな、名は聞いているだろう」

「はい。ラウルという名の少年でしたね。褐色の肌に黒の髪に琥珀の瞳の、まだ幼い冒険者だと」

 黄丹は師によく似た固い口調で答える。彼が発した名に、ローズはフリューゲルを見た。老人もまたまるで探るかのような目で老女を見る。

「――船団の黒蛇、『イドラ』。奴の息子が、その名であったはずだ。正しくは『ラウルス』だが、イドラは『ラウル』と愛称していたと聞く」

「…………」

「…………」

 ローズも黄丹も深く息を吐き、押し黙る。

が姿を眩ませたのも既に数百年も前になる。息子も行方知れずであり、イドラの息子とかの偽りの冒険者の外見特徴は一致している。……イドラの息子が生きていれば決して少年と呼べる程に若くはない筈だが、しかし、追放されたイドラの罪を鑑みると……」

 フリューゲルは重々しく首を振った。

「これを知っているのは教団でも、また司祭でも限られている。黄の司祭は知っているだろうが、表に出て来ぬ。アリナは……助祭の身であるアリナに告げても良いものかどうか、私には図りかねた」

 地に沈むような声で呟くフリューゲルは、更に老け込んだように見えた。深い皺の刻まれた老齢の肌に、更なる重責が今圧し掛かっているように。

「いいのよ、フリューゲル。余り深く考え込んでは駄目だわ」

 ローズは柔らかな声でそっと労い、顔を上げたフリューゲルに微笑みかける。

「貴方も私も、黄の御方も……実際に、あの方にお会いした事はないのですから。あの方が教団に居たのは、私達が生まれるより遥かに前の時代だもの。私達は伝承を保存し伝え、来るべき時に備えるためのもの。イドラは……イレギュラーな事件だったわ」

「そうだ、イドラの所業は教団の想定を超えていた。だからこそあれは赤の色を賜りながらも教団を追放され罪人となったのだ。……もし、勇者と共にいるのがイドラの息子だとしたら……万が一にでもイドラと勇者が接触する事態だけは避けなければ」

「……そうね」

「ローズ。特例ではあるが、君の弟子であるヴィティスに託そう。彼は空間を跳躍する転移魔術に長けている。彼ならば勇者を連れ戻してくれるだろう」

 縋るようなフリューゲルの目にローズは微笑みで返す。

「ええ、すぐにヴィティスに任を言い渡すわ。……黄丹、フリューゲルの言葉の通りよ。これから貴方にも働いて貰うわ」

「承知致しました。ひとまず私は、引き続き邪竜の情報収集とオクルスの通達に専念致します」

「ああ、そうだな……。ワッツにも特任を言い渡しておこう」

 深々と息をつき、フリューゲルはやっとで己の前にあるティーカップを手に取った。黄丹が丁寧に淹れてくれたそれは、既に温度を失って冷たくなっている。

 この『談話室』の『お茶会』は、司祭の中でも限られた者のみの極秘の会議を行う場所だった。以前は四人揃っていたここも、正式に席につくのは今やフリューゲルとローズのみ。立ち合いを許されているのはフリューゲルの補佐かつ助祭である黄丹だけだった。

「我々の教団の規模は大きくなった。……だが、我々の真なる経典を知っているのは、年々減ってゆくばかりだな」

 自嘲のようにフリューゲルが苦く笑い、ローズはそれに何も答える事が出来なかった。



 あの『お茶会』、そして一気に老け込んだような昔馴染みの姿を瞼の裏に思い描きながら、ローズは一枚の紙をヴィティスに差し出した。

「ヴィティス、これは教団からの正式な任務よ」

「……任務!? 俺にですか!?」

 自分の分の紅茶、そして砂糖菓子を手に取ろうとしていたヴィティスは一瞬動きを止め、そして驚いたように声を上げた。勢いで立ち上がってしまったためにがたん、と椅子が音を上げる。

「ええ。貴方にしか出来ない、重要な任務よ。この依頼書をよく読んで、しっかりと把握して、……それから、準備に取り掛かりなさい」

「はい!」

 任務と聞き嬉しそうに返事をした青年は、師から渡された依頼書を手に取り冒頭からじっくりと読んでいった。読んでいく内に、青年の顔色が徐々に変わっていく。今まで彼がこなして来た小さな任務からすると、今度の件は天地が引っ繰り返るような大事なのだ。

「……あ、の。お婆ちゃん、これは……」

「師匠と呼びなさいと何度も言っている筈よ。ヴィティス、これは何かの間違いでも誇張でもないの。私達の教団の伝承は知っているわね?」

「知っている、けど……その、本当に……俺が、勇者様を……?」

 既に真っ青になっている弟子に、ローズはまた苦笑する。

「その通りよ。貴方はいつも己の得意分野で活躍したいと言っていたわね。それが正式に認められたの。喜びなさい、これはフリューゲル……土の司祭直々の任務よ。貴方は彼に指名され、選ばれたの」

「俺、が……フリューゲル様に……」

 そうして青かった青年の顔色は、またゆっくりと興奮の赤色に変化していった。

「道中、勇者の足取りを見失うかもしれないわ。けれどもフラッグを初めとしたオクルス達にも貴方に協力をするように達しがある筈よ。勇者の方もギルドで情報を集めるように動いているそうだから、ギルド内のオクルスに現地協力を仰ぎなさい」

「は、はい! あの俺、早速準備して来ます! 失礼します!」

「はいはい。――情報が入れば逐次連絡を……、……もう聞こえていないわね」

 ばたばたと急いで部屋から出て行ったヴィティスの背中を見送り、ローズはふうと息をつく。

 彼女の孫であり弟子であるヴィティスの得意とする魔術は、空間転移の術だった。他の魔術は軒並み平凡以下と言われているが、転移魔術にかけては天賦の才があるとまで評価されている。だがそそっかしい性格や単純な性根のためか、その魔術を今までただの便利な運び屋程度に使われていたのだ。位も助祭でもなく侍祭、そしてローズの補佐に甘んじている。師であるローズも、またヴィティス自身もそれは歯がゆい事であったので、この一件で彼が張り切るのも無理はない。

「……お探して、お招き頂く。無事にそれで終わるといいのだけれど」

 呟き、ローズは光の溢れる窓の外の庭に目をやる。緑の多い庭では、美しい花々がほころぶように咲いていた。

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