第3話 プールで金魚を掬うということ

 野崎が駅前から学校へと戻ってくる頃より少し前のことである。体育教師小寺と生物教師吉野は管理棟一階にある体育教員室で雑談をしていた。吉野が残業中の小寺に校内見回り代わりにやっといたよ、という報告をしにきたついでだった。

 小寺は新人ゆえ要領が悪く、様々な仕事を後回しにしてしまう。そんな彼女を慮って吉野は彼女の仕事で自分ができることを肩代わりしてやっていた。優しい先輩である。だが、優しさの中には大抵魂胆があるものだ。この雑談は魂胆の結果である。吉野は怪談をおどろおどろしく語ることを趣味としていて常日頃から、そういう類いの話を蓄えていた。けれどもその貯蓄は増える一方で、消費されることなく埃をかぶるはめになっていた。吉野はどうにかして語りたかった。ネットでもいいが、やっぱりナマの反応が見たい。できればわかりやすい反応をしてくれる人物のほうがいい。そういう欲求をみたしてくれる理想の人物が後輩である小寺であった。ここに魂胆がある。吉野にとってこの雑談は小寺の仕事を肩代わりしたことによる報奨なのだ。雑談のついでに怪談をする。怪談をして、小寺を怖がらせて、気分を良くして吉野は帰宅する。こういう因果が帰り際の雑談を生んだ。

 この日もそうであった。気合の入った吉野は雰囲気を出すために小寺の背後にある軽く閉まっていたカーテンをさらにすき間なくひろげ、そして電気をも消した。野崎が閉じ込められた頃である。それから低く、しかしよく透る霞み声で吉野は自作怪談をし始めた。それを聞いて小寺はぶるぶる震え始めたりはしない。じっと聞き入るだけである。たまに頬を撫でたりする。息を呑んだりもする。それから口をぽかんと開け始めればもう小寺は吉野の話術に嵌ってしまい、無言でうんうんと肯いて話の先を促すような素直な聞き手に成り下がってしまう。吉野は心の内でそれに満足しながらも雰囲気を崩さぬように注意して、淡々と終いまで語っていく。そうしてちゃんちゃんと吉野は締めて、ひぃと小寺は身を抱きしめた。満足そうに吉野は立ち上がり電気をつけようとすると、こんこんと戸が叩かれる音がした。

「ひぃ」と再度、小寺は悲鳴を上げる。吉野も訝しげな様子で戸に向う。ドアを開け半身を出して廊下を見る。室内の暗闇が廊下からの光によって弱体化させられた。それから吉野は首を傾げながら戸を閉めた。

「誰もいない。悪戯か」

「でも、だ、だれがそんなのこと」

「幽霊かもしれないな」

「ひゃ」と小寺が目を瞑る。怪談の副作用でもある。奇妙なことがより奇妙に思えてしまうのだ。第六感の暴走である。吉野はそんな小寺を満足げに眺めて、蛍光灯を瞬かせる。

「気にしなくていい。この学校はそういうところだ」

「どういうことですか」小寺は、目をぱちぱちしながら聞く。

「幽霊がいてもおかしくないってこと」と吉野は言いのける。

「……、この学校に幽霊っているんですかぁ」

「よく見かけるね。けど気にしなくていいんだ。だれも被害届だしてないから」

吉野は座っていた席の辺りを整理しながら言った。それから小寺にニコニコ笑いかけながら、残業頑張ってねと言って体育教員室から機嫌よく出ていく。独り残された小寺は酷く寂しい感じを胸に抱いた。残業どころではない。即刻、帰宅したい気分になっている。社会人一年目で初の仕事放棄を成してしまおうと小寺は考えた。考えるだけである。それを実際にすれば先輩教師方の熱い指導が待っているのだ。小寺は寂しさを身に纏いながら机に向った。

 吉野が去ってから十分ほど経った。仕事も一段落着いた小寺は異変に気がつき始める。中庭から何かの音がした。誰かが走り去るような音だった。小寺は少しためらった。まだ怪談の副作用が残っていたのだ。何かいるかもしれない。知らなくていいことかもしれない。けど、教師としてやっぱり気に掛かる。小寺は席を立ち、中庭に面する窓際に行く。カーテンをちょっと開けて、外を覗いた。無人の芝生があった。それだけなら良かった。プールの男子更衣室が光を発していた。小寺は驚いてカーテンを全開し、外を観察する。男子更衣室の電気がたしかに点いていた。小寺は自分が電気を消して戸締りしたことを覚えている。誰かがソコにいて、何かをやっているにちがいない。教師小寺は壁に掛けてあるプールの鍵一式をわしづかみ、中庭に面するアルミ戸を開け、教室棟側のプール入り口へと駆け出した。

 小寺は少々苦戦してから鉄扉を開ける。縺れるようにプール敷地内へと侵入した。早歩きで男子更衣室に向い、ドアノブに手を掛ける。開かない。鍵が掛かっている。小寺はにぎりしめていた二つの鍵から更衣室のものを探し出し開錠した。そっと小寺は中を覗く。

 誰もいなかった。バカなと思い、中へと入る。静寂が小寺の耳を打った。

「誰かいるの?」

 小寺は威嚇するように言った。仔細に周囲を見る。誰もいないようだった。隠れているのか。小寺はきょろきょろと顔を動かして移動する。端まで誰とも遭遇せずに至る。

 最後に残ったのは男子トイレであった。小寺はそろそろと戸のないトイレを覗いてみる。和式便所がぽかんと口を置けて存在していた。それだけだった。それを眺めながら小寺は腕を組み、どうして電気が点いているのか思案した。そんなことをしていると背後から抱きつかれることになるのだ。おかげで小寺はいかなる思考も不可能になり、口をぱくぱくさせて声なき悲鳴を上げる。

「つかまえた~」と少女の声がした。幽霊にしてはやけに明るい。小寺はおそるおそる後ろを見る。短髪の少女が背中に張り付いていた。それは野崎だった。

「え、な、なんで、野崎さんここにいるの?」

「分かんない。知らないうちに閉じ込められちゃった。小寺先生は助けに来てくれたの?」

「うん、まあそうかもしれないけど、なんで、閉じ込められたの。というか、離しなさい」

「えぇ~」と言いつつ、野崎は抱きつくのを止めない。男子トイレで密着する女性二人組というのも妙な光景である。彼女らはとりあえず男子トイレから抜け出した。それから野崎は自分が閉じ込められたのは忘れ物を取りに来たからと説明する。

「でも、どうしてドアが開いてたんだろう」

「分かんない。それより先生、また閉じ込められちゃうかもしれないから早く出ようよ」と野崎は抱きつくのを止めて、小寺の手を引く。小寺はその提案を飲み込み、さっさと部屋に二人のほかだれもいないのを確認し、電気を消して施錠する。野崎はここにきてようやく思い出したように叫んだ。

「さかなっ!」その甲高い声は小寺の耳に届いた。届きすぎたようでもあった。野崎はそんなことにおかまいなく続けた。「先生っ、さかなが居たんですよ!」

「どこにいたの?」

「あそこ、あそこ」と野崎はプール上空を指差した。彼女たちは目を凝らす。

「いないけど……」と小寺は事実を伝える。

魚はいなかった。野崎は信じられないように夜空を見ている。

「ほんと、どうしたの野崎さん。大会も近いのに」

「いや、あの、ほんとに居たんですよ」

そう前置きして野崎は詳細を語った。小寺はそれをうんうんと聞いて、妙なこともあるんだねと感想を漏らした。

「でも、どうやったって魚は空を泳げないけどぉ……」

「そうですけど、あの魚はスカイフィッシュだったんですよ。だから、空中浮遊が出来たんです。そうに違いありません」

「けどねぇ、スカイフィッシュって、ハエの……」

「違いますっ。スカイフィッシュは空飛ぶサカナですよ」

「……。まあ、それは置いとこう。肝心の忘れ物は見つかったの?」

「あっ、忘れてた……」

 野崎はプールサイドにあるだろう忘れ物を暗闇の中捜しに行った。その間に小寺は夏の宇宙を隈なく見てみる。何もない。星が瞬いているだけだった。小寺は腕を組んで野崎が暗中模索を行っているのを目で追いながら、こんどこそ思案する。

 魚が居たと言っている野崎は疲労で幻覚でも見たのだろうか。しかし、あの感じだと疲れてなさそうだ。今日の練習も笑顔で済ましていた。となると野崎は嘘をついているのか。そもそもなぜ野崎は閉じ込められていたのだ。あの更衣室は内部から鍵を掛けられない。となれば、野崎は確かに何者かによって閉じ込められたのだ。なんだか妙だ。野崎を一人閉じ込めてどうする。いじめだろうか。それなら教師としてどう対応すればいいのだろうか。でもあの野崎がいじめられるとは考えられにくい。みんなと仲良くしている明るい野崎だ。同級生から、そして後輩からも慕われている。というか野崎はたまたま忘れ物をしたのにどうして閉じ込めることが出来るのだろう。野崎が来ることを知らない限り、閉じ込める事はできないような気がする。それ以前に鍵はどうしたんだ。どこから持ってきたんだろう。やっぱり、妙だ。分けがわからない、うんぬん。うんぬんとしたのは、これ以降小寺の思索が絡まったことを表現するためである。小寺は絡まった思いによってぼーっとなった。考える事はあまり得意でないのが小寺である。得意でないと分かっていても考えてしまうのも小寺である。それで夜空がきれいだなあと結論付けて思考を停止した。確かに綺麗な星空だった。銀河がよく見えた。

「あった~」と野崎はにこにこして小寺のもとに駆け寄り、ハンドタオルを見せびらかした。良かった良かったと小寺が言って夜の捜索は終わった。

だが、怪奇はまだ終わっていない。

 魚が飛んだ翌朝、小寺は早めに出勤した。前日の少し残った仕事を終わらすためであった。それは十分程度で終わった。朝だから効率が上がったにちがいないと小寺は推測する。そんな小寺は暇なので昨夜のことをぼんやりと思い出していた。それからあの一連の出来事は誰かの悪戯だったかもしれないと思い至る。先月の文化祭のときも妙ないたずらがされていたのだ。この高校にはそういうとこがある。ただどうやったかは不明だが。まず確かなのはプールに人が居たことだ。誰かが走り去るのを耳にしていた。これが人の存在を証明する、はずである。けれど鍵の問題がある。セキュリティ上の要請からそう簡単に鍵は持ち出せない。生徒がここから鍵を持ち出して合鍵を作るなんて不可能のように思えた。小寺は椅子を軋ませて、天井のシミを見つめる。思考が滞り始めたのだ。こういう場合の対処法を小寺は知っている。うだうだ考えるのをやめて行動してみる。小寺は昨夜の事件現場に向かった。

 鍵を開けて昨夜と同じようにプール敷地内に入る。早朝の日差しが芝生の薫りを立ち上がらせていた。この匂いをかぐと小寺はいつでも夏を感じる。清々しさを胸につめ込んで無人のプールサイドに上がる。プールから湧いた分子が嗅覚を刺激した。周囲の木々が呼吸しているのも感じられた。これは少しいいかもしれないとしみじみ思う。こういう場は学校にしか存在しないのだ。この夏のプールを満たす郷愁は教師と生徒の間でしか感じ取れない。なんとなく小寺は自分が教師になったのだと自覚した。そうなれば少し泰然とした気分になる。鼻歌も歌いたくなるものだ。小寺は実際唸るように流行の歌を吟じた。音程は少々イカれている。小寺はそんなことには気がつかない。ふんふんという感じで、プールサイドを巡る。昨夜と同じくプールサイド上のモノが移動した感はない。おかしなところは見当たらない。ざらついた地面から目を転じて、プールを見る。

 透明度の高い水がきらきらと朝日を反射していた。揺らめく水面に少し気を取られる。小寺は立ち止ってその水面を眺めた。綺麗だった。満足の行く景色である。写真に収めたいとも思える。ああ、アソコの金魚がアクセントになるな。小寺は泰然と金魚の存在を認めた。金魚は池にいてもおかしくはないが、プールに相応しい物ではない。ここはプールであって池ではない。したがって、金魚がこの巨大な水溜りで優雅に泳いでいるのはおかしなことである。小寺は数十秒後にその真理に至った。それからあたふたし始めて、どうしよう捕まえようと結論付け、落ち葉取り用網を器用に用いて金魚を掬った。スケールの大きい金魚掬いである。網に掛かって跳ねている金魚を確認して、小寺はこの学校はやっぱり妙なところだと心の底から思うのであった。

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