第2話 空っぽな校舎

 忘れ物は帰り路に思い出すものだ。野崎もその例に漏れない。彼女は忘れ物をした、と共に下校していた部活仲間たちに伝えて慌てて学校へと引き返していった。学校の最寄り駅前でそれを見た友人たちはめずらしいと笑った。

 スマホをポケットから取り出し時刻を確認してから野崎は迷うことなく管理棟一階にある職員玄関へと向かった。そこには来客用窓口があり、その窓口は事務室に通じている。

 野崎が探しに行かなければならないのはプールだった。プールへ行くためには鍵が必要であった。水泳部顧問の小寺がプールの戸締りを部活終了時に済ましていたからだ。その鍵は事務室と体育教員室にある。野崎は事務室で借りることにしたのだった。

 事務員の斎藤に訳を話し、野崎は鍵を手に入れた。彼女は荷物のリュックを来客用玄関の隅っこに置いてから外へと出た。管理棟と特別教室棟の狭間を通って中庭へと至る。

 日はようやく暮れていて芝生の上には静かな深い暗闇が広がっていた。野崎はぼんやりと周囲を見回す。誰もいない。物言わぬ校舎が左右にあるだけだった。

時はすでに午後七時半を回ろうとしていた。善良な生徒たちは校舎から追い出され、ほとんどの教師も帰路についている時刻である。人がいないのは当然であった。一つ息をついて野崎は背後にある管理棟からの微かな明かりを頼りに、中庭中央にあるプールへと向う。

 プールには三つの出入り口がある。その内の特別教室棟側に設置されている扉から野崎は侵入を試みた。鍵を挿しこみ、回す。開錠の音ともにぐっと押すと存外、滑らかに鉄扉は開いた。野崎は靴を脱いで引き込まれるようにプールへと入っていく。

 野崎の目に入るのはいつもの光景である。しかし、暗さが彼女にとっての日常的な感じを致命的に破壊していた。野崎には世界がまるで違うように感じられた。集団用シャワーに人が吊られていてもおかしくないような気がするほどだった。だが、当然 そこにはだれも居ない。

 野崎は興味を持って周りを見回す。野崎の正面左手、すなわち体育館側にはプールに至るための五段ほどの階段があり、右手の管理棟側には鉄筋コンクリート製のシンプルな平屋があった。その平屋は耐震性に難がありそうだが、誰もなにも気にしない。そこには男子更衣室とボイラー室が入っている。

 野崎は男子更衣室の戸を開けようとしてみた。誰かが居るかもと感じたからであった。戸は開かず、鍵が掛かっていた。ここも当然のごとく小寺が閉めていたのだ。野崎はがっかりした面持ちで、プールへの階段を上り始めた。だが怪奇はもう始まっている。

 プールサイドを数歩だけ歩き、野崎は立ち止る。音がしたのだ。虫の鳴き声か。違う。別の何かだ。野崎は周囲を警戒する。プ-ルの水面を見た。何もない。宇宙が波打つような水面があるだけだった。プールサイド全体を見回す。日中と変化は無かった。プールを囲む木々は何も語らずに佇んで居る。

野崎は男子更衣室に背を向け体育館の方に目を向ける。街からの微かな光が電気の消えた体育館をぼんやりと照らしていた。もうだれもいないのだ。こんなに暗くなったのだから。そう思い、空を見上げる。いた。

 

 魚だ。魚がいる。

 

 夜空の中を悠然と魚が泳いでいた。かなり大きい魚であった。全長1メートル以上はありそうだ。それがふらふらとプール上空を行き来している。

野崎はじっとそれを観察する。暗闇の中でも目立つその特徴的な形状が、その魚をシーラカンスだと示した。なぜ深海のシーラカンスが空を泳げるのだ。ナンセンスだ。普通はそう感じ、さまざまな疑念によって場当たり的な仮説を立て始めるのだが、野崎は違った。不思議に見えることに滅法弱いのが野崎の特徴である。心を奪われてドキドキした胸を抱きながら、じっとその光景を見つめていた。夢見る少女の佇まいである。

 手品にせよ、心霊現象にせよ、タネがあろうがなかろうが、度の外れた不可解な現象に立ち会うとき、人は恍惚に似た状態に陥る。言葉が出なくなるのだ。その現象を説明しうる言葉や論理を捜すため、世界に接する自己は停止してしまう。外界から見ればこれほど油断した状態はない。これは危険なことである。急襲されたときの反応が鈍くなり、致命的な損傷を得てしまう可能性が高くなるからだ。そうとなれば、この恍惚時間を短縮していくことが大人になっていくということであろう。好奇心の発露を一瞬に留め、思考を停止するか、場当たり的な仮説を立てるようにすればこの恍惚時間を短縮できる。多くの大人は確かにそうやって事を済ましている。だがこうした知的恍惚に陥るとき、人は悦楽に浸れる生物でもある。この快感を得るためにわざと現象に没頭する人種もある。その一人が野崎なのだ。彼女はただただシーラカンスが空中を泳いでいるという現象に埋没した。息も遠慮するようにして、じっとその現象に寄り添い、己の好奇心に身をゆだねて、地に足つかぬ論理を演繹し、世界を再構築していく。

 あのシーラカンスは、スカイフィッシュの仲間にちがいない。野崎がそう思い始めた頃、また音がした。戸が軋むような音であった。野崎は好奇心の湯から上がって、背後を見る。

男子更衣室の戸が開いていた。そこから誘うような光が漏れ出でている。野崎は警戒をする。おかしさが耳鳴りとして現れてきた。先ほど確認したとき男子更衣室の鍵は確かに閉まっていた。

 野崎は夢の中の足取りで近づき、そっと男子更衣室を覗いた。無人の室内を蛍光灯が煌々と照らしている。木製のロッカー、敷き詰められたすのこ、剥き出しのコンクリート壁、戸のないトイレに、仕切りだけのシャワーたち。まさに男のための更衣室。粗末な施設である。

「誰か、いますかぁ」と野崎は心細げに虚空へと声を発する。返事はなかった。おそるおそる室内へと彼女は侵入する。周囲を見回す。あった。

 部屋の中央にB5サイズの白紙が落ちている。野崎は近づき、手にとった。裏面に文字が書いてあった。

「今夜は、スカイフィッシュにうってつけの夜です……」

 途端、世界は暗転する。野崎は小さく悲鳴をあげて、身を屈めた。じっとする。何もこない。立ち上がって、暗闇を凝視する。人の、生物の存在は感じられない。第六感が鋭敏になり、様々な現象が勝手に予見されてくる。野崎は一つ大きな呼吸をして、とりあえず電灯を点けることにした。そろそろと忍び足を使って、暗がりを移動する。誰も何もいない。ドア際のスイッチパネルへとたどりつき、かちりと電気を点ける。蛍光灯は瞬いてがらんとした室内を照らす。佇んで野崎は周囲を眺める。誰もいないようだった。

 冷静さを取り戻した野崎は、撤退することを思いつく。未知の現象に対する最も原始的で、最も有効な行為である。これが反射的に行われるようになれないと野生の世界では生きていけない。

 野崎は側のドアを開けようとする。開かない。どれだけがちゃがちゃやってみても、開かない。冷静さを辛うじて失わなかった野崎は駆け出して反対側のドアへと向う。祈るような気持ちで取っ手を捻る。回らない。

 そうか、と野崎は気がついた。

 閉じ込められたのだ。

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