第4話 シビルはなにを見たのか?
妙な事ほど良く広まるものだ。その奇妙さが身近で現実味を帯びているならばなおさらである。金魚が水泳の授業中に見つかるという珍事は放課後までには全校生徒の常識とまでになっていた。小寺は一匹見逃していたのだ。残る一匹を見つけたのは黒瀬だった。彼のへその辺りをふらふらと泳いでいたのを彼の級友が発見して、大騒ぎになった。黒瀬は冷静に金魚を捕獲し、教師に献上した。おかげで二匹の金魚は特別教室棟三階にある生物室の狭い水槽で仲良く泳ぐはめになった。
金魚がプールを遊泳するというのは本格ミステリーとは言えないまでも、現実的問題としては十分に謎めいた出来事である。山田が騒ぎ出しそうだと黒瀬は金魚のフンが浮いているかもしれないプールの中で推測した。放課後彼がミス研部室に赴いたとき、それは事実として提示された。
「ろっくん、遅い!」とソファにくつろいで座る山田が入室してきた黒瀬に吼えた。中田はすでに自席でクリスティと戦っていた。
「ちょっと暑かったんで」と脈絡の無い回答を黒瀬は行う。
「まあ来たから良いほうね。とにかく捜査、捜査!」と山田はニコニコしながら言う。
「はあ、一体なに調べるんっすか。期末の問題でも探すんですか?」
「そんな下等な事はしません。それは期末すら怪しいバカのすることで、バカでないチョー天才美少女のわたしはしなくていいの。素晴らしいロジック。それよりもしらばくれてんじゃないの、ろっくんが金魚見つけたんでしょ」
「はあ、金魚くんは確かにおれのへそに纏わりついてましたけど。アイツとのかかわりはそれでお終いでしたよ」
黒瀬はそう答えながら中田の対面にある自席に腰掛ける。
「それはお金で買えない関係だから大切にしときなさい。というか金魚は二匹いたらしいの。ろっくんのへそのごまを食べてた奴と小寺先生が早朝掬った奴。金魚がプールに放されるって前代未聞じゃない? 金魚のフンを飲み込んじゃってたらどうすんのさ」と山田は立ち上がり威勢良く話し始めた。
「そりゃあ、また出すしかないんじゃ」と黒瀬は本を通学鞄から取り出しつつ答える。
「そういうむかつくことをするような奴は縛って炎天下の中庭に放置するべきでしょ。だから、捜査するの! 分かった?」
山田は黒瀬に近づいて言った。
「どうぞ、ご自由に。おれは中田と留守番しますよ」
黒瀬は文庫本を開きながら興味なさ気に受け答える。高校入学後初の期末考査八日前であるのにもかかわらず、教科書ではなく文庫本を開くとはなかなかの胆力の持ち主である。
「捜査には人員が必要で、留守番は最小限でいいの。つまりろっくんも行かなきゃならないの。そんなのも分からないの? バカなの?」
山田は黒瀬の手から本を取り上げて、そう宣う。文庫本を取り上げたのは決して教育的配慮からではない。黒瀬はため息をつき頭を横に振った。
「はあ、わかりましたよ。さっさと犯人を見つけて、金魚のフンを食わしてやりましょう」
「さすが、ろっくん。バカだけど優しいね」
山田は笑顔でそう黒瀬を評する。人の優しさに甘える奴のほうがバカだ、と腹の中で思うのが黒瀬である。表情にも口にもそんな気を見せずに山田の後をのこのこ附いていくのも黒瀬である。彼らは部室を出て金魚の由来を求めに行くことになる。
七月初旬の青空を頂いて山田と黒瀬はとりあえずプールに向かった。山田は加害者が現場に舞い戻ることを信じているらしかった。それだけではない。山田、曰く。
「よく考えれば、学校のプールに金魚入れられる人って限られるじゃん。先生か、生徒か。それでさ、水泳部以外の先生と生徒は授業でしかプールに入れないわけでしょ。授業中に金魚を放流できるわけないじゃん。ということは水泳部関係者が一番怪しい」
「そうっすね」と黒瀬は気の抜けた返事をした。
彼らは部室棟から出てから技術家庭科棟と特別教室棟の狭間を抜けてプールのある中庭へと至る。プールは高さ3mほどの木々で囲まれていて敷地内の様子は窺えない。そのとき外部から知ることができるのは笛の声と水の掻き乱れる音だけだった。 山田は昨夜に野崎が侵入したプール入り口へと向かう。黒瀬はその後ろをたらたら歩いてついていく。ろっくんおそいっと叫びつつ山田はプール敷地内に侵入し小寺を探し始める。黒瀬が山田の下についた頃には、小寺は山田に捕まっていた。
「ねえ、ほんとに金魚いたの?」
「いたよ。いま、生物室にいるから見に行くといい。それとちゃんと敬語使いなさい」と小寺は半袖短パンで教師面をする。
「では、いつ金魚を発見しましたか」と慇懃無礼な感じで山田は尋問をつづける。黒瀬はプールの方をじっと眺めている。健全な男の欲望の結果である。それに気がついた山田は、なにガン見してんのと黒瀬の頭をはたく。黒瀬はいてぇと呟き、小寺は腕時計を見ながら思い出し顔で答える。
「今朝、七時ぐらいかな。ふらふら泳いでたんだよね」
「なにか奇妙な点には気がつきませんでしたか」
「そうねえ、全部がヘンだと言えばそれまでだけど。一番ヘンだったのは昨日のことかな。関係してて欲しくないけど……」
「昨日、なんかあったの?」と丁寧さを忘れた山田は小寺に食いついた。黒瀬はその隙に、プールサイドで休憩している人々に目を向ける。
「あったんだけど……。よくわかんないんだよね。野崎さんが見たっていうんだけど。金魚じゃないかもしれないし」と小寺は頭を抱えてぶつぶつと呟く。
「なるほど。じゃあ野崎先輩に聞けばいいのね。のざきせんぱーい」と山田は大きく空気を震わせて、野崎を呼んだ。プールサイドに座る人々の群れから、一人小柄な女子生徒が立ち上がって山田たちのところへとぺたぺたとやってくる。水泳部員の注目が彼らに注がれた。黒瀬はやむなく水着鑑賞を止めて、空を見上げる。
「どうしたの、やまだちゃん?」と笑顔で野崎は山田に聞き、ついでに山田の頭をごしごしと撫でる。
「昨日、ヘンなことなかった?」山田は自分の髪を撫でつつ、野崎に問う。
「あった!」
「どんなんこと?」
「えっとね……」と野崎は昨夜の出来事を話し始める。シーラカンスが夜空を飛んでいたことだ。山田は神妙な顔つきでその証言を聞いた。黒瀬は気だるそうに青空を見上げていた。
「それ、なんてミステリー」と山田は感想を漏らす。
「違う。あのシーラカンスはスカイフィッシュなんだから不思議じゃないよ」
「スカイフィッシュなら尚更ふしぎ」
「そうかな」と野崎は濡れた髪を揺らす。山田は考え込むように地面を見つめる。その間を利用して小寺は意を決したように、勝手に昨夜のことを語り始める。吉野との雑談。音源のないノック。誰かが中庭を横切った音。それから、野崎の救出。それらのこと話し終えて小寺は一つの仮説を打ち立てる。
「あのね、これって文化祭のときみたいなイタズラだと思うんだけど」
「どうして?」と野崎と山田は揃って小寺に聞く。
「昨日の夜、誰かの足音を聞いたんだよ。だから、野崎さんを発見できたわけ。あの芝生を駆け抜けるような音が無ければ外を見なかっただろうし。それでね、その足音というのは人の存在を示してるわけじゃない? それだと、やっぱり誰かがやったとしか考えられなくない?」
「う~む。経験から言えば、そうだとおもえるけど」と山田は眉間に皺を寄せて呟き、
「じゃあスカイフィッシュを放し飼いにした人たちがいるわけか」と野崎はあっけらかんと言う。黒瀬はぼけぇと突っ立って三人の態度を見つめている。木々にひっついているセミの声がよく響いた。その乱雑な交響曲は小寺に自分が水泳部顧問であることを気がつかせ、加えて部活中であることを思い出させた。そうして小寺は山田と黒瀬を追い払って野崎と共に水泳練習へと戻るのだった。戻った野崎は暇な部員たちに囲まれる。何を話していたのかと尋ねられた。野崎は嬉々として昨夜に見たスカイフィッシュについて語りだす。こうして徐々にスカイフィッシュの噂が広まっていくのである。
追い払われた山田は首を傾げながらなんかふくざつ、と呟いた。黒瀬は名残惜しそうにプールを囲う木々を見つめてから提案した。
「とりあえず生物室に行って金魚でも見ましょう」
「そうね。吉野先生なんか知ってるかもしれないし。昨日の幽霊ノックも気になるし」
山田はそう同意して、さっさと特別教室棟への扉へと向かった。黒瀬もその後に続く。こうして彼は炎天下から逃れることができた。
生物室は特別教室棟三階の端に存在する。山田たちは特別教室棟の中心に位置する階段を用いた。涼しいですねえと黒瀬は階段をのぼりながら呟いた。風鈴の音を聞いてそう呟くなら風流であるが、クーラによってそう呟くのだからいやしさがにじみ出るだけのことである。山田はう~んと唸って、口を開く。
「ほんとにさかなが飛んでたのかな。どうおもう?」
「さあ、どうでしょうねえ」
「というか、さかなってそもそも飛べるのかな」
「トビウオは飛べそうな名前ですけど」
「ねえ、ほんとどうなってんだろう。わけわかんない」そう弱々しく山田は呟く。
「そうっすねえ」となんだかにやけた感じの返事を黒瀬はした。
「なんか気付いてるんでしょ!」
「整理しましょ」
「何を?」
「問題点を。何が問題なのか。それが分かればだいたいのところが分かるっす」
「どういうこと?」
「そうっすね。二人の話を要約しましょ。どれぐらい覚えてますか?」
「えっと。野崎先輩は飛ぶ魚を見て閉じ込められた。小寺先生は幽霊ノックを聞いたあと、誰かの足音を聞いて野崎先輩を救出した。それからプールに二匹の金魚を発見した、だったかな」
「そうです。そこまで分かってるなら色々分かるはずです」
「分からないから聞いてるんでしょ?」
「じゃあ小寺先生の仮説を考えてみましょうか」
「それって誰かのイタズラだってこと?」
「そうです。それが一番妥当な考えじゃないっすか?」
「そうだけど、だれがどうやったのかわからないじゃない。それに動機もわからないし」
「猜疑心を深めれば良いんです。勝手に関係を繋げていきましょう。そもそもこの一連の出来事は連続か。つまり誰かがすべて何らかの意思をもってやったものか、そうでないか」
「そんなのわからなくない?」
「分かりそうにない。そういうときはつながりが深そうなところを考えてみましょう。一番は金魚とシーラカンス、それから監禁。これらは共にプールで起きたことです。関係が深そうだ。おそらくですが野崎先輩をあのむさい更衣室に監禁した人物と金魚をプールに放った人物は同一でしょうね。というのはその人物はプールの鍵を持っているから。でなければ野崎先輩を閉じ込める事はできない。それでその人物は鍵を持っているので、人の居ないとき自由にプールに侵入して金魚をプールに放流できる」
「じゃあ、シーラカンスはなんなの? それも誰かがやったっていうの?」
「ええ、まあそうでしょう。でなければ自然法則を少し変える必要がありますね」
「でも、どうやってさ?」
「どこかでさかなを支えていたはず。どうやって支えていたのかはもう一度野崎先輩に聞く必要がありますけど、まあ、だいたい予想はつきます」
「ふ~ん。じゃあ、ノックとか足音とかはどうなのさ」
「そっちはまだ分かりませんな。とにかく吉野先生に幽霊かどうか確かめて見なければ」
「そうかあ。かなちゃんがいると分かりそうなものだけど」と言い合いながら彼らは三階にたどり着き、音楽室から響く吹奏楽部の演奏を背負いつつ、生物室へと向かった。
生物室にはほこりとホルマリンが微かに漂っている。その部屋の中で吉野は金魚にエサをやっていた。金魚はその浮遊物に興味なさ気にふらふらと泳いでいる。それが食べられることに気が付いていないに違いなかった。吉野がどうしようかとぼんやり思案に暮れていると扉が開いて山田たちが侵入してくる。
「ねえ、それってプールにいたやつ?」と山田は水槽に近づきながら言う。
「そうだ。彼らは今断食の最中なのかもしれない」
「どうしてっすか?」と黒瀬は吉野の背後に立って聞いた。
「エサを食べてくれないんだ。まあ、死にそうになったら食べてくれるだろう。かれらの自由だ。我々はどうすることもできない」
「ふうん。けど死んだら困るな」
「どうして」と吉野は面白そうに尋ねる。
「だって証拠が消えちゃうじゃん。もしかしたら指紋付いてるかもだし」
「うろこに指紋はつかないでしょ」と黒瀬はふよふよ泳ぐ金魚を眺めながら反論した。
「そうかなあ」
山田はどうでもよさ気に答えつつ、水槽の中身を観察している。そんな闖入者たちの様子をにこやかに吉野は見ている。平和な時間である。山田は金魚が水槽を往復した辺りで用件をようやく思い出した。
「そういえばこいつらどこから来たかわかる? というか、だれが放流したのか知ってる?」
「さあ、知らない。どちらもどうでも良いようなことに思える。考えるべき事はほかにたくさんあるよ」
「でも気になるじゃない。金魚のフン飲まされたかもしれないし」
「金魚のフンぐらいどうってことない。マラリアぐらいじゃないと考慮に値しない」
「ふんむ。そうかもしれないなあ」
「さて、私は君たちのためのテストを職員室で作らないといけない。今日は科学部がこないからここを閉める必要がある。金魚たちには自活をしてもらうことにして、我々はここから退散しよう」と言って吉野は戸締りを始める。山田はすごすごと教室から立ち退き、黒瀬は生物室全体を観察しつつ雑多な生物模型を認識しながら教室の外へと出た。吉野は最後に教室のスライドドアの鍵を閉めて職員室に向かおうとした。黒瀬がそれを阻む。
「先生、最後にちょっといいですか?」
その言葉を聞いた吉野は立ち止り黒瀬を見る。山田はぼんやりと二人を見る。
「どうした? 黒瀬、あの姉になんかたのまれたか?」
「いや、姉ちゃんは関係ないっす。昨日、小寺先生に怪談をしたんですよね?」
「ああ、したな。とびっきりのをしてやった。小寺先生に聞いたのか」
「はい。聞きました。それでですね。その後、ノックがあったらしいじゃないですか。そのノックは幽霊がしたようだというのは本当ですか?」
「さあ。少なくともわたしはノック主を見なかった。それだけだ」
「そうですか。そのとき校舎に生徒がいたと思いますか?」
「いなかったんじゃないか。わたしはその直前に見回りしていたよ。生徒は見なかった。あの時間だと教師も帰ってる頃だ」
「なるほど。もう一つついでに聞きたいんですけど、シーラカンスってどのぐらいの大きさなんですか?」
「そうだな、だいたい体長1.5mだ。ちょうど山田ぐらいの大きさだな。それがどうしたか?」
「いや、テストに出るかなと思いまして」
「出ないよ。じゃあな」吉野はそう笑って立ち去った。残された二人はぼんやりと突っ立っている。少しして山田が口を開く。
「ひらめいた」
「なんすか?」
「犯人、吉野先生だわ。わたしの勘がそうささやいてる」
「まだ叫んでないんですね」
「うん。まだ栄養がたらないみたい」
「じゃあ、証拠不十分で無罪にしておきましょう」
「うん。そうしようかな。というか、次、どこ行く?」
「そうですねえ。もう部室に帰っても良いような」
「だめ。まだ何も釣果を得てないじゃない。坊主じゃない。かなちゃんに申し訳ないよ」
「じゃあ、野崎先輩のところにもう一度行っておきますか」
「どうして?」
「スカイフィッシュの飛び方を確認しないと」
「なるへそ」
ということで、彼らは再度プールへと向かった。無駄の多い人々である。暇人はたいてい無駄な動作をするものだ。なにせ時間を持て余しているつもりなのだから。
彼らはプールに再度侵入して、ちょうど休憩中であった野崎を呼び出した。
「はいよー」と言ってやってきて、野崎は山田の頭をごしごし撫でる。飼い犬に対する主人の態度だ。
「そこにいる男が聞きたいことあるんだって」と山田は黒瀬を指差して言う。
「なになに? というか、きみさっきもいたよね。だれなの? わたしのやまだちゃんの恋人?」と言いつつ野崎は山田の耳たぶを掴む。黒瀬はそんな野崎の鼻を強いて見るようにして、
「一年の黒瀬と言います。それでですね、昨日のことなんですけど、シーラカンスはどう飛んでました? つまり、プールのレーンに平行だったのか、垂直だったのか、ということです」と言った。
「そうだなあ。どちらかと言えば垂直だったよ。つまり、教室棟から出てきたような感じだったかな。何でそんなこと聞くの?」
「はあ、それはですね、スカイフィッシュの放流もとを探り当てようとしてるんです」
「そうなの! それなら協力を惜しまないよ。どんどん頼ってよ!」と言って、野崎は山田の耳たぶから手を離し黒瀬の手を握って笑顔でぶんぶんする。
「ええ、まあ……」
黒瀬はあやふやになりながらつぶやく。水着少女との接触は初めてなのだろう。そんな黒瀬を見かねてか遠くにいる小寺が野崎を呼ぶ。野崎はじゃあねと言い、風を残してその場から立ち去った。山田は己の耳たぶをさすりながらプール上空に目を向けた。
「ということはあっちからあっちにさかなちゃんは泳いでいったってわけか」と山田は教室棟から技術家庭科棟のあいだに指をさまよわせる。その二つの棟の狭間にプールが存在する。黒瀬はにまにましながら、予想通りですと事後報告する。
「じゃあ、あやしいのはあそことあそこか」山田は技術家庭科棟三階と教室棟三階の端を指差して言った。
「どっちからいきますか?」
「う~ん。けどさ、どっちみち無理じゃない?」
「どういうことですか?」
「だって、最終下校時刻後になったらどっちも施錠されるんだよ。侵入できないじゃん」
「まあ、それは置いときましょう。なにか仕掛けがあるかもしれないし」
「そうねえ、仕掛けか。トリックを見破るためにも現場に赴かないとね」
「そうですよ。さあ、さっさと済ませましょう。そろそろ中田が寂しがる頃だ」
黒瀬はそう言いつつ、近くにある技術家庭科棟へと向かう。
「う~ん」と言いながら山田は黒瀬の後をとことこ付いていった。
技術家庭科棟は三階建てで、一階に工作室、二階に調理実習室、三階に被服室を擁している。それぞれには、工作部、料理研究部、手芸部が巣食っていた。彼らは手芸部の根城へと向かうことになる。山田を先頭にして、トンカチ、電動ノコギリのシンフォニーを身に受けながら、階段を制覇していき、彼らは三階へと至った。その扉には手芸部と可愛らしく書かれたダンボール製の看板が掛かっている。ガラス張りの戸から見えるのは談笑する女子生徒たちやら、ミシンを使用してなにやら作業をしている男子生徒やらである。なかなか生産的な時間を過ごしているようでもある。山田はそんな光景には興味が無いらしくドアの鍵の部位を観察していた。
「これは、まだピッキング出来ないなあ」
「まだじゃなくて一生しなくていいっすよ」
「でも、ここの鍵が使えないとなるとピッキングするしかないじゃん」
「前提を疑いましょう。つまり鍵は使えたというわけです」と言いながら黒瀬はドアを開ける。涼やかな風が二人を撫でた。それから被服室独特のほこりっぽさも彼らの鼻腔を刺激した。おかげで山田はくしゃみをすることになる。それで彼らは談笑していた人々の注目を買うこととなるのだ。
「山田じゃん。どうしたん?」とその中の一人が立ち上がって山田のもとへと歩いてくる。
「いやあ、りさちん、ちわっす」山田は鼻を擦りつつ応対する。
「うん、ちわっす。今日はソファで読書してないの?」
「うん。ナゾがわたしを呼んでてね」
「またまた、ヘンなこといいやがって」と高木りさは笑う。
「今日の金魚だれがやったか、気にならない?」
「そんなの気にしなくていいじゃん。文化祭も終わったし期末のほうが気になる。で、何しに来たの? 金魚のこと知ってる人はここにはいないけど」
「じゃあ、シーラカンスは?」
「あぁ、昨日飛んでた奴でしょ。部内で少し噂になってたよ。でもうそ臭いよね。だれがなんのためやったのか、意味わかんないし」
「うんうん、そのとおり。で、それが金魚だったんじゃないかと思うわけですな」
「はあ? またわけのわからないことを。山田はそろそろ本ばっか読まずに現実に立ち向かった方がイイよ。このままじゃアッチ系の人になるぞ」
「ならないよ! とにかく、魚がここに来たらしいからすこし調査させて」
「意味わかんないけど、静かにやってね。今夏合宿にむけての会議中だから」と言って、高木は山田の頭を撫でたのちに自席へと戻る。黒瀬は早速、中庭側の窓際に向かった。山田もその後ろについていき調査を開始する。といっても指紋等を採取するわけでもない。ただ、窓の桟に積もった埃を指でなぞったりするだけである。黒瀬は教室棟側を眺めながら窓に沿って歩む。山田は教室の真ん中辺りに突っ立って中庭を眺める。木々がふさふさと揺れるのを見て今日は風があるなと山田は思う。そんな山田に黒瀬は小声で言う。
「ここがいいですね」
「はあ?」
「ここから向うに橋渡しすれば、ちょうど男子更衣室側とは逆サイドにシーラカンスがうかぶことになる」
「なになに、どういうこと? 橋渡しってなにさ」
「つまりですね、ここから何らかの方法でピアノ線か何かを向うの教室棟まで持っていって、橋にしたんです。魚が泳げるように」
「……、あぁ、なるほど。魚を吊るすためにひもを渡したわけね」
被服室から向かい側の教室までの直線距離40メートルほどだろう。黒瀬にとっての問題は、どのようにして糸はプールを越えたのかだった。この峡谷渡るためにはどのような工夫を施せばいいのか。黒瀬はそれを考え始めた。そんな黒瀬に見習ってか山田は小ぶりの頭蓋骨を抱えながら、う~んと考え始め、それから一つの反論をする。
「とはいえさ、放課後ここは鍵閉められるわけでしょ。侵入不可能じゃん。どうするの?」
「鍵をかけ忘れたとか、そんなんじゃないっすか」黒瀬は投げやりに答えた。
「そうかなあ。ちょっと聞いてみるか」と言って、山田は高木のところへと向かう。 質問を聞いた高木曰く、昨日は早めに吉野がやってきて、しっかりと戸締りをしていたとのことであった。他の手芸部員もその言葉にうんうん頷き、賛同を示した。それから、彼女らは何をしているのかと山田に問うた。山田は野崎の見たシーラカンスについて話した。こうして噂は広がっていくのだ。手芸部員たちは不思議だと異口同音で語り合い、結局は胡散臭いよねで終わる。ネットでつぶやくほどでもショート動画を撮るほどのことでもない。山田はなんかあったら教えてねと彼女たちに言ってから頼りない仲間の下へと帰った。黒瀬は対岸の教室を観察しながら戻ってきた山田に聞く。
「どうでしたか?」
「閉めたってさ、吉野先生が」
「へぇ、そうおっすか」
「ろっくんの推理はくさっちゃったね」
「そうかなあ」と黒瀬はにまにま顎を撫でつつ、空を見上げて答える。ヘリが音をたてずに空の道を渡っていた。
「なんか反論あるの?」と山田は不思議そうに泰然とした黒瀬を見やる。
「いや、鍵って合鍵とかつくれないんですかね」
「さあ難しいんじゃない。職員室から盗み出さないといけないし」
「生徒がやるのは無理っすね。じゃあ吊るすのは難しいか」
「じゃあさ、たぶん野崎先輩目悪いからカラスかなんかと見間違えたんだよ、きっと」
「それだと、どうして野崎先輩が閉じ込められたのか、が説明できません」
「簡単だよ。閉じ込めた人はろっくんが言ったように金魚を放流した人。野崎先輩が居たら邪魔になるでしょ。だから、閉じ込めた。それだけ」
「めずらしく冴えてますね。金魚を放流した人がなぜ鍵を持っていたのか、はどう考えますか?」
「先生だったから」
「もしかして」
「そう。吉野先生がプールに金魚を放流したの、きっと」
「へえ。そうなると動機はどうなるんですか?」
「知らない。イタズラしたかったんでしょ。もしくは怪談ネタの種まきとかじゃないかな」
黒瀬は目を瞑って、顎を撫でる。山田はそんな黒瀬を斜め下から見上げる。この男は考えたりするとき、いつでもこうするのだ。そういった日常的なものを見て山田は何となく安心した。黒瀬は薄目を開けて呟くように論じる。
「筋は通ってますね。しかし、二つほど仮定を忘れています。第一に、吉野先生は野崎先輩が監禁された頃だと小寺先生に怪談話をしていたこと。第二に、プールの鍵は二つしかないこと。つまり、体育教員室と事務室に置いてあるものだけだということ。これらの仮定が崩れないかぎり、その推論は妥当ではありませんね」
「じゃあ、吉野先生じゃなくて自作の合鍵をもった別の先生が全部やったの」
「そうでしたら山田先輩の推論は妥当な物になりますね」と黒瀬はあっさりと認める。
「でしょ? この考え方だと誰がやったかっていう根本的なとこが不明だけど」
黒瀬は底の抜けた空を見上げて、思いついたような調子で話し出した。
「もし野崎先輩がスカイフィッシュを見ていた場合で教室から教室に橋渡ししなくてもサカナを泳がす方法を思いつきましたよ」
「……どうやるの?」と山田は顔を上げて話を促した。
「ラジコンヘリ、あるいはドローンを使えばいいんです。中庭の隅っこか、とにかく 野崎先輩から見えないところから、シーラカンスをぶら下げたヘリをラジコンで操作して、ふらふらっとプールを横切るようにするんですね。これなら完璧です」
黒瀬は山田に向かってそう意見した。山田は呆れたように黒瀬の顔を見つめる。その推論に対する反論は思わぬところから来た。
「完璧じゃないな。無理だよ、それって」
男の声がそう言った。黒瀬は驚いて自分の後ろに居る男を見た。
「おまえ、なんでここにいんだ?」と彼は眉をひそめつつその男に尋ねる。
「ミシン使いたかったから。今、部活で椅子作ってんだ。それでクッション作りたくなってここでミシンを借りた。おかしいか?」と男は笑って言う。
「おかしくはないが。そうか、そういえば工作部だったんだな、稲沢って」
「そうだよ」と稲沢は黒瀬に笑いかける。
山田は不思議そうに二人を眺め、
「だれ?」と黒瀬に聞く。黒瀬はそんな山田を一瞥してから、稲沢に向かって、
「だれ?」と問うた。稲沢は微笑んで、山田に向かって自己紹介を始める。稲沢正樹。黒瀬と同じクラスで、水泳の時間に金魚を最初に発見した人物である。
「とにかく、お前の言うドローンで吊るすってのは無理だね」
稲沢は自己紹介を終えて話を戻した。黒瀬はにやにや笑って、目で理由を聞いた。
「ドローンとかラジコンヘリってのはうるさいんだ。直ぐに上空を見られて、吊るされてるってのがわかっちまうよ」
「そうなのか。それは知らなかったなあ。ところで、お前はどこまで聞いてた?」
「だいたい。シーラカンスが飛んだかどうかだろ?」
「そうだよ。どう思う?」黒瀬のそんな問いに、稲沢は山田を見て、
「シーラカンスは見間違いで、金魚は先生の誰かがやったという山田先輩の案が一番現実的ですね」と答える。
「そうだよね。ドローンで吊るすとかありえなさ過ぎてその人の品性疑っちゃうよね」
「ほんと、そうですね」
そんな二人の会話を聞いて黒瀬はため息をつく。
「じゃあ、用も済んだし帰りますか」
そうね、と言って山田はとことこと先立って出口に向かう。稲沢は黒瀬の隣を歩いてガラスドアに至り、そこで教室側に身体をむけ、固まってなにやら話し込んでいる手芸部員たちに、
「ミシン貸してくださり、ありがとうございました」と丁寧に頭を下げる。
そんな殊勝な態度に心打たれたのか、会議中の女衆は立ち上がって、いいよいいよ、また来てねとか答えてくれる。稲沢は満足したのかドアを開けて教室から出て行く。その後ろを黒瀬、山田がこそこそとお邪魔しましたぁと小声で言いつつ出て行こうとするが、山田だけ高木に呼び止められる。
「おい、山田ぁ、夏の合宿さウチも合同でやるんだけど来るか? というか来るだろ?」
山田はゆったりと後ろを向く。
「……例のやつ?」
「うん。毎年恒例の」
「まさか、りさちん以外の手芸部のみんなもいくの?」
「イベント用の衣装たずさえていく」
「……、ソレハソレハタノシミデスネ」
「詳しい日程はあとでメッセージ送るわ。今年用のグループもあるし」
「へいへい」
「またな」と高木は片手をあげ、さよならをする。山田もそれに答えて手を振り教室から出て行き、黒瀬の背中を追いかけた。
黒瀬は稲沢とよもや話をしながら階段をくだり、彼と工作室で別れた頃、山田に追いつかれる。それから二人して日の注がれる芝生の上に立った。彼らは暑い暑いと思い出したようにぼやきつつ、ひょこひょこと冷房の効いた部室棟を目指すのだった。
二人が汗みずくなりかけで帰ったミス研部室には中田と、林が居た。林はオセロに勝っていないのにも関わらず山田のソファでゆったりと寛いで文庫本を読んでいた。
「おかえり。お邪魔してるよ」
林は微笑んで彼らを迎える。山田は駆けて林の下に行きその薄い胸元に抱きついた。黒瀬は戸をかちりと閉め、自席に座って自分の鞄からペットボトルを取り出し、喉を鳴らしてそれを飲み始める。中田は無言でクリスティとの戦闘を続けており、林はよしよし寂しかったのかとか言いつつ自分の胸元に居る山田の髪を撫でる。うん、さびしかったよおと言いながら山田は林のシャツブラウスで汗をふき取っている。林はその事実に少ししてから気がつき、慌てて山田のおさげを握って彼女を自分から引き離すのだった。
「なんてことを……」と林は胸の辺りに出来たシミを見て嘆いた。山田は、えへへと笑う。無邪気な笑いである。この笑いを見ては許すしかなかろう。林はしょうがない、暑いのが悪いんだなとか言って山田の頭を撫で、免罪とした。許された山田は気分がいいのか、林の膝に座って林が読んでいた本を読み始める。何度も読まれているのか少し寄れた本であった。そんなものを勝手に横取りするなど迷惑この上ない行動である。だが閑人たる林は度量の深さを微笑みで見せ付け、さらに暑い時は三つ編みにすると涼しくなるらしいというような奇妙なことを言って、膝の上にいる山田のおさげを編みこんでいく。こうして二人は仲睦まじく時間を過ごすらしい。
他の二人はどうかというと黒瀬はじろじろ中田を眺めていた。中田はそれを蚊の食うほどには思わないで居る。黒瀬の目が細いためである。開けているのか閉じているのか、眠っているのか起きているのか、生きているのか腐っているのか、どうなのかを判別しがたいような眼つきを黒瀬はしている。黒瀬はそれをタカのように鋭い目だと称しているが、のぞき魔のようにいやらしい目だという評価がオフィシャルなものとなっている。そんないやらしい視線を黒瀬が送っているのは、中田の切れ長な目、血色のよい頬、ふぞろいな前髪やらを鑑賞したいがためではなく、ただ話のきっかけをつくりたいがためであった。普通、どこからか視線を感じたのならばその凝視される理由を知りたくなるはずである。荒野でライオンがなぜ睨んでくるのかを知ろうとしなかった者は、ハイエナに集られるだろう。そのような者の遺伝子が後世に残存するわけがない。したがって、現生人類は視線に敏感でならねばならぬ。というようなヌケサク論理が黒瀬の頭の中にあった。それで、中田に色目を使っていたのだが、彼の視線の存在感があまりにないために験がない。黒瀬は頭を傾げつつ、中田に声をかける。
「おい、なんか聞きたいことあるか?」
無作法な問いかけである。
「ない」と中田は短くはっきりと発音した。完全な拒絶である。中田のような人間が増えれば、ナンパ、訪問販売などは撲滅されるだろう。黒瀬は姿勢を正し、
「中田さんにお話したいことがあるのですが」と言いなおした。
謙虚な問いかけである。このぐらい低姿勢で真面目でなければ、黒瀬のような人間の話を他人は聞いてくれまい。
「なに」と至って興味なさ気な声が中田から発せられる。黒瀬は姿勢を正したまま、シーラカンスと金魚にまつわる話をした。中田はその間も本から顔を上げずにいる。人の話を聞くような態度ではない。となれば、中田にとって黒瀬は人以外の何ものかなのだろう。黒瀬はそのような扱いにもめげず、最後には山田の仮説を披露して、
「どう思われますか?」と意見を求めた。
「かんがえちゅう」
中田は相変わらず本に視線を留めたまま返事をする。黒瀬は力なく首を振って自分の本を読み始めた。こうして沈黙が部室内を制覇しようとしたが、暴君山田がそれを阻むのである。
「あれ、死んじゃった」と本をめくって、山田は言った。
「そう、死んじゃうんだ」と林は二本目のおさげを編みつつ答えた。
「意味わかんない。何で自殺しちゃったの?」と山田は両足をぶらぶらさせて、再度はじめからページをめくっていく。
「そう、それが問題なんだ。その短編を読んだ人はたいていそこに引っかかる」と林は朗らかに言った。
「この人、心の病だったの?」と山田は始めの数ページを読みながら言う。
「作中の多くの人はそうだと言っているね」
「にしても、突然すぎじゃん」
「自殺というのはそういうものらしい。ふらっと居なくなっちゃうことが多いんだって」
「ふ~ん。でも、結局、バナナフィッシュってなんだったの?」と山田は表題を見て言った。林は微かに笑うだけである。
彼女らが話しているのは、かのJ.D.サリンジャーが生み出した短編集『ナイン・ストーリーズ』に収録されている『バナナフィッシュにうってつけの日』という奇妙なタイトルをもつ短い物語のことである。
話は妻と旅行に来て、海辺のホテルに泊まっているシーモアを中心にすえて展開されていく。この短編は三場面に分けられており、始めの場面においてはシーモアの妻ミュリエルとその母の電線を介した対話が書かれている。その会話でシーモアが義理の家族にどのように思われているかを読者は知ることが出来る。彼らはシーモアを精神異常者と見なしているが、ミュリエルはそうではないのだった。最後に母は娘にシーモアと別れるように勧めるが、娘はそれをあしらって電話を切る。第二場面では、シーモアと少女シビルの浜辺でのやり取りが書き出される。シーモアはシビルを浮袋に乗せて海に入り、そこでバナナフィッシュという奇態な魚の話をする。彼らは浜辺に帰ってお別れをし、最後の場面が始まる。シーモアは妻のいるホテルの部屋に戻り、ツイン・ベットのうち一つでミュリエルが寝ているのを知る。それから彼はトランクから自動拳銃を取り出し、空いているベッドに腰掛けて、妻を見やってから、自分のコメカミを打ちぬく。ここで物語は閉じる。山田が悩むのも当然な終わり方である。
山田は眉間に皺を寄せながら、バナナフィッシュのくだりを読み直した。おかげで、ますます分からなくなる。そこを踏ん張ってうんうんと唸って、考え続けてみるのだがあまり良い考えが浮かばない。それで結局、山田は後ろにいる才女に助けを求めることになる。
「ねえ、林ちゃんこれってどういうことなのさ」
「どういうことって、別にそんな深く考えなくていいんだよ。ありのまま読めばいい。それが本を読むときなによりも大切なことなんだから」と林は丁寧に山田の黒髪を編みこみつつ答える。
「でもさあ、なんでシーモアさんは死んじゃうの? 気になるじゃん」山田は腕を組んで不満げに言う。林はくすくすと笑って、口を開いた。
「世の中のなにもかもがイヤになっちゃったから自殺した、というのが一般的で、浅薄な見解だね。俗っぽい妻と義理の家族、子どもの嫉妬心、自分の足をじろじろ見てくるオバサンなどなど、センシティブなシーモアを傷つけそうな出来事がその短編に数多く出てくる。そして、それらのすべてがシーモアを死に追い込んだに違いないと考える。この場合だと、バナナフィッシュのくだりの彼を死に至らせた一端を担うことになるのさ」
「どうして?」
「シビルが見たのは、バナナをくわえたバナナフィッシュだったよね」
「うん」と山田は頷きつつ、その箇所を読む。
「バナナフィッシュはね、バナナ穴に入ると行儀悪くなって、バナナを貪るように食って、太って、おかげでバナナ穴から出られなくなって、それで最後にはバナナ熱に罹って死んじまうんだ。つまりバナナ穴に入ったら最後、それっきりさ。それなのに、どうしてバナナをくわえたバナナフィッシュを見られるんだろう?」
「……、たしかにそうだなあ」と山田は感心しつつ本のページをめくった。だが、それからある箇所を見つけると、彼女はころっと表情を変えて、
「けどそれなら、どうしてシーモアはシビルに『そいつはバナナを口にくわえてた?』なんて聞いたんだろう?」と疑わしげに聞く。
「自分の話をほんとに聞いていたかを確かめるためさ」と林は軽やかに答えた。
「あぁ、なるほどね。それで、シビルが嘘ついてるってわかっちゃうわけか」と山田はふんふんと頭を振って言った。
「うん。そのウソがシーモアを傷つけたわけ。ガラスのハートだね、ほんと。シビルはシーモアのために言ったのにさ。ああ、それと、これは誰かが書いてたことなんだけど、バナナフィッシュがくわえていたバナナの本数も、シーモアを追い込んだ理由になるらしい」
「どうしてさ? 六本ってのはちびくろサンボの虎の数に引き摺られただけじゃないの?」と山田は本をぺらぺらと鳴らして問うた。林は、ご明察と一つ笑ってから答える。
「シーモアがオバサンにエレベーターで文句言う場面があるよね。見たいなら言えって」
「うん」
「普通なら足を見られたと感じてもそんなことまで言わない。ということは、シーモアの足には普通じゃないところが本当にあったのだと取れる。シーモア自身、バカどもにいれずみを見られたくないって言ってる」と林は丁寧におさげを編みつつ山田に言う。ふむふむと山田は喉を鳴らして謹聴する。林は論及を続けた。
「また、シビルはまんざら嘘をついたわけではないとする。つまり、シビルは確かに六つに並んだ何かを見たのだとする。それは海中の中にあった。しかも、おそらくシビルの斜め下、後ろの辺りにあったものだった。なぜならシーモアは浮袋を下向きにして波を超えたからだ。それならばシビルが見た六つに並んだ何かはシーモアの片足でもいいはずだ。つまり、彼の足の指が六本だったということさ。シビルはそれを見て六本と言ったんだ」
「シーモアは多指症だったってこと? それで、そのことをシビルに指摘されたように感じたからショックを受けたってこと?」山田は目を瞑って訊いた。
「そういうこと。それが本当なのかは分からないけど。水中で物はぼやけて見えるものだから正確に六本と言える場合は少ないんじゃないかな。
……こんなふうに解説したけど、わたしはこうやって簡単な理由をつけようとするのはあんまり好きじゃないんだ。親しい人が死んでしまったってそれをどう納得していくかなんて一生かけてやるしかないと思ってるし、サリンジャーもきっとそうだと思ってるんだろう。シーモアの家族に関わる話、いわゆるグラース・サーガを書いていくんだ。それらの物語のなかでもシーモアの死は影のように差し込まれている。明確な答えを見つけることが物語の目的にはならない。答えを見つけようとする、立ち向かおうとすることがすべてなんじゃないかって読んでて思ったね。
さ、できた。これで涼が取れるぞ」と言って林は山田のおさげを三つ編みにし終えた。三つ編みとなった山田はふーむと言って喉の辺りを掻き、あくびをする。そんな彼女の腰を掴んで持ち上げて、自分の膝からのけた後に林は立ち上がった。山田は編みこまれた自分のおさげを手にとってなんじゃこりゃと呟き、それから、
「もう帰るの?」と山田は皺のついたスカートをはたく林に尋ねる。
「うん。今日は何かと用事があるからさ。ちょっと早めに退散しなくちゃならない」
林は自分の本を手にとってから、そう答えた。それから彼女は未だに居残る気でいる暇人たちにさよならをして、部室から退室した。
それを見送った山田は再度、ふわっとあくびをしながら、自分のリュックサックから本をとり出した。小栗虫太郎の作品集である。『完全犯罪』と題された奇怪な作品を山田は眠りそうな眼つきで読み始めた。探偵らしき人物の早めの謎解きがはじまる頃までは意識を保っていた。しかし、彼女はその探偵が操るあやふやな論理に刺激されて、己の世界をあやふやにしようと決心し、夢とうつつの間を彷徨うことにしたらしい。結局、山田という有閑人は本を膝に置いて、寝唾を口端につけることになる。
「寝ちゃったよ……」黒瀬は邪気のない山田の寝顔を見てつぶやいた。
「夜、眠れなくなるね」意外にも中田はそう応答して、黒瀬を眺めた。眺められた黒瀬はきょとんとする。
「なに? どうした?」
「黒瀬くんがした話のことなんだけど、ひっかかるところが二つくらいある」
中田は黒瀬を眺めつつ答える。黒瀬は呆気にとられた。中田が真面目に考えていたとは思ってもいなかったからだ。彼は自分のした話を思い出しつつ、
「どこで引っかかったんだ?」と尋ねた。
中田は視線を黒瀬の胸元辺りに変え、語り始める。
「まずは、シーラカンスについて。シーラカンスって具体的だよね。鳥かなんかを謎の飛行物体と見間違えたら、黒っぽいやつとかそんな感じの言い方になるよ。あいまいな物を見たら、その証言もあいまいになるはず。シーラカンスって言えたのはちゃんと飛んでるものを観察できたからだと思う。たぶん、それはかなりゆっくりと飛んでたんじゃないかな。暗いとこでも、目の悪い人でも眺めてたらシーラカンスっぽいって分かるようにね」
「へえ。となると、昨夜、シーラカンスらしきものが飛んでいたのは確からしいという立場を中田はとるのか」
黒瀬は中田を観察しつつ、そう言った。中田は両手を祈るようにして組んで腹の辺りに置いている。そして椅子に浅く座って足を伸ばし、自身の机の上に薄目を注いでいた。彼女は黒瀬の問いかけを無言の頷きで肯定してからさらなる論点を彫りだしていく。
「次に、金魚と監禁について。山田先輩はある先生がそれらをやったとしたわけだけど、ここも何となく引っかかる。その先生は金魚を放流するためだけにプールに来たとすれば、何のために更衣室の鍵も持っていたんだろう。プール出入り口の鍵だけですむはずだよね。それと、野崎先輩を邪魔に思ったとしても、別に閉じ込めなくてもいいような気がする。野崎先輩が去ってから、プールに侵入して放流すれば良いだけだし。それに閉じ込めたら目立つよね。わざわざ夜に人のいないときに放流しにきているのに、どうしてそんな目立つようなことしないといけないんだろう。行動が矛盾してる。黒瀬くんもそう思わない?」
「やりたいこととやってることが矛盾するのは不思議なことじゃない」と黒瀬は怠け者の論理を披露して話を濁す。中田はそんな怠け者を睨みつけた。黒瀬は慌てて言葉を継いだ。
「中田さんの言いたいことはよく分かりました。でも、それじゃあ、何で野崎先輩は閉じ込められたのか、が分からないっす。加えて、シーラカンスの存在意義も」
「シーラカンスを誰かが飛ばしていたとすれば、簡単に解決するよ」と中田は椅子の座り方を変えつつ、そっけなく言った。
「はあ、ちょっとおれには難しいそうなんだけど」黒瀬は素直にそう意見する。
「シーラカンスを飛ばしてた人々は、金魚を放流した先生のお仲間だったということ。つまり、その先生は夜、プール上空を滑空するシーラカンスを見たかったか、撮りたかったわけなの。あたし的には、撮影するためにやったんだと思うけど。それで、その撮影中に野崎先輩はのこのこやってきちゃった。いろんな人から無断で撮影してたと思うから、野崎先輩に騒がれたりしちゃったらまずいわけでしょ。だから、男子更衣室に閉じ込めた。それから監禁してる間に、色々片付けしてその先生とお仲間たちは撤収した。最後に小寺先生が気付くように足音を残してね。でもこの場合は、別に先生が現場にいなくてもいいけど。鍵だけ協力してくれればあとは撮影係がやるだけだし」
「……、なるほど」と黒瀬は呆気にとられたような反応を示す。それから眉根を揉んで、少し貧乏ゆすりをした後、天井のシミを眺め、山田の幼さが多分に残る寝顔を観察し、顎を撫でてから彼は、正面で悠然と構える中田に質問をする。
「金魚はなんのために放流したんだ?」
「その映画のシーンに必要だったんじゃないのかな」中田はそう即答する。
「映画か。彼らは映画を撮ってたのか。それで、シーラカンスを空に飛ばしたのか」
「そうだと思う」
「じゃあ、なんで男子更衣室の鍵を持ってたんだ?」
「映画のシーンで必要だったから。もしくは、誰か来たときそこに閉じ込めるため」と中田は再度即答する。黒瀬は腕を組んで唸る。それから結論を出した。
「なるほど。まったくもって反論できない。その仮説が一番、いままでの中で筋が通ってるな」
「ありがとう。黒瀬くんの評価とかあんまりうれしくないけど」と言って中田は黒瀬から目を外し、クリスティとの戦闘を再開し始めた。黒瀬は、目を瞑って中田の仮説を追いかけ、それを整理していくことに専念し始める。
中田の推論によると、昨夜の出来事は次のように展開されていく。まず、吉野の見回りが終わった後、シーラカンス浮遊班は教師の協力によって入手した鍵を用いて被服室、その対岸にある教室棟三階のクラスに侵入する。それから何らかの方法によって、彼らはピアノ線やらを橋渡しして、シーラカンスを泳がせられるようにした。それと同時にプールの方、すなわちシーラカンス撮影班でも準備は進められる。カメラのセッティング、見張りの配置、逃走経路の確保などを行ったのだろう。そうでなくては、野崎は彼らと出会っていたにちがいない。彼らはのこのこやってくる野崎の接近を素早く感知し、恐るべき速さで撤収していったのだ。野崎はそれをつゆとも知らずにプールへと侵入して、シーラカンスの浮遊現象にたちあうことになった。彼女が夢想の世界にいるのを利用して、彼らのうち誰かが音も立てずに移動し、男子更衣室のドアを開け、明かりを点けて、野崎をそこへと誘った。野崎はまんまとその策略に嵌りむさい男子更衣室に閉じ込められることとなった。ここで、撮影班の障害は消えたので、彼らは満足の行くまでシーラカンスを撮ったのかもしれない。それから、大掛かりなセットを撤去した後、彼らは電気の点いている体育教員室の前をどたばたと走りぬけ異変を知らせ、小寺を野崎の救出へと向かわせたのだ。
以上の推論はよく状況を矛盾無く説明している。問題は、誰がやったのかである。 黒瀬はそれを考えてみたが、思い浮かばなかった。最もあやしそうな映画研究会は潰れているのだ。だとすれば有志の生徒が勝手に集まって、勝手にやっていったとしか考えられない。この匿名性は考えることだけでは剥がせそうにはなかった。
黒瀬は諦めて、読書に戻った。そうして山田の寝息と本をめくる音が部室を満たしていった。平和な人々である。シーラカンスが飛ぼうとしているのにも、気がつかない。
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