あなたは気付かない
ましまろう。
第1話
大学時代に付き合い卒業して5年で結婚して更に5年経ち、妻との会話をつまらないと感じていた。きっかけは些細なことだったのかもしれない。でもそれを思い出すことも、心当たりを探すことももうやめていた。
「ねぇこの花瓶変えたの、気付いた?」
「ごめん、気付かなかった。いいね、それ」
とりあえず何か聞かれたら謝る癖がついていた。そしてすかさず褒める。これが妻との会話の定型文だ。朝の忙しい時になんだよ、なんて口が裂けても言わない。会社の上司と話す時よりもずっと気を遣っていた。
「今日は夕飯いらないよ」
「わかった」
前まで夕飯のことはスマホでメッセージを送っていたけれど、同じ定型文の会話が永遠と並ぶメッセージアプリの画面を見ていたらAIと会話をしているようで気味が悪くなってしまった。だからあらかじめ出掛ける前に言うようにした。
そしてこんな生活を続けていた俺には魔が差してしまった。真面目に生きてきたつもりだった。しかし気付けば俺も、この都合の良い言葉をきっかけにして許されない過ちを行っていた。
――「今日も私と過ごすんですか?奥さん怪しみません?」
「もうあっちも慣れてるよ。それより家の話はやめてくれ」
「は~い」
妻を抱くこともなくなって、ベッドで他人のぬくもりを感じるのは会社の後輩だけになっていた。初めて女性の部下を持ったから、セクハラやパワハラにならないように言動に気を付けていたというのに。気付けばこんな淫らな関係に陥っていた。
「……香水変えた?」
「そうですよ。どうですか?」
「良いと思う。ネイルも変えたんだね」
「よく見てますね。課長やっぱりモテるでしょ」
「……あのさぁ、ここで課長とか呼ぶなよ」
ホテルで二人、裸でベッドで寝ているというのに。家庭や仕事のことを思い出したくない。そういえばもう妻が何の香水をつけているかも、ネイルをしているかどうかすら分からない。
「……今日は花瓶が変わったことに気付けなかったけどな」
「何ですかそれ?そんなこと気付かないといけないんですか?結婚って大変ですね。それより自分から家の話してるじゃないですか」
「んー?」
「ねぇくすぐったい……」
くだらない会話が楽しい。背徳感に包まれながらじゃれているこの時間だけは、俺は満たされていた。
「……ノビルって知ってる?」
「なんですかそれ」
俺はふと以前に妻とした会話を思い出していた。
『それ何?ニラ?』
『ノビル……お母さんが送ってくれたの』
ある日家のキッチンに見たことがないニラにらっきょうのようなものが付いた草が置かれていた。妻の実家は農家をしているから色んな野菜が届く。
『ニラとかスイセンに似てるけど……まぁあなたには違いが分からないでしょうね』
『……ごめん』
『謝る必要ないでしょ?』
『……そうだね』
息の詰まる会話。どうせ全部料理してもらって違いも分からず食べるだけの俺。美味しい以外の感想を言うこともない。
「ニラに似てんだけど違うんだってよ。俺は家じゃあ何も違いに気付けない男扱いだよ」
「なんで私のネイルの話がニラの話になるんですか?もう、雰囲気ない……ノビルはぁ、土手や道端に生える野草らしいですよ?そこら辺に生えている草食べさせられてるんですね」
常にスマホと一緒のこの子はすぐに調べるのが癖になっているらしい。まぁそのおかげで俺も今初めて野草を食べていたことを知ったが。
「へぇ。ノビルに似ているスイセンは毒性を持つ……死亡例もあるらしいですよ?課長、あんまり悪さできませんね」
ゾワッと背筋に寒気が走った。悪さをしているのは君も同じだろうに。目の前のこの若い女は俺だけが妻に殺されると思っているのだろうか。
「だから課長って呼ぶなって」
「ごめんなさ~い……えぇ?まだ足りないんですか?」
家庭のことを忘れるために関係を持っている。家庭のことを思い出したまま帰るなんて出来ない。
*
「おかえりなさい」
どれだけ遅くなっても起きて待ってくれていることが嫌だと思うようになったのはいつからだろう。
「ただいま……」
薄暗いリビングルームで、今朝見せられた花瓶と妻だけが淡い灯かりに照らされていた。
「ねぇ、香水変えた?」
「あー、同僚の子が香水キツいから……でも匂いすごいですよ、なんて言えないだろ?」
いつもはこれ以上会話が往復することなんてなかったのに。
「そうね。それに昨日とは違う匂い」
「よく気付くね」
「私はちゃんと気付いているの……お母さんと似てるから」
「お義母さんがどうしたって?」
いつもより饒舌な妻に俺も会話を続けていた。
「お母さんも気付く人だから……でも一回だけ気付けなかったことがあって……それでお父さん、病院に運ばれたの」
「……何の話?」
「ノビル……似ている物が多いの。あなたは気付かないだろうけど、私はちゃんと“気付いている”から。だから気を付けないと……ね?」
妻はいつも以上に優しい笑顔を浮かべていた。
あなたは気付かない ましまろう。 @SetunaNoKokiri
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