第9話 黒毛の狼
揚羽は言った。わたしたちの運命に、柊を巻き込んでしまうと。
当然のことながら、柊はその意味をすぐには理解出来ない。どういう意味か、と尋ねようとした。
しかし、その暇もない。
視界に突然飛び込んで来たのは、巨大な黒い狼だった。
「はぁっ!?」
「竜玉!」
「はぁい」
目を丸くする柊が貴公子らしからぬ声を上げる中、揚羽に指示された竜玉が柊の前に立つ。突然の狼の出現に腰を抜かした柊を見下ろし、その額に人差し指を向ける。
「きみは……」
「竜玉。少将殿、ちょっと我慢してね」
「え? ――っ!」
ピリッと音がした気がして、柊は思わず身を竦ませる。しかしそれ以上何もなく、竜玉も「よし」と満足げに微笑んだだけ。
「何が、どうなったんだ……?」
「ん? きみの周りに結界を張ったんだ。こちら側の力は持っていないみたいだから、万が一食われないように」
「食われ……る?」
「あれは、僕らが追い払う。それまで、じっとしていてね」
「あ……っ」
思わず手を伸ばした柊だが、その手は竜玉の小さな背中に届かない。どう見ても自分よりも年下の少年に励まされ、柊は放置された。
(一体、何がどうなっているんだ?)
見れば、夜は深まっている。空には新月間近の月があるが、かなり暗い。その分星は美しいが、それすらも今は恐ろしいもののように感じられた。
その時だった。柊の耳に、つんざくような獣の唸り声が響く。
「――ひっ」
身をこわばらせる柊の目の前を、一人の少女が駆けて行く。それが揚羽と名乗る大納言の姫君だと理解した時、彼女が何処に向かっているのかを知った。
「母上には、絶対に近付けさせないから!」
「姫様、援護します!」
揚羽が駆けると、彼女を追い抜いた瑞飛が翼を広げる。ぐんっと加速し、狼の前に躍り出ると右手を払う。
「――『
瑞飛の右手から放たれたのは、疾風。手のひらに凝縮されていたそれは、解放されたことによって強力な暴風となって狼の顔面を襲う。
――ギャッ!
狼が悲鳴を上げ体の均衡を崩すと、揚羽が素早く印を結んで狼を絡め捕る。薄紫に輝く糸によってがんじがらめにされた狼は、手足を振り回して暴れるがどうしようもない。
「やった」
初めての成功に手を握り締めた柊に、後ろから走矢の声が飛ぶ。
「姫さん、まだだ!」
「わっ!?」
グンッと揚羽の身が後ろに引かれる。その瞬間、彼女が先程までいた場所に獣の腕が伸びた。地面を引っ掻き、土埃が舞う。
「……危なかった。助けてくれてありがとう、走矢」
「全く、危なっかしいな」
揚羽を引っ張ったのは走矢だった。しかし、彼の姿はいつもの青年のものではない。薄茶色の体毛に覆われた、立ち耳と巻いたしっぽが愛らしい犬の姿をしていたのだ。しかもその姿で人の言葉を話している。
「あいつは、逃げるのに必死だ。何が起こるかわからない、と覚えておけよ」
「うん。……そろそろ仕留めよう」
「承知した」
口から揚羽の狩衣の裾を離し、くるんっと犬は跳んで一回転。すると、元の走矢の姿に戻っている。
揚羽と走矢の傍に、瑞飛も合流する。竜玉はといえば、揚羽の頼みを受けて柊を突かず離れずの位置から守っていた。
(今なら、きっといける)
練習などない、実践だ。揚羽は自分が創り出した網に囚われた狼の前に立つと、大きく息を吸い込んだ。
そして、一息で告げる。
「――『
その言葉が引き金となり、狼の顔に亀裂が生じた。その亀裂は徐々に広がり、やがて体全体を覆い尽くす。
壊れるとわかってようやく、狼は断末魔の叫びを上げた。
「……よかった。終わった」
ほっと肩の力を抜いた揚羽の目の前で、黒い狼は細かい欠片となって夜風に攫われた。これで一つ終わりだ、と揚羽は口元を緩ませる。
その揚羽の肩に、ぽんと手が置かれた。振り返れば、走矢が目を細めている。
「初めてにしては、上出来だな」
「みんなのお蔭だよ、ありがとう。……あっ!」
声を上げ、揚羽は柊のもとへと走る。
竜玉によって結界が解除され、柊はその場に座り込みそうになるのを堪えた。こちらに駆けて来る姫君に、下手なところは見られたくない一心で。
「怪我とかありませんか!?」
「え……あ、ああ。ない」
「そうですか、よかった」
にこりと微笑んだ揚羽は、土や泥で汚れていた。しかしそんな姿は彼女にとって日常で、虫や生き物たちと遊ぶ時と同じ。切り傷擦り傷は洗っておかなくてはならないが、今は巻き込んだ柊の無事を確認出来たことの方が重要だった。
「巻き込んでしまったから。竜玉、ありがとう」
「姫様のお願いだから。それに……」
「?」
ちらり、と竜玉が柊を見る。
目が合って、柊は目を瞬かせた。しかし竜玉は何も言わず、ふいっと視線を外した。そして、何事もなかったかのように言葉を続ける。
「……それに、先に逃がせなかったこちらにも落ち度があるから」
「でも、怪我なくてよかった。――じゃあ、気を付けて帰って下さいね」
「あ……いや」
柊は口を開き、何を言うべきか迷い、口を閉じた。今目の前で起こった全てが現実離れしているが、夢を見たと言い張ることは出来ない。揚羽や瑞飛たちの体の傷や衣服の汚れ、擦り切れが現実だと訴えかけて来るから。
幸いにも、柊が口をつぐんだことで揚羽たちの意識を向けさせることが出来たらしい。かくんっと揚羽が首を傾げた。
「……どうかなさいましたか?」
「――っ。きみたちは、一体何者なんだ?」
柊にとっては、至極当然の問い。
対して、揚羽は目を丸くした。
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